第十話:ドッグファイト

 八神の表コースが下りに入る右コーナー付近。

 倫子が事故を起こした現場だ。

 その場所を、芹沢の「RX-7」が派手なドリフトを決めてクリアしていく。

 ギャラリーたちへのアピールだろう。

 それは、タイムを削るための走り方では決してない。

 視点を変えれば、絶対的な勝利への自信、その表れであるとも見て取れた。

 まあ当然だな。

 その尻を後ろから眺めつつ翔一郎は思う。

 あっちは有名な走り屋で、乗ってるのは金のかかったチューニングカー。

 それに比べて、こっちは峠バトルにゃ似つかわしくないサラリーマンとATマシンの組み合わせだ。

 まさしくもって

 次の瞬間、うっすらとその口元に笑みがこぼれた。

「若いな」

 ふん、と短く鼻を鳴らし、翔一郎は小声でうそぶく。

「では、そろそろ小天狗の鼻でもへし折ってやるとしますかね」

 彼の左手が素早く動いた。

 ステアリングに付いたパドルシフターが操作され、「レガシィ」のギアが一段下がる。

 三速サードから二速セコ

 シフトダウンと同時に、その右足がアクセルペダルを奥まで踏んだフラットアウト

 続く刹那、タコメーターとブーストメーター、そのふたつの針が勢いよく右に振れ、EJ-20水平対向エンジンが野獣のごとくに咆哮する。

 その直後にギャラリーたちが目撃したもの。

 それは、彼らの常識ではまったく考えられない、我が目を疑わんばかりの光景にほかならなかった。

 爆音とともに視界の外から突っ込んでくる「レガシィB4」

 その速度域は、先行する芹沢のそれの比ではない。

 クラッシュに対する恐怖心を微塵も感じさせない凄まじい勢いでのコーナー進入と、最短距離を大胆不敵にカットするギリギリの走行ライン。

 ブレーキングで生じた前方荷重を最大限に利用しつつ、遠心力からくるテールスライドを限界近くまで押さえ込んだゼロカウンタードリフト。

 逡巡も躊躇も、そこにはいっさい見られない。

 だが、四つのタイヤは耳をつんざく悲鳴をあげながらも紙一重のところでグリップを失わず、クルマの挙動は破綻の色をうかがわせようともしなかった。

 そして、その現実離れしたコーナリングがさも当然の帰結とでも言わんかのごとく、平然とクリッピングポイントを通過した翔一郎の「レガシィ」は、その場にいる者すべての予想を根底から覆す爆発的な加速で立ち上がり、瞬く間に闇夜の中へと消えていく。

 荒々しい芹沢のドリフトが力尽くでなぎ倒す蛮人の戦斧に例えられるなら、翔一郎のそれは、まさしく達人が魅せる居合い刀の煌めきだった。

「見たか、いまの走り!?」

 驚愕の表情を貼り付けたまま、ギャラリーのひとりが絶叫した。

「立ち上がりなんて、ガードレールから十センチも離れてなかったぞ! なんであそこまで紙一重のラインがとれる!? ド素人なんじゃなかったのかよッ!」

 スタートライン地点からの連絡を受けたことで、芹沢の対戦相手が変更になったことを、彼らはすでに知っていた。

 走り屋の世界とは縁遠い、三十路男とAT車との組み合わせ。

 だがしかし、いま彼らの目前を駆け抜けていった黒いセダンの疾走は、戦前の想像からはあまりにもかけ離れた代物だった。

 間違いなく素人が見せられるそれではない。

 いやそれどころか、いまいる一線級の走り屋どもの中で、一体全体どれだけの数がこの走りを再現できるというのだろうか。

 異様なざわめきが、彼らのうちから自然発生的に湧き起こる。

「いまの八神であんな速い奴は見たことねェ」

 長い間常連組の走りを見てきたギャラリーのひとりが、刮目したまま呟いた。

「あいつ、いったい何者だ」


 ◆◆◆


 すでにいくつかのコーナーを抜けてきた芹沢の「RX-7」が、それまでと同じようにギャラリーの前を通過する。

 意図的に大きくテールを振り、自らの技量を強くアピールするかのようにして、だ。

 甲高いスキール音とタイヤの焼ける独特の臭い。

 それらふたつが力を合わせて数寄者どもを刺激した。

 たちどころに巻き起こった歓声が、「RX-7」のあとを追う。

 ブレーキング・ドリフト。

 それは、先だって倫子と対戦した「シルビア」が見せたものとまったく同じ技だった。

 ただし、両者の完成度には雲泥の差がある。

 スピード。

 アングル。

 走行ライン。

 そのいずれの部分においても、芹沢のそれは間違いなく頭ひとつ分抜きんでていた。

 もはやセミプロ級とすら評し得よう。

 しかしながら、芹沢はこれが遊びの技術であることをしっかりと認識していた。

 こんなギャラリーを沸かすための技術など、速く走るためには不必要なものだと承知していた。

 いわば児戯。

 いわばお遊戯。

 いわば余技。

 それでもなお、彼はおのれの勝利を疑問視したりはしなかった。

 自身の側に、負けるための要素を寸分も見出せなかったからである。

 FD-3S型の「RX-7」は、本来シーケンシャル式のツインターボを搭載している。

 だが芹沢の愛車はこの機能を取り去り、大小ひとつずつある加給用のタービンを大容量のもの一個に換装していた。

 いわゆる「シングルターボ化」という奴である。

 このため、彼の「RX-7」は、高回転時における出力特性が扱い難いまでに過激なものへと変化した一方、最大出力の面では優に百馬力を超える大幅なパワーアップを成し遂げていた。

 もちろん足回りや車体剛性も出力に応じたレベルへと強化されており、その戦闘力たるや、峠の走り屋が使用するクルマの域を完全に超え、もはや競技車両レベルにすら達していた。

 あえてひとつだけ苦言を呈せば、それは足回りの設定であると言えようか。

 サーキット走行を視野に入れガチガチに引き締められたサスペンションといまの路面とのマッチングが、若干しっくりきていない。

 どうやってもクルマが跳ね気味になるのである。

 当然だが、跳ねた足回りではタイヤが効率よくグリップできない。

 素直な回頭性と引き替えにスピンしやすいという特性を持つ後輪駆動車にとって、それははなはだ好ましくない状況だった。

 強くアクセルを踏むことによって駆動力を伝えるリアタイヤが路面への食い付きを失えば、旋回中の車体はいとも容易く渦を巻くからである。

 その傾向は、いまのようにセミスリックタイヤを履いていたところで大同小異のレベルと言えた。

 まさに、真剣勝負を前に手を抜いていたと言われても致し方のない状況である。

 ただし、芹沢はそれが自分の失点に繋がるなどとは欠片も思っていなかった。

 確かに、戦場に合わせた調整を自らの愛車に施してはいない。

 三澤倫子シャイニング・ザ・ブルーが相手なら、それは致命的な結果に結び付いたかもしれないだろう。

 だが、いまの相手は彼女ではない。

 ズブのド素人が相手だ。

 走り屋としての圧倒的な力量差と段違いなクルマの性能差とを前にして、少々の手抜きがいったいどれほどの問題となりえようか。

「戦いになってねェよ、オッサン」

 芹沢は、スタート直前に見た翔一郎の横顔を思い出しつつ、にんまりとほくそ笑んだ。

「俺の実力をケツから眺めて、テメエの馬鹿さ加減って奴を噛み締めるこった。もっとも、見える距離にいられたらの話だがな」

 「RX-7」がいくぶん長めの直線に入った時、彼は何気なくバックミラーに目をやった。

 まるっきり勝ち目のない勝負――少なくとも芹沢自身はそう確信していた――をあえて挑んできた身のほど知らずな三十路男を莫迦にする、ただそのためだけを目的として。

 しかし次の瞬間、その瞳が驚愕のあまり凍り付いた。

 ついいましがた自らが通過したばかりのコーナーの向こうから、一台のクルマ、翔一郎の駆る「レガシィB4」が滑るようにその姿を現したからだった。

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