第九話:狼の胎動

 決戦当日。

 八神街道への登り口、いわゆる「八神口」と呼ばれる場所に翔一郎のB4が姿を見せたのは、ちょうど日付が切り替わった午前零時のことであった。

 この八神口周辺は、無人の倉庫が軒を連ねているだけの僻地である。

 近隣に、民家らしい民家などただの一軒も存在してない。

 ただでさえ、ひとの生活臭とは無縁の場所だ。

 そしてそれは、この深夜と呼ばれる時間帯においてなら、もうなおさらのことだと断言できた。

 道を往来する一般車両の数も、せいぜいあって一時間に数台といったところか。

 だが今晩に限って言えば、倉庫前に列をなして停められている十台余りのクルマの群れが、そういった殺風景な雰囲気をいくぶんなりとも打破していた。

 芹沢聡率いる、走り屋集団「カイザー」の存在である。

 その中心には、煙草をくわえる芹沢の、得意満面な表情があった。

 チームのメンバーたちとは、いったいどんな会話をしているのだろうか。

 輪の中からは、ときおり笑い声さえ聞こえてくる。

 現状倫子のリタイアを知らぬギャラリーたちの目には、それが圧倒的な余裕のごとくに映っただろう。

 八神の表コースは、ほとんどの場合、ここを起点にして行われる。

 ちょうど「カイザー」がたむろっているあたりに押しボタン式の信号機があり、わかりやすいそこがスタートラインとなっているのだ。

 クルマから降りて数分、眞琴も翔一郎もただひたすらに沈黙を守っていた。

 と言うより、まるで自分自身が追い詰められたかのように口元を引き締めている眞琴の態度が、連れ添った翔一郎に口を開かせなかったのだと言い換えたほうがいい。

 やがて、一台のクルマが市街地方向から八神口へと上ってきた。

 黄色いセダン。

 加奈子の愛車「アルテッツァ」である。

 翔一郎たちの眼前を通り過ぎた「アルテッツァ」は、そのまま芹沢の愛車「RX-7」の側まで進むと、その場所においてゆっくりと足を止めた。

 助手席側のドアが開く。

 今晩の主役のひとり、「青い閃光シャイニング・ザ・ブルー」三澤倫子がそこから姿を見せたのは、それからひと呼吸置いたのちの出来事だった。

 沈んだ面持ちを隠そうともしない彼女は、まるで死刑執行を待つ犯罪者のようだ。

 頭部に巻いた白い包帯が、暗がりのなか痛々しく映える。

「倫子、自慢のクルマMR-Sはどうしたい?」

 嫌味たらしく芹沢が言った。

「まさか、事故でも起こしたっていうんじゃないだろうな」

「そうよ、悪かったわね」

 倫子は負けじと虚勢を張った。

「だから今日、わたしは走れないわ」

 芹沢の口元がはっきりと歪んだ。

 抑え切れずに喜色がこぼれる。

「要するに、俺の不戦勝ってことだな」

 芹沢が確認するように尋ねると、倫子はためらいがちに頷いた。

 左右の拳は、いまにも震え出しそうなほど強く強く握りしめられている。

「待ちなさいよッ!」

 伝わってきた悔しさに触発されたのだろうか。ひと声叫んだ眞琴が、弾かれたように飛び出した。

 倫子に続いて降りてきた加奈子の制止を振り払って、両者の間に割って入る。

 そして次の瞬間、その口腔が烈火のごとく抗議の言葉を並べ立てた。

「戦ってもいないのに結果を出すなんて絶対におかしいッ! 走り屋だったら、日を改めて決着を付けるのが筋なんじゃないのッ!?」

「嬢ちゃん。アンタ莫迦だろ」

 決死の形相で噛み付いてくる眞琴に対し、侮蔑もあらわに芹沢が告げた。

「例えばオリンピックでだ。ワタクシ怪我をしました、風邪をひきました、調子が悪いんです、だから日を改めてもう一度やらせてください、なんて言い分が通ったことが一度でもあるかよ? 日程に合わせてコンディションを整えるのも、れっきとした選手の仕事だろうが。倫子はそれを怠った。だから負けた。ちゃんと筋は通ってるぜ」

 一気にそれだけ続けると、芹沢はフンと大きく鼻を鳴らした。

 さも勝ち誇ったように胸を張る。

 それは、完璧な正論だった。

 言い返せない悔しさに、眞琴の顔が真っ赤に染まる。

 リンさんの事故は、アンタたちが仕組んだ癖に!

 眞琴はそう言い放ちそうになって、ぐっと言葉を飲み込んだ。

 この場でそれを主張したとしても、具体的な証拠がない以上、それは単なる言いがかりに過ぎない。

 それをわかっているからこそ、彼女は歯を食いしばって我慢した。

 爆発しそうな感情を、無理矢理内側に抑え込んだ。

 思わず目尻に涙が浮かぶ。

 おのれの無力から来る歯がゆさが、その細い両肩をわなわなと震わせていた。

「ありがと、眞琴ちゃん」

 倫子が短く礼を言う。

 その声の中には、諦めに似た何かが極めて濃厚に含まれていた。

 彼女は言った。

「さ、これからわたしをどうする気?」

 決意を定めて前に出た倫子を、芹沢が好色な目線でめ付ける。

「別に獲って食いやしないさ」

 不躾に伸びてきた芹沢の手が、形のいい彼女の顎をくいっと上げた。

 顔を近付け、嫌らしくほくそ笑む。

 獲物を仕留めた狩人の表情で彼は言った。

「とりあえず、今晩は俺に付き合ってもらうがね」

 だがその時、「ちょっと待った」と、その台詞に割り込んだ発言があった。

 発言の主は翔一郎だ。

 彼は言った。

「代理を立てるってのは駄目なのかい?」

「代理だと」

「そうさ」

 翔一郎は、深刻さを微塵も感じさせない軽い口調で芹沢に告げる。

「『青い閃光シャイニング・ザ・ブルー』と『皇帝カイザー』のアタマが競るんだ。ギャラリーだって、もうけっこう集まってるだろ? このまま誰も走らないってのは、そっちもいささか体裁が悪いんじゃないのかい?」

 この降って湧いたような提案に、芹沢以下「カイザー」の面々だけでなく、眞琴も加奈子も、そして当事者の片割れである倫子ですらが、きょとんとした表情を一瞬浮かべる。

「オッサン、自分が何言ってんのかわかってるのか?」

「落としどころはそこだと思うがね」

 威嚇するように眉毛の片方を吊り上げる芹沢にも動ぜず、翔一郎はなおも続ける。

「そっちだって、あらぬ噂を立てられてチームの名前にケチが付くのは不本意だろ?」

 あらぬ噂。

 そう言われて芹沢は、かすかに渋い表情を見せた。

 確かに倫子の「MR-S」が事故を起こしたタイミングは、勝負を控える芹沢にとって絶妙といっていいものであった。

 もっともそれは、彼自身が末端のメンバーに指示して引き起こさせた結果であったのだから、タイミングが絶妙なのはあたりまえのことだ。

 そう、眞琴が抱いた推測は、見事真実を捉えていたのである。

 芹沢にとって、倫子とのバトルは決して負けられない一戦だった。

 もちろん勝つことで彼女をモノにできるという個人的な欲求が大きかったのも理由のひとつだ。

 だがむしろ重要だったのは、明らかに格下のクルマ、それも女が運転したものに敗北を喫した場合、これまで築き上げてきた自分とチームの評判とがガタ落ちになるのを避けられそうにもなかったことだ。

 だからこそ策を講じた。

 相手がいかに凄腕だろうと問題にならない、「不戦勝」という特等席の切符を手に入れるために。

 むろん、まともに戦っておくれを取るとは思わなかったが、勝負事には万が一ということもある。

 それだけの実力を芹沢自身が認めざるをえない倫子であるが、そんな彼女であってもクルマがなければ戦えない。

 代わりのクルマで出たらいい、と普通の人なら考えるだろう。

 その意見自体は決して間違ってはいないし、むしろ一般論であると言っていいだろう。

 しかしながら、一見傍若無人なようでいて、「走り屋」という人種──それもどこかストイックな面を持つ古株は、他人のクルマで対戦することを潔しとはしないのだ。

 そして予想どおり、倫子は代車での戦いを選択せず、決して納得していないにしろおのれの敗北を受け入れた。

 ここまではなんの問題もない。

 計算どおりである。

 だが、間抜けにも翔一郎に指摘されるまで気にも留めなかったのが、あまりにうまくいき過ぎた計略がかえって巷の邪推を呼び、無責任な風評が真実を直撃する可能性だった。

 確かにこのままでは、芹沢自身の実力が今夜の八神でお披露目されることはありえなくなるわけだから、「勝てないことを悟ったから小細工をした」という噂が立つのを防ぐことなどできないだろう。

 言われるまでもなく、それは彼にとって望ましくない未来図だ。

 だったら、実際に八神街道を駆け抜けることでおのれの実力を衆目に見せ付けるほうが絶対いい。

 芹沢は、そんな風に思いなおした。

 問題は、誰が倫子の代理で走るか、である。

 芹沢は、八神の常連をほとんど知らなかった。

 もしかしたら自分の知らない実力者をそこに当てられるかも知れない。

 そうなった場合、せっかく一度は手中におさめた不戦勝という甘味なパイが、ぽろりとそこからこぼれかねない。

 あえて是とも非とも断言せず、芹沢は翔一郎に確かめた。

「代理ったって、いったい誰が走るつもりなのさ」

「俺だよ」

 翔一郎は即答した。

 あまりに予想外な展開に、眞琴たちもぽかんと口を開けるほかはない。

「ちょっと翔兄ぃ、本気なの?」

 眞琴が素っ頓狂な声をあげた。

「ああ」

 いつもの調子で翔一郎は応える。

「アルテッツァやスターレットよりは俺のB4のほうがパワーあるしな。適役だろ?」

「無責任なこと言わないでよォ」

 心底脱力したように、両肩を落として眞琴は言った。

「翔兄ぃのクルマ、ATオートマじゃない。とてもじゃないけど、峠の本気バトルなんかじゃ走れないよ」

 AT?

 眞琴が発したその単語に反応して、「カイザー」の面々が爆笑した。

「オートマ車でバトルしようってのかよ。俺たちを笑い死にさせる気か?」

「おかしいか?」

 あたかも笑いの理由がわからないかのような態度を装い、翔一郎は芹沢に尋ねた。

「馬力の面じゃ、B4だって二百六十馬力だ。そっちのクルマと比べても、それほどの差はないと思うけどな」

「カタログじゃな」

 笑い過ぎでひぃひぃと呼吸を乱しながら、芹沢は答えた。

「だが、俺のFD-3Sは走りの性能にゃいっさいの妥協がない、マツダの、いや日本の誇る戦闘機サラブレッドだ。レガシィみたいな『走る実用車スポーツセダン』とは、もうクルマの作り自体が根本から違ってるのさ。ましてや、アンタのクルマはオートマ車。そんな代物シロモンでまともに立ち向かえるって思われてたなんて、ボクチャン、ちょっと自信喪失しちゃうかもォ」

 後半おどけて表情を崩した芹沢に応じて、ふたたび笑いが湧き起こった。

 頭っから翔一郎を莫迦にしきった、言葉どおりの嘲りだった。

「いいぜ、代役」

 ひととおり笑い終えると、芹沢は倫子に告げた。

「おまえが了承するってんなら、このオッサンとバトルするわ。もちろん、オッサンが勝てばこの勝負はそっちの勝ち。もっとも、勝てりゃあの話だがな」

「受けるわ」

 倫子は応えた。躊躇など微塵も見られぬ即答だった。

 それを聞き、眞琴と加奈子は声をあげて驚く。

 しかし、彼女はさっきまでの焦燥しきった表情を一変させ、はつらつとした声でふたりに告げた。

「どうせ不戦敗になるくらいなら、ここは壬生さんの走りに賭けてみましょう。壬生さんが勝てばそれでよし。仮に負けても結果は同じよ」

 当の本人にそうまで言われては、眞琴も加奈子も返す言葉が見付からなかった。

「では壬生さん。くれぐれも、お願いしますね」

「最善を尽くしましょう」

 かくして、見事倫子の代役として参戦することが決まった翔一郎は、「カイザー」からの冷笑と身内からの不信感を背に愛車「レガシィ」へと乗り込んだ。

 そのまま素早くエンジンをかけ、芹沢の「RX-7」よりも早くスタートラインに着く。

 実は、ここまで同乗してきた眞琴ですら気付いていなかったいくつかの変更点が、翔一郎の「レガシィ」には存在していた。

 運転席側の座席はいつの間にかホールド性の高いセミバケットシートに交換されており、ドライバーの体を保持するシートベルトも通常の三点保持式からスポーツ走行用の四点保持式に変わっていた。

 そしていま翔一郎が手を伸ばしている機器──それまで彼の愛車には付いていなかったはずのブーストコントローラーまでもがその車内には鎮座している。

 それがいったい何を意味しているのかは明らかだった。

 だが、誰もその事実に注意を払おうとはしていなかった。

 芹沢が「RX-7」を横に並べると同時に、翔一郎はよく使い込まれたドライバーズグローブを手にはめる。

 指貫式のものではなく、スパルコ社製の手袋型だ。

「芹沢君、とか言ったっけ」

 運転席側の窓を開け、唐突に翔一郎は芹沢に尋ねた。

やまを走り出してから、もう随分経つんだろ?」

「はァ?」

 前触れのない問いかけに、思わず芹沢は唇を歪める。

「なんだってそんなことを、アンタに答えなきゃいけないんだ?」

「なに、走り屋の世界にも越えちゃいけない一線があるってことを知ってるよな、って確認したかったのさ」

 まるで諭すような口振りで、淡々と翔一郎は語った。

「勝負にこだわるのは結構だけど、やりすぎって奴は良くないな。すねに傷を持ちたくなかったら、それだけはきっちりおぼえといたほうがいい」

「けっ、お説教のつもりかい。ド素人の分際でよ」

 舌打ちして顔を背けた芹沢が、クルマの中から指示を出す。

 発進のカウントを行う者を呼び付けたのだ。

 しかし、咄嗟に倫子がそれを制した。

 自分自身でカウントを行うつもりらしい。

 当事者として当然の権利、という言い分が聞こえてくる。

 「RX-7」と「レガシィB4」、間隔を開けて左右に並ぶその二台の前に立つ倫子が、まっすぐ上に右手を掲げる。

 開かれた指がひとつずつ折り曲げられ、発進までの時間が告知されるのだ。

 五秒前!

 四

 三

 二

 一

 GO!

 彼女の右手が振り下ろされるや否や、二台のクルマはアスファルトを蹴り飛ばし、脱兎のごとく前に出た。

 両脇を通過された倫子の髪が、風にもまれて激しく乱れる。

 スタートダッシュで頭を取ったのは、言うまでもなく芹沢の「RX-7」だった。

 芸術的なまでのクラッチミート。

 強大なトラクションで弾き出された流線型の軽量ボディは、まるで翔一郎の愛車B4がその場に停まっているのではないかと錯覚させるほどの勢いで、傾斜の付いた八神の道を猛然と駆け上がっていく。

 さすがに四百馬力を謳うだけのことはあった。

 まさに比べるのが莫迦莫迦しくなるくらいの、圧倒的な性能差だ。

 と同時に、それは予想された現実以外の何物でもなかった。

 もとより、腕利きとして知られている峠の走り屋ロードレーサーに対し、下界に住む一般ドライバーが喧嘩を売ること自体間違っているのである。

 いわば、素人が格闘家相手にストリートファイトを挑むようなものだ。

 クルマの性能云々に関して言えば、それはもはや枝葉の問題に過ぎない。

 だが、この場にいる者たちのなかで、たったひとり倫子だけはそう思わなかった。

 なぜなら彼女は知っていたからだ──壬生翔一郎という男が持つ、もうひとつの顔について。

 だから、言った。

 追うわよ、と。

 加奈子の手からむしり取るようにして愛車の鍵を借り受けると、倫子はそのまま「アルテッツァ」の運転席へと滑り込んだ。

 素早い動作でシートベルトを締め、問答無用にスターターを回す。

 彼女に続いた加奈子と眞琴がそれぞれ助手席と後席とに乗り込んだのは、心臓部3S-GEに火が入ったその瞬間の出来事だった。

 ふたりとも、いきなりの状況変化に戸惑いを隠せていない様子だ。

 しかし、倫子はおのれの行動の理由について、この時何も語ろうとはしなかった。

 その代わりに選択されたのは、有無を言わせぬ「アルテッツァ」の急発進だ。

 黄色いセダンがタイヤを慣らして公道に飛び出す。

 その目指すところは明白だった。

 アクセルを大きく踏み込んだ彼女は、周囲からの目線を振り切るようにして、先行する二台のあとを荒々しく追走し始めたのである。

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