星蛇の夢の物語

ギジエ・イリ

少年は、山を下りて

第1話 ラビット00

 出来ました。おじいさん。

 そう言って少年は目の前に座る老爺に手にしていたおもてを渡す。

 常緑樹の木の葉のような形のそれには、ふたつの細い線のような目。

 まるで眠っているかのようだが、微かに見える瞳が確かに周囲を見据えている。

 そしてその間、ちょうど中央下に小さな鼻が伸び、閉じられた唇は何かを語る寸前のようにも見えた。

 硬く、丈夫な木を削って作られたそれは、半眼の穏やかな表情の面だった。

 老爺は、節くれだった、しかし確かに生気を感じるしっかりとした腕で受け取り、静かな目でじっと確かめるように面を見据える。

 表情に変化はなかった。それでも、満足したのか、しばらくすると面を少年に差し出し、その手に返した。


 老爺は寡黙で、感情を滅多に表さない人間だった。

 少年が覚えている限り、ただの一度も笑ったところを見たことはない。

 既に老爺と暮らすようになって、10年もの時が経っているというのに。

 父と母が死に、老爺に引き取られ、それから毎日を同じようにして過ごしてきた。

 水を汲み、料理を作り、それを老爺と共に食べる。

 洗濯を行い、掃除をし、時に狩りや釣り、キノコや山菜採りに出かけ、そして老爺と共に面を作る。

 面を作ることは強制された訳ではなかった。

 老爺は少年に何も言わず、ただ生活の術を教え、教えきった後は少年の自主性に任せるだけだった。

 少年は自然と見よう見まねで面を作るようになった。

 老爺はそれを許容し、こうして時に面を見てくれる。

 いつもなら、良く見るようにと言うように、老爺自身が作る面を渡し、少年も自分の作ったものと老爺のものとを見比べる。それだけだった。

 しかし、その日はいつもと違うことが起きた。

 老爺が問いかけてきた。


「明日、試練を行おうと思う。どうだろうか?」


 試練。

 前から話されていたことではあった。

 しかし、あまりにも急な話に、少年は驚いた。

 自分の作った面が、老爺の作るそれに比べて、まだまだ劣っていると感じているからだった。

 自分でも上手くなっているという自信はある。

 それでも、完璧とは思っていなかった。

 困惑する様子の少年に、老爺は一度、その少年の困惑を否定するように首を振り、話しかける。


「完全なものとは心の中にしかない。必ず何かが足りない。必ず何かが多すぎる。それでもあなたが綺麗だと思うものがある時、それそのものが綺麗なのではない。あなたが綺麗だと感じるから綺麗なのだ」


 綺麗。

 美しい。

 世界を見て、ため息をつく。

 その瞬間の心のありようを忘れない。

 老爺が教えるのは、小手先の技術ではなかった。

 常に自分の心に問いかけなさい。

 誰にとっての正しさよりも、まず自分心の内の正しさを育てなさい。

 心のありよう。

 それこそが面に表れると言うように。

 少年は考える。

 完全なものは形にはならないということだろうか?

 それを追い求めてはいけないのだろうか?

 考えても、答えが出なかったので、老爺に問いかけるように言った。


 おじいさんの面は綺麗だと。


 まるで、それこそが正解であるのだと言うように。


「それはあなたの心のなせること。私はそう思っていないかもしれない。同じように、あなたの面をあなたが思うように、私は思っていないかもしれない」


 老爺の言葉に、改めて自らの面を見た。

 どんなに丁寧に作られていても、ここに自分の心は見えないと思えた。

 むしろ、老爺の面に近づきたい、そんな思いばかりが感じられる気がした。


「あなたのひたむきさが表れている。それならば、心が宿る。かの獣たちも夢を見るだろう」


 獣に夢を見せる。

 人の夢を見せ、獣に人の意思を理解させる。

 それはかつて魔法と呼ばれたものだった。

 夢を見た獣は、まるで人であるかのように意思を持ち、人に従うようになる。

 面はそのための道具だ。

 老爺が言うのはつまり、その道具が出来たということ。


「今日の間は準備を。明日は、必要なものはすべて持って行きなさい」


 老爺はそう言って、今日の分は終わりと告げるように、片付けを始めてしまう。

 少年もそれに従い、道具を片付けた。

 少年の胸にあるのは、試練に望めるという興奮や期待よりも、本当に良いのだろうか?という自分自身への問いかけだった。






 翌朝、いつものように水を汲み、朝食の準備をして、老爺と食べた。

 食事中、老爺はいつも通りに何も語らない。

 食事を終えると、準備が出来たら外へ来なさいとだけ告げて、先に外へと出て行く。

 昨日の内に少年が用意しておいたものは、昨日作ったばかりの面と魔獣を捕らえるための罠に必要な道具、それに山中を歩くための革衣。

 ゆったりとした着物、特に袖が広く作られているそれは、山歩きには適さない。

 少年は巻きつけるような革衣を着物の上に着、袖を絞る。

 それからもう一度、準備してあった道具の確認をして、問題がないことに満足したように頷くと、自分の身体よりも大きな一枚布にまとめてくるみ、それを身体に結びつけた。

 最後に結び目の近くに1本の山刀を鞘ごと差し込むと、自らの首に作った面を下げた。

 他には何も残していないことを確認すると、少年は戸を開け、外へと出た。

 一間しかない小さな家。

 その外に広がるのは豊かな山々。

 山間の小さな平地、そこが少年と老爺にとっての世界に等しい。

 老爺は家の直ぐ側にある岩に腰掛け、煙管をふかしていた。

 少年は側までいくと、老爺がそれをふかし終えるのをじっと待つ。

 老爺が煙管をふかしているのは、時間をつぶすためではない。

 匂いを嫌って獣が逃げてしまうので、普通の獣を狩りに行く時には身体に匂いをつけるのは厳禁だ。

 しかし、これから捕らえに行くのは普通の獣ではない。

 それに、こうして身体に匂いを付けておけば、万一迷った時にも老爺がその匂いで少年の行方を追うことができる。

 例え、それが人には分からない匂いでも。


「貪狼か巨門、どちらか選びなさい」


 やがて煙管から灰を地面に落とすと、老爺が告げる。

 少年は思案し、巨門を、と答えた。

 老爺が口に指を当てて、力強く息を吹く。

 甲高い音が、山々へと鳴り響く。

 しばらくすると、1頭の巨大な熊が現れた。立ち上がれば、今出てきたばかりの家の屋根にも届きそうだ。

 黒く、まるで針のように硬く鋭い毛が全身を覆い、それは生半可な剣や矢では傷ひとつ付けることができないという。

 魔獣と呼ばれる獣たちがいる。

 それは人に仇なす暴力の化身だ。

 その前では、人もただの獣、そして捕食されるただの獲物でしかない。

 そんな魔獣の1体であるはずの黒熊は、まるで飼われた犬のように静かに、まるでかしずくように老爺の前で身を横たえた。

 黒熊の額には面があった。

 顔に対してあまりにも小さなそれは、かぶっているというよりは、ほとんど頭に乗せているだけで、実際に黒熊の両目は少しも面にかかっていない。

 赤い紐で結われたそれは、少年の作った面と同じように、静かな表情。

 一見すれば無表情のようで、しかし眺めているとまるで笑っているようにも見えた。

 少年の面と違うのは、複雑な赤い文様が描かれていること。

 老爺は身体を横たえた黒熊にうなずき、それから少年を見る。


「これからこの巨門を連れて、山へ行きなさい。魔獣を見つけ、自らのものとして、戻って来なさい」


 老爺の言葉に、黒熊が少年を見た。

 真っ黒で、あらゆる光を吸いつくしそうな、そんな目が少年を見る。


 分かりました。巨門、お願いします。


 目を逸らさずに、まっすぐに見返すと、巨門は横たえていた身を起こして歩き出す。

 もと来た方へと、山の中へと。

 少年は老爺に一礼して、後を追った。


 巨門は時折、少年に目を向けるのみで、ゆったりと進んでいく。

 巨門にとってはゆったりとしていても、その歩みは少年の歩みと比べると早いものだった。

 それでも少年は遅れること無く付いて行く。

 山に入るのは初めてではない。

 老爺に連れられて、老爺の従える魔獣と共に、これまでに何度も入っている。

 慣れた道、と呼ぶには、入る度に様相を変え、転がり落ちた岩や枯れ落ちた枝が行く手を阻む、道なき道。

 少年はそれを軽い足取りで進んでいく。

 貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、そして破軍。

 老爺が従える7頭の巨熊。

 中でも巨門は一番穏やかな人格を持っている。

 そう、この魔獣には人格と呼ぶべき意思を持っていた。


 本来の魔獣の思考、それは常に飢えたように他の生き物を襲い、喰らい尽くすことに他ならない。

 意思と呼ぶにはあまりにも単純なそれに従い、魔獣はいくらでも食べることが出来、そして食べた分だけ強力に、巨大になっていく。

 そしてそれでいながら、本質的な意味で決して飢えることがない。

 食べなくてもそれで死ぬことがないのだ。

 ただの生き物とはありようが異なるもの。

 獣のようで、獣でない魔なるもの。

 遥かな昔、人々は大地から天をも塞ぐ巨大な蛇が現れるのを見たという。

 そして、その蛇が凶悪な獣たちを生み落とすのを。

 その時生まれた凶悪な獣たち、それが魔獣だ。

 かつては誰もが獣に夢を見せられたという。

 人はあらゆる獣を従わせることが当たり前にできたのだ。

 なのに、誰も魔獣には夢を見せることができなかった。

 誰も魔獣を従わせることはできなかった。

 従わせられない以上は、何としてでも殺すしかない。

 そうして魔獣を殺す方法が考えられていき、そのための武器が作られ、やがて夢を見せる術は一部の人間の間にだけ残るものとなっていく。

 それは研鑽されていき、やがて魔獣にすら夢を見せられるようになるのだが、広く、多くの人間に伝えられることはなかった。

 老爺から少年へと伝えられたように、限られた人間が限られた人間のみに直接、口伝でもってしてのみ今も受け継がれている。


 少年は進む巨門の後をひと振りの幅広の山刀を手に、時折枝を払いながら進んでいく。

 夏の盛りを過ぎた気候はまだまだ穏やかで、歩き続けると汗が噴き出してくる。

 家からどれほど離れた頃だろうか。

 1本の巨木が見えたところで、巨門は足を止めた。

 ここまで何の獣にも、そして魔獣にも出会わずに来ることが出来た。

 巨門はそのための先導。

 少年は巨門に礼を言うと、さらに山の奥へと歩いて行く。

 ここからはひとりで進まなくてはならない。

 巨門もそれを知っている。

 ここで待つと言うように、巨木の側で身を休め始めた。

 ほとんど平地に近い緩やかな斜面であり、木を間引いて管理された周囲が十分に見通せる場所までひとりで進む。

 少年にとっては慣れた場所だ。迷うことなどあるはずがない。

 そうして目的の場所に辿り着くと、荷物を下ろし、隠してあった穴を塞ぐ板をどかした。

 板は少年が持ち上げるには手の余る大きさで、近くにあった棒を使い、こじ開けるようにしてようやくどかすことに成功する。

 穴は不用意に落ちれば、簡単には登ってはこれない高さがあり、穴の中はまるで井戸のよう。

 少年は慣れた手つきで持ってきていた道具から、細く、それでありながら幾重にも編み込まれた絹の銀糸、それが巻きつけられた糸コマを腰につけ、穴の中へと入り、罠の準備を始めた。






 どれほど待っただろうか。

 罠の準備を終え、再び閉ざした穴の上で、じっと待っていると、不自然な音が耳に入った。

 鳥が逃げるように羽ばたいていく。

 どこか遠くから運ばれてくる風に、まるで低い雷鳴のような唸り声が混じるのが聞こえた。

 少年にとって、聞き馴染みのある声だった。

 後は、少年の匂いに気づけば、勝手に近づいてくるはず。

 もしも、それが少年の手に負えないような大物ならば、巨門が対処してくれるはずである。

 ここまで来たらもう後は待つしかない。

 例え、不足があったとしても、今、ここにあるすべてで自らの資質を試すしかない。

 それが試練というものなのだと老爺に教えられてきたのだから。

 やがて、確かな振動が足の裏に感じられるようになる。

 唸り声はやまず、振動は次第に大きくなり、地響きと呼ぶべきそれへとなる。

 唸り声と地を叩く音とが合わさり、その頃にはもうそれがどちらから近づいてくるのか分かるようになっていた。

 近づいてきている。

 少年はそちらに向き直り、手にしていた面を首に掛け、油断なく山刀を構え、待った。


 不意に音と、地響きがやんだ。


 次の瞬間だった。

 間近とも感じられる距離に、その魔獣が現れたのは。

 実際には十分な距離がある。

 その魔獣は、そんな距離を感じさせない、少年にとっての十分な巨体の持ち主だった。

 その姿はウサギに似ている。

 ただし、強いて言えばと言うべきだろう。

 まず、巨門ほどではないが、少年の数倍も身体は大きい。

 それにウサギと言うにはシルエットがキツネを思わせる細長いものだった。

 発達した後ろ足や、長く伸びる両耳は確かにウサギのそれに見える。

 しかし、威嚇するように縦に開いた口からは尖った歯、肉食動物の牙が伸びていた。

 そして何よりも異形なのは、そのウサギには角が生えていた。

 ピンと天を指すように長く伸びる耳よりも長く大きい。

 まるで人の手を広げたような、そんな鹿のものにも似た角だった。


 少年は息を飲んだ。

 見事に発牙した真っ白な魔獣だった。

 これほどまでに発牙している魔獣を見るのは、老爺のそれを除けば初めてかもしれない。

 魔獣と獣の違いは何か?

 それはその性質だけでなく、見た目にも大きく表れる。

 魔獣は他の魔獣や人間を食べると、牙や爪、角、果ては鱗や翼など、自らの身体を巨大化させるだけでなく、従来なかった器官すらも発現させる。それが発牙。

 まるで種から芽吹くように、それまでなかった他者を圧倒するための力を形にする。

 例えば巨門ならば、全身を覆う針のような毛皮がそれだ。巨門は従来の獣、ただの熊には決してあり得ない硬度の毛皮を持っている。

 発牙は魔獣がただの獣を食べても起こらない。人間が魔獣を食べても起こらない。

 魔獣が、他の魔獣か人間を食べると発牙するのだ。

 特に人間を食べると、殊更に強く発牙するという。


 だから、魔獣は人間を襲う。獣よりも、他の魔獣よりも、殊更に狙って。

 だから、ここで少年が食べられれば、このウサギは更に発牙することだろう。

 だから、少年は待っていた。自らを餌に、魔獣を呼びこむために。

 少年には老爺のふかしていた煙管の煙、匂いが身体に染み付いていた。

 自然にはない匂い、獣では発し得ない匂い。

 魔獣は人の匂いに強く引かれるという。魔獣はきっと煙によって殊更に強くその匂いを感じたはずだ。

 そして、この山のどこかで嗅いだのだ。

 風に乗り、拡散し、ほんの僅かになったその匂いの残滓を。

  

 魔獣が後ろ足を強く地に叩きつける。

 その瞬間、飛び上がってしまうのではと少年が思うほどの地響きが起こる。

 開いた口からは不機嫌さを思わせる唸り声。

 少年は逸らさずに、繰り返し威嚇するように地響きを起こす魔獣の目を見た。

 自分の呼吸と、相手の呼吸を重ねあわせるように聞いた。

 魔獣が幾度も起こす地響きよりも、なお自分の心臓の鼓動を大きく感じる。

 緊張しているのか。

 そう自らに問うより先に、知れず、少年は溜まっていたツバを飲み込んだ。

 その音を聞いたのか。

 それが合図だとでも言うように。

 魔獣の体が一瞬、縮んだように見えた。

 力を溜めたのだ。

 その巨体をより早く、少年のもとへと到達させるために。

 少年はそれを言葉で考えるよりも早く理解していた。

 魔獣が跳び、そして同時に少年もまた跳んでいた。


 魔獣の跳躍は恐ろしく素早かった。

 それは射放された矢に等しい速度。

 しかし、その軌道は魔獣の巨体さ故か、少年の目線の上から飛びかかる形になった。

 対する少年は地に顔が当たるのではないかと錯覚するほどに、低く跳んでいた。

 この魔獣に羽はない。

 一度、跳んでしまえば、空中では方向を変えられない。

 魔獣の伸ばされた手、従来のウサギならば決して持ち得ない爪を掻い潜るようにして、少年は魔獣の一撃を躱していた。

 魔獣は着地と同時に身体をひねっている。

 すぐさま再び飛びかかれるように。

 獲物を圧殺し、刻み殺し、そして己の血肉とするために。

 口を開き、唸り声を上げようとしていた魔獣は、それを叶えることができない。

 魔獣の重みを少年が立っていた地が受けると同時に、破砕音が鳴り響く。

 山中に響き渡るようだった地響きの音に比べれば小さい。

 その音に吸い込まれるように、魔獣は穴の中へと、その暗がりへと身を落とす。

 少年は再び跳ぶ。

 魔獣を追うように、その穴の中へと。

 迷わず、ためらわずに。


 穴の中では魔獣がもがいていた。

 幾重にも張り巡らされていた銀糸がその度に絡みついていく。

 降り来る少年に目が行き、魔獣の咆哮が穴の中にこだました。

 純粋な怒り、それが衝撃となって少年の身体を襲う。

 少年は咆哮の振動を受けても、萎縮しなかった。

 むしろ一撃を躱す前よりも力が湧いてきていた。

 落下しながらも、幾重に張り巡らされた銀糸のひとつを引く。

 すると、下の魔獣の別の銀糸が引かれて魔獣の口を捉え、口が閉ざされる。

 魔獣のいる穴の底に至る前に、さらに別の銀糸を引きながら落下すると、一瞬、魔獣の動きが完全に止まった。

 その瞬間に合わせたように、少年は魔獣の巨大な頭、その閉じた口に下り立つ。

 同時に、罠とは別に用意し、腰へと備えていた糸コマから繰り出して、既に手にしていた銀糸でその口を完全に括り、結ぶ。

 魔獣は暴れようとしたが、狭い穴の中でそうしようとすればするほどに身体の自由はきかなくなっていく。

 少年が間近で見ると、先が恐ろしいまでに尖った角だった。

 これに刺さるどころか、身体のどこかを引っ掛けられただけでも致命傷になりかねない。

 改めて気を引き締め直して、銀糸を引いては別の銀糸を掴み、位置を変え、角を、四肢を括り、結ぶ。

 そうしてから、少年は今まで自身の首に下げていた面が確かにそこにあることを確認する。

 ここからが本当の勝負だ。

 完全に動きを封じられた魔獣の頭、その正面へと立ち、慎重に、魔獣の目と目、その中心に山刀を当てて引く。

 魔獣の外皮は強靭だ。

 それは圧倒的な暴力を振るうその肉体を守る鎧に等しい。

 もしも外皮が薄弱であれば、その自らの重みと膂力に引き裂かれ、動きまわることなど到底できない。

 例え巨門ほどの魔獣でなくとも、簡単に引き裂けるはずがない。

 そんな魔獣の硬く細かい毛に刃は分け入り、皮が裂け、血が滴りだす。

 少年が手にする山刀は鋼のそれではない。

 ニオイガネと呼ばれる希少な金属で出来たその山刀は、例え巨門ほどの魔獣が相手であっても、血を流すことができた。


 濃密な血のにおいが穴の中に充満する。

 あまりにも濃いその血のにおいは、半分は魔獣の血から、もう半分は少年が手にする赤黒く、重い山刀から放たれていた。

 ニオイガネの刀剣には決して偽物が出回ることはないと言われる。

 理由は、血を得ると、強い血臭を出すのがこの金属の特徴なのだ。

 三宝刃金のひとつたるニオイガネ、その刀剣は作る職人の腕次第で、鋼のそれとは比べ物にならないほどの切れ味と強靭さを見せる。

 何しろそれは魔獣を殺すために人間が長い研鑽の果てに作り上げた代物。

 老爺から借り受けたその山刀を今度は少年自らの指に押し当て、軽く引く。

 少年の指からも血が滴り落ちた。その指を魔獣の血に押し当てる。

 少年の血と、魔獣の血が混じる。

 そうして面を手にした。

 そっと魔獣の溢れだす血に、その裂け目へと面を押し当て、魔獣の血と自らの血とが混ぜ合わさった指を、面の額に押し付ける。

 まるで印を押すように。

 そこに印をつけるように。


 血が流れた。

 少年の血が。

 魔獣の血が。

 混ざり合い、面の上で流れ出す。

 魔獣から、まるで泉のように血が湧き出す。

 面を血で染め上げるように、裏側からも染み出し、面が赤く染まる。

 面に付けられていた銀糸を編んだ紐、それも今では赤く染まっている。

 魔獣は身じろぎひとつ、まばたきひとつすらしない。

 時が止まったかのように、動かない。

 まるで死体のように。

 いや、実際に死んでいるのだ。

 魔獣としての生を、今、まさに終えているのだ。

 人のように意思を持つ獣へと変化している。

 魔獣としての性を滅し、人としての格を持つ。

 今、まさにかつて魔法と呼ばれたそれが行わている。

 それを今はこう呼ぶ。

 転変、と。

 人でないものに、人の夢を。

 決して相容れない存在を、お互いに許せる存在に。

 今、まさにこの魔獣は転変しようとしている。


 開かれた目に少年が映る。

 少年が魔獣に映る自らの姿を見た。

 老爺は言った。

 今、この瞬間に、魔獣は夢を見ているのだと。

 そして魔獣としての己を忘れているのだと。

 面が示すのは安らぎ。

 それまでの性を忘れ、無くし、新たな夢を見る。

 安らぎとともに。

 故に忘我の面と、それを呼ぶ。

 少年は指を面からそっと離し、面の赤くなった紐へと手を伸ばし、その両端を結びつけた。


 その瞬間に、魔獣の瞳が閉じた。

 再び魔獣の瞳が開く。

 ほんの1回の瞬きだ。

 それだけだった。

 それだけで、そこにはさっきまでの魔獣とは違う目の色が見えた。

 怒りはない。

 暴力性も、攻撃性も感じられない。

 静かに、悟ったような目が、少年を見返していた。

 面の赤が消えていく。

 蒸発し、乾いていくように、赤が引いていく。

 そうして、いくつかの紋様だけが残り、一滴の滴すら残らずに、魔獣の血は消えた。

 今ここに転変は成った。


 分かるかい?

 少年の問いかけに、魔獣は頷くように鼻から長く息をついた。

 穏やかな息のそれは、まるで今までの己こそが夢を見ていたのだと言うようだった。

 山刀を鞘へと仕舞い、少年は魔獣の鼻の先に抱きつくように力を抜いた。

 ありがとう。

 言葉が本当に言葉として口から発せられたのか、それを確認するよりも前に、少年は眠りについた。


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