最終幕 狐の口から出た眞



 影を抜けると江戸の町の空気とは比べ物にならないほどの蒸し蒸しした、熱風ともいえる熱い空気が俺の額と頬を撫でた。


 すぐ近くから遠くから、街の道路を行く自動車の走行音とクラクションの音が鳴り響いていた。


 空を見上げると、細長い闇を作るようにそびえ立つマンションが見える。太陽は沈んだというのに空は闇に包まれず、街の明かりが夜空を白く照らしていた。


――帰ってきた。東京に帰ってきた。


 俺はごく自然とそう実感した。


 どうやらここは、俺がおあきちゃんを追いかけて影の中に飲み込まれた場所である、ビルとビルの隙間であるらしい。


 街の光が漏れている方向には二メートルもない小さな朱色の鳥居があり、その向こうには車道に自動車が行き交っていた。


 俺は、東京の街に向かって一歩一歩歩き出す。


 十五ヶ月の間見てなかった東京の情景。


 太陽は沈んだというのに、明るく騒がしいその世界に俺は帰ってきた。


 家族や友達、そして葉月に俺が一年以上もの間、行方不明だったことをなんて説明しようか。


――いや、そんなことは些細な事だ。


 そう思って鳥居を抜けると、少し離れた所には俺の親友がいた。


 あのでかい体は見間違えるはずがない。そこには忠弘がいて、両手に棒アイスを持って食べていた。


――あいつ。


 俺は久しぶりに会えた親友を驚かせようと、忠弘にゆっくり近づき声をかける。


「よっ、忠弘ただひろ。久しぶりだな」

 それは、俺なりの茶目っ気であった。


 しかし、忠弘の返事は意外なものであった。

「はぁ? 久しぶりって何がだ?」


「え?」

 俺は間抜けな声を出してしまった。


 そして、忠弘が両手に持っていた棒アイスのうちの一本、半分食べられた棒アイスを俺に渡しつつ伝える。

「ほら、亮哉りょーや。おぇのアイス返すぜ」


 忠弘から受け取った食べかけの棒アイスの木でできた持ち手は、ひんやりと冷たかった。


――まさか、これって。


 俺は尋ねる。

「なあ忠弘ただひろ……俺があの鳥居に入ってから何分くらい経ったんだ?」


 すると、忠弘はきょとんとした顔をする。

「はぁ、何分? 三十秒くらいしか経ってねーんじゃね?」


 その言葉に、俺は呆然と棒アイスを見つめる。


――時間が経ってない。


 視線を固めている俺に忠弘が問いかける。

「アイス食わねぇのかよ? 溶けちまうぞ?」

「……あ、そうだな」


 シャクリ。


 俺はアイスにかじりつく。


――美味うまい。


 夏の暑い日に食べる芯まで冷えた棒アイスが、こんなに贅沢ぜいたく美味うまいものだったとは思わなかった。


 忠弘は俺にチーズケーキの入ったコンビニ袋を手渡しつつ問いかける。

「で、あの和服の女の子はどうしたんだ?」

「あ……あの女の子は、無事に家に帰ったよ」


「そっか。そりゃよかったな」


 シャクリ シャクリ。


 アイスをかじりとる俺の口の中に、冷たさと共に二十一世紀の東京にいるという実感が広がっていく。


――まさか、全部……夢?


 そんなことを思ってしまった俺は、ジーンズのポケットをまさぐる。


 そして、その小さな装身具を取り出す。


――夢じゃない。確かに俺は、江戸時代に訪れていた。


 俺の手には、おあきちゃんから受け取った、ビー玉をあつらえたかんざしが輝いていた。それは間違いなく、俺が江戸の町にいたという証明であった。


――そう、夢じゃない。夢じゃないんだ。


 かんざしをジーンズのポケットに入れ、棒アイスを食べ終わった俺は、隣にいる忠弘に顔を向けて口を開く。

「なあ忠弘ただひろ。お前中学生の時に、いじめられてた俺を助けてくれたことあったよな」


 すると忠弘は目をぱちくりさせる。

「あ、ああ? それがどうした?」


「俺、本当はずっとずっとあの時の事、お前に感謝してたんだ。助けてくれて有難ありがとうな」

 俺がそう言うと、忠弘は照れくさそうに正面を向いた。


「はははっ! なんだよいきなり! 気にすんな! それにうちの先祖代々の家訓かくんだしな!」


 その言葉に俺は返す。

「へぇ? 家訓かくんってどんなんだ?」


 すると、忠弘はそらんじようと視線を空に向けて動かす。

「えーっとなぁ、確かな、『人を誠心から思いやり、苦しみを取り除いてやるべし。困っている者を助け、清く正しく生きるべし。それを神仏への布施ふせとせよ』だったかな」


「えっ!」

 大声を出してしまった俺は忠弘の顔を見る。


 その言葉は徳三郎さんが屋次郎さんに伝えた言葉そのものであったからだ。一瞬だけ、忠弘の顔と屋次郎さんの顔が重なった気がした。


「……どうした? 亮哉りょーや、大声出して」

 忠弘の言葉に、俺は返す。

「なあ忠弘ただひろ……もしかして、お前の先祖に大工とかいなかったか……?」


 すると、忠弘が呆れた顔で返す。

「はぁ? 先祖も何も、俺の家は江戸時代からずーっと大工だぜ!?」


「え!? だってお前、親が公務員こうむいんとか言ってなかったか!? 親が公務員こうむいんだから、お前も公務員こうむいんになるとか?」

 俺がそこまで言うと、忠弘はひたいに手のひらを当てて、心底おかしそうな顔をして笑う。


「はははっ! 亮哉りょーや、おぇ勘違いしてるぞ!? 俺の祖父じいちゃんが棟梁とうりょうなんだけどよ、工務店こうむてんの社長なんだよ! で、親父おやじが跡継ぎの若頭わかがしらで、そこの従業員じゅうぎょういん扱いなんだよ!」


 その言葉に俺は、声にならない乾いた笑いを浮かべる。


――そうか、公務員こうむいんじゃなくて工務員こうむいんだったのか。公務員だと思っていたのは俺の勘違いだったのか。


 そこで俺はあることに気づいて、忠弘に問いかける。

「あ……じゃあもしかして……お前の名字みょうじの『布施ふせ』って……そこからきてるのか?」


「ああ、そうだよ。初代が布施ふせ屋次郎やじろうさんっていう人だったんだけどよ、明治維新の時にその人が名字みょうじを決めたんだ。なんでも、その屋次郎やじろうさんのかみさんが若いころに大病たいびょうわずらって、偉い人に薬を貰ったときに言われた言葉らしいぜ」


――屋次郎さんのかみさんとは、おうめさんのことだろう。


「そっか……屋次郎さん、約束守ったのか……」

 俺が小声でつぶやくと、忠弘は不思議そうな顔をする。


「約束? 何がだ?」

「いや、なんでもない」


――つまり、俺が屋次郎さんを助けて、屋次郎さんがそれに恩義を感じて、家訓で人の助けになるよう子孫に残して――


――そして、俺は屋次郎さんの子孫である忠弘に助けられたのか。


 俺は忠弘に伝える。

えんって不思議だな」


 すると忠弘が応える。

「ああ、そうだよな」


「今度また、たかしと一緒にカラオケでも行かないか?」

 俺がそう言うと、忠弘が返す。

「そうだなー、行きてーなー。失恋ソングとか、思いっきり歌いてーよ」


「あ、そうか。忘れてたけどそういえばお前、失恋したばっかだったな」

「言ったばっかなのに忘れてんじゃねえぞこの野郎!」

 俺も忠弘も、お互いに笑いあった。


 そこで、すぐ近くに人の気配を感じたのでそちらの方を向いた。


 そこには、俺が十五ヶ月間、求めて止まなかった天使のような少女がいた。

「りょーくん、ただひろ、やっほー」


 それは、肩で切りそろえた黒髪がつややかな、私服姿の葉月であった。


「……葉月はづき……」


 俺はそれくらいしか言うことができなかった。伝えたいことがあまりにも多すぎて、何も伝えることができなかった。


「あれ!? 葉月ちゃん!?」

 忠弘は驚いた声を出す、そして言葉を続ける。

「もしかして、家近くなの?」


 忠弘の声に、俺は若干肩を落とす。忠弘はそれすら知らなかったことに今気づいた。


 葉月が綺麗な声で返す。

「そうだよ? ここのハイツ八城やしろの八階がわたしのおうち


 すると、忠弘が返す。

「え? そうなの? 俺の家のすぐ近くじゃん!?」

「そうみたいだねー、りょーくんの家とも近いんだよ」


「もしかして葉月ちゃん、亮哉りょーやの家に行った事あんの?」

「ずーっと前に、一度だけ行った事あるよ」


 忠弘と葉月のやりとりに、俺は頭の中に疑問が浮かぶ。


――俺は葉月が家に来た記憶ないんだけど。


 そして葉月が言葉を続ける。

「ただひろ、昨日はごめんね? 折角告白してくれたのに断っちゃって。気を使わせてたらごめん」


 すると、忠弘が豪放磊落ごうほうらいらくに口を開く。

「え? いやいやいーっていーって、そんな事で男の友情は壊れやしねーよ」


 すると、葉月は自分のスマートフォンを取り出した。

「お詫びと言っちゃなんだけど……ただひろに可愛い紹介してあげよっか?」


「紹介? 葉月ちゃんの友達?」

 忠弘がそこまで言ったところで、葉月は自分のスマートフォン操作し、表示した写真を忠弘と俺に見えるように掲げる。


「このなんだけどね。恵理えりって言うんだけど、現在彼氏募集中なの」


 葉月の掲げたスマートフォンには、バレー部のユニフォームを着て、カメラに向かってピースサインをしている活発そうな美少女が映し出されていた。


 どこかで見たことがあるような顔だ。シャギーショートの髪で顔立ちの整った、随分と元気そうな女の子であった。というか完全に忠弘のタイプであった。


 忠弘が声を出す。

「おっ! 可愛いじゃん! 同じ高校の!?」


 すると、葉月が返す。

「同じ高校の同じ学年で、隣のクラスの。りょーくんはさっき会ったよね?」


 葉月に話を振られて、俺は一瞬戸惑う。

「え!? あ……もしかして、バレー部の部室にいた葉月の友達!?」

「そうそう、さっきラインでりょーくんが来たって返ってきたから」


 心臓がドキドキと鳴る。


 俺が葉月の友達の恵理えりさんに会ったのは、葉月にとってはついさっきのことでも、俺にとっては十五ヶ月も前のことなのである。


 忠弘が俺に尋ねる。

「実際見てどうだったよ? 亮哉りょーや

「あー……うん、可愛いだったよ? 会うだけ会ってみれば?」


 すると、忠弘が若干にやける。

「そっか、それなら会ってみるのもいっかなー。恵理えりちゃんっていうの? その葉月ちゃんの友達」

「うん、上の名前は宮口みやぐち宮口みやぐち恵理えり


「えっ!?」

 俺は思わず叫んで、葉月のスマートフォンに映し出された美少女を凝視する。


 髪はロングからシャギーショートになっていて、眼鏡もかけていないが、この顔立ちは間違いなく俺が中学時代に好きだった宮口みやぐちさんだ。何で気付かなかったんだ。


「どうしたの? りょーくん?」

「あ……いや……同じ中学だったような……いや、なんでもない」


 俺の脳裏に、すずさんの言葉が思い起こされる。


――男も女も、大きく変われるもんさ。惚れた奴のためならね――


 そうか、宮口さん、忠弘ただひろのためにイメチェンまでして――


 俺はそう思い、忠弘の肩をぽんと軽く叩いた。


忠弘ただひろ葉月はづきにこの恵理えりさんを紹介してもらえ。きっと上手うまくいくと思うから」

 俺がそう言うと、忠弘は歯を見せてにっと笑う。

「おう!」


 そして、葉月が目の前のコンビニを指差して口を開く。

恵理えりはここのコンビニオーナーの娘さんだから、高校生になってからはよくアルバイトしてるよ? 見たら話しかけてあげてね?」


 葉月がそう言い、忠弘がそれに応えた。





 忠弘は葉月に振られた昨日父親と話し合って、大学に行って建築の勉強をすることを約束したのだという。将来の夢が大工から建築士になったことに、俺も葉月も応援の声をかけた。


 忠弘はこのマンションビル二階にある学習塾に夏期講習を申し込みに行き、俺と葉月は二人きりでエレベーターに乗っていた。葉月が一番上の八階のボタンを押すとドアが閉まり、エレベーターは上昇を開始した。


 スポーツバッグを両脇に抱えた俺は、密閉された空間で葉月と二人きりであった。


 俺がなんと言おうか戸惑っていると、葉月がこんなことを言った。

「ねえりょーくん? さっきわたしの事、葉月はづきって名前で呼んでくれたよね?」


――あ、つい話の流れで自然に言ってしまっていた。


「あー……ごめん、馴れ馴れしかったかな?」

「ううん、嬉しい。わたしはりょーくんに、永谷ながたにじゃなくって葉月はづきって呼んでほしい」


 俺はその言葉に、若干照れる。

「えっと……わかった。これからは葉月って呼ぶよ」

「そうしてくれると、嬉しい」

 葉月も、ほんのりと頬を染めている。


 今、電子音とともにエレベーターが八階についた。


 俺は葉月と共に八階のエレベーターホールに出た。


 そこには、ドアがひとつしかなかった。


 俺は葉月に尋ねる。

「葉月、このフロアってひと部屋だけしかないの?」


 すると、葉月が鍵を取り出して応える。

「うん、八階はフロアまるごと全部あたしのおうち。お母さん、このマンションのオーナーだから」


 さらりととんでもない発言をされた。


 俺は尋ねる。

「ひょっとして……葉月の家ってお金持ちなの?」

「えー? そんなことないよ、土地とマンション一棟ひとむね持ってるだけだし。東京にはもっとお金持ちの人が沢山いるよ?」


「そ……そっか」


 カチャリ


 葉月が入れた鍵が回り、施錠されたロックが開放された金属音が響く。


 そして葉月は、そのドアを開けて俺を誘う。

「ささ、入って入って」


「ああ、わかったよ」

 俺はそう言って玄関に入り、がりかまちのある段差の上にスポーツバッグを下ろす。


 そして、申し訳ない気持ちで葉月に伝える。

「あのさぁ葉月……実は俺、スポーツバッグの中身、わりと多く駄目にしちゃったんだ。明日必ず買い揃えて弁償するから……勘弁してくれないかな?」


 妖怪との戦いや江戸での暮らしで、スポーツバッグの中身はかなり消耗されていたのであった。


 すると、葉月はそんなこと気にしないといった顔で靴を脱ぎ、段差を上がり俺に手を伸ばす。


「いいよ! じゃあ、明日一緒に買いに行こうよ! それよりりょーくんに見せたいものがあるの! 上がって上がって!」


 葉月はそう言って、満面の笑顔で俺の手を取ろうとする。俺はスニーカーを脱いで手を取って玄関を上がる。


 葉月の手が柔らかい。


 そんな思いと共に廊下を抜け、反対側の手でコンビニのビニール袋を持ちつつ廊下の突き当たりにある開けられたドアを抜けてリビングに向かう。


 葉月の家の広いリビングにて俺が見たのは、窓いっぱいに溢れている東京の夜景であった。まるで星空か蛍の群れのようなきらめきが、大きなガラス窓の向こうに広がっていた。それはまるで、江戸で見ていた星空を上下逆さまにした海のようであった。


 葉月は、窓の近くで俺の方を向いて口を開く。

「いーでしょ、えへへ。これを見せたかったの」


 俺は応える。

「……綺麗だね」


 すると、葉月は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「それってわたしのこと?」

「え!? いや、葉月も綺麗だけど、あ、いや、えっと……!?」


「ごめんごめん、冗談」

 葉月はそこまで言うと、ぺろっと舌を出した。


 そして、俺をソファーの近くへ誘導する。

「荷物持って疲れたでしょ、ソファーに座ろ?」

「あ……わかった」


 葉月に言われるまま、俺は置いてあった長いソファーのほぼ中央に座る形となった。葉月は俺のすぐ左隣に座る。手に持っていたチーズケーキ入りのコンビニ袋と背負っていたナップサックは、近くのガラス製のテーブルの上に置いた。


 葉月が笑顔で俺に伝える。

「やっとりょーくんが、このうちに来てくれたね。なんだか嬉しい」


 俺は、その葉月の人懐っこさに驚き戸惑うも、頬を染める。


――葉月ってこんなに積極的な女の子だったろうか。


 ぎゅ。


 今、葉月が俺の左手を握った。俺の心臓は鼓動を加速させる。


 そして、葉月がソファーの上で体重のバランスを移動させ、甘える猫みたいに俺に体を傾けてきた。


 葉月の体重と温もりが、甘い香りとともに俺の体にかかる。


――いいのか? こんな急展開でいいのか?


 そう思った俺は、葉月の両肩を両手で掴んで少し離した。


「……りょーくん? どうしたの?」


 目の前に葉月の顔がある。すぐ近くには十五ヶ月間求めてきた葉月の顔がある。


 何も言わない方がスムーズに事態が進行するのは明らかだ。しかし俺は、江戸で暮らした十五ヶ月を無意味なものにしないためにも、葉月に訊かざるを得なかった。


「葉月、これからものすごく変なこと訊くけど、いい?」

 その言葉に、葉月は目を潤ませる。そしてつぶやく。

「……いいよ? 何?」


 俺は葉月に真剣な表情で尋ねる。

「……もし俺が……一ヶ月……いや、一年以上行方不明になってたら……葉月はどうしてた? 待ってて……くれた?」


 俺がそう訊くと、しばしの沈黙。


 そして葉月が丸い瞳をうるませて俺をじっと見つめつつ答える。

「待ってたと……思うよ? 一年どころか……十年でも、その十倍二十倍でも、待ってたと……思うよ? だってわたし、りょーくんのこと……心の底から……本当にきだもの」


「葉月……」

 俺がそうつぶやくと、葉月はそっと目を閉じた。


 もう言葉はいらない。無言むごんごんが俺たち二人の間を行き交う。


 俺も目を閉じ、くちびるをそっと葉月のくちびるに重ねようとする。


――永遠とも思える刹那の時間。


 くちびるを重ねる寸前だった。


 ガチャリ


「たっだいまー!!」


 ドアが開く音と共に女性の声がリビングに響いた。


 俺と葉月はソファーの上で瞬間的に飛び退き、大きく距離を開けていた。


 葉月が、顔を真っ赤にしながら振り向く。

「あ! お、お母さん! お帰り!」


 葉月のお母さんと呼ばれた糸のように目が細い女性は、手にコンビニの袋を下げたまま、にやにやと笑っている。スタイルの良い体に黒色のレディスーツを着こなしていて、高校生の子供がいるとはとても思えない随分と若々しいお母さんだった。


「あれぇー? あれれぇー? とうとうむすめが家に男連れ込んだかー?」

 その言葉に、俺はソファーに座ったまま軽く一礼する。

「どうも。お邪魔してます」


 葉月のお母さんは高校生の娘がいるから四十前後くらいなのであろうが、薄化粧したその姿は俺の倍以上の年齢にはとても見えなかった。美魔女と呼ぶに相応しい綺麗な女性である。


 俺が軽く挨拶をすると、黒い髪をお団子にして後頭部にまとめている葉月のお母さんが嬉々としてソファーの前に回り、俺のすぐ右で持っていたコンビニ袋をテーブルに下ろした。どうやら中には長い缶ビールが何本か入っているらしい。


「あ、気にしないで。あたしは娘が男を連れ込んできたっての、歓迎するから」

 そう言ってコンビニ袋から高そうな缶ビールを一本取り出してソファーに座る。ソファーの場所は俺のすぐ右であった。


 プシュリ


 葉月のお母さんはビール缶のプルタブを引き開け、泡が溢れたと思ったらそれを一気に飲む。


「んぐっ、んぐっ、んぐっ、んぐっ、ぷはぁー! 美味おいしーい!」


 そして、俺の方を向いて言葉を続ける。

「いやぁー、夏に飲むキンキンに冷えたビールほど美味しいものはないわよねぇ。亮哉りょうやくんもそう思わない?」


 葉月のお母さんが尋ねるので、俺は返す。

「いえ、俺はまだ高校生ですから、お酒は呑みませんよ」


「あらそう? 飲んだことない? そうなんだ?」


「……それから、俺の名前知ってるんですね」

 俺がそう訊くと、お母さんは笑顔を溢れさせる。


「そりゃぁ、もうね。娘が高校に入ってから毎日毎日名前聞かされてるもの。りょーくんがね、今日はりょーくんがね、ってうるさいくらいに」

 その言葉に、俺は少し頬を染める。


 俺の左にいる葉月が慌てて口を開く。

「ちょ、ちょっとお母さん!」


 すると、葉月のお母さんは俺に伝える。

「あたしは、紗江さえ永谷ながたに紗江さえっていうの。紗江さえちゃんって気軽に呼んでくれていいわよ」


――呼びませんよ。


 俺がそう思ったところ、紗江さえさんが俺の持ってきた方のコンビニ袋を掴んで宙に掲げた。


「あらあら、これチーズケーキ? むすめへのおみやげ? ありがとね亮哉りょうやくん。葉月はづき、甘いものだからお父さんの御前ごぜんにお供えしてきなさい」


 葉月は、紗江さえさんからチーズケーキの入ったコンビニ袋を受け取って「はーい」と返事をする。そして立ち上がってリビングから出て行ってしまった。


 そして、ソファーの上には俺と紗江さえさんだけが残されてしまった。


 紗江さえさんは俺の方を向いて、にやにやと顔を緩める。


「えっと、君島きみしま亮哉りょうやくんだったっけ? 娘の彼氏の?」

 その言葉に俺は頬を染めて返す。


「……いえ、彼氏ではないですよ」

「へぇー、キスしようとしてたのに?」


――見られてたのか。


「……とにかく、まだ恋人同士じゃないです。からかわないでください」

「あはは、わるいわねー。ところで亮哉りょうやくん? もしあなたがうちに来たら、どうしても渡したいものがあったんだけど、受け取ってくれる?」


 紗江さえさんのその言葉に、俺は返す。

「何をですか?」


「うふふっ、こーれー」

 紗江さえさんが掲げたそれは、なんの変哲もない、一通の膨らんだ茶封筒であった。


「封筒……ですか?」

「大事なのは中身だけどね。開けてみて開けてみて」


 俺は紗江さえさんから茶封筒を受け取り、その糊付けされた口をびりびりと破る。そして中に入っていたものを、ぽとりと俺の手に落とす。


 中に入っていたものは――


 ぼろぼろの生徒手帳だった。


「あれ? この手帳どっかで見たような……」


 俺がその劣化した生徒手帳を開くと、そこには俺の顔写真が貼り付けてあって、入学年度とクラスが書かれていた。


――え?


 きょとんとした俺は、生徒手帳の最後のページ、裏表紙の裏のページを開く。


 そこには随分と色褪せてはいたが、葉月が葉月のお母さん、つまり紗江さえさんと一緒に浅草寺の雷門の提灯の前で写っている写真が貼り付けられてあった。これは間違いなく俺の生徒手帳だ。


 俺は、油が足りない歯車人形のようにギギギギと紗江さえさんの方を向く。


「あの、紗江さえさん……これをどこで?」


 俺がそう尋ねると、紗江さえさんはその糸のように細い目を開き、にっと笑う。


「これで、おとうさんが預かってたものは確かに返したわよ」

 紗江さえさんがそんなことを言う。


 俺は頭の中で記憶メモリをフル回転させる。


 確か、この生徒手帳は俺が徳三郎さんに預けたままであったはずだ。


「……え? え? どういうことですか?」


 すると、紗江さえさんは口をへの字に結んでから告げてくる。

「何よ、まだわかんない? まあ、あたしも随分とおばさんになっちゃったし、性格も丸くなったし、無理もないかなぁ。でも、これならわかるでしょ?」


 紗江さえさんはそう言うと、自分のてのひらを上に向けた。そのてのひらからはゆっくりと炎の塊が飛び出し、宙の一点に留まった。


――炎を操る能力。


――その力を使う人は、俺は一人しか知らない。


 俺は喉の奥から声を搾り出す。

「……すずさん? すずさんなんですか?」


「はい、ご名答!」

 目の前にいる紗江さえさんが、炎を消してにかっと笑う。


 俺は消えかかったともしびのようなか細い声で尋ねる。

「……どうして……こっちの世界にいるんですか?」


 すると、紗江さえさんはにんまりと笑いつつ俺に伝える。

「こっちの世界? やだなぁ、江戸時代って別に異世界でもなんでもないのよ? それとも、?」


 俺はそこで再確認した。俺が訪れていた世界は異世界でもなんでもなかった。二百年くらい時代が異なっていただけの、れっきとしたこの世界だったのだ。俺が江戸に迷い込んだあの日に気付くべきだったのだ。


 目覚めたらそこは、江戸時代だった。


――だったら、人間よりはるかに寿命が長い妖怪だったら。


――


 目の前の紗江さえさん――もとい、すずさんが口を開く。

「この紗江さえって名前だって、元々は紗江すずえって呼ぶのよ? 永谷ながたにだって元々は永谷ながやだし。名字みょうじ永谷ながやだったから、神社の名前が名賀山ながやだったわけだし」


 その言葉に、俺は気づいて問いかける。

「……あ! じゃあこのマンションって……ハイツ八城やしろって……!?」

「そうよ? 稲荷社いなりやしろの跡地に建てたからハイツ八城やしろ。二階であたしが経営している八城やしろ塾っていう学習塾と同じよ」


「じ……神社はどうしたんですか! 神社は!?」

「あー、震災と空襲で綺麗さっぱり燃えちゃったわよ。いくらあたしでも、炎の竜巻と焼夷弾しょういだんには敵わなかったなー」


「敵わなかったなーって……」

 俺が紗江さえさんと掛け合いをしていると、リビングのドアが開いて葉月が戻ってきた。


 俺はそこで、心臓が口から飛び出るような感覚を味わった。


 ソファーから立ち上がり、葉月に一歩一歩近づく。


 頭の中では、電光石火のようなスパークが行きかっている。


 葉月の正面に立った俺は、葉月の両肩に両手を置いた。


「え……どうしたの? りょーくん?」


 目の前で、葉月が顔を赤くする。


 そして俺の頭の中で、推論エンジンが駆動していた。


 葉月はづきというのは、日本において八月はちがつの旧称だった。


 俺は、葉月はづきが八月に生まれたから葉月はづきという名前になったのだと納得していた。


 俺のような平成に生まれ育った人間は八月というと夏真っ盛りだと考えてしまうが、古来より日本では八月は夏ではない。夏は四五六月で、それから三ヶ月毎に季節が巡るのが日本古来の暦である。


 つまり古来より、八月である葉月はづきというのは最中さなかだった。


 あの俺を慕ってくれた幼い女の子は、その季節の最中さなかに生まれたからその名前になったのであった。


 俺は目の前にいる葉月はづきに向かって、たどたどしく口を開く。


「……お、おあきちゃん?」


 一瞬の沈黙。


 そして葉月は頬を染めつつ、恥ずかしそうにぺろっと舌を出してから、悪戯を見抜かれてしまった子供みたいに応える。

「えへへっ、とうとうバレちゃったか」


 すると、ソファーの方から紗江さえさんがからかい声を出す。


亮哉りょうやくん? その、二百歳超えたお婆ちゃんだから気をつけなさい」

「あー! ひどーい! お母さんだってわたしを産んだの、二百歳を超えてからじゃない!?」


「え? そうだったっけかなー?」

 紗江さえさんがとぼけて、葉月が返す。

「そうよ! わたしが1797年生まれでお母さんが1582年生まれじゃない!」

「こらこらむすめよ、母親の齢をばらすんじゃないわよ」


 目の前にいる葉月はづき紗江さえさん、もとい、おあきちゃんとすずさんのやりとりに俺は呆然とする。


「……もしかして二人って……母娘おやこだったんですか?」

 俺がそううと、葉月はづき紗江さえさんもきょとんとした顔を見せた。


 紗江さえさんが不思議そうな声を出す。

「あれ? 亮哉りょうやくんに言ってなかった?」


「ほらほらお母さん。文政のころはわたしたち二人とも、お父さんの娘って事になってたじゃない」

「あーっ! そうだったそうだった! 姉妹ってことになってたんだった! 懐かしいわねー!」


 その紗江さえさんの言葉に、俺はすずさんの男、そしておあきちゃんの父親が誰か理解した。

「……徳三郎さん……そうだったんですね……」


 そう、徳三郎さんはではなかった。であった訳であった。徳三郎さんとすずさんは実は夫婦で、おあきちゃんは二人の間にできた娘であったのだ。


 つまりおあきちゃんにとっては徳三郎さんは本当の父親であり、すずさんにとっては子供までできた正真正銘の旦那さんであった訳だ。


 俺がそんなことを考えていると、葉月がこんなことを言った。

「りょーくん、実はね、この姿は本当の姿じゃないの」


 俺は返す。

「その姿……ひょっとして、おあきちゃんが化けた姿なわけ?」

「うん、本当のわたしの姿はこっち。りょーくんは忘れてると思うけど、十年前にこの姿で一度会ってるの」


 葉月ことおあきちゃんはそう言い、変化の術を解いた。


 目の前の葉月は、同い年くらいの肩で黒髪を切り揃えたセミショートヘアーの少女から、二十代前半くらいのつややかな黒髪を長く伸ばしたお姉さんに、その姿を変えた。


 白いブラウスに白いスカート、長い黒髪を流している丸っこい目をした細身のお姉さんであった。その黒髪くろかみつややかさは、母親であるすずさんとそっくりであった。


 元の姿に戻った葉月が申し訳なさそうに口を開く。

「こっちが今のわたしの本当の姿……大人になったわたしの姿……いままで騙しててごめんね?」


 俺は柔和な顔になる。そして思い出す。


 そっか……おあきちゃんも、


 


 そして伝える。

「忘れてないよ……約束だったろ? 帰るの諦めないって……約束しただろ? だから俺は江戸から東京に帰れたんだよ。俺を導いてくれてありがとう」


 目の前で戻った葉月の真の姿とは、俺があの日出会った初恋のお姉さんであった。


 すると、そのお姉さんは俺に飛び掛るように抱きついてきた。


「……おかえり! りょう兄ぃ!」

「……ああ、ただいま。おあきちゃん」


 俺は初恋のお姉さんの姿をしているおあきちゃんこと葉月と、固く固く抱きしめあった。それはまるで、二百年という隔たりの中でばらばらになっていたパズルのピースが出会い、ぴったりと結びついたかのような感触であった。


 視界の端では、すずさんこと紗江さえさんが、笑顔で二本目の缶ビールを開けていた。






 その後自宅に帰り、心の中だけで家族との再会を喜んだ俺は、久しぶりに自分のベッドで熟睡した。


 そして翌日俺は紗江さえさんと葉月はづきと一緒に、墨田区にある押上駅の近くに来ていた。この近くにあるお寺に徳三郎さんのお墓があり、無事俺が未来へ戻ってきたということを徳三郎さんのお墓参りで報告するためであった。


 徳三郎さんは俺が江戸を離れてから二十年後、天保十四年(西暦1843年)の七月下旬に数え年七十八歳で亡くなったらしい。死因は老衰で、大往生だったのだという。


 徳三郎さんは俺の想い人の名前が葉月はづきだということを聞いて、すぐに葉月はづきの正体にピンときたらしい。そしてスマートフォンで名字が永谷と表示されていたのを見て、葉月が娘の化けた姿だと確信したのだという。


 また、猫又のお美代さんも相変わらず本所に住み続けており、今は小さなカラオケスナックを経営していて、よく一緒に呑んだり遊んだりする交友関係が続いていると教えられた。


 徳三郎さんのお墓参りを済ませた俺は、女子高生の私服姿の葉月はづきと私服姿の紗江さえさんと一緒に、東京スカイツリーの350メートル展望台の上に来ていた。目の前には、かつて江戸と呼ばれていた町、東京の街並みが見渡す限りに広がっている。


 展望台には江戸時代に描かれた江戸の町を描写した屏風絵が置かれており、目の前にある二十一世紀の東京の街と見比べることができるようになっている。


 俺は今、強化ガラスを通して東京の墨田区と江東区を見下ろしている。小さな四角いビルが東西南北に綺麗に並んでいて、まるで箱庭のようであった。


 俺の左隣には、肩で髪を切り揃えた同い年くらいの少女姿の葉月がいて、右隣には紗江さえさんがいる。


 展望台からビルが並んだ東京の街を見下ろしている俺が、口を開く。

「江戸の町も、随分と変わっちゃいましたね」


 すると、隣でガラスの向こうを見下ろしている紗江さえさんが口を開く。

「そーかな? あたしは全然変わったなんて思わないけどね?」


 俺が返す。

「どういうことですか?」


 すると、紗江さえさんはこんなことを言った。

「あたしは四百年前の、この地が草でぼうぼうの頃からここに住んでるけどね。町の様子は変わっても、住んでる人たちはなんにも変わんないよ。笑って、怒って、泣いて、楽しんで。恋をして、悩んで、傷ついて、苦しんで。誰かを助けて、誰かに救われて、誰かに頼られて、誰かを信じて。そして日々の暮らしの中でそれぞれの幸せを見つけて。やってること、感じてること、生きているさまはなーんにも変わってないよ」


 紗江さえさんがそう言っている途中で、巫女装束のすずさんの姿が一瞬現れて、紗江さえさんの姿に重なった気がした。


 その言葉に、俺は息を吐き出す。

「そうですね……そうですよね」


――そうだ、俺たちは何も変わらない。住んでいる時代が異なるだけで何も違わない。


 生活の細かなところは違うけど、それぞれの迷いや恐れ、喜びや幸せ、求めるものや願うもの、欲しくないものや避けたいもの、色々なものをときにはかかときには手放てばなし、時には皆で分かち合って支え合う、れっきとした人間としての人生を送っているんだ。


 先人の人生の中で編まれた想いの上に俺たちの人生が成り立ち、さらに俺たちが残し積み上げたものが次の世代の人生へと、未来への希望をもって繋がっていく。


――そうして託されたえんというものが、どこまでも連なっていくんだ。


 俺がそう思うと、左隣にいた葉月が俺の手を握った。


「ねぇねぇりょーくん、これから一緒に……いろんな所、行こう? いろんな物、食べよう? いろんな事して、いっぱい思い出……つくろ? だってわたし、二百年も待ってたんだから」

 葉月がそう言うので、俺は申し訳ない気持ちになる。

「そっか……ごめんね。二百年も待たせちゃって」


 すると、葉月は瞳を潤ませて返す。

「りょーくんの『二度と会えないかもしれない十五ヶ月』に比べたら、わたしの『必ず会えるとわかってる二百年』なんて永くないよ。わたしを想い続けてくれてありがとう」


 その気遣いに、俺の表情が緩む。

「そっか。じゃあとりあえず、合宿から帰ってきたらお祭りに一緒に行こうか? 約束通りに」


 俺がそう伝えると、葉月は満面の笑顔を見せた。


 その笑顔は、あの幼い女の子の見せた恥ずかしさの残る笑顔ではない。精神的に成熟した、人に素直な自分の気持ちを伝えることの大事さを知っている、成長した大人の笑顔であった。


 すると紗江さえさんが、俺たちに伝える。

「じゃあ、あたしは先に駐車場に下りて自動車取ってくるからさ、もうちょっと二人で景色見ときなよ」


 そう言って紗江さえさんは一人だけ先にエレベーターで降りるため、帰りの通路のほうに歩いていく。


 俺は葉月に伝える。

「えっと……気を使ってくれたってことかな?」


 すると、葉月が頬を染めつつ俺の腕に腕を絡めてきた。

「ねぇねぇりょーくん! わたし、いーっぱい、いーっぱい、おはなししたいことあるの! だからこれからも……これからも……よろしくね!」


 葉月の心底嬉しそうな笑顔に、俺は素直な笑顔を返す。


「ああ、こちらこそ。色んなおはなし、是非聞かせて欲しいな」


 俺の心の中に、様々な思いが沸き起こる。


――人と人とは、因果によって繋がっている。


――過去があるから未来があるのか、未来が過去に影響を及ぼしたのか。


――たまごさきにわとりさきか。


――そもそもからして、どこが因果いんが端緒たんしょだったのか。


――おそらくこれは、どうにも説明がつかない怪奇かいきはなしなのだろう。


――そう、これは言うなれば。


――年間に迷いこんだがゆえ掛かりの


 まったく、奇妙きみょう奇天烈きてれつ奇怪きかいはなしにもほどがある。


 しかし、誰にも変えようのない真実がある。


 それは、俺は葉月が好きで、葉月も俺を好きだという奇蹟きせきのような結果があるということだ。


 妖狐よりはるかに寿命が短い人間である俺が、どれだけの間だけ妖狐である葉月の傍にいられるかはわからない。


 しかし、俺は許される限り葉月と一緒にいて、できる限り葉月に愛情を与えよう。


 そして葉月に、俺は君のことを誰よりも何よりも大切にしているってことを、どれだけ幸せになって欲しいかということを、いっぱいいっぱい、沢山沢山伝えよう。


 今、どこからか蝉の声が聞こえてきた気がした。


 こんな展望台で聞こえるはずはない、そうわかっているのに聞こえてきた気がした。


 その、以前とはまったく色合いの異なった蝉の声に、俺は決意する。




 細やかな砂が降り積もるくらいの永い歳月を超えて真心まごころを胸の中で温め続けてくれた君に天が許す限り与えよう、清らかな泉の水のように湧き出る俺の素直すなお恋慕れんぼの気持ちを。




 心の中だけに鳴る蝉の羽音は、未来へ通じる窓を通り抜け、俺の心の内を表すかのように響いていた。



――文政あやかし怪奇譚 完――





最後まで読んでいただき、まことに有難うございました。



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