第四十三幕 真夏の花火と傷心



 六月の二十六日の、夏の晴れた日の黄昏たそがれどきのことであった。


 俺はこの日、おしのさんと一緒に両国橋の辺りまでやってきていた。デートといえなくもないが、厳密にはデートではない。今日はどうしても言わなければならないことがあったからだ。


 俺は、故郷に残してきたおもびとを諦めることなんてできない。だからおしのさんは、俺を諦めて欲しい。


 そう言うつもりであった。


 おしのさんが俺を好きなのは嬉しいけれど、俺がこのままおしのさんの気持ちを誤魔化ごまかし続けると、それはおしのさんの不幸に直結してしまう。


 断りの返事としての「沈黙」は下策中げさくちゅう下策げさくだ。


 なぜなら好意を持っている方は、無視されたからと諦めることなどできないからだ。


 だとしたら、たとえ一時的に悲しませても、きっぱりと言葉をもって振ってあげたほうが相手のためだ。恋愛経験が乏しい俺は、そんな簡単なこともわかっていなかった。


 だから、せめて最後の思い出作りとして一緒に花火を見て、そこできっぱり断ってしまうつもりであった。


 しかし、今の俺はそうも言ってられないくらいの危機的状況に陥ってしまっていた。


 ドガッ ボガッ


「ぐあっ!」


 着物が開いた腹を殴られた俺の口からは胃液が逆流して、地面に垂れ落ちる。


 墨田堤すみだつつみから外れた所にある人気ひとけのない雑木林にて俺は、月代さかやきを剃っていないごろつきの男二人に両脇を抱えられて、真正面からもう一人の男に拳で腹を殴られていた。近くではおしのさんが、俺が付けていた帯で両手首を後ろ手に縛られて地面に尻をついている。


「おやめください! どうかおやめください!」


 おしのさんは、目に涙を浮かべて懇願こんがんしている。


 俺が何故に、このごろつき三人組にこんなことをされているかというと、説明するためには一刻いっとき(二時間ほど)くらい時間をさかのぼらないといけない。



 ◇



 昼七つ(午後四時ごろ)に湯屋ゆやでの入浴を済ませた俺は、肌襦袢はだじゅばんの上に紺色の着物を着て、夕暮れの頃合に新大橋のたもとにておしのさんと待ち合わせた。


 今日は、おしのさんと二人きりで花火を見に行くという約束をしていたからであった。


 その日に会ったおしのさんは、薄化粧をしてくちびるべにを付けていた。俺と関係が深まるのを期待してのことだろうということは、簡単に予想できた。


 だが、俺はその期待に応えることはできないということを、今日は伝えるつもりであった。


 だから、俺は最初おしのさんの顔をまともに見ることができなかった。


 色々話をしながら大川沿いに北に進む中で、「今日は二人きりでございますね」と笑顔で告げられた。やはり、俺の良心はチクリと痛んだ。


 おしのさんはとても可愛い女性だけれども、俺はおしのさんの気持ちには応えることができないということ伝えなければならなかった。普段の俺なら、迷ってしまうところだったのだろうが、今日は断りの言葉を伝えるまでは家に帰らない。そういう覚悟であった。


――最後に葉月と交わした「迷わない」という約束を守ってみせる。


――葉月とした約束だから、必ず。


 夏の盛りの大川沿いには、それはもう人が多かった。どこにこれだけの人がいたんだといわんばかりに多かった。


 大川では、夏になったら花火が打ち上げられる。おそらくは、その花火を楽しむために集まってきているのだろう。


 徳三郎さんに聞いたところ、この時代では五月二十八日の川開き以降は、毎日のように花火が打ち上げられるのだという。それも、二十一世紀のような行楽を主目的としたイベントではなく、死者の霊を慰めるための慰霊いれい行事としての意味合いで行われるらしい。


 といっても、すずさん曰く、慰霊いれい行事として花火を見守る人は神官や僧侶のような宗教関係者だけであって、庶民はなんといっても体に響き渡る花火が打ち上がるのをあくまでとして楽しみにしているらしい。


 俺がおしのさんと一緒に両国橋の辺りまで来たところ、人の波という波が大通りにごったがえしていた。


 おしのさんによると、この両国橋の東のたもと近辺、回向院えこういんの門前市は『盛り場さかりば』と呼ばれる本所一番の繁華街らしい。この盛り場には見世物小屋や芝居小屋など楽しく遊べる施設や、美味しいものを食べることができるお店が沢山集まっているらしい。


 対岸の西側のたもと広小路ひろこうじと呼ばれる繁華街であり、これまた色々なお店や人たちが集まる活気のある場所なのだという。


 花火が打ち上がる頃になれば、両国橋の上には庶民が集まって、大挙して粋な花火の轟音ごうおんを楽しむのだという。


 花火のお金は誰が出すのかというと、大川沿いにある料亭りょうてい水茶屋みずちゃや船宿ふなやどといった客商売の店をあきなっているような、この辺りが人でにぎわって欲しい商人あきんどが出しているらしい。


 花火のスポンサーとなることで集客効果が期待できる、というのは二十一世紀でも通用しそうなよくできたシステムだな、と俺は思った。


 時にはお店だけではなく、お金を持っているお大尽だいじんが料理屋で酒を呑みながら余興のために打ち上げさせる花火もあるのだという。


 俺はおしのさんから、そんな話を聞きながら連れ添って歩いていた。


 ガヤガヤガヤ 


 本当に人が多かった。


 俺はおしのさんとはぐれないように手を繋ごうかと一瞬考えたが、すぐにその思いは振り払った。俺はおしのさんの恋心を振り払うために、今ここに来ているからであった。


 日が沈もうとしている盛り場さかりばをおしのさんと歩いていた俺は、言うタイミングをはかっていた。どのタイミングで言えばいいか、そのことばかりを考えていた。


 俺は、隣を歩いているおしのさんに声をかけた。

「おしのさん、今日はどうしても言わなきゃいけないことがあるんだ」


 俺の言葉に、おしのさんは微笑みつつ返した。

「どのようなことでございましょうか?」


――そう、言わなきゃいけない。

――葉月との約束を叶えるために、俺は言わなきゃいけない。


 俺が躊躇ためらって言えないでいると、おしのさんがこんな事を言った。

「ここは人が多すぎますゆえ、落ち着いて話し合えるつつみの方へおもむきましょうか?」


 その言葉に俺は了承し、大通りから北に行き、墨堤ぼくていの方に向かう。


 先ほどの繁華街ほどではないが、墨田堤すみだつつみにも花火を見ようとしている見物客は多かった。俺はその人たちが行き交うつつみをおしのさんと二人で北に歩いていた。


 そこで俺は違和感を感じ、後ろを振り向いた。その時は何も異常を発見できなかった。


 おしのさんが俺に尋ねた。

亮哉りょうやさん? どうなさいました?」


「いや……なんか、誰かにあとをつけられているような気がしたからさ」

 俺が応えると、おしのさんは当惑の表情になった。

「それは……もしかしたらわたくしのお客さまかもしれませんね。亮哉りょうやさん、もう少し人気ひとけのない所に参りませんか?」


 おしのさんがそう言うので、俺は花火の見物客で溢れかえる墨田堤すみだつつみから、人があまりいない雑木林の方へと入っていった。


 雑木林のあまり広くない道を歩いていると、人気ひとけはいよいよとぼしくなった。俺はここなら良いかと思って、隣を歩いてきたおしのさんに声を掛けた。

「おしのさん。今日伝えなければいけないこと、今から言うけど……いい?」


「……はい」

 おしのさんがそう言うので、俺はおしのさんと向き合った。


 沈黙の時が流れる。


 すると、おしのさんが俺の足元を見た。


亮哉りょうやさん、ここは少し危のうございますゆえ、場所を変えませんか?」

 その言葉に俺も下を見ると、そこには小さな危険生物の死骸が転がっていた。そして上を見上げると、確かにここは危険な場所であることがわかった。


 俺はおしのさんに伝えた。

「そうだね、少し動こうか」

 そう言って来た道を戻ろうとしたその瞬間だった。


「おうにいちゃん、また会えたな。嬉しいぜ」


 木陰から、月代さかやきを剃っていないガラの悪い男が一人出てきた。その顔には見覚えがある。以前に屋次郎さんと竹蔵さんと一緒に相撲を見に行ったときに、俺たちを殺そうとしたあの三人組の一人だった。


「おしのさん!」


 俺は咄嗟とっさに叫んでおしのさんの手を取り、反対方向に逃げようとした。


 しかし、反対側の木陰からは、三人組のうちの残り二人が出てきて逃げ道を塞いだ。


「おっと! 逃がさねぇぜ! ひっひっひ!」

「女連れかよ、いいご身分だなぁ」


 俺は、おしのさんの手を握りつつ後ずさる。


 今、最初に現れた男がおしのさんの肩をつかみ、自分の方に引き寄せた。

「きゃぁっ!」


「おしのさん! やめろ! 離せ!」

 俺が叫ぶも、残りの二人が俺の両方の腕を掴んでがっちり固める。


 そのごろつき二人の腕の力によって、俺の体は自由を奪われた。

「くそっ! 離せ!」


 俺は叫ぶも、どうしようもない。まるでプロの格闘家に腕を掴まれたように体が動かない。


 ごろつきが口々に叫ぶ。

よえぇ! こいつでけぇけどよえぇぜ!」

まことだぜ! なんだよこのほせぇ腕! 米俵すらかつげねぇんじゃねぇかぁ!?」


 ごろつき二人がそんなことを言いながら俺に息をかけた。アルコール臭がぷんぷん臭ってくる粗野な吐息であった。


 俺は、おしのさんの両肩を掴んでいる男に叫んだ。

「やめろ! おしのさんに手を出すな! 出したらただじゃおかないからな!」


 すると、その男は下卑げびた感じでニヤニヤと顔を歪めた。

「ほう? どうただじゃおかねぇんだ? 教えてもらおうじゃぁねぇか。陳平ちんぺい寛介かんすけ、そいつの帯をよこせ」


 すると、俺を掴んでいる男の一人が俺の着物をまとめている帯をほどいた。そして、おしのさんを掴んでいる男にぽいっと投げる。帯を投げた陳平ちんぺいと呼ばれた男が伝えた。

頓吉とんきちおんな真っ先にこわしちまうなよ? 後で俺たちも楽しむんだからよ」


 すると、投げられた帯を受け取った頓吉とんきちと呼ばれた男は、ゲラゲラ笑った。

「まあ、三人で楽しんだ後だな、それは」


 頓吉とんきちと呼ばれたその男は、あっという間に俺の帯でおしのさんの両手首を後ろ手に縛り、地面に倒した。


「さぁて、楽しませてもらおうじゃぁねぇか、男の前でな」


「きゃぁぁぁぁぁ! お助けください!」


 おしのさんの絶叫に、俺は激昂して叫ぶ。

「やめろ! このクズ野郎やろう!」


 その言葉に、頓吉とんきちの動きが止まる。そして、頭に血管を浮き上がらせつつこちらに振り返った。

「ああぁ!? 俺は『くそ』とか『たこ』とかは言われたことあっけどよぅ、『屑野郎くずやろう』ってのは、流石さすがに生まれて初めてかれたなぁ!?」


 そして、頓吉とんきちはそれ以上何も言わず、おしのさんから離れて俺に近づき、おもいっきり俺の腹をぶん殴った。


 ボガリ!


「がはっ!」

 俺の内臓が揺さぶられ、少量の吐瀉物としゃぶつが俺の口から出る。


 そして、頓吉とんきちがこんなことを言った。

「気が変わったぜ、女で楽しむのはこいつを痛ぶってからだ。まぁ、殺しちまうと思うけどよ? 悪く思わないでくれよ!? オラァ!!」


 ボガリ!

「ぐあぁっ!」


 そんな運びで、俺はリンチを受ける格好となってしまったのである。



 ◇



 リンチを受けている最中も、俺は朦朧もうろうとする意識でおしのさんの事を考えていた。


――おしのさん、逃げてくれ。

――俺のことはどうでもいいから、一人だけでも逃げてくれ。


 しかし、おしのさんは両手を後ろにて縛られたまま、立ち上がろうともしなかった。


――頼む、逃げてくれ。


 しかし、俺のそんな願いも空しく、おしのさんは俺の方をずっと見ていた。


 俺のはだけた着物のえりを掴んだ頓吉とんきちが、下衆ばった笑い顔を見せてこんなことを言う。

「ほれほれ、どうしたどうした? 女の前なんだろ? 喧嘩で勝ってみせろよ? 命が尽きちまうぞ?」


 すると、おしのさんが叫ぶ。

「おやめください! 私の体を好きになさってください! だから亮哉りょうやさんの命をお助けください!」


 その言葉に、俺はか細い声を出す。

「……だ、だめだ……おしのさん……そんなこと言っちゃ……」


 すると、陳平ちんぺい寛介かんすけと呼ばれた俺の両脇を抱えた男二人がこんなことを言った。

「いいじゃねぇか。俺一度、三人でむすめさん輪姦まわしてしてみたかったんだよな」

「やろうぜやろうぜ! 人気ひとけもねぇしよぉ!」


 その言葉に、頓吉とんきちがもう一度思いっきり、俺の顔をぶん殴った。


 俺はあたまを垂れ、目をつぶった。


 陳平ちんぺいが、俺のほほをぺちぺちと叩きつつ口を開く。

「うん? こいつ、気ぃ失いやがった」


 すると寛介かんすけが嬉しそうに俺の体から離れつつ嬉々として喋る。

「やろうぜやろうぜ! 早くやろうぜ!」


 そして、陳平ちんぺいも俺から離れておしのさんに近づく。俺の体は、どさりと地面に崩れ落ちた。


 三人は、これから味わう楽しみに顔を緩ませているのだろう。三人は俺が気絶したと思い込んでいるようだったが、それは俺の演技であった。


 俺は、地面に崩れ落ちると同時に、土の上にあった適当な大きさの石を手に取った。そして、それを音を立てないように近くにあったもうひとつの石とすり合わせる。


 ゴリゴリゴリ


 慎重に、慎重に、気付かれないように手元を動かす。


 そして、三人組が仰向けに寝転んだおしのさんに近づき、今まさに覆いかぶさろうとしたその時であった。


 シュタッ


 俺は両手に石を持ったまま、立ち上がって三人の後姿に突撃した。


 そして、両手に持つ石を三人のうちの二人、陳平ちんぺい寛介かんすけの着物の背中に当ててやった。しかし、先ほどからリンチを受けていたのでその勢いは弱々しく、ダメージを与えたとはいえないものであった。


「てめぇ!」

 ボガッ!


 もう一度拳をくらい、俺の体は後ろに吹っ飛ぶ。


 陳平ちんぺい寛介かんすけは拳を鳴らしながら、尻をついて倒れた俺に近寄ってくる。


「てめぇ、しぶてぇな。やっぱり、とことんまでぶん殴った方がいいみてぇだな」

「殺しちまおうぜ!? な、な? 殺しちまおうぜ!?」


 二人がそんなことを言いながら、俺に近寄ってくる。二人がある地点まで到達したところで、俺は手元にあった別の石を掴んで頭上にぶん投げた。


 バキリ


 二人の頭上にて、投げた石がその目標物に当たった音が響く。


 陳平ちんぺい寛介かんすけは、そんなこと気にもせずに俺ににじり寄る。


 ブーン ブブブブブブ


 今、虫の羽音が雑木林に響いた。

「うっせーなぁ! 何の音だ!?」


 陳平ちんぺいが後ろを振り返ると、そこにはスズメバチの大群が飛び回っていた。


「ぎゃぁぁぁ! 大蜂おおばちだ! 寛介かんすけ! 背中にまってるぞ! 取れ! 取れ!」


 陳平ちんぺい寛介かんすけの背中を払う動作をすると、寛介かんすけも大声を上げる。


「取ってくれ! 取ってくれ! ぎゃぁぁ! 痛ぇ! 刺された!」


 すると、スズメバチは陳平ちんぺいの背中にもまり始めた。おしのさんの上にまたがっていた頓吉とんきちが急いで駆け寄って背中を払う。


 三人は懸命にスズメバチの大群を振り払おうとしているが、攻撃態勢に入ったスズメバチにそれは逆効果だ。ついにスズメバチは、攻撃ホルモンの付着していない頓吉とんきちまで攻撃し始めた。


 俺たちがこの場所に来たときに、地面にはスズメバチの真新しい死骸が転がっていた。そして上を見上げると、木の枝には立派なスズメバチの巣がぶら下がっていたのである。危険だから離れようとしたのは、そういう理由であった。


 だから気絶したふりをして地面に倒れこんだ俺は、スズメバチの死骸を石ですり潰して、その体液を男たちの着物になすりつけてやったのだった。


 スズメバチの体液には仲間のスズメバチを攻撃態勢に入らせるホルモン物質が含まれている。それは俺が親友のたかしから教えてもらった、二十一世紀の知識であった。


 俺が石を投げて巣を揺らしてやったところ、スズメバチの群れはごろつきの男たちを仲間を殺した敵だと認識し、襲いかかっている、というわけである。


 俺は帯がなくなって前が開いていた着物を完全に脱ぎ、白い布で織られた肌襦袢の格好になる。そして、スズメバチを刺激しないように注意して急いでおしのさんに駆け寄り、紺色の着物を裏返した白い部分が表にくるようにおしのさんにかぶせる。


 スズメバチは、黒っぽいものを敵だと認識し、白いものにはあまり攻撃してこないという習性があるからだ。


 ごろつきの男たちは、スズメバチの大群に襲われてどこかに逃げていってしまった。


 白い肌襦袢はだじゅばん姿になった俺はおしのさんを縛っている帯を外す。裏返された白い裏地の着物を被ったおしのさんは俺と一緒に、男たちとは反対の方向に静かに逃げる。


 どうやら、スズメバチはみんな向こうにいってしまい、俺たちの方へはやってこないようであった。




 俺とおしのさんは、方々ほうぼうていで雑木林から人が行き交う大通りが見える脇道までたどり着いたところで一息つく。


 俺は肌襦袢はだじゅばん姿のまま、着物を裏返してかぶったおしのさんと一緒に赤土の上にて息を吐く。おしのさんが俺の紺色の着物と帯を返してくれたので、まとってから帯を結ぶ。


「ふぅ、もうここまで来れば平気か……いたた」

 体中を痛めた俺がそう言って帯を締めたところ、おしのさんがいきなり俺に抱きついてきた。


 俺は顔を赤らめながら口を開く。

「お、おしのさん? どうしたの?」


 すると、おしのさんは俺の胸元で顔を上げて俺の目を見つめる。そして、瞳を潤ませながらこう言う。


亮哉りょうやさん。わたくしを身をていして守ろうとした亮哉りょうやさんは、たいそういなせな男前おとこまえぶりでございました。どうか、どうかわたくし夫婦めおとになる事を見越してお付き合いいただけませんでしょうか? 今生こんじょうのお願いにございます」


 その言葉に、俺の心臓が高鳴った。おしのさんは、目を閉じた。


 おそらくは、キスをねだっているのだろう。しかし俺はその気持ちには応えずに、おしのさんの両肩を掴んで俺の体から引き離した。


 俺から離されたおしのさんが、か細い声でつぶやく。

「……亮哉りょうやさん……?」


 その言葉に、俺は胸の奥から声を搾り出す。

「……ごめん、とりあえず稲荷社いなりやしろに帰ろうか?」


 俺は、その時はぼろぼろの体でそう伝えることしかできなかった。





 かなり腹を殴られたので足元が覚束おぼつかなかったものの、足を引きずりつつ、なんとか稲荷社いなりやしろまでおしのさんと二人で戻ってくることができた。


 そして俺は今、講堂の土間段に座っている。すぐ近くにいるすずさんが、心配そうな声を上げる。

「りょうぞう、こんなに怪我けがしちまって! すぐおあきが来てくれるからさ、辛抱しんぼうしなよ!」


 稲荷社いなりやしろの土間段から少し離れた場所では、おしのさんが涙目で俺を見ている。


 おあきちゃんが来てくれたら、おあきちゃんが治癒の妖術で俺の怪我けがを治してくれるのだろうが、おしのさんの前で治してもらう訳にはいかない。


 すずさんは、おしのさんに声を掛けて人払ひとばらいをしようとしている。しかし、おしのさんは頑なに稲荷社いなりやしろの前から去ろうとしない。


 そうこうしているうちに、おあきちゃんが講堂の奥の戸から飛び出してきた。そして、おしのさんがいるにもかかわらず俺の怪我けがを治そうと手をかざした。


 俺はそんなおあきちゃんのかざした両手を優しく取り、「必要ないよ」という気持ちをもって下に降ろした。


 痛みが走る体を起こして立ち上がり、おしのさんに近づく。


 おしのさんは、先ほどからずっと潤んだ瞳で俺を見ている。隣にはすずさんがいて、俺たち二人をじっと見ている。


 俺は意を決して、おしのさんをできるだけ傷つけないよう柔和に言葉をかける。

「おしのさん、君が俺の事を想ってくれているのはとても嬉しいよ、本当に嬉しい。でも、俺には故郷に惚れているひとがいて、そのひとのことを裏切れないんだ。……だから、俺のことは諦めてください」


 そう言って、俺は頭を下げた。


 俺は、おしのさんの気持ちが有難かった。しかし、有難かったからこそ、おしのさんの気持ちをみにじる訳にはいかなかったのだ。


 だから、こうやってきっちり言葉をもって振ることは、俺なりのけじめなのである。


 俺がそんなことを思って頭を下げ続けているが、おしのさんからは返事が返ってこない。


 頭を上げると、おしのさんは両目から涙をぼろぼろとこぼしていた。そして、か細い声で俺に伝える。

「……どうしても……なのでございますか……?」


 その言葉に、俺はうなずくく。

「……どうしても……です。ごめんなさい」


 ドーン!


 今、大川の方角からか花火の炸裂音が聞こえた。おしのさんは、その轟音ごうおんせきを切る合図だったかのように、口に手を当てて肩を上下させる。そして、深い悲しみに突き刺されたような声で、しとやかになげく。


「……ひっぐ、わかりました……ひっぐ、亮哉りょうやさん。今日は有難うございました……ひっぐ」


 おしのさんはそこまで言うと、きびすを返して稲荷社いなりやしろから去っていく。


 小走りで立ち去るおしのさんを、すずさんが「ちょっとちょっと! あたいが送ってってやるよ!」と大急ぎで追いかける。


 ドーン!


 また、花火の轟音が夏の夜空に鳴り響いた。


 そちらの方角には、だいだいいろだけでできた花火の星が夜の闇空に広がっていた。


 俺の胸の中に、思いが沸き起こる。


――葉月、これでよかったんだよな。


 すずさんがおしのさんを追いかけていったので、この場には俺とおあきちゃんだけが残されてしまった。


 ふと、体全身にぽわっとした暖かい感触が巡る。


 隣を見ると、おあきちゃんが俺の体に手をかざして治癒の妖術をかけてくれていた。


 俺は何も言わず、おあきちゃんの頭をぽんぽんと叩く。


 そして、おあきちゃんがつぶらなひとみうるませながら俺を見上げて口を開く。

「ねぇりょう兄ぃ。もしも葉月さんがここにいたら、きっとりょう兄ぃのことを、もっともぉっと好きになってたと思うよ」


 その言葉に、俺は微笑む。

「ああ、そうだったら良かったんだけどね」


 そして、おあきちゃんと一緒に俺は、北西の方角に打ち上がる花火を見ていた。


 平成の世にあった色鮮やかな花火とは程遠い、黒色火薬のみでできただいだいいろの単純な花火。


 けれどもそのシンプルな轟音ごうおん色使いろづかいは、江戸の人たちがそうであるように、力強くたくましい輝きを放っていた。


 おしのさんの胸の中にもあるであろう傷心きずごころの痛みが消えることを祈りつつ、真夏まなつゆうべにみだれてはきらめきを、いつまでも、いつまでも眺めていた。



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