第二十八幕 武士幽霊との戦い



 一月も終わりに差し掛かっていた、二十五日の朝のことであった。


 俺はいつもの神職の白衣袴姿ではなく、剣士が試合にて着るような白い剣道衣と黒い袴を身に付けて、すずさんと一緒に本所の町を北に歩いていた。


 この着物はすずさんが昨日、損料屋そんりょうや(レンタルショップ)で借りてきたものであるらしい。


 すずさんは「亀沢町にある剣術道場に行くよ」とだけ言って俺をここまで連れてきたが、まさか道場破りでもするつもりなのだろうか。


 目的の北本所亀沢町に至り、すずさんは大きな門構えが立派な剣術道場の前にたたずんだ。


 そして、愉快そうに大声を張り上げる。

「お師匠―! いるかいー! 道場破りに来てやったよー!」


 その言葉に、俺は慌てる。

「ちょっとすずさん! 本当に道場破りだったんですか!?」


 俺が冷や汗をかきつつすずさんに問いかけると、道場の中から白髪の老いた男性が出てきた。年齢は六十代の初めくらいだろうか、鼻は鷲のように高く、鋭い目をしている月代を剃っていない総髪の男であった。仙人のようでもあり、全身から溢れ出るオーラは隙を見せないくらいに体を包んでいる。


 老人は穏やかな声で、すずさんに語りかける。

「これはこれは、おすずさんではございませんか。とうとうここの看板を狙いにやってこられましたか。これは結構結構」


「ははは、まぁそれは冗談だけどね。今日はそこにいる若いのをちょっときたえて欲しくてやってきたのさ」

 すずさんが、そんなことを言いながら親指で俺を指す。


「って、やっぱり俺が戦うんですか!?」

 俺が汗をかきつつ応える。


 男性がすずさんを手招きし、すずさんは門をくぐって道場に入る。俺もしぶしぶそれについていく。


 その折、老人がすずさんに問いかける。

「徳三郎どのは、相変わらずお元気で?」

「ああ、父さまはいつも通りさ。まだまだ矍鑠かくしゃくとしているよ」


 俺はすずさんに尋ねる。

「すずさん、このお方は徳三郎さんのお知り合いなんですか?」


 その問いにすずさんが返す。

「ああ、この御老公ごろうこう団野だんの源之進げんのしんさんって言ってね、父さまの古くからの友人だよ。今はこの剣術道場の師範をしているけどね」


 そんなことを話しつつ、居合いの声や気合の入った声に充ちている道場に入る。


「やぁぁぁっ!!」

「せぇぇぇっ!!」


 パシーン! バシーン!


 大勢の道場生が、剣道の装備を身につけて竹刀を構え、戦っていた。道場の上座には右から左に横書きで『直心影流』と書かれた板が掲げられている。その下には神様の名前の書かれた掛け軸が架かっており、酒などの神饌しんせんが供えられている神棚がある。


 剣道で身に付けるような面や小手のような防具は、平成で俺が見たことのあるものとそんなに変わらない。


 俺は口を開く。

「へぇ、この頃にはもう防具ぼうぐってあったんですね」


 すると、すずさんは返す。

「『防具ぼうぐ』? ああ、剣道具けんどうぐのことかい? そうだよ、死ぬ心配はあまりないからさ、りょうぞうにはこの中で一番強い男と戦ってもらうよ」


 すずさんの軽い口ぶりに、俺は思わず叫ぶ。

「ちょっとすずさん! いきなり連れてこられて訳わかりませんって!」


 すずさんはお構いなさそうに、先ほどの老人に尋ねかける。

「で、源之進げんのしんさん? この道場で一番強いのは誰なんだい?」


 すると、師範の老人は応える。

「それはもちろん、男谷おだにくんだな」


――え? 男谷おだに


 その聞いたことのある名前に、俺は目を見開く。


 すずさんの方を向いていた俺が、気配を感じたので道場の方を向くと、剣道の防具を身に付けた男が立っていた。竹製たけせい横金よこがねが張られた間の物見ものみの隙間から見える、めんの向こうの精悍な顔つきは見覚えがある。


 その男は、頭に被っていた面を取り外す。

亮哉りょうやくんではないか。そなたとはよっぽど縁があるようだな」


 その男は大川端で溺れた亀吉くんを助け、堅川沿いで冤罪をかけられそうになった俺を助けてくれた、男谷おだに精一郎せいいちろうというお侍さまであった。


「あ、どうも。お久しぶりです男谷おだに……さん」

 俺が軽く挨拶をすると、男谷さんは笑う。

「で、今日は何故道場に来たのかね? 道場破りに来たなどと言わないでくれ給えよ」


 すると、すずさんが嬉々として男谷おだにさんに伝える。

「今日はさ、りょうぞうに稽古をつけてやって欲しいんだよ。とびきり厳しくお願いするよ。竹刀じゃどれだけ打っても死なないからさ、多分ね」


――多分、ってのはやめて下さい。


 俺はすずさんにあらがうこともできず、結局午前中ずっと男谷おだにさんに稽古けいこをつけてもらった。


 男谷おだにさんは終始穏やかな語調だったが、稽古けいこにかける気迫には半端ではないものを感じた。


 


 

 昼九つ(正午)の時の鐘が鳴って、俺はようやく剣道の稽古事から解放された。


 すずさんと一緒に、源之進げんのしんさんの住む住処に上がり、座敷にてお茶をご馳走になっていた。


 すずさんが、口を開く。

「いやぁ、源之進げんのしんさん。いきなりの申し出ありがとね」


 すると、御老人が応える。

「いやいや、これくらいならお安い御用で。また、稽古をつけて貰いたくなればいつでも来てくだされ」


 そして、俺は尋ねる。

「今日、俺が稽古をしたのは何のためだったんですか?」


 すると、すずさんが俺の問いに応える。

「いやね、北本所の竹林たけばやしでおさむらいの霊が成仏できずに迷っているようでねぇ。色んなのに試合を挑んでるのさ。で、どうやら誰かが勝負で勝たないと成仏できないらしいんだよ。だから、いっぱしの剣士をりょうぞうに覚えさせて、おあきに化けさせようとしたって寸法さ」


 その言葉に、俺は返す。

「え? 武士の幽霊が今度の相手ですか? じゃぁ、おあきちゃんを男谷おたにさんに化けさせて……」


 そこまで言った所で、隣で源之進さんが茶をすすりつつ聞いている事に気付く。


――しまった、おあきちゃんが化けるとか言ってしまった。


「あっ! えっと! 違うんです! これはお芝居の話で……」

 俺が慌てふためきながら弁明すると、源之進さんは笑顔で俺に告げる。

「よいよい。身共みどもはおすずさんが妖狐であることも、奇妙な妖術を使うことも、本所のあやかしを隠れて退治しておる事も知っておるのだ」


 その言葉に俺は安堵し、大きく息を吐き出す。


「なんだ、そうだったんですか。失言したかと焦ってしまいました」

 俺の言葉に、老人は返す。

「昔はなぁ、身共みどもと徳三郎どのともう幾人いくにんかの者どもで東奔西走とうほんせいそうして、様々な謎を解き明かしていたのじゃよ。徳三郎どのの頭の冴え具合は、まさに天晴あっぱれというべきものじゃった。あれはそう、始めたのは天明てんめいの頃じゃったな」


 老人が懐かしそうに昔話を始めると、すずさんが大きく咳払いをした。

「えっへん! 源之進げんのしんさん? 老人の昔話は長くなるからこのへんで帰るよ。昼飯を食わなきゃなんないしさ。りょうぞうもそう思うだろう?」


 その言葉に、俺は考える。確かに朝からぶっ通しで稽古をつけてもらっていたので腹は空いていたが、昔話にも大いに興味がある。


 俺が「いえ、俺は別にかまいませんけど」と言う寸前に、すずさんは座った体を伸ばして俺に顔を近づけて凄む。


「か、え、る、よ?」

「……あ、はい」


 すずさんの、男谷おだにさんとは別次元の気迫に、俺は頷くしかなかった。






 その日の深夜、子の正刻(深夜零時)を過ぎてからの時間帯の事であった。いつもの白衣袴姿の俺はすずさんとおあきちゃんと共に武士の幽霊が出るという竹林に赴いていた。


 俺の右には灯りの点った提灯棒を持った巫女装束のすずさんが並んで歩いていて、すずさんを挟んで向こう側には剣道着姿の男谷おだにさんが歩いている。


 言うまでもなく、この男谷おだにさんは本物ではなく、俺のイメージを元におあきちゃんが化けたものである。


 竹林に着いたすずさんは、深夜の風が竹の笹の葉をこする音に紛れて、威風堂々と虚空の闇に向かって喋りかける。


「この竹林におわします、名のある武士のさ迷える霊よ、どうかわれとお手合わせ願いたい。どうか、どうか」


 すると、ざわ、ざわ、という笹の葉が新春の夜風に晒される音が一瞬だけ止み、闇の中から蛍の灯りのような青白い人型の姿が浮かび上がってきた。


 その男は、月代を剃っていて、武士のようなまげをしている。そして着ているのは剣道着と呼べるような白衣と袴であった。幽霊になっても直、その格式にのっとった姿は武士に相応しい雰囲気を醸し出していた。


 すずさんが、その幽霊に話しかける。

「そなたが、強き者との戦いを望む、武士もののふの霊なるか?」


 すると、その武士幽霊が俺たちに話しかける。

「いかにも。それがし牧野まきの備前守びぜんのかみが家臣、佐原さはら麟一郎りんいちろうと申し致す」


 すると、すずさんが語調を崩して語りかける。

「まぁ、あたいは堅苦しいのは苦手だからさ。おまいさん、強い奴と手合わせしたくて成仏できなくなってんだろ? だから今日は強い奴を連れてきたからさ、存分に戦っておくれよ」


 すずさんはそう言うと、おあきちゃんが化けた男谷おだにさんの背中を押して前に出す。


 すると、武士の幽霊は興味がないといった風に真剣な表情で応える。

「確かに、強い者と戦うのがそれがしの本懐だ。しかし、女子供と戦うつもりはござらん」


 武士幽霊のその言葉に、すずさんは苦笑いをする。

「ありゃー、やっぱわかっちゃったかい。こりゃ手ごわいねぇ。おあき、戻りな」


 すずさんがそう言うと、男谷おだにさんの姿がしゅるりとおあきちゃんの姿に戻る。


 おあきちゃんは少し困った顔をして、武士の幽霊に向かって話しかける。

「でもお侍さま? このままじゃいつまで経っても成仏できないよ?」

 

 すると、侍の幽霊はその顔を引き締めながら応える。

「女子供を打ち据えて、それがしの気が晴れるとでも思うのか」


 侍の、高潔な覚悟が俺にも伝わってくる。


 そこで、俺はすずさんに自分の気持ちを伝えた。

「すずさん、俺に木刀を貸してください。俺が戦います」


 その言葉に、おあきちゃんは一瞬びっくりした顔を見せたが、すずさんは「そういうと思ったよ」とでも言いたげな不敵な笑みを浮かべて、たもとの影から出した木刀を俺に渡した。


 佐原さはら麟一郎りんいちろうと名乗ったお侍の幽霊は口を開く。


「ふむ、中々良い覚悟をしておるな。よかろう、お相手頼み申す」


 俺は木刀を持ち、竹林の中の開いているスペースに移動する。侍の幽霊が宙に手をかざすと、虚空から木刀の形をした霊体が現れ、侍の幽霊の右手にしっかりと握られる。


――できる限りの事はやる。


 俺はそう思い、剣道道場で行った稽古試合を心に浮かべて侍の幽霊と向き合った。





 三本勝負で、先に二本先取したほうの勝ちという取り決めであったが、正直言って手も足もでなかった。


 俺は胴や腕に侍の剣撃けんげきで傷を負ってしまった。おあきちゃんが手を俺の傷にかざし、治療の妖術を用いながら語りかける。

「もう、りょう兄ぃは無茶な事をするんだから」


「いてて……駄目だったか。全然敵わないや」


 すずさんが、超然とした態度で俺に言う。

「昨日今日、剣の稽古をしたばかりの小僧が本職のさむらいに敵うもんかい」


 俺は武士の幽霊の方を向き、口を開く。

「お侍さまは、自分を倒す男が現れるまで成仏はしないつもりなんですか?」


 すると、侍の幽霊が声を響かせる。

「そうだな。それがしが生きている時、世話をしていた浪人がいたのだがな……その男は町の者を守るため人をあやめてしょされてしまい、その浪人をかくまっていたそれがしも切腹を申し付けられてしまったのだ。人を守るために剣を振るったその男を守れなかった事が無念でな。江戸の民を守れるような強い男が再び江戸に現れるまでは無念は晴れぬだろうな」


 すると、すずさんが侍の霊に返す。

「だったら、なおさら成仏して生まれ変わった方がいいんじゃないかい? その男はきっとどこかで輪廻の輪に入ってるよ。人をあやめたのなら、生まれ変わるのは少し遅くなるかもしれないけどさ。おまいさんもこんな所で縛られた霊にならずにさぁ、町の衆を守るためにさっさと生まれ変わった方がいいんじゃないかい?」


 すると、侍が応える。

「そうしたいのはやまやまなのだがな……霊というあやかしになってわかった。人は無念を飲んでしまったら、少しの事では吐き出すことなぞできんのだ」


 その言葉に、俺は言葉を搾り出す。

「あの、お願いがあるんです。俺ともう一度戦ってもらえないでしょうか?」


 すると、侍の幽霊が返す。

「おぬしではそれがしには勝てぬ。今の力ではな」


「違います。えっと……少しだけ待ってください。その間に稽古を受けて、できるだけ強くなってみせますから。お侍さまは確かに強いですけど、これから強くなる意思がある人が、この江戸には大勢いるって事を知ってもらいたいんです!」


 その言葉に、侍の霊は目を細める。

「本気かね?」

「本気です」


 俺の言葉に、侍は若干笑みを浮かべた面持ちになる。


「……わかった、良かろう。だがこの月の終わりの日までだ。今月の晦日みそかにもう一度ひとたびの手合わせをすることにしよう。もしその時までに、そなたが見違えるほどに強くなっていたら、それがしも大人しく成仏いたそう」


 その内容に、俺は満足する。


「わかりました。では、あと四日ですね。一月三十日の未明にまたここで試合、お願いします」

 俺はそう宣言する。


 俺はもう、一人で泣いているだけの存在じゃない。俺にも守りたい人がいる。この江戸に来てから知り合った大切な仲間、すずさんとおあきちゃんが守ろうとしている江戸の人たちを守りたい。その意気込みは、半年前には考えることもできなかった俺の魂の中にある明滅だった。




 その日から四日間、神社での手伝いをしばらく返上して、俺は源之進さんが師範を務める亀沢町の道場にて剣術の稽古を受けることになった。


 男谷おだにさんは実に真剣に、初心者たる俺を指南してくれた。


 最終日の一月二十九日の夕方、道場近くの井戸の傍にて上半身裸になって布で体を拭いている俺に、男谷おたにさんが話しかけてきた。

亮哉りょうやくん? 少しいいかね?」


「ああ、はい。なんですか?」

 俺が返すと、男谷おだにさんは尋ねる。

「君はこの四日間、実によく頑張った。目に光が宿ったというか、大川端で初めて会ったときとは別人のようになっている。良ければ後学のために、何があったのか教えて貰いたいのだが構わぬかね?」


 その言葉に、俺は応える。

「大したことじゃないですよ……少し、この江戸の町に対して考え方が変わっただけなんです」

「ほう? それはどういうことかね?」


「俺、本当は江戸に来たのは無理やりだったんです。来たくて来たわけじゃなかったんです。故郷には、大切な人が大勢いて……本当は、すぐにでも帰りたかったんです」


 男谷おだにさんは俺の話を聞いている。俺は言葉を続ける。

「でも、俺はわかったんですよ。この江戸にも、俺の事を思ってくれる人は大勢いて……俺も、その人たちの助けになりたいって思えるようになったんです。だから、江戸の人たちを守る手助けがしたいって思ったんです」


 俺はあの日、東京から江戸への異世界転移とでもいうべき出来事に出会った。でも俺は、人を従わせる事ができるチートのような力なんか持ってなかった。


 だが、それで良かった。俺のような未熟な子供なんかが持ってはいけなかったのだ。そんな力を持っていたら、俺の精神は慢心と傲慢ですぐさまズタズタに壊れてしまっていただろう。


 そして、力を持ってないからこそ、大勢の人の助けがあったからこそ、俺は感謝の気持ちをってこの江戸で生きていける。それは紛れもない真実であった。


 ふと、このあいだおあきちゃんが化けてくれた葉月の笑顔が脳裏に浮かんだ。


 そう、みんなが保ち、守り、形作っているこの江戸は既に俺の生きる場所となっている。そして、俺はそんな江戸の町に生かされている。


 俺が江戸に巣食うあやかしを調伏する手伝いは、あのような助けを与えてくれる笑顔を守るためだと言っても過言ではない。


 男谷おだにさんが、微笑んで俺に話しかける。

亮哉りょうやくんは、守るべきものができたのだな」


 その言葉に、俺は顔を引き締めて返す。

「はい、守りたいです。何があっても」


 夕日は沈み始め、本所の町を赤く照らしていた。




 


 日が暮れて、深夜になって日付が変わった。


 一月三十日の未明たる、月明りない闇が広がる夜更けに、俺たち三人は例の竹林にいてお侍の霊と対峙していた。


 立会人役たるすずさんが、口を開く。

「では、一本勝負でいいかい? りょうぞうが、見違えるほど強くなっていたら文句なく成仏するでよろしいね?」


 すずさんの確認に、俺も侍の霊も頷く。


 白衣袴姿の俺が木刀をかざすと、侍の霊も手をかざし、宙から霊体の木刀を現し右手に握る。俺と侍の霊は、向かい合って互いに一礼する。そして刀を構える。


 すずさんが、木刀を構えるポーズを互いに取っている俺たち二人の間に立って、審判としての役目を果たそうとしている。

「それでは始めるよ……いざ勝負!」


 すずさんの掛け声と共に、俺は正面を見据えて間合いを測る。


 間合いをとりつつ、隙を見せぬようにじり寄りつつ近づくよう、足を運ぶ。


 ゆらりゆらりと、互いに距離を測りながら肩を揺らす。


 一瞬だけ、侍の幽霊が隙を見せたような気がした。


 俺は、好機を逃さず突っ込む。


 ガシッ!


 俺が振りかぶった剣撃が、侍の木刀で受け止められる。侍は流れるような仕草で木刀を横に流し、俺の小手を狙う。


 俺は腕を引っ込めつつ、木刀でガードしながら足をさばいて後ろに下がり、剣撃をかわす。


――確かに、この侍は強い。


 俺はそう思い、右から胴を撃とうとする。侍は木刀の霊体で俺の剣撃を防ぎ、力を込める。


――でも、男谷おだにさんほどじゃない。


 木刀を触れ合ったままお互いに力を込める。俺は体のばねを利用して噛み合った木刀を引き、反対側の肩を狙い振りかざす。


 しかし、侍の霊は足を移し、俺が振り抜く木刀の間合いのわずか外に移動する。


 そこで、侍の霊が言葉を響かせる。

「ふむ、確かに四日前とは違うようだな。いろがまるで異なる」

 その満足げな口ぶりに、俺は笑みを浮かべる。


「一応、俺も頑張ったんですよ」

 俺がそう言うと、侍の霊が応える。

「だが、まだまだ甘いな」


 その言葉を聞いた一秒後には、侍の霊がこちらから見て右へと足を移そうとしているように思えた。俺は右に木刀を構え防ごうとしたが、その瞬間には侍は向かって左側に抜けて、俺の頭頂部を鋭く打ち据えていた。


 パッシーン!


 そんなには痛くなかったが、それに反比例するかのような小気味のいい打撃音が、闇に広がる深夜の竹林を抜ける風音に紛れて響いた。


 すずさんが、審判の声を出す。

「一本! それまで!」


 俺の額に、何かぬるりとした液体が流れてきた。触ると、どうやら血のようであった。

 おあきちゃんが、俺に駆け寄り声を発する。

「りょう兄ぃ! 頭から血が出てるよ! 治してあげる!」


 その言葉に、俺はしゃがむ。そして、おあきちゃんがそこに手をかざす。余りにも綺麗な一本だったので、痛みすらも感じる暇がなかった。


 おあきちゃんに頭の傷を治してもらった俺は立ち上がり、侍の霊に一礼する。侍の霊も俺に向かって一礼する。


 侍の霊は、俺に伝える。

「いや、結構なものであった。たかだか四日の間に強くなり申したな」


「俺も必死でしたから。それなら、成仏していただけますね?」

 俺が返すと、侍も応える。

「いかにも。いかにあやかしとなれど、武士に二言はござらん。それがしを打ち倒す者が現れなかったのはいささか心残りであるが、無理にでも成仏をこころみてみよう」


 武士の幽霊は、そこまで言うと宙を仰いだ。


 しかし、次の瞬間には、この場にいなかった者の声が響いた。


「しばし、待たれい!」


 俺たちはその方向を見る。するとそこには、提灯のぶら下がった棒を持った源之進げんのしんさんと、剣道着を着た男谷おだにさんが立っていた。


 源之進げんのしんさんは、俺たちと侍の幽霊に近づき、声をかける。

身共みども団野だんの源之進げんのしんと申す。さぞかし高潔な、名のある武士もののふの霊とお見受けいたす。こちらにある、我が愛弟子まなでしとお手合わせ願えませぬか?」


 すると、後ろに控えていた男谷おだにさんも声を張り上げる。

「拙者、本所亀沢町に住む、男谷おだに精一郎せいいちろうにございます。いざ、我と御試合給わる事願いたく存じ上げます」


 すると、武士の幽霊は男谷おたにさんに向き合う。

それがしの名は佐原さはら麟一郎りんいちろうにござる。是非、お手合わせ願い申し致す」


 どうやら、武士の幽霊と男谷おだにさんが戦うことになったようだ。


 すずさんが、源之進げんのしんさんに近づき告げる。

「お師匠? おまいさんも相変わらずだねぇ、その首を突っ込みたくなる性分さぁ」


 すると、源之進げんのしんさんはにこやかに応える。

「いやなに、弟子の免許皆伝の良い試しだと思ってな。もう三十年早ければ、身共みどもが戦ったのじゃがな」


 俺の目の前では、侍の幽霊と男谷おだにさんが、立ったままではなくて向かい合って土の上に腰を落として一礼している。


 そして立ち上がって互いに対峙し木刀を構える。


 その、竹林に木霊こだまする武士もののふにしか出せないような闘気の衝突する音は、まさに虎と龍がにらみ合っているかのごとしであった。





 あれから六日が経ち、二月の五日の昼過ぎのこと、俺は稲荷社いなりやしろの前にて掃除をしていた。


 男谷おたにさんと、武士の幽霊の戦いは、まさに激戦というべきものであった。三本試合に臨んだ男谷おだにさんは最初に一試合を取られたものの、結局二勝を果たし、見事に試合に勝利した。


 お侍の幽霊は男谷おだにさんに負けると、満足そうな顔をして虚空に掻き消えてしまった。おそらくは成仏して、輪廻の輪の中に入っていったのだろう。


 俺がそんな事を考えて稲荷社いなりやしろの前を掃除していると、その人が現れた。


 こちらに向かって歩いている男谷おだにさんは俺に向かって声をかける。

「やあ、亮哉りょうやくん。精が出るな」


 俺が挨拶を返そうとすると、男谷おだにさんの後ろに、赤ん坊を抱いた若い女の人が歩いているのが目に入った。男谷おだにさんが立ち止まると、その女の人も立ち止まった。


「ああ、こんにちは男谷おだにさん。その方はひょっとして、男谷おだにさんの奥方さまですか?」

 俺がそう言うと、男谷おだにさんは笑いつつ、広げた手を横に振る。


「違う違う、この方はおのぶさんと申してな、拙者の叔母上おばうえさまだ。抱いているのは先月末に生まれたばかりの叔母上おばうえさまの息子だ」


 男谷おだにさんの叔母おばと呼ばれた女性だが年齢は二十歳くらいで、二十代半ばくらいの男谷おだにさんより明らかに若い。


「へぇ、そうなんですか。じゃあ、その赤ん坊は男谷おだにさんの従兄弟いとこさんなんですね?」

 俺が返すと、男谷おだにさんは頷く。

「そうだ。一月の三十日、あの竹林での試合の後に男谷おだに家で生まれた元気な男の子だ。今日は、神主さまに御祓おはらいをしてもらいたくうかがったのだ」


 俺は、その赤ん坊の顔を覗き込む。赤ん坊なのに、顔がきりりとしている気がした。


 俺は尋ねる。

「なんて名前なんですか?」


 すると、男谷おだにさんが答える。

「この子が生まれて叔父上おじうえから幼名ようみょうの名付け親になって欲しいと頼まれてな。あの高潔こうけつ武士もののふのようになって欲しいという願いを込めて、麟一郎りんいちろうどのから文字を頂き、麟太郎りんたろうという名前にした」


――麟太郎りんたろうくんか。


 聖なる獣である麒麟きりんのような子になって欲しいという願いも込められていて、良い名前だと俺は思った。


 俺は、麟太郎りんたろうくんの顔を覗き込みながら尋ねる。

「でも、何で父親である叔父おじさんが来なかったんですか?」


 すると、男谷おだにさんは俺を連れて少し離れたところに移動し、小声で伝える。

「実はな、家の恥だから広めないでくれ給えよ。叔父上おじうえ小吉こきちどのは、座敷牢ざしきろうに入っておるのだ」


「えっ!? 座敷ざしき……ろう!?」

 男谷おだにさんの言葉に、俺は絶句する。


 男谷おたにさんは構わずに言葉を続ける。

小吉こきちどのは、拙者より年下なのだが拙者よりよっぽど腕っぷしが強くてな。放っておいたら何をするかわからん。だから、跡継ぎが生まれて一番安心しているのは小吉こきちどのだろう。せきにな御家おいえの当主にならなくて済むのだからな」


「その小吉こきちさんって……あんなに強い男谷おだにさんより腕っぷしが強いんですか……世の中って広いんですね……」


 すると、男谷おだにさんが朗らかに笑う。

「まぁ、跡継ぎが生まれたことで叔父上も大人しくなってくれるといいのだがな。麟太郎りんたろうも、立派な跡継ぎになって欲しいものだよ」


 その言葉に、俺は返す。

「まぁ、大丈夫だと思いますよ? 男谷おだに家の跡継ぎとして期待ですね」


 すると、男谷おだにさんが手を横に振る。

「ああ、それも違うのだ。小吉こきちどのは確かに男谷おだに家の出だが、勝家かつけに婿入りしたのだよ。だからあの子の名は、男谷おだに麟太郎りんたろうではなく、かつ麟太郎りんたろうだ」


 俺はその言葉に、一瞬何かを思い出しかけた気がした。


――かつ……りんたろう? かつ……麟太郎りんたろう

――あれ? どっかで聞いたような……どこだったっけ?

――中学の歴史の時間だったような……


 俺が思案していると、後ろの方からおあきちゃんの軽快な声が聞こえてきた。

「赤ん坊!? 見せて見せて!」


 いつの間にか現れたおあきちゃんが、おのぶさんに赤ちゃんの顔を見せてもらおうとしていた。


 俺がおあきちゃんに近づこうとすると、赤ん坊の顔を見たおあきちゃんは驚いた様子で声を発する。

「あっ! この子、あのお侍さまの……!」


 あやかしの目で見た結果、何かわかったのだろうか。おあきちゃんはそこまで言うと、両手で自分の口をさえぎった。


 そして、近づいた俺を見上げて伝える。

「りょう兄ぃ! この赤ん坊、きっと立派なお侍さまになるよ! あたしわかるもん!」


 おあきちゃんがそう言ったので、俺は返す。

「そうだね、きっとなってくれるよ。江戸の人たちを大勢守れるような、立派なお侍さまにね」


 もし、あのお侍の幽霊が生まれ変わったのがこの子だったのだとしたら、今度こそ自分の人生をまっとうして欲しい。それこそ、江戸の人たちを大勢守るような立派な立派なお侍さまになって。


 俺は、心の底からそう思った。



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