第二十四幕 三味線老人と猫又




 十二月の十九日、年の瀬が迫っている時期の晩のことであった。すずさんと徳三郎さんの二人は、本所にある料亭の主人に宴席に招かれていた。


 なんでも去年、料亭のご主人さんに経営している料亭が上手くいってない事を相談されて、徳三郎さんが色々と役に立つような助言をしてあげたらしい。


 ご主人が徳三郎さんの意見を取り入れて改めて料亭を取り仕切ったところ、業績がぐんぐん回復したので、そのお礼として父娘おやこということになっている徳三郎さんとすずさんをうたげの席に呼んだのだという。


 その料亭とは酒を出し、三味線が演じられるような大人の遊び場であるので、俺とおあきちゃんは稲荷社いなりやしろで留守番ということになった。


 いつもの間借りしている客間で、行灯あんどんの明かりの傍にて、俺とおあきちゃんはトランプに興じていた。


 二人とも寝間着であり、まるで修学旅行の夜みたいな雰囲気だった。


 俺の前で、トランプを手に広げたおあきちゃんが口を開く。

「すずねぇも、父さまも、今頃楽しんでるんだろうなぁ。あたしも行きたかったなぁ」


 俺は応える。

「おあきちゃんには、まだ早いんじゃない? お酒とか呑む所らしいし」


「そっかぁ、でもりょう兄ぃはいいの? お酒呑みたくない?」

 その言葉に、俺は苦笑いをする。


「俺の時代ではね、二十歳はたちにならないとお酒を呑めないんだよ」

「そうなの!? そういえば、りょう兄ぃは煙草も吸わないね。煙草も二十歳からなの?」


 おあきちゃんが尋ねるので、俺は応える。

「そうだよ。未来では二十歳はたちにならないと大人と認められなくって、酒も煙草も法で禁じられているんだよ。あ、でも選挙権せんきょけんは十八歳からだね」


 すると、おあきちゃんが聞いた事の無い言葉の意味を尋ねる。

「『選挙権せんきょけん』って何?」


「えっと、前言わなかったかな? 未来では御公儀ごこうぎとか地方ちほうくにとかでまつりごとを行う人を、くにたみみんなが紙に名前を書いて選挙せんきょで決めるんだよ。その、御公儀ごこうぎに与えられた権利けんり、つまりちからの事を選挙権せんきょけんっていうんだ」


「へぇー、未来ではたみが将軍様や大名様を決められるんだ! 凄いね!」

 おあきちゃんが、興味津々といった目を見せる。


 そんな輝いた目で見られると、俺も少し困る。少なくとも俺は選挙権の重要性など、二十一世紀では意識したこともなかった。


 そんなこんなでトランプを二人して遊んでいると、だんだんとおあきちゃんがおねむの様相を見せてきた。


「なんか、あたしもう眠くなってきた」

 おりはかったように、時の鐘が外から鳴り響いてきた。


 まずは捨て鐘が三つ、ゆっくり鳴り響く。


「ああ、そうだね。もう夜四つ(午後十時ごろ)だからね。そろそろ布団敷かないと」


 それから時の鐘が四つ夜の深川に鳴り響き始める。


 すると、おあきちゃんは何かをたくらんでいるような笑顔を見せた。

「りょう兄ぃ、一緒に寝ようよ! あたしお化けが怖いから!」


「なにそれ、妖狐が言っていい事なの?」

 俺は呆れ顔で返す。


 おあきちゃんは構わず俺に伝える。

「妖狐だって、一人寝は怖いよ。それに、こんな寒い日は一人より二人のほうが暖かいよ?」

 おあきちゃんは、拗ねたように少し頬を膨らませる。


――まぁ、年頃の男女でもあるまいし、五、六歳の子供に添い寝するくらい葉月も許してくれるだろう。


 そんな事を考えつつ、俺は布団を敷く。


 十二月の中旬なので、寒さはほぼ底だ。火鉢の火のついた炭が他に燃え移らないようになっていることを確認し、俺は行灯の炎を吹き消す。


 部屋がほぼ暗闇に包まれたところで、俺は布団の位置を手探りで探し当てる。


 布団の中には、すでにおあきちゃんが横になっていた。


 そんなに密着はしていない。俺はおあきちゃんの方を向いて肘を立て、体勢を横向きにとる。


 暗闇の中で、おあきちゃんが俺に話しかける。

「うふふ、りょう兄ぃと一緒に寝るのは初めてだね。なんかいつもと違う」


「そういえばそうだね。いつもは、すずさんと一緒に寝てるの?」

 俺が尋ねると、おあきちゃんは答える。


「布団は別だけどね、いつからだったっけな……すずねぇをすずねぇって呼ぶようになってからだっけ……」


 暗闇の中で、おあきちゃんの言葉がうとうとし始めたのがわかる。


 そこで、俺は気付いてしまった。


――昔は、おあきちゃんはすずさんを何と呼んでいたのか?

――もしかして、本当の姉妹ではないとか?


 俺が尋ねようとしたら、おあきちゃんは既に布団の闇の中で寝息を立てていた。


――寝ちゃった。


 俺は、十二月の厳しい寒さの中、布団から頭だけを出して暗闇の中にあるはずの天井に視線を泳がせる。


「……まったく、立ち入っちゃいけなさそうな事が多すぎるんだよな」


 俺は一人ごちて呟き、目をそのまま閉じた。


 すずさんと徳三郎さんは、今頃酒宴に興じているのだろう。そんなことを考えつつ、俺の意識は闇の中に消えていった。






 翌日の朝のことだった。


 白衣袴姿に着替えた俺は、すずさんから『猫又ねこまた』と呼ばれる妖怪が人に化けて老人に取り憑いているという話を聞いた。


 猫又ねこまたという名称は俺も聞いた事がある。猫が化けた妖怪で、生き血や油を夜な夜なすする、というものだ。


 すずさんが、俺に伝える。

「そいつはさ、めくらの老人と一緒に三味線を演じてたんだけどさ。上手く化けてたようだけど、あたいの目と鼻は護摩ごまかせなかったよ。あやかしの匂いがぷんぷん匂ってきたのさ」


 俺は返す。

「昨日の宴会の時に料亭にいたんですか? でも、その猫又ねこまたも三味線を弾いてたのなら普通に仕事してただけじゃないんですか? すずさんやおあきちゃんみたいに、人に紛れて害なく生活しているだけかもしれませんし」


 俺がそこまで言うと、すずさんは憮然とした表情で返す。

「それなら言うこたぁないんだけどねぇ。もしかしたら悪さするあやかしかもしれないんで、一度ひとたび調べを入れる必要があるねぇ」


 すずさんはそこまで言うと、俺の顎を指一本でひょいと上げる。

勿論もちろん、あたいのもとで働くりょうぞうも一緒にね」


 すずさんはにやついて俺の顔を覗き込む。その姿にもちろん俺は逆らうことができなかった。




 その後、猫又ねこまたが化けていた三味線引きの女性について料亭の主人に尋ねてみたところ、その女性は父親と共に本所の長屋で暮らしているとの情報を掴んだとのことだ。


 十二月二十日の宵の口、雪はもう降ってないものの、本所の木造家屋は雪化粧をうっすら被っていた。


 着物姿の俺は、提灯を持った着物姿のすずさんと共に、静かな町並みの中を歩いていた。いつものように深夜ではないので、そこらへんの軒先には明るい灯籠や提灯の灯がいくつも点在している。また、町行く人もかなり多い。俺は綿入れを羽織り風呂敷包みを背負い、お供の小僧として見えるようにすずさんの後ろをついていく。


 本所という江戸の外れとはいえ、やはり花の大江戸、しかも年末。表通りには大勢の人が行きかっていた。


 今、向こうの方からは黒い長箱を持った身長155センチくらいの女性が、坊主頭で目を瞑っている老人の手をひいてこちらに歩いてきている。二人とも下駄を履いている。


 すずさんが俺に小声で話しかける。

「りょうぞう、あの女だよ。近づくよ」


 あの箱の中には三味線が入っているのだろう。


 俺たち二人は、すれ違うように女性と老人に向かって歩く。


 店先に置いてある灯籠はすずさんを照らし、影が通りの方へ伸びている。そして、すずさんの影がすれ違った老人の足元に差し掛かった時に、老人がつんのめって転びそうになった。


 その老人の手をひいていた女性が尋ねる。

「お父っつぁん? どうしたんだい?」

「ああお美代。いや、下駄の緒が切れちまったらしいな。縁起がわりぃな」


 すかさず、すずさんが話しかける。

「どうしたんだいご老公? お困りかい?」


 すると、老人は目を瞑ったまま声の方向に表を向ける。

「おや? だれかね? すまねぇがあっしはめくらでね」

「なんだい、めくらのもんが困ってんのを見ちゃぁほっとけないねぇ。りょうぞう、おぶってやんな」


 すずさんが、俺を指でしゃくる。俺は背負っていた荷物をすずさんに渡して、老人に近寄る。


――すずさんって、本当に狐だな。


 実は、このご老人の下駄の緒を切ったのはすずさんだ。


 自分の影が老人の足元に差し掛かった時に、すばやく手をを通して老人の足元に伸ばし、そして緒を切った。


 俺は、老人をおぶさると、お美代と呼ばれた女性のほうを見た。


 年齢は二十代前半くらいで髪をゆるく結っている、少し釣り目ぎみのぱっちりした眼を持つ女性だった。確かに、猫っぽいかと言われれば猫っぽい女性だ。


 すずさんの言が正しいのならこの女性は猫又と呼ばれる妖怪であり、死体を操り、血や油をすするのだという。だが、無害なら放っておくべきだし、手を出すべきものでもない。


 もし人間界に溶け込んで暮らしているのならば、彼らには彼らの暮らしがあり、互いに害を及ぼすべきではないというルールがあるらしいからだ。


 俺は老人をおぶさったまま、二人が暮らしているという長屋の前までやってきた。


 俺は、ゆっくりと老人を降ろす。


 すると、お美代さんが俺たちに告げる。

「礼くらいさせておくれ。茶でも飲んでいきなよ」


 俺とすずさんは目を見合わせて、女性に向かって頷いた。






 四畳半の部屋で、俺たちは二人から軽く歓待を受けた。


 その際に、老人の女房、つまりお美代さんのお母さんはもう何年も前に亡くなってしまって、ずっと二人で暮らしているという事を告げられた。


 すずさんがそれとなく探りを入れてみたところ、タマという猫が以前はよく出入りしてたのだが、一年前からぷっつり現れなくなったということも聞いた。


 十五分ほど話を聞いて、俺とすずさんは長屋を後にする。


 長屋からすこし離れた所で、一匹の二十日鼠はつかねずみがすずさんの影から現れた。


 二十日鼠はつかねずみは、瞬く間におあきちゃんの姿に変わる。すずさんの影の中にはおあきちゃんが潜んでおり、雑談中に影の中を伝って長屋の中をくまなく調べてもらうという算段であった。


 すずさんが、おあきちゃんに尋ねる。

「おあき、どうだった?」


 すると、おあきちゃんが応える。

「床下に、らっきょうの壷が隠してあったよ」


「いや、そういうのじゃなくて、何かあやかしの臭いのするものとかなかったのかい?」

 すずさんがそう言うと、おあきちゃんは振袖のたもとから、白く長い何物なにものかを取り出した。


「あと、こんなのが床下の土に埋まっていたよ」

 おあきちゃんが、長さ四寸(約12センチメートル)程度の白く細長い湾曲した棒のようなものをすずさんに手渡す。


 すずさんはそれを受け取ると、眼を細めて眉をひそめる。

「ああ、なるほどねぇ。こりゃ当たりだよ」


 すずさんがその棒切れを見て神妙な顔つきをするので、俺は尋ねる。

「何ですかそれ?」


「こりゃあ、人の鎖骨だね。床下にまるまる髑髏どくろが埋められて隠してあったとみていいだろうね」

 すずさんの言葉に、俺は驚きの声を上げる。

髑髏どくろ!? ってことは……あの、お美代さんは本物じゃなくて、お爺さんの娘さんを殺して成り代わったってことですか?」


「おそらくはそうだろうね。めくらの老人が娘と二人で暮らしてたんで、丁度良いと思って娘を殺して成り代わったんだろさ。これは流石に成敗しないといけないねぇ」


 すずさんの言葉に、おあきちゃんが返す。

めくらだから解らないと思ったのかな? そんなの酷いよ!」


 そして、俺も返す。

「俺も、不自由ふじゆうな人の心を踏みにじる真似は許せません」


 俺の言葉に、すずさんが一言。

不自由ふじゆう? 随分と変わった言い回しだね?」

「ああ、気にしないでください。で、どうするんですか? いまから退治するってわけじゃないですよね?」


「今は町の者の目があるからね。だけど、あちらさんもこちらが妖狐だと気付いているだろうしさ。善は急げってことで、今夜調伏しちまうよ」


 すずさんは口元を引き締め、俺たちに毅然きぜんと告げた。





 雪のふり積もった深夜の江戸の町は、耳が聞こえなくなったのではと勘違いするくらいの静けさだった。


 すずさんは巫女装束、俺は白衣袴のいつもの格好で、猫又が済んでいる長屋の前に来ていた。おあきちゃんは小刀に化けてもらって、すずさんの手に握られている。


 小刀を構えたすずさんが、俺に小声で伝える。

「りょうぞう、じゃあ影を伝ってつっかえ棒を外すからさ。いち、にの、さんで勢い良く引き戸を開けるんだよ」

「わかりました」


「今、つっかえ棒を外したよ。いち……にの……」

「さんっ!!」


 俺は掛け声と共に長屋の引き戸をガラリと開けると、すずさんは小刀の刃を下に向けつつ長屋の部屋の中に飛び込んでいった。


 三秒もしないうちに、すずさんが布団を小刀で切り裂く音が聞こえてきた。


 俺は部屋の中を覗く。


「すずさん! やりましたか!?」


 手前の布団に刃をつき立てるすずさんの姿が眼に入る。

「いや! 手ごたえがない!」


 すずさんがそんなことを言って上を向くので俺もそちらを向く。しかし、深夜の長屋の天井には明かりなどなく、何者も寄せ付けない闇が覆っている。


 俺は、持ってきたLEDハンディライトのスイッチを入れて天井に先を向ける。先ほどおあきちゃんが長屋の床下を調べる際にも使ってもらった未来の小道具から出た光が、白く天井を照らす。


 すると、光で照らされた円の中に、天井の隅に忍者みたいに張り付いている女の人の姿が映し出された。


 すずさんが叫ぶ。

「出たね! 猫又!」


 先ほどお美代さんと呼ばれた女性は、こちらが放つまばゆい光に反応して、猫のように瞳孔を縦に細める。着ている着物は寝巻きのようで、まげは結ったままであった。


 すずさんの手に握られた小刀が、あっという間に薙刀なぎなたに変わる。


 俺がLEDハンディライトの光で照らしている猫又は、てのひらをすずさんに向けて軽く握り、ボクシング選手のジャブみたいに、しゅっ、と宙を掻いた。


「ぐっ!!」


 すずさんが、見えない拳に顔を殴られたように、衝撃をくらって後ろ向きに倒れた。


「すずさん!」

 俺は叫ぶ。すると、奥の布団から老人のもぞもぞした寝ぼけたような声が聞こえてきた。


「お美代ぉ? お美代? 誰かいるのかい? それとも夢かい?」


 すると、猫又は不遜な笑顔を見せて老人に返す。

「お父っつぁん、ちょいと野良狐が入ってきてね。追っ払ってくるから、寝といておくれよ」


 猫又はそう言うが早いか、天井から降りると俊敏に駆け跳ね、出入り口、つまり俺のいるところに猛然と向かってきた。


――逃がすか!


 俺はそう思い、猫又の着物を掴もうとしたが、次の瞬間に俺の視界は天地が逆になっていた。


「うわっ!」


 俺は受身をかろうじて取って、雪の積もる地面の上に投げ出される。


「唯の人が、あたしを押さえ込もうなんて百年早いよ」


 人間の女性の姿をした猫又は手をぱんぱんと払うと、憮然としたまま小走りでどこかに裸足で去っていく。


 長屋からは薙刀なぎなたを持ったすずさんが飛び出す。

「追いかけるよ!」


 俺は、開いたままだった長屋の引き戸を閉め、猫又の後ろを追いかけるすずさんの後を追った。





 俺とすずさんは、雪の降り積もる本所の町を走り、駆け抜ける。


 向こうの方に賊を逃がさない柵として町木戸が見える。このまま行けば町木戸の所で追い詰めることができる。すると、逃げる猫又は町木戸の直前で左に曲がり、路地に入る。


 ふと、不意に俺の着物の襟をすずさんが掴んだ。


「りょうぞう! 近道するよ!」


 すずさんが、向かって左にある建物の影の中にずぶりと腕をめりこませた。引っ張られた俺はすずさんと一緒に建物の影の中に入ったと思うと、家の裏のような路地に現れる。そして、更に向こう側にあった建物の影に、二人してずぶりと再び沈みこむ。


 瞬く間に、先ほどまでいた通りの反対側の通りに俺たちの身体が現れた。こちらは水路際にある道であるようで、木材が何十本も柵に立てかけらている。どうやら材木卸売り屋が傍にある場所らしい。


 目の前には路地がある。すずさんは構えた薙刀なぎなたの切っ先を路地の出口に向ける。


「いち……にぃ……」

 すずさんは、静かにゆっくり、しかし確かに数字をカウントしていく。


「さんっ!」

 すずさんは薙刀なぎなたの刃を、上半身のばねを利用して、飛び出してきた影に突き刺す。


 路地から出てきた猫又は、体を大きく後ろにしならせ、刃による致命傷を防ぐ。


 猫又は、深く身をかがめて右手を雪積もる地面につける。そして、激昂しているのがよくわかる抑揚で叫ぶ。

「ふんっ! 随分と物騒だね! 薄汚いきつね風情ふぜいが!」


 すずさんも、怒りの激情をあらわにして、応える。

化猫ばけねこ風情ふぜいには言われたくないねぇ!」


 そして、すずさんは猫又の方を向いたまま、俺の方に薙刀なぎなたを放り投げる。

「りょうぞう! 使いな!」


 空中を舞う薙刀なぎなたは、放物運動の頂点で拳銃ベレッタに変化する。


 おあきちゃんの化けた拳銃ベレッタを受け取った俺は、照準を猫又に合わせる。


 タタタン!


 引鉄トリガーを引き絞り、猫又の方に連弾を浴びせようとする。弾は当たっていないようだったが、猫又は若干ひるんだようだった。


 その隙に、すずさんが猫又に向かって跳躍し、距離をつめる。同時に巫女服のたもとから銀色にぎらぎら光る小刀を出し、その柄を持って猫又の胸を一突きにしようとする。


 ガキン!


 包丁をたもとから逆手で取り出した猫又が、猛スピードで迫っていたすずさんの切っ先を跳ね除ける。


 俺は、再び銃の照準を猫又に合わせる。今度は腕か足に当てるつもりで狙う。


 猫又は、俺がそう思うが速いか、遠く離れた所にいる俺に向かっててのひらで宙を掻いた。


 ボガン!

「ぐはっ!」


 胸を陸上競技用のハンマーで力いっぱい殴られたような衝撃が襲う。アバラにひびが入ったかのような威力であった。


 そして俺はおあきちゃんの化けた銃を落としてしまった。拳銃の姿がおあきちゃんに変わる。


「りょう兄ぃ! 今治してあげるから!」


 おあきちゃんが俺の胸に手をかざす。痛みはすぐに引いたが、少し離れたところにいるすずさんの苦しい顔が嫌が応にも眼に入る。


 すずさんは猫又に何度も何度も小刀の刃を突き立てているのに、猫又は逆手に持つ包丁ですべての斬撃を弾き逸らす。


 カンッ! カンッ! キンッ!


 雪降る深夜の本所に、金属音が吸い込まれていく。


「おあきちゃん! もう一度鉄砲に化けて!」

 俺が叫ぶとおあきちゃんは頷き、俺の手をとると再び拳銃ベレッタに化ける。


――ゆっくり、ゆっくり、確実に。


 俺は、自分の呼吸音以外は何も耳に入れずに、オート連射機能に頼らずに猫又の姿を見定める。


 タンッ! ガキン!


 銃声音が一発だけ鳴ったと同時に、猫又の持つ包丁に銃弾が当たった音が鳴り響く。


 猫又は一瞬だけ、手が痺れたようになる。


 その刹那を逃さず、すずさんが叫びながら刃を突する。

「覚悟!」


 ザクリ


 そのザクリという音は、猫又の体から発せられたものではなかった。


 小刀を持ったすずさんの右手を、湾曲した白い棒が貫いていた。あの時長屋から持ち帰った鎖骨だった。すずさんは小刀を、ぽとりと地面に落とした。


 次の瞬間だった。猫又が軽く握った左拳で、すずさんの右胸をとんと叩いた。


 ボゴッ!!

「がぁぁぁっ!!」


 大きな音と共にすずさんが、後ろ向きに大きく吹っ飛ぶ。猫又に、あの遠隔攻撃ができる打撃技で、至近距離から打ちのめされたようだった。


「すずさん!」

 俺は、すずさんに駆け寄り上半身を支える。すずさんの白衣の下にある右胸のアバラが何本か折れ曲がっている。すずさんが血を口から吐き出した。


「がはっ!」


「おあきちゃん! すずさんを治して!」


 俺の言葉を待つまでもなく、おあきちゃんは女の子の姿に戻り、涙目ですずさんの胸に手をかざす。折れていた骨は、すぐに戻っていった。すずさんの右手に突き刺さっていた鎖骨も、ぽとりと雪の上に落ちた。


「すずさん! 大丈夫ですか!?」

「すずねぇ! あの猫又強いよ! 諦めようよ!」

 

 俺たちがすずさんの事を気にかけると、すずさんは死に掛けたことなど気にもしてないように立ち上がり、口に溜まった血を唾とともに雪の上にぺっと吐き出した。


「ふん! そういうわけにはいかないねぇ。何も罪のない、無辜むこむすめあやめてんだ。放っておける訳ないだろさ」


 すると、十メートルほど離れた所にいる猫又は、不敵な笑顔を顔に浮かべながらこちらに告げる。


「ふぅん、やっぱりそうかい。あたしがあのむすめ亡骸なきがらを部屋の床下に埋めてたってのはばれてたのかい」


 負けじと、すずさんも応える。

「ああそうさ。らっきょうの壷なんか置いて隠してたらしいけどさ。あたいらが見逃してもお天道様は見逃しちゃくれないよ。だからお天道様に代わってあたいらに大人しく調伏されちまいな」


「らっきょう? まぁそれは知らないけどね。あたしはそう易々と、きつねなんかにやられやしないよ。さっきだって二人がかりで手も足も出なかったじゃないか」


 猫又が嘲笑しているように、口角を上げる。


 すると、すずさんも応える。

「そういや、まだ見せてなかったね。あたいのもう一つの力をさ」


 すずさんは、左手を上に向け、その上に燃え盛る炎を顕現する。そして炎は長く横に伸び、赤く燃え盛る縄のように広がる。


 猫又は、再び包丁を手に体を斜にして身構える。


 すずさんが叫ぶ。

「炎を操るすべさ! 燃えちまいな!」


 横に伸びた炎は一直線に猫又に向かっていく。右に避けようが左に避けようがかわせない。


 しかし猫又はその場から音も立てず垂直に跳躍し、横一文字に伸びた火の縄を飛び越えてしまった。


 猫又は軽く雪の上に着地すると余裕の笑顔を見せたまま、俺たちに告げる。

「あらあらご丁寧に。じゃあ、あたしのもう一つのすべも改めて教えてあげようかね」


 猫又はそう言うが早いか、すずさんに向かって人差し指を指した。


 ザクリ


 先ほどまで地面の上に落ちていた鎖骨が動き、すずさんの右のふくらはぎを貫いた。


「ぐぅ!」

 すずさんはそう言うが早いか、体勢を崩す。


「すずねぇ!」

 おあきちゃんが駆け寄ろうとするも、すずさんが掌をおあきちゃんに向けて留めようとする。

「おあき! 来るんじゃないよ!」


 俺ははっと気付いて、おあきちゃんに急いで近づき後ろから肩を抱きかかえた。


 次の瞬間には、猫又が拳で軽く宙を掻き、遠隔からすずさんの顎をぶん殴る。


 ボガッ!


 顎から脳みそを揺らされたすずさんは、後ろ向きに倒れて、そのまま失神してしまった。


 猫又は、俺たちに向き直る。

「猫又の本来のすべしかばねを操るすべだよ。まぁ、ここ江戸じゃあ人のしかばねなんてみぃんな焼いちまうから、そうそう使えないんだけどね」


 猫又は寝間着に裸足のまま、包丁を持って一歩一歩こちらに近づいてきて、こんなことを言ってくる。

「あんたらはどうする? あたしらにもう関わらないって約束するなら許してやってもいいよ?」


 俺は、おあきちゃんの手を取り叫ぶ。

「おあきちゃん! 今から俺が思った物に化けて!」

「わかった!」


 その言葉に、おあきちゃんの姿が鉄砲に変わる。いつものような拳銃ベレッタではなく、自動小銃じどうしょうじゅうに変わってもらった。


 俺は、自動小銃じどうしょうじゅうを猫又に向ける。左手で銃身を支え、右腕の脇を締めてグリップを握り、銃床ストックをしっかりと右肩に当てる。


「止まれ! 動くと撃つ!」


 すると、猫又が応える。

「見たことない形だけど、それ鉄砲かい? 鉄砲なんて、初めの弾が外れたら撃ちなおすのにどれだけかかると思ってんだい? それとも、あたしの素早さ忘れたのかい?」


 猫又が不遜な笑顔を見せるも、俺は動じない。

「これは唯の鉄砲じゃない! 自動小銃じどうしょうじゅうっていう連発ができる鉄砲だ! 本当に頭を吹っ飛ばすからな!」


 ガシャリ


 銃の右側面についているコッキングレバーを引いた俺は、引鉄トリガーに指をかけ、猫又の足元に狙いを定めてトリガーを引き絞る。


 ダダダダン! 


 肩にずしりとした反動が連続して襲ってくると同時に、猫又の足元の雪が、上に向かって垂直に何発も跳ねる。


 猫又の表情は笑顔から、憮然とした表情に変わる。

「ふぅん、どうやら脅しじゃないようだねぇ。しかしあんた、唯の人のくせに、どうしてそこまできつねなんかに義理立てするんだい?」


「すずさんは俺の恩人だからだ! 本当に頭を打ちぬくぞ! 下がれ!」

 俺はゆるやかにはっきりと銃身を上に上げ、猫又の頭を狙う。自分の表情を想像できないくらいに気持ちが昂ぶっていた。


 猫又は、いきなり手を開いて包丁を雪の上にぽとりと落とした。


「え?」

 俺は目をしばたかせる。


「……降参、したのか?」

 俺がそこまで言うと、猫又は再び不敵な笑顔を見せて目を見開き、瞳孔を縦に狭めた。

「そんなわけ、ないだろうが!」


 ふと、俺の体の回り中から大量の物体が襲ってきた。


 右から、後ろから、左から、上から、下から大量に。


 それらは、先ほどまで材木屋に立てかけられていた大量の木材だった。


「ぐっ!」

 俺は、何十本もの木材に体を潰されんばかりの勢いで地面に組み伏せられる。


 地面に倒れた俺の視界の端で、猫又がわらっていた。

「ははは、馬鹿だねぇ。材木だって大木たいぼくしかばねなんだよ? 猫又のあたしがどうして操れないっていう道理があるのさ」


 猫又は、大量の木材により地面に押さえつけられた俺を見て、けらけら嗤っている。


――ここまでだ。


 絶望感と共に覚悟を決めた俺は、自動小銃じどうしょうじゅうに化けたおあきちゃんに伝える。

「おあきちゃん、君だけでも逃げて!」


 すると、手でグリップを握っていた自動小銃が、するりと女の子の姿に変わる。

「できない! すずねぇとりょう兄ぃが死ぬならあたしも一緒に死ぬ!」


「馬鹿言うな! 早く逃げろ!」

 俺は、涙をぼろぼろ流しているおあきちゃんを叱責する。


 猫又は、地面に落ちている包丁を拾いなおす仕草をして、一歩一歩こちらに雪の上を歩いてくる。


「お涙頂戴でも狙っているのかい? さっきのらっきょうの話しにしてもそうだけどね。そもそも猫のあたしがらっきょうなんか食べられる訳ないじゃないかい」

 その言葉に、おあきちゃんは猫又の方を向いて、俺を守るように両腕を大の字に広げる。


 猫又が、手の届く距離に近づいたおあきちゃんを見下げ、伝える。

子狐こぎつねのおじょうちゃん、そこを退きなよ」


退かない! 死んだって退かない!」


 猫又は、おあきちゃんに向かって包丁を掲げる。


 俺は、胸の奥から声を振り絞っておあきちゃんに伝える。

「おあきちゃん! 何やってるんだ! すずさんは俺が助けるから! とりとかに化けて早く逃げて!」


 もちろん、はったりである。この状況からはすずさんも俺も、今日が命日になる事しか予想できない。だけど俺は、せめておあきちゃんだけでも助かって欲しかった。


 幼心に俺を慕ってくれた小さな女の子の命を、救いたかった。


 猫又が、冷酷な声を発する。

「ふうん、じゃあ死にな」


 猫又は、おあきちゃんに向けて一直線に包丁を振り下ろす。


 俺は、目をつぶった。


 しかし、いつまで経っても凶刃の音は聞こえてこない。材木に押し組み伏せられた俺はおそるおそる目を開ける。


 猫又は、おあきちゃんの胸に刃を突き立てる前で、包丁を寸止めしていた。


 しばしの静寂。


 そして、猫又が口を開く。

「……何故、けなかった?」


 すると、おあきちゃんが柔和な口調で返す。

「……あなたは、人を殺すようなあやかしじゃないから」


 その言葉に、再び雪積もる町の静寂が続く。やおら猫又は地面にぽとりと包丁を落とす。


 そして、猫又は両膝をついて両手で口を覆い、涙をこらえるような顔になる。


 おあきちゃんは、変化の術を使った。誰に化けたかは後姿でもよくわかる。あの、お美代さんのお父さんである目が不自由な三味線弾きの老人であった。


 そして、おあきちゃんの化けた老人が猫又の肩を抱き寄せ、優しく語り掛ける。

「わしにはわかってたんだ。おまえが、タマがお美代に化けてたんだろ? 辛い思いをさせたな、すまなかったな」


 すると猫又が、夜の闇に嗚咽を響かせる。

「うっ……うわぁぁぁ! うわぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁぁ!」


 猫又は、先ほどまで放っていた殺気なぞ胡散霧消したかのように、小動物のように泣きじゃくっていた。





 材木の圧迫から解放された俺は、猫又の話を聞いた。


 あのお爺さんの実の娘さんは、一年ほど前に口から泡をふいて長屋の部屋で亡くなってしまったらしい。おそらくは脳梗塞か心臓発作か何かだろう。


 その折、あの長屋に出入りしていた猫の彼女は猫又として覚醒し、お爺さんの娘さんとして暮らすことになったのだという。


 壁にもたれかかかった猫又が、穏やかな表情で俺に告げる。

「お父っつぁんはめくらだったからね。お父っつぁんも老い先は長くないし、寿命までなんとか護摩ごまかすつもりだったんだよ」


 猫又は、そこで目をつぶる。そして、言葉を続ける。

「でも、とっくの昔にばれてたなんてね。何てことはない、あたしの方がよっぽど、お父っつぁんの優しさが見えていなかったんだよ」


 猫又がそこまで言うと、閉じた瞼の中から頬に一筋の涙が流れる。


 おあきちゃんは、俺の隣でうんうんとうなずきながら話を聞いている。おあきちゃんが、猫又がむすめを殺していないことに気付いたのは、らっきょうの壷の存在だった。猫は元々らっきょうを食べることができない。それが床下に隠されていたということは、目の不自由なお爺さんが娘に頼らず、こっそりらっきょうを食べていたということだ。


――娘が猫であることを気付いていることを気付かれないために。


――つまり、お爺さんは猫又に助けられて生きていることを受け入れていることを。


 もし、猫又が娘を殺していたのだったら、どこか娘が一人で外に出かけた先で殺して入れ替わるはず。


――猫又は、死体を自由に操れるのだから、どこに隠すも思いのまま。


――わざわざ家で殺して成り代わり、遺体を床下に埋めるのは不自然だ。


 つまり、本来のお美代さんは不可抗力であの部屋で亡くなったのだということを、おあきちゃんはあの言葉から見抜いた。


 そもそも猫又は俺たちを本当に殺すつもりはなく、おあきちゃんが治癒の妖術を使えることを見越して、脅して近寄らせないようにしようとしていただけらしい。


 俺とおあきちゃんは謝罪の言葉を述べる。

「俺たちは、勘違いして最初っから退治するつもりでしたからね。本当にごめんなさい」

「ごめんなさい」


 俺もおあきちゃんも、猫又の女性に頭を下げる。


「まぁ、わかりゃいいよ。深川の名賀山稲荷みょうがやまいなりだっけ? 暇があったらお参りにでも行くよ」

 猫又は、にっと笑う。


 そして、ふくらはぎの傷はおあきちゃんの治癒の妖術で治されたが、先ほどから失神したまま雪の上に寝転んでいるすずさんを、猫又は親指で指差す。

「それより、そこの女狐めぎつねをちゃんと説き伏せといておくれよ。また勘違いされて寝込みを襲われるなんて真っ平御免だからね」


 俺は、その言葉に苦笑いをする。

「ああ、はい。説明責任は果たしますので」


 そう約束して、俺は寝転んでいるすずさんを肩にかけて立ち上がる。

「すずさん、起きてください、すずさん」


「むにゃむにゃ……酒もっとおくれよ……むにゃむにゃ」


――うわ、宴会の夢見てるよこの人。


 猫又は寝間着に裸足のまま、俺たちを視線上に流して告げる。

「じゃあね。あたしはもう帰るよ。おじょうちゃんもさ、死ぬなんて軽々しく言うんじゃないよ。坊やもね」


「はい、タマさんもお元気で」

 俺がそう言うと、猫又は手を振りながら俺たちに告げる。

「あたしはもう、タマじゃないよ。寿命が尽きるまで美代でいるよ。それがお父っつぁんの心への恩返しだよ」


 猫又は、そう言うと、夜の闇に消えていった。


 俺は、足元にいるおあきちゃんに声をかける。

「一件落着だね」


「うん、そうだね。でもどうやって帰ろうか?」

 おあきちゃんの言葉に、俺は疑問符を頭の上に浮かべる。


「どうやってって、どういうこと?」

「だって、すずねぇのじゅつが使えないと、町木戸を潜れないじゃない」


――ああそうか。


 俺は、すずさんの頬をぺちぺちと叩いて、寝言を言っているすずさんを起こそうと懸命に努力した。


 どこまでもどこまでも静かな、ある雪の降り積もった夜の事だった。



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