第二十二幕 稲荷社の屋台見世



 十一月の二十五日は雪がしんしんと降る静かな日中であった。


 冷たい水と格闘して昼までに家事を終えた俺は、間借りしている客間に仰向けに寝転んでいた。


 紺色の着物を着て防寒用の黒い股引を穿き白い室内足袋たびを履いている。寝転びながら未来から持ってきた生徒手帳の最後のページ、裏表紙の裏のページに貼り付けてある写真を眺めていた。


 俺の想い人である葉月が、その母親と一緒に浅草寺せんそうじ山門さんもん前で写っている写真であった。並んでいる二人の後ろに写っている文字入りの巨大な赤い提灯は、言うまでもなく浅草の雷門の提灯である。


 葉月は、自撮り棒でスマートフォンを構えているのだろう。左の枠線から伸びた棒が葉月の右手に連結している。


 写真の中にある葉月の二つの丸っこい瞳が、スマートフォンレンズを通して俺を見つめていた。


 こちらから見て葉月の右には、糸のような細い目をした綺麗な大人の女性が、キャリアウーマンが身に付けるようなレディスーツを着て微笑みつつ並んで写っている。


 この女性はレディスーツを着たその身も細く、そんな年齢にはとても見えないくらい若々しくスタイルも良いが、葉月からのメール本文によると葉月の母親であるらしい。葉月より少し背が高い。


 ゴールデンウィークの休みの最終日にこの写真がメールに添付されて送られてきた時には、想い人が俺に自分の写真を送ってくれて、しばらく胸の高鳴りを抑えられなかった。少なくとも、忠弘やクラスの女子友達にも同じ写真が送信されていたと休み明けに知ることになるまではだったが。


 ちなみに写真が添付されたメールは今でもスマートフォンに保存してある。消去する訳がない。メール本文の内容はこうだった。


『お母さんと一緒に浅草に来ています。いつも元気な仲良し母娘です』


 そこで俺は、思い出した。


 こちらの時代に来る前日に葉月に、ラインで父親が既に亡くなっていた事を伝えられたのであった。


――葉月のお母さん、未亡人だったんだな。この時は全然そんな事考えもしなかった。


 ゴールデンウィークに写真を送付された俺は若干舞い上がり、俺の父親の使っているパソコンとプリンターを借りて、吸い出した写真データを適当な大きさにプリントアウトして生徒手帳の裏にスティック糊で貼り付けた。


 向こう見ずな行動は思春期にはよくあることだ。休み明けに事実が明るみになって猛烈に後悔したが後の祭りだった。


 まぁ、先走ってスマホの待ち受け画面にしなかっただけでも、自分を褒めてやるべきかもしれない。


 俺がこの写真をふと見たくなったのは、こないだの妖怪との闘いで、久しぶりに葉月の姿を見たからだ。


「葉月……」


 俺はつぶやいて生徒手帳を胸に置き、天井を見上げる。木の枠で天井板が仕切られた、電灯のないただの天井であった。


「葉月に会いたいな……」


 横になり体を曲げ、両膝を少しだけ上に曲げる格好になる。半胎児のポーズというやつだ。生徒手帳はぽとりと畳の上に落ちる。


 天井から外れた視線は、紙の張られた障子に向かう。

「あの障子が開いて、葉月がひょっこりと現れてくれないかな……」


 自分でもかなり重症なのがわかる。今度徳三郎さんに、カウンセリングでもお願いしようか。と、そんな事を思った次の瞬間には目の前の障子がすっと開いて、少女の姿と共に元気な声が飛び込んできた。


「りょう兄ぃ! 雪積もってるよ! 雪! 雪! 雪遊びしようよ!」

 当然に葉月ではなく、その女の子はおあきちゃんだった。


――ああ、うん、わかってたよ。江戸時代には葉月はいないって。


 元気な声で部屋に飛び込んできたおあきちゃんは、寝ている俺の腕を引っ張る。


「りょう兄ぃも一緒に雪だるま作ろうよ! すずねぇが手伝ってくれるって言ってるし!」


 おあきちゃんがこうまで俺に頼んでくるのなら、俺も対応しない訳にはいかない。


「うん、わかったよ。ちょっと待って、上着用意するから」


 俺はゆっくりと立ち上がり、畳に落ちた生徒手帳を、厄除けの御守りが取り付けられているナップサックに入れた。


 そして、箪笥たんすから綿入れを取り出す。それを羽織って縁側に出ると、広くない庭はもう雪化粧に覆われていた。


 おあきちゃんと一緒に、庭が見える縁側を伝う。


 住処すみかの建物と、南にある本殿と講堂のある建物の間にある中庭が見える。縁側をつたい西から東に向かうと、向かって右の方に屋根付の渡り廊下が見えてきた。講堂への裏口だ。


 なお、このまま廊下づたいに歩くと、いつも飯を食べている座敷に入るふすまが左手に見えるはずであり、その向こうには土間の台所がある。


 俺とおあきちゃんが裏口から講堂に入ると、昼をわずかに過ぎたばかりなのに子供の姿は見えなかった。この日はもちろん二十五日だから休みなのであるが、あまりに天候が悪すぎる日も休みである。


 講堂の入口の土間に置いてある下駄を履いて外に出ると、辺り一面は静かな銀世界だった。鉛色の空からしんしんと雪が降り続けており、都会の真ん中だとは思えないほどの静けさであった。



 町行く人はあまりいない。


 歩いている男の人は笠を頭に被り、時代劇で風来坊がまとっているようなわらでできたみのを身に付けている。


 上品そうな女性は紅色の蛇の目傘を差してしゃなりしゃなりと、ぽっくり下駄で歩いている。


 子供用のぽっくり下駄を履いたおあきちゃんが、感激したように振袖を揺らして走る。


「りょう兄ぃ! 雪だるま作ろうよ!」


 俺も敷地から出て道を眺めていると、近所の子供が作ったのであろう、そこいらの店先に二つの雪玉を組み合わせた雪だるまが鎮座していた。


 雪はかなり積もっている。十五センチメートルくらいだろうか。朝に手水桶の水を入れ替えた時は、まだうっすらとしか積もってなかったのに。


 俺は息を漏らす。

「朝見た時より積もってない? 江戸ってこんなに雪が積もるの?」


 すると、いつから聞いていたのか本殿正面脇の出入り口から、深紫色の着物を着たすずさんが出てきてこう言った。


「こんな半尺(約15センチメートル)の雪なんか大した雪じゃぁないさ。今年の正月なんざ、江戸の町中まちなかに三尺(約91センチメール)も雪が降り積もったんだよ?」


 その言葉に、俺は驚きの声を上げる。

「えっ!? 三尺って……大雪にも程がありません? ここ江戸ですよね? 本当ですか?」


まことだよ? まぁ、後で聞いた話だと、雪女がちょっと西の奥山から下りてきて悪戯いたずらしてたらしいんだけどさ。品川の方のお仲間が説き伏せて帰ってもらったのさ」


――お仲間って……すずさんみたいな妖狐の方? お稲荷さまの使いのおきつねさま?


「つまり、お方ですか? そういえば訊いていませんでしたけど、この江戸にすずさんやおあきちゃんみたいな妖狐のお方がどれくらいいるんですか?」


 俺の質問に、すずさんは答える。

「江戸には三、四十ってとこだねぇ。武蔵野むさしの(関東平野)まで含めたら五百はいるかねぇ」


 超能力のような妖術を使える妖狐が関東平野だけで五百人、多いのか少ないのか。    


 俺は険しい顔をしつつ尋ねる。

「五百名の方とは、よく会ったりするんですか?」


「ああ、大晦日おおみそかには必ず、王子稲荷おうじいなりの近くで武蔵野八国の妖狐がかいしてうたげを開くのさ。まぁ、顔合わせやおしらせを兼ねてね。今年は将軍様しょうぐんさま王子稲荷おうじいなりの社殿を改築してくれたから、相当に賑やかにするんじゃないかねぇ」


――俺の知らない世界では、そんな事が毎年行われていたのか。


 と、そこに下駄を履いて笠を被った、稲荷社に向かって駆けてくる男の姿が目に入った。


――屋次郎さんだ。どうしたのだろうか?


 屋次郎さんは鳥居近くで立ち止まって両手を膝に当て、肩で息をしている。俺は屋次郎さんに話しかける。

「屋次郎さん? どうしたの、そんなに走って?」


 すると、屋次郎さんは顔を上げて俺の目を真っ直ぐ見てこう言った。

「りょうや! 大変てぇへんだ! タケさんが腰をやっちまった!」

「えっ!? 竹蔵さんが!?」


「そうでぇ! さっき火鉢を持ち上げようとしたらよ、いきなり腰をぎっくりやっちまったらしい! おめぇさん、医術の心得あんだろ!? タケさんを診てやってくれよ!」

 そんな息せき切った話の内容に、俺は頷く。

「わかった! 薬を持ってくるから、ちょっと待ってて!」


 俺は急いで下駄を脱いで講堂に上がり、スポーツバックの置いてある西の客間まで駆け抜けた。




 すずさんから借りた巾着袋に薬を入れた俺は下駄を履いて笠をかぶって、屋次郎さんと一緒に雪積もる本所の町を駆け抜けていた、


 蒟蒻こんにゃく長屋まで急いだ俺は、竹蔵さんの住む長屋の前に来ていた。


「タケさん! 入るぜ! りょうやを連れてきたぜ!」

 屋次郎さんはそう言いながら、了承も取らずに竹蔵さんの家の引き戸をがらりと開ける。


 四畳半の生活空間には、竹蔵さんが布団の上にうつ伏せで寝転んでいる。そしてその傍には着物のお腹がぽっこり膨らんだタレ目の妊婦が、竹蔵さんを心配そうな目で見て座っている。


 この女性は、おそらく竹蔵さんの奥さんだ。年齢は二十歳くらい。丸顔の柔和な印象で、着物の膨らんだお腹の上にある乳房は負けじと、母性を表すかのように膨らんでいた。


 竹蔵さんが寝ながら口を開く。

「おお、りょうの字じゃねぇか。心配して来てくれたのかよ」


 俺は、その言葉に返す。

「竹蔵さん、ぎっくり腰になったって聞いたけど? 平気?」


てぇしたことじゃねぇ……って言いてぇけどよ。さっきから立ち上がるのも億劫おっくうだぜ。まいっちまったよ」

 竹蔵さんがため息をつく。


 すると、隣りに座っていた竹蔵さんの奥さんがお歯黒の塗られた歯を覗かせ、口を開く。

「あんた、無理をしないでよね。命あってのことなんだからね」


「ああ、でも情けねぇなぁ。もうじき餓鬼がきが産まれるってのによ。こんななりじゃぁ、天秤棒なんざ満足に担げねぇよ」

「子供なんか、天秤棒担がなくっても育てられるわね。年を越すくらいなら私がお針子して稼いであげるから。無理して働いてあんたが腰をもっと悪くするほうが、もっと悪いんだからね」


 俺が見る限り、中々よくできた奥さんであるようだった。


 俺は屋次郎さんの脇を抜けて下駄を脱いで土間段を上がり、寝転んでいる竹蔵さんに近づき、すずさんに借りた巾着袋の中から用意したものを取り出す。


 未来においては、捻挫した時などに貼り付ける湿布薬である。幸いな事に、腰痛にも効能があるタイプであるらしい。十二枚ある。


「これ、故郷から持ってきた膏薬こうやくなんだ。貼り付けるから、背中を見せて」

 俺の言葉に、竹蔵さんの着物を奥さんがまくる。ふんどしの締められた尻と、膏薬を貼り付けるべき背中があらわになる。


 俺は、指で軽く押して竹蔵さんが腰のどこを痛めたかを確認しつつ、捻挫用湿布の透明なビニールを剥がして患部に貼り付けた。


 湿布を貼られた竹蔵さんが、鳥が鳴くような声をだす。

「ひゅぅっ! なんでぇこりゃ!? 長崎の膏薬こうやくってこんなに染み入るような感じがするのかよ!?」


 残りの湿布、十一枚全てを畳の上に置いた俺は、竹蔵さんの奥さんに伝える。

「じゃあこれを……えっと……」

「私は、いと、と申します。此度こたびは亭主に薬を恵んで頂き、眞に有り難うございます」

 そう言って、おいとさんは正座をしつつ深々と頭を下げた。


 俺は言葉を返す。

「じゃあ、おいとさん。この光が透ける裏紙を膏薬から剥がして一日一枚、寝る前に腰に貼り付けてください。腰は痛みがひいてきたら冷やさずに、着物を着るかお湯で拭くかして暖かく保ってください。正直に言ってこの膏薬はぎっくり腰にどこまで効くかはわかりませんが、気休めにはなるかもしれませんから」


 そして、竹蔵さんが口を開く。

「ああ、ほんわりいなりょうの字よ。でもよぅ、天秤棒担げなくなったら、銭稼ぐのに別の商売も考えねぇとよ。どうすっかな」


 寝転んでいる竹蔵さんの姿を見て、俺はひとつの解決策を思いついた。


――おあきちゃんの治癒の妖術なら、竹蔵さんのぎっくり腰を治せるかもしれない。


――稲荷社に帰ったら、すずさんと徳三郎さんに相談してみよう。


 そんな事を思っていた。





「りょうぞう、そりゃあ駄目だよ。おあきのすべを使わせる訳にはいかないよ」


 座敷に座ったすずさんの対応は、予想通りのものだった。


 すずさんの隣りに座っているおあきちゃんが、すずさんを見る。

「でも、すずねぇ? あたしは別に治すくらい構わないけど?」


 その言葉に、近くで床の間を背にして座っている徳三郎さんが返す。

「私も、亮哉りょうやくんの友人を助けてやりたいのはやまやまなのだがな。やはり、勧める事はできないな」


 徳三郎さんも反対している。おあきちゃんが、人の傷を治す能力があるなんてことが江戸の人たちにばれたら、それはもう大変な事になるからだろう。


 おあきちゃんが、すずさんに伝える。

「じゃあ、夜中にこっそり長屋に忍び込んで治すってのは?」

「おあき、お前が一人でできるのならね。こないだ平野町の婆さんの家に忍び込めたのは、あたいが影の中を通らせてやったからだよ? あの婆さんは一人暮らしだったから良かったけど、竹蔵の奴はかみさんと共に暮らしてんだろ? 忍び込んで腰を治している所を見つかったら大事おおごとさ」


 そして、徳三郎さんも言葉を重ねる。

「そうだな。おあきが傷を治す際には、元の姿に戻ってからでないとできないからな。亮哉りょうやくんに化けたまま治すことができるのなら、治療のふりをして治すのも無理でもないのだろうがな」


 その言葉に、俺は落胆する。

「そうですか……そうですよね……すいません、我侭わがまま言って」


 俺はため息をついて立ち上がると、徳三郎さんがこんな事を言った。


「まぁ、おすずとおあきの妖術を用いないのであれば、できる限り尽力したいのだがな」


 その言葉により俺の頭の中に、あるプランが浮かぶ。


 子供が手習いで大勢来る稲荷神社。これは絶好の立地だ。


 それに、俺の案が上手くいけば八方全てが円く収まる。俺は思いついた案を速やかに、徳三郎さんに伝えた。




 それから十日近くが経ち、十二月の五日となっていた。


 冬の昼前の晴天の下、俺は長さ四尺(約121センチメートル)の木の杖を持って、蒟蒻こんにゃく長屋の竹蔵さんの部屋の前に来ていた。


 コンコン

「竹蔵さん? 入っていい?」


 俺が戸の近くをノックしてそう尋ねると、中から竹蔵さんの「いいぜー」という声が聞こえてきたので、俺は引き戸を開ける。


 四畳半部屋の真ん中では竹蔵さんが布団の上でうつ伏せに寝転んでいた。すぐ隣りでは、おいとさんが仕事だろうか裁縫さいほうをしている。


「竹蔵さん? 調子どう? 腰はもう痛くない?」

 俺が問うと、竹蔵さんが答える。

「おぅよ! りょうの字に貰った膏薬のお陰でよ、歩くくれぇならもうできるぜ。でもよぅ、天秤棒持てるのはまだまだ先だろうな」


「竹蔵さん、実は屋次郎さんと二人で、竹蔵さんが安心して年を越せるように取り計らったんだ。ちょっと稲荷社まで来てくれる? 杖も用意したから」

「お? おうよ。ちぃと待ってくれよ。すぐに立ち上がるからよ」


 俺は、身重のおいとさんに負担をかけさせないように、すぐに土間段を上がって竹蔵さんが立ち上がるのを支える。


 俺は、持っていた杖を手渡して一緒に蒟蒻こんにゃく長屋を出る。南本所の道を南に下り、そして高橋たかばしを越えてから西にしばらく歩いて名賀山稲荷社に向かう。


 道すがら、杖をついて歩く竹蔵さんが俺に尋ねる。

「りょうの字、ヤジさんと示し合わせてなにしてやがったんだ? 取り計らったってどういう事でぇ?」

「それは、神社に着いてからのお楽しみだよ」


 そんなことを話しつつ、二人して稲荷社に到着する。大鳥居の前には木槌を持った屋次郎さんが腕を組んで待っていた。


「よう! タケさんやっと来たか!」

「ヤジさん? こりゃどういうことでぇ?」


 竹蔵さんが尋ねると、屋次郎さんは鳥居の西にある木塀の影から、木でできた組み部品をいくつか取り出した。そして、竹蔵さんに伝える。

「これよぅ、俺が作ったんだぜ。りょうやの言う通りに、いくつにもバラす事ができて、閉まうのに場所を取らないように作ってやったんでぇ!」 


 屋次郎さんはそう言いながら部品を木塀の前に並べる。そして、大工の本領とでも言いたげに、木槌を使っててきぱきといくつもの部品を組み合わせていく。


 あっという間に、屋台がひとつ完成した。俺が屋次郎さんに頼んで作ってもらった、パーツ分けできる木組み屋台であった。


 俺が口を開く。

「組み立て方は俺が屋次郎さんから教わってるから、これから毎日俺が代わりに屋台を組むよ。竹蔵さんは子供が産まれるまではこの屋台で商売ができるようにと、徳三郎さんとここらを取り仕切っている人に許しを貰っているから」


 俺がそこまで言うと、竹蔵さんは卒然そつぜんと涙を誤魔化すように鼻をすすった。


「そうかぁ、すまねぇなぁ。りょうの字、ヤジさん。俺ぁこんなに有り難ぇって思ったこと生まれてこの方なかったぜ」


 すると、屋次郎さんが白い歯を見せて笑う。

「馬鹿言うな、てめぇのためじゃぁねぇよ。生まれてくる餓鬼がきの為だよ」


 そして、竹蔵さんが俺に向き直る。

「でもよぅ、りょうの字よ。この屋台で何売るんだい?」


 すると、屋次郎さんも俺に問いかける。

「そういや、何売るかまでは俺も聞いてなかったな。りょうや、こりゃぁ何の見世みせなんでぇ?」


「ああ、ここは稲荷社いなりやしろだろ? だから、ぴったりの商品を考えてるんだ。台所まで一緒に来て」

 俺はそう言い、竹蔵さんを東の庭から台所まで招く。屋次郎さんも後ろからついてくる。


 土間口から三人して入り台所まで来たところで、俺はまな板の上に伏せられたかごを外して、板の上に並べられた食べ物を二人に見せる。稲荷神社の前で開く屋台ならば、この商品しか考えられない。


 朝早く起きてから作っていた稲荷寿司だ。


 まな板の上には八つの稲荷寿司が並べられている。近所で油揚げを買ってきて、きつねうどんを作るときの要領で、醤油しょうゆ砂糖さとう味醂みりんで味付けをして、その中に酢飯を包んだものだ。以前食べた江戸時代のすしみたく、おにぎりくらいの大きさに作ってある。


 俺は、竹蔵さんに伝える。

「竹蔵さんはこれから朝に、長屋で油揚げを味付けしてこっちに持ってきて。味付け方は簡単だから教えるよ。それで中に入れる飯は、こっちの稲荷社いなりやしろの台所で多めに米を炊いておくから、その炊いたものを元のこめまきよりちょっとだけ高値たかねで買い取る形にしてもらえばいいから」


 つまり、土地に自動販売機を置いておけば、自動販売機の収益の一部が土地の所有者に入る仕組みと同じだ。これなら竹蔵さんは人の多い大通りで商売できて、稲荷寿司が売れれば売れるほどに稲荷神社の収益にもなる。


 なお、このあたりを取り仕切っている任侠の方には、既に徳三郎さんが話をつけてくれた。任侠の親分さんは情にあつい人なので、身重のかみさんがいるのならば場所代は取らないと期間限定で了承してくれたらしい。


 竹蔵さんが、稲荷寿司をひとつ摘み上げると、稲荷寿司をじっと見る。

「りょうの字、これ食べていいかい?」

「ああ、いいよ。食べて食べて」


 俺の言葉に、竹蔵さんは稲荷寿司にかじりつく。大きいので、丸ごと頬張ることは難しいようだ。


 竹蔵さんが口を閉じたまま叫び、すぐに後ろの屋次郎さんに伝える。

「んー! ヤジさん! これ滅茶苦茶めちゃくちゃ美味うめぇぜ! 食べてみろよ!」


 その言葉に屋次郎さんも稲荷寿司を手に取り、頬張る。

「おおっ! なんでぇこれ!? 美味うめぇ! すげ美味うめぇぜ! 食べた事ねぇや!? りょうや、これ何ちゅう食いもんなんでぇ?」


――え?


 俺は戸惑いつつも、屋次郎さんの問いに答える。

「えっと……稲荷寿司いなりずしっていうんだけど……ひょっとして、まだ江戸の町にないの?」


 すると、屋次郎さんが軽快に笑う。

「なるほどよぉ! お稲荷さまの使いのおきつねさまの好物、油揚げでおからでなくめしを包んでいるから稲荷鮨いなりずしか。こりゃぁ、売り始めたら江戸中の評判になるぜ!」


 予想外の発言に俺は逡巡しゅんじゅんする。


――文政五年の時点で、江戸の人は飯が包まれた稲荷寿司を知らなかったのか。

――これって、ひょっとして俺が発明したってことになるんじゃないか?


 そんなもの、江戸の町に広めていいのか? 歴史を変な風に変えてしまうかもしれない、しかし、今から竹蔵さんに屋台での商売を諦めさせるか? そんな事はできない。


 そんなことを考えて俺が困っていると、廊下の向こうから徳三郎さんがおあきちゃんを連れてやってきた。二人は台所近くの土間段を下りて俺たちに話しかける。

亮哉りょうやくん? やしろの前で売るという品を見せてくれんかね? おあきが食べたいというのだよ」


 すると、竹蔵さんが徳三郎さんに向き直り、かしこまって杖をつきながら深々とお辞儀をする。


「ひゃー、神主さま。この度はまことに有り難いお情けを頂戴いたしまして……」


 すると、徳三郎さんは朗らかな顔で応える。

「堅苦しく挨拶してくれんでも構わんよ。困っている者を助けるために力を尽くすのは、神に仕えるものとして当然のことだよ」


 徳三郎さんと一緒に土間に下りたおあきちゃんが、まな板の上においてある稲荷寿司をひょいと両手で持つ。

「何これ!? ご飯を油揚げで包んでいるの!? 美味しそう!」


 そして、稲荷寿司にかじりついたおあきちゃんは目をうっとりさせて頬を米粒と油揚げで膨らませ、すっかりとご満悦の表情になった。

「おいしーい! 何これ? 何これ? おいしーい! こんなの食べたことない!」


 そして、徳三郎さんも稲荷寿司をつまんで半分だけ食べる。


 徳三郎さんはもぐもぐと口を動かし、飲み込む。

「ふむ、これは美味いな。亮哉りょうやくんはどこでこれを?」


 徳三郎さんの問いに、俺はしどろもどろになって応える。

「えっと……その、俺は故郷でよく食べていたんですが……」


 その言葉に徳三郎さんはピンときたのか、フォローを入れてくれた。

「そういえば昔に旅の道中にて尾張おわり(愛知県西部)の豊川で、似たようなのを食べた事があるな。なるほど、尾張おわり生まれの者が長崎にいたのだろうな」


 徳三郎さんは、残り半分を口に放り込み咀嚼する。


 おあきちゃんは小さな口でかじり取りながら笑顔になっている。


 俺が冷や汗をかきながら言葉を返す。

「多分、そうでしょうね。長崎には日本各地から大勢の人が来ますから」


 おあきちゃんが食べ終わり、もうひとつの稲荷寿司に手を伸ばそうとしたところを、徳三郎さんが「おすずにも持って行ってあげなさい」と静止した。


 俺は、歴史上本当に稲荷寿司を考えた人に対して、心の中で謝った。





 翌日、十二月六日の昼前。大鳥居の近くの屋台で俺は、竹蔵さんと最後の打ち合わせをしていた。


「いい? 寿司を握る前には必ず、そこの手水桶ちょうずおけの水で手を洗い清めて。そうすれば食中しょくあたりがかなり起こりづらくなるから。特に、かわやに行った後は木灰きばいを手にこすりつけて念入りに洗い清めて。子供も食べると思うから、衛生えいせいには注意して」


 すると、屋台の裏で準備をしている竹蔵さんが返す。

「おお、わかったぜ。『衛生えいせい』ってのは聞きなれない言葉だけどよ。要は食いもんを触る前には手水ちょうずで手を洗い清めりゃいいんだな?」


 竹蔵さんは、さっき清潔な井戸水で手を洗っていた。屋台の台の下には、酢飯の入った飯桶はんぎりと、長屋で味付けされた大量の油揚げが用意されている。準備は万端だ。


「じゃぁ、のぼりあげるぜ? おすずさんに書いて貰ったのぼり、中々いい塩梅だな」

 竹蔵さんが、白地に墨で『いなりずし』と書かれたのぼりを掲げる。


「よし! 店開きでぇ! りょうの字、初めの客になってくれよ!」

 そう言うが早いか、竹蔵さんは甘辛く煮た油揚げに酢飯を詰め始めた。


「え? 俺が? いいの?」

「何いってんでぇ! おぇの他に誰がいるんでぇ! 銭取るなんて野暮なこたぁいわねぇぜ!」


 竹蔵さんはそう言って、屋台の板の上に稲荷寿司をひとつ置いてくれた。


「あ……じゃぁ、いただきます」

 俺は、おにぎりくらいの大きさの稲荷寿司をつまんでかぶりつく。


 何と言うか、人の持つ誠心な感謝の味がした。


「美味いよ。美味いよ竹蔵さん」


 俺の言葉に、竹蔵さんがニッと笑う。


 いつの間にか来ていたのか、おあきちゃんが竹蔵さんの後ろにいた。そして、竹蔵さんの腰を後ろから両手でぽんぽんと叩いて催促する。


「ねぇねぇ、竹蔵さん! あたしにも稲荷鮨いなりずしちょうだい!」

「おっ! いいぜ! 今握ってやるからよ!」


 竹蔵さんは、いきいきとした顔で稲荷寿司を作り、おあきちゃんに手渡す。

「ほらよ! ゆっくり味わって食べな!」

「ありがとう!」


 稲荷寿司を頬張ったおあきちゃんは、昨日のようなご満悦の表情を見せる。 

「美味しい! やっぱりこれ美味しいよ! すぐに深川の名物になるよ!」


 おあきちゃんが大声を出すので、町行く人達の視線が集まる。


「なんだありゃ?」

「いなりずし? 聞いたことねぇすしだな?」

「兄さん! 俺にもひとつおくれ!」


 人がわらわらと集まってきた。鳥居のすぐ西にある屋台に、人垣ができはじめる。


 竹蔵さんは注文に応えるために、大忙しで置いてある油揚げと酢飯で稲荷寿司を作っている。天秤棒を担いでいる時のように顔がいきいきしている。


 さっきまで、腰が痛くて杖をついていたようには思えない。頻繁にかがんでは酢飯と油揚げを台の上に補給し、稲荷寿司を作っている。


 まるで、ぎっくり腰が治ったかのように……


――ん?


 俺はそこで、さっきおあきちゃんが両手で竹蔵さんの腰を叩いていた光景を思い出した。


 鳥居そばで稲荷寿司にかぶりつきながら屋台の人垣を見守るおあきちゃんに、そっと耳打ちする。

「おあきちゃん、ひょっとしてさっき力を使ったの?」


 すると、おあきちゃんはぺろっと舌を出して、小声で俺に伝える。

「父さまと、すずねぇには内緒だよ」


 俺は、おあきちゃんの粋な計らいに感謝しつつ、屋台に並ぶ人垣を見ていた。


 西の方角に富士山を望む、澄んだ空気の冬の昼間だった。

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