第十九幕 回向院で相撲観戦



 十月の二十四日の朝の事だった。


 冬の朝の冷え冷えとした晴天の下、本所のどこかでトコトントコトンと太鼓の音が鳴り響いていた。


 立冬もすっかり過ぎた冬の日の朝に、俺は南本所を南北に貫く広い道の雑踏の中、煙草入れを達磨だるま根付ねつけ腰帯こしおびにぶら下げている屋次郎さんと、焦茶色の綿入れを羽織った竹蔵さんと一緒に歩いていた。


 透き通るような晴天の下、二階建て木造家屋が脇に立ち並び、あちらこちらへと行きかう人の群れ成す、活気の良い冬の朝の大通りであった。


 目的地は回向院えこういんの近くで行われる格闘競技会場であった。毎年十月の終わりになると、寺の敷地内で晴天十日勧進相撲が行われるのだという。屋次郎さんと竹蔵さんが江戸に来た俺に、おごりで相撲を見させてくれるというのだ。


 俺は屋次郎さんのように煙管きせる根付ねつけも持っていない。しかし、いつもの様に紺色の着物の帯を締め、そして上着として黒いあわせを羽織っている。また防寒のため、着物の下に黒い股引ももひき穿いている。


 蒟蒻こんにゃく長屋のある南本所と、その更に北にある北本所の間は、堅川かたがわと呼ばれる直線的な人工運河で区切られている。


 今、俺たち三人は南本所と北本所を結ぶ、堅川かたがわに架かる橋である『二ツ目之橋ふたつめのばし』を渡っている。これも江戸のありふれた橋であり、大きくアーチ型に反った木造の橋であった。


 なお、大きくアーチ型に反っているのは、下を運搬用の舟が通らなければならないからである。そして北本所の南西のはじっこあたりに、回向院えこういんがあるのである。


 左から俺、屋次郎さん、竹蔵さんの順に並んで歩いている。


 右隣を歩いている屋次郎さんが俺に語りかける。

「りょーやもよぉ、江戸に来たんだったら、相撲くれぇ見といた方がいいぜ?」


 テレビモニターの中にしか相撲を見たことがない俺は、返事をする。

「相撲は、じかには見たことはないから、楽しみだよ」


 すると、屋次郎さんが不思議そうな顔をする。

「ん? じかにじゃねぇって、どうやって見るんでぇ?」


「あ、いや、話で聞いただけだから。それより、奢ってくれるの構わないの?」


 屋次郎さんを挟んで、向こう側にいる竹蔵さんが口を開く。

「りょうの字、ヤジさんはな、てめぇで相撲をみてぇだけなんだよ。一人しとりで見るよか、連れがいたほうが血がはやるってだけさ」


「うるせぇよ! てめぇにいわれたかねぇや!」

 屋次郎さんが笑いながら、笑っている竹蔵さんの肩を軽く叩く。


 堅川かたがわを南から北に越えてしばらく進むと、俺たちは向かって左の西の方角に曲がる。


 しばらく行くと、勧進相撲が行われる回向院えこういん境内があるという。


 進む方角の遠くからは、トットントコトントットコトントンという、軽快な太鼓の音が、リズム良く聞こえてくる。


 俺の時代では、そこから道路を挟んで北には両国国技館があったはずだ。つまり、江戸時代に勧進相撲が開かれていた場所が、二十一世紀でもそのまま相撲が伝統的に行われる場所として存在し、両方が歴史的に連続していることになる。


 西に曲がってから道なりに1キロほど歩くと、回向院の門前市となり、ただでさえ多い人が更に多くなってきた。


 かなり遠くに、人ごみから高く突き抜けるような木製の構造物が見えてきた。俺はあれを、二十一世紀でも見たことがある。


やぐらだ……」


 両国国技館に設置しているような、太鼓の乗ったやぐらであった。


 櫓の上からは、先ほどから朝の本所に鳴り響いていた太鼓の音がトットントコトントットコトントンと相変わらずリズム良く聞こえてくる。相撲がこれから始まるという合図である、いわゆる寄せ太鼓というやつだ。


 寺の前に伸びる道と境内を区切る土塀が眼前に続き、向こうの方に人だかりが集まっている。その場所には山門さんもんと呼ばれる、寺の入口である屋根付の荘重そうちょうな門がある。その山門さんもんのすぐそばに高さが十五メートルくらいのやぐらが設置されている。


 屋次郎さんが、俺に声をかける。

回向院えこういんじゃよぉ、相撲が始まる時の寄せ太鼓と終わる時の跳ね太鼓を打ち鳴らすためにやぐら組むんだぜ。中々見ごたえあっだろ?」


「ああ、凄いね」


 両国国技館に備え付けられていた櫓太鼓やぐらだいこは、相撲格闘対戦の始まりと終わりを告げる、開始終了ベルの役目だった。その伝統は、江戸時代にはもう始まっていた。


 やぐらそばの、山門さんもんの近くには屋台が立ち並んでいる。例えば、相撲を観戦しながら食べられるであろう焼き芋の屋台といったものが開かれていた。


「りょーや、おめぇ、焼き芋食うか?」

「あ、いや。朝飯あさめししっかりと食べてきたんでいいよ。ありがとう」


 俺は屋次郎さんの気遣いにお礼を言いつつ、竹蔵さんとも一緒に山門さんもんを潜る。


 潜った先には寺に向かう道があり、大勢の男達が歩いている。この時代、相撲は男が見るものだということらしく、女が見ることはできないものであるらしい。実際に、すずさんは回向院での本場所相撲は見たことはないということを昨日教えられた。


 門を潜った玉砂利の道の右側には池があり、池の手前には『日本一』と書かれた酒樽が、いくつも積み上げられている。勧進相撲が開催中であることを示すのぼりがいくつも天に向かって掲げられている。


 そして、そこから左に視線を移すと、四角い形をした高さ五メートルくらいの葦簀よしず張りの建築物が否応にも目に入る。


 なんでも、早朝から仮設して一日でバラすらしい。そして、相撲がある度にまた組むのだとか。大工である屋次郎さんの兄弟子も、組むのに加わっているのだとか。


 ちなみに屋次郎さんも竹蔵さんも、共に数え年で十九歳であり、平成時代の年齢でいえば今年に満十八歳になる高校三年生くらいの年齢らしい。


 屋次郎さんは十四歳の時に今の大工の親方の下へ弟子入りし、もう修行を始めてから五年が経つらしい。つまり、平成でいう中学生になるかならないかという頃にはもう、自分の進路をきっちりと定めていたという事だ。


 竹蔵さんは、計算が強いのと足腰が丈夫だったので、気楽な棒手振ぼてふり稼業を選んだらしい。棒手振ぼてふりというのは誰かに雇われている訳ではなく、自分で品物を購入し自分で品物を売り歩く自営業であるらしい。


 もちろん商品が売れ残るリスクもあることはあるものの、品物が売れてしまえばそのお金はどこか上に吸い上げられる事もなく、全て自分のものになるのである。しかも税金はないので、単身者ならば月に十日も働けば、充分に暮らしていけるものらしい。江戸の人達は十二、三歳で未来をさっくり決めてしまう。そのバイタリティは見習いたい。


 なお俺は、中学三年生の時に進路志望調査書に将来の目標を書くのでさえ、相当に迷ったものだ。


 そういえば中学時代の進路を考えなければいけない時期に、忠弘ただひろは「俺は親が公務員こーむいんだから、俺も公務員こーむいんだろーなー」とか言っていたのを記憶している。たかしは、「僕はできれば漫画家になりたいんだけどね」とか言っていたが、「でも、ちゃんと大学は行っといた方がいいんだろうし」とも言って結局進学校に行った。


 そういえば、俺はなんだったのだろう。中学生の時に、どんな将来を夢見ていたのだろうか。それを思い返して、自分の偏差値と親友の進路を見比べて、高校をなんとなく決めた事を思い出した。


 俺はおそらく精神年齢では、屋次郎さんと竹蔵さんの、二歳下どころじゃないだろう。




 屋次郎さんと竹蔵さんと共に、組み上げられた建物に入る。


 相撲の木戸銭きどせん、つまり見物料を奢ってくれるとは気風きっぷが良いと感じるのでいつか何かをして返さなきゃいけないだろうと思う。下町で生活する場合においての基本的な精神は、互いに持ちつ持たれつを心がけることだ。


 入口から入ると、外から大きな建物のように見えていたのは、三階までしつらえられた見物席であるのがわかった。


 既に多くの人が二階席や三階席に入っており、今か今かと相撲が始まるのを待ちわびている。見物席には観戦客が梯子はしごを使って昇っているようであった。


 中心には一辺およそ四メートルほどの四角い台座すなわち土俵があり、その上に円く二重になわを張っている。二十一世紀の土俵とは明らかに異なる様子として、土俵の外四隅に柱が立っており、その上にある大きな屋根を支えている。その荘厳な格調高い屋根は、未来の両国国技館では天井からピアノ線で吊るされているあの屋根だ。


 土俵の周囲には見物人が座るために土の上に茣蓙ござが敷かれていて、俺たちはこの茣蓙ござの上にて相撲観戦をすることになっている。頭上には雲ひとつない冬の蒼空あおぞらが広がっている。空気の澄んだ爽快な青天井のもとで行われるだけあって、開放感が違っていた。


 俺たち三人は、茣蓙ござが敷いてある適当な土間席に胡坐あぐらをかいて腰を落ちつける。無論、座布団などはない。茣蓙ござを通して伝わる冬の朝の地面は、ひんやりと冷たかった。


 見物客が次々と入口から押し寄せ、しばらくすると周囲に組まれた三階建ての見物席にも土俵周りの土間席も、人でぎゅうぎゅう詰めになってきた。ざわめきの中には、誰かが喧嘩を始めたのか怒鳴っているような声も聞こえる。江戸の男達の相当な熱気が、土俵周りに立ち込める。




 いよいよ格闘選手たる力士が入場する段取りになって、相撲場の熱気は嫌が応にも上昇する。


 俺が力士を見た時の第一印象、それは『筋肉ダルマ』だった。二十一世紀の相撲取りは、まあぶっちゃけ太っている。あの脂肪の下にはもの凄い筋肉が隠れているということは聞いたことはあるが、パッと見ただけでは肉は脂肪の塊にしか見えない。


 しかし、今俺たちの眼前に現れた江戸時代の力士達はみんな二十一世紀の大柄な男性並みに背が高く、異種格闘技戦の選手かと見まごう程の血管の浮いた隆々とした筋肉をまとっていた。


 小柄な人たちしかいないこの時代にこんな益荒男ますらおが歩いていたら、そりゃあ人目を引くよな、と思わざるを得ない堂々たる体躯たいくであった。




 土俵入りなどの様々な行事が済み、初日の第一戦が今始まろうとしていた。


 四隅の柱の下にそれぞれ紋付を羽織った人が座り、烏帽子をかぶって軍配を持った行司さんが土俵にあがる。支度部屋がないのか、土俵の周囲には力士が全員座っている。


 文政五年の十月場所が始まる寸前、周りの人の目線が土俵に集中しているのを見計らって、俺は黒いあわせを脱いだ。そして、左肩にかけて黒い布が左手にかぶさるようにする。


 俺がこの黒いあわせを徳三郎さんから借りたのには、ちゃんと訳があった。俺は紺色の着物の左のたもとに手を突っ込み、スマートフォンを取り出した。電気は手回し式充電器を使って、昨日一晩かけて満タンにしている。


 右手で取り出したスマートフォンをすぐさま左手に持ち替え、あわせの黒い布で目立たないように隠す。画面をタップすると上手く録画画面に切り替わり、布で隠されたスマートフォンの画面上に、土俵が現れた。


 周りの人に見つかったとき、上手く誤魔化せるだろうか。


 と、そんな事を考えたが、それは杞憂に過ぎないことがすぐにわかった。


 周りの人の視線は土俵に上がり塩を撒く力士に注がれており、妙な挙動をする俺のような観客など見ている暇はないようだった。


 行司さんが軍配を構える。二人の力士が互いににらみ合い、腰を落として仕切る。


「はっけよーい……はっけよーい……」


 行司さんの言葉に、是非もなく緊張感が高まる。


 俺は、画面をタップして録画ボタンを押した。


「のこった! のこった!」


 行司さんが声を発すると次の瞬間には、力士と力士の筋肉と筋肉が派手にぶつかる音が、相撲場に響いていた。





 本所の町に、本日の相撲の試合が終わった事を示す跳ね太鼓が響いたのは、昼七つ(午後四時ごろ)を少し過ぎた頃であった。


 俺の隣を歩く屋次郎さんと竹蔵さんは、満足げな顔をしていた。俺も、あんなに相撲観戦が燃えるものだとは思わなかった。


 たもとの中にあるスマートフォンには、三試合ほどの相撲の様子が録画されている。本場所での相撲を見たことがないという、すずさんとおあきちゃんに帰ったら見せてあげようと思ってのことであった。


 まあ、ひょっとしたらすずさんがおあきちゃんの相撲観戦は止めるかもしれないが、すずさんは楽しんでくれるだろう、こういうの好きそうだし。


 そんな事を考えながら、俺は屋次郎さんと竹蔵さんと共に回向院の門前市を歩く。陽は西に傾き始め、そろそろ夕焼けになりそうな雰囲気だった。


 屋次郎さんが、口を開く。

「じゃあよ、腹減ったし山鯨やまくじらでも食ってくか? せっかく回向院まで来たんだしよ」


 確かに、朝から昼飯も食べずにぶっ続けで相撲観戦をしていたのでもうお腹がペコペコであった。だが俺は、山鯨やまくじらという聞きなれない食材が何か判らなかった。


山鯨やまくじらって何? クジラの仲間?」

 俺の問いに、屋次郎さんも竹蔵さんもゲラゲラ笑い出した。


 屋次郎さんは、隣にいる俺に告げる。

「りょうや、山鯨やまくじら食ったことねぇのか。丁度良いおりだ、馳走ちそうしてやらぁ」


 すると、竹蔵さんがそれに応える。

「いや、りょうの字は神職目指して修行してんだろ? じゃあ四つ足よつあし(陸の獣)なんか食えねぇだろ」


 竹蔵さんも屋次郎さんも笑っているが、山鯨やまくじらとは何のことか判らない俺は尋ねる。


「クジラの仲間じゃないの? 四つ足よつあしって何?」

「りょうの字、山鯨やまくじらってのはな、いのししの事だよ。ここらは仏様ほとけさまの目が届かねぇって事で、ももんじ屋(獣肉店)が多いんだよ」


 竹蔵さんの言葉に、俺は驚きの声を上げる。


「えっ!? 獣肉けものにくとかの店があるの!?」


――江戸時代は牛とかの獣肉けものにくは、厳しく禁じられていたはずじゃなかったのか?


 俺の言葉に、屋次郎さんが返す。

「まぁバチ当たるのがこえぇから、あんま大きな声じゃ言えねぇけどよ。本所の奴らはぃんな、隠れて食ってるぜ」


 次いで、竹蔵さんも口を開く。

「なんせ、ももんじは精がつくからよ。吉原よしわらとか岡場所おかばしょとか行って女抱く前にわねぇ奴なんざ、そうはいねぇんじゃねぇか?」


「おっ! じゃありょうやをそのうち、岡場所に連れてって女抱かせっか!?」

 屋次郎さんのそんな発案に、竹蔵さんが笑いながら応える。

「そうだな! りょうの字もそろそろ、女の肌を知って良い頃合ころあいだろ!」


 俺は、二人の提案を丁重にお断りした。





 結局俺たち三人は、回向院の門前市にある食事処に入った。屋次郎さんの話によると、この店は鯨汁くじらじるが美味いらしい。


 縄暖簾なわのれんを潜って店の中に入った俺は、辺りを見る。


 カウンターのようなものはなく、炊事場は食事を取るスペースとは完全に区切られているようだ。土間の上には木製の四角い長椅子に見える縁台がいくつも並べて置いてあり、何人もの男がその上で食事をしている。障子が張ってある明るい窓際には履物を脱いで上がる座敷のような高台もある。


 店内を見渡した俺は、二十一世紀の食事処とは明らかに異なる特徴に気付いた。


 テーブル机がない。


 食事を取っている男達は、縁台、あるいは座敷の上に直接置いてある盆の上から、食器を手に持って食べている。


 俺たちは、草鞋を脱いで窓際にあるすねの高さくらいの座敷に上がる。


 しばらくするとタスキで着物を纏めたお爺さんがやってきて、注文をとる。向こうのほうでは、若い娘さんが食事の乗ったお盆を運んでいる。


 屋次郎さんが、口を開く。

「俺は、鯨汁くじらじるめし新香しんこう。あと、煙草盆たばこぼんくれ」


 竹蔵さんも、それに続く。

「じゃあ、俺も同じのでいいや。りょうの字、おめぇはどうする?」

「あ、じゃあ俺も同じので」


 一応すずさんから小遣いは貰っているので、俺も食事代くらいは払う事ができる。屋次郎さんと竹蔵さんは奢ってくれると言っていたが、すずさんの顔を立てて割り勘ということになった。


 なお、この時代では割り勘の事を切合きりあいというらしい。


 お爺さんが煙草盆を持ってきたところ、屋次郎さんは煙管きせるを構え煙草盆の上の小さな炭火で火をつけ、煙草の煙をくゆらせた。この時代では、たとえ十代でも煙草を吸わない男の方が珍しいものらしい。


 竹蔵さんが、俺に話しかける。

「りょうの字はよぉ、煙草たばこは吸わねぇのか?」


「あっと……俺はちょっと、煙草たばこはすずさんに止められていてね」

 すると、竹蔵さんが返す。

「そっかそっか、やしろに燃え移っちまったら大事おおごとだからな。見習いで煙草たばこなんざ吸えねぇか」


「竹蔵さんは、煙草たばこ吸わないんだね」

 すると、屋次郎さんが軽快に笑う。

「りょうや、タケさんはよ、もうじき餓鬼がき産まれっからよ。かみさんに気ぃ使ってんだよ」

「ヤジさん! まだ言うなっつったろ!」


 その竹蔵さんの言葉に俺は驚く。

「竹蔵さん!? ひょっとして結婚してたの!?」


 すると、屋次郎さんが返す。

「ああ、タケさんはよ、こないだの六月初めに所帯持ったばかりだぜ。隣り町のお針子の娘さんとちんちんかもかも(男女が仲睦まじくする)してたら、折れこまし(妊娠させる)やがってよ」


 その言葉に、俺は納得する。

「ああ、だから夏の暑い盛りに、天秤棒持って働いてたの」


 竹蔵さんは、若干照れた様子になっている。

「まぁな。餓鬼がきができるってなったら、ぜにもそれなりに要るしよ」


――っていうか、この時代からデキ婚ってあったんだな。そりゃあるか。


 俺たちが座っている座敷のすぐ横には、月代さかやきを剃っていないガラの悪そうな三人組が食事をしている。話の内容は、どこの岡場所の女郎がべっぴんだ、技が上手いか、とかそんな内容だった。


 その男達に、若い娘さんがお盆を持って料理を運んできた。


 その内の男の一人が、娘さんの尻をするっと撫でた。


 娘さんは黄色い悲鳴を上げてのけぞり、俺のいる場所に倒れ込んできたので護るように両肩を掴む。


 俺にもたれかかった娘さんが、ガラの悪い男たちに対して非難の声を上げる。

「尻を触るのはおやめ下さい!」


 すると、粗暴そうな男の一人が娘さんの手を掴んで引っ張る。

「いいだろ? 減るもんじゃねぇしよ。おい兄ちゃん、その女寄越せ」

 男達がにやにやと娘さんの姿を目で舐めまわし、抱き寄せようとするも俺は娘さんの両肩を掴んで離さなかった。

 

「ちょっと、セクハラはやめてあげてくださいよ。嫌がってるじゃないですか」

 俺が娘さんの肩を抱きかかえながらそう言うと、男は娘さんの手を掴んだまま目をきっと俺に向け、そして放るように娘さんの手を離す。


 そして男は、仲間に告げる。

「おい、この兄ちゃん、『せくはら』とか訳わかんねぇ事言ってっぜ。なんかの符丁ふちょうかぁ?」


 ガラの悪い男が立ち上がり、同時に仲間らも立ち上がる。チンピラのごとく、威嚇しようとしているのだろう。


 すかさず、俺も立ち上がる。この男達は全員が身長が160センチメートル台前半であり、俺は身長が174センチメートルある。男達は、俺のでかさに一瞬たじろぐ。


「背丈あんな兄ちゃん、力士の見習いとかか?」

「さぁ……どうでしょうかねぇ……」


 貧弱な二十一世紀の少年である俺は慣れないものの、娘さんのために虚勢を張って懸命に威嚇する。


 後では、屋次郎さんと竹蔵さんも立ち上がったようだ。屋次郎さんが、ぽきりぽきりと拳を鳴らす音が聞こえる。


 目の前の男は一息つくと、後ろにいる仲間に声をかける。


「おい、店出るぞ」


 男達は食事も取らず、草鞋を履いて店を出て行った。


 俺は、安堵の息を漏らすとその場に座り込んだ。


「ふぅ、何も起こらなくて良かった」


 すると、屋次郎さんにこんなことを言われる。

「ははっ! りょうや、お前ぇ中々度胸あんじゃねぇか!」


 そして、竹蔵さんも続く。

「まったくだぜ! りょうの字、お前ぇさんの義侠心ぎきょうしん、ヤジさんに負けてねぇな!」


 その後娘さんにお礼を言われ、サービスで鯨肉くじらにくを多めに付け足してしてもらったのは余談である。




 俺たち三人は食事を済ませ、赤く染まった夕日を背に、堅川かたがわ沿いの道を歩いていた。もうそろそろ夕日が沈む。


 屋次郎さんが、俺に話しかける。

「りょうや、くじらどうだったよ?」


「ああ、美味かったよ。クジラ食べるの、実は初めてだったんだ」

「ほう? 長崎生まれなのにくじらすら食ったことなかったのか。苦労してたんだなこの野郎」

 屋次郎さんが鼻をすする。


――俺の時代では、くじらるのがほとんど禁止されていたからなのだが。


 なお、クジラといっても赤身肉ではなくて『シロデモノ』と呼ばれる皮下脂肪を煮込んだものであった。食べたことの無い食感で、脂分が非常に美味かった。


 気のせいか、人がだんだんまばらになってきた。門前市から大分離れたからだろう。


 すると、後の方から何か気配がした。こないだ鼠の妖怪と闘った時のような、そんな良くない気配だった。


 俺は後ろを何気なく振り返る。


 つばのない短刀を持ったさっきの男が、こちらに向かって走ってきた。


「危ない!」

 俺は屋次郎さんと竹蔵さんを庇い、身を避ける。


 さっきまで俺がいたところの宙を、30センチメートル弱の刃が貫く。


「ほぅ、いい勘してんじゃねぇか」

 ごろつきの男はにやりと笑うと、あとずさりする。屋次郎さんと竹蔵さんも、男に面と向かう。


「てめぇ! 根に持ってんのかこの野郎!」

 屋次郎さんが叫ぶと、竹蔵さんも口を開く。

「あの野郎、匕首あいくち(ドス)なんか持ってやがるぜ。るつもりだ」


 竹蔵さんの言葉に、屋次郎さんは煙管きせるを帯から抜き、武器として構える。


 真正面には冬の寥々りょうりょうとした夕暮れの太陽があり、五メートルほど向こうにいる三人の男の長い影が手前に向かって伸びていた。


――太陽を背にしてこっちからは見え辛くしているのか、喧嘩慣れしているな。


 ただ、刃物を持っているのは、真ん中の男だけのようだった。


 と、そこで俺はある策を考えたので、隣にいる屋次郎さんに小声で伝える。

「屋次郎さん、俺が真ん中の男の目をつむらせるから、そのすき煙管きせるで刃物を叩き落とすことってできる?」

「お? ああ、でも目をつむらせるって、どうするんでぇ?」


「手鏡を持ってきてるんだ。いち、にの、さんで目をくらませるから、突っ込んで叩き落として」

 俺の言葉に屋次郎さんは合点がいったという顔をして、その隣にいる竹蔵さんに、何かを伝える。


 俺は、左のたもとに手を突っ込み、カウントを開始する。

「いち……にの……」


 俺は、左のたもとから黒光りするスマートフォンを取り出し、つるつるの画面を正面にある太陽に向ける。


「さんっ!」


 俺は、スマートフォンの画面を反射する太陽光が、真ん中の男の目に当たるように構える。


「ぐわっ!」


 真ん中の男の目の部分には四角い光が当たり、刃物を持ったまま身をよじらせる。


 すかさず、駆け寄った屋次郎さんが煙管きせるの金属で男の手を鋭く打ち据える。匕首あいくちはぽとりと地面に落ちた。


 すると、同じく駆け寄った竹蔵さんがすかさず草鞋を履いた足のかかとで匕首あいくちを蹴って、俺の足元に滑らせる。スマートフォンをたもとに閉まった俺は、足元の刃物を拾い上げた。


「ふぅ、形勢逆転だな」


 さっきまで、威勢を張っていた男達は、たじろぐ。


 すると、誰かが呼んだのだろう、十手を持った岡っ引きが俺たちの元へ走ってきた。


「てめぇ! 御用だ! 御用だ! 神妙にしやがれ!」


 俺は、安堵して口を開く。


「ああ、良かった。こっちです」


 すると岡っ引きは、がしりと俺の刃物を持っている腕を掴んだ。

「刃物を持って暴れてるってのはてめぇだな! 大人しくしろい!」


「えっ! ちょっと! 違います! 俺は襲われた方で!」


 俺が弁明していると、さっきの三人組が口々に叫ぶ。

「俺たちゃ、そいつに襲われたんでさぁ!」

「さっさとふんじばってくだせぇ!」

「その匕首あいくちも、そいつのでさぁ!」


 その言葉に屋次郎さんは激昂し、男達を殴ろうとこぶしを構えるが、竹蔵さんが大急ぎでそれを止める。

「ヤジさん! 殴んな! 殴ったらめぇだ!」


 岡っ引きに捕まった俺は非常に動揺していた。この時代には拷問とかもあるということを思い出し、心臓が早鐘のように鳴り響く。


 すると、近くから別の岡っ引きか誰かの声がした。


「お侍さま! こちらでございます!」


 その言葉を発した岡っ引きと共に、刀を二本腰に挿し羽織袴を纏った、二十代半ばくらいの精悍せいかんな顔つきのお侍が駆け寄ってきた。


――ああ、終わった。この時代で死ぬ事になりそうだよ、ごめん葉月。


 そう思ったところ、その精悍せいかんな顔つきのお侍は俺の顔を見て、こう言った。


「む? そなたはいつかの!?」


――え?


 俺はそのお侍の顔を見て、誰かを思い出した。


「あっ!? 大川端で溺れてた亀吉くんを助けた!」


――亀吉くんを、泳いで助けたあのお侍さまだ。


 俺を捕まえている岡っ引きが、お侍に尋ねる。


「お侍さま、この者と知り合いで?」

「ああ、この者はな、拙者の命の恩人でな」


 そういえば瓢箪ひょうたんを投げ入れて、このお侍を溺死から救ったのだった。


 そのお侍の言葉に俺を掴んでいる岡っ引きの顔色があからさまに変わり、握る力が若干弱くなる。俺を掴んでいる岡っ引きが伝える。


「お侍さま。そこの奴らは、この匕首あいくちはこの男のものだって言ってるのでございますよ」


 すると、亀吉くんを助けた精悍な顔つきのお侍がこう言う。


「ならば、この短刀のめいをお調しらべして、何処どこで誰に売られたかを確かめてみよう。念のため、そこの三人の名と住処すみかも控えておくように」


 その言葉に三人組はやばい、といった顔をして夕日の方角に一目散に逃げていった。


 二人の岡っ引きはすぐさま俺たちから離れ、その後を追いかけていく。


 俺は今度こそ本当に、安心して息を吐く。

「あー、心臓止まるかと思った」


 屋次郎さんが後ろから近寄ってきて、俺の肩に腕を回す。

「りょうや、おぇお侍の命助けたことあったなんて、初めて聞いたぜ? やるじゃねぇか」


 竹蔵さんも、俺に近づく。

「情けはしとの為ならず。だな!」


 匕首あいくちを持ったままの俺は、刃物の持ち手である柄の方をお侍さまに向けて渡す。


「じゃあ、この刃物は俺のじゃないんで、お渡しします」


「うむ、この男谷おだにがしかと受け取った」

 お侍さまは匕首を受け取り、満足そうに頷く。


 俺は応える。

男谷おだにさんっていうんですね」

 すると、屋次郎さんが俺のひたいを指で軽くぴしゃりと叩く。


「おい、りょうや。お侍相手に付けんのは馴れ馴れし過ぎんだろ。大体はさまだろ」

「えっ!? そうなの!?」


――名前の後に「さん」って付けるのはこの時代じゃ馴れ馴れしい呼び方なのか。


 お侍は、気にしていないといった風に温厚な顔で笑い飛ばす。


「別に構わんよ。さまとか、殿どのとか、堅苦しいのは苦手でな」

「あ、そうですか。なんかすいません」


 すると、男谷おだにと名乗った精悍せいかんな顔つきのお侍は、改めて俺に向き直る。


「改めてこの男谷おだに精一郎せいいちろう、大川にての命の御恩に、深く礼を申し上げる。して、そなたの名を聞かせて頂けるか?」

「俺は、亮哉りょうやと言います。こちらこそ、助けてくれて有り難うございます」


 俺が自己紹介と共にお礼を言うと、お侍さんは、心なしか顔を綻ばせた。





 相撲観戦をした翌日の、十月二十五日朝。手習い所が休みなので、すずさんはおあきちゃんと共に西の縁側に座っていた。


 俺は昨日再び手回し式充電器でスマートフォンの電源を満タンにしておいたので、すずさんとおあきちゃんの前で操作して見せた。


「じゃあ、再生しますよ」


 そう言いつつ、俺はスマートフォンの動画再生ボタンをタップした。


「のこった! のこった!」


 スマートフォンから音声が流れ、行司の掛け声と共に力士同士の肉弾戦の音が弾ける。


 すずさんは食い入るようにスマートフォンの画面を見つめ、おあきちゃんは目を丸くしている。


 ひと試合が終わり、動画再生待機画面に戻る。


 俺は口を開く。

「これが回向院での相撲です。流石さすがじかに見るのとは、かなり臨場感が違いますけどね」


 俺が、本場所での相撲を見たことがないすずさんとおあきちゃんの為にしたサービスであったのだが、二人とも楽しんでくれただろうか。


「なぁ……りょうぞう……訊いていいかい?」

 すずさんが問いかけるので、俺は「何ですか?」と返す。


「おまいさん、とうに人かい!? 力士小さくして、こんな板に収めるなんてさ! こんな妖術、見たことないよ!」

「りょう兄ぃ! お相撲さんを小さな板から出してあげて! 閉じ込められてて可哀想だよ!」


 スマートフォンを初めて見た反応が、昔の人のそれであったことに、俺は冷めた目線を返すことしかできなかった。


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