いつか海にぶつかる日まで

太陽ひかる

一 アイネスとエーデルワイス

 わたくしが物語るということを始めたのはいったいいつのことでしたか、もうはっきりとしたことは思い出せません。ただわたくしは昔からずっと勇壮な戦士の物語を追いかけてまいりました。これから物語るのも、ある戦士の物語です。

 戦士の名はアイネス。

 物語はアイネスが宿敵を追いかけて森の腕に抱かれし街トリフェルドを訪れたときより始まります。このときアイネスは十九歳でした。


  一 アイネスとエーデルワイス


 アイネスはヒストリア川の雄大な流れに導かれるようにして、春の大地を南へ向かって歩いていた。

 川は涼しげな音を立てて水を運びながら、行く手に広がる巨大な森へと吸い込まれていく。その森の手前に街がある。巨大な都市に相応しい城壁を構えており、その四角い姿が夕空の底に黒々と聳え立っている。日が暮れれば門も閉ざされてしまうので急がねばならない。アイネスは落日と競いながら、夜の来る前にその街へと辿り着いた。

 街の入り口となる城壁のトンネルでは、衛兵たちが壁の燭台の明かりを頼りに、街に入る人間を一人一人検めていた。アイネスにも一人の兵士がついたが、その目に不審の色が漂い出したのも無理はない。

 アイネスは精悍な顔立ちをした黒髪の若者だ。目の色も黒で、背が高く肩幅は広い。胴鎧を身に着け、左腰には一振りの剣を佩いている。それが単なる飾りでないことは、少し腕に覚えのある者が見ればわかるだろう。

「商人じゃないな」

「ああ、戦士だ」

「てことは、国境を越えて竜王国へ行くのか?」

「竜王国?」

 アイネスが小首を傾げると、男は意外そうに目をまたたかせた。

「ベルギア竜王国だ。知らないのか。あそこは今、ちょっときな臭い」

「どんな風に?」

 男は杖のようについた槍に体重をかけて、アイネスに値踏みするような視線をあてた。

「一年前に先の王様が亡くなってな。今は十六歳の女王様が治めてるんだが、どうも頼りない。で、またぞろ瑞雲国との戦争になるんじゃないかって噂だ。あんた傭兵なんだろ?」

「たしかに金を稼ぐために傭兵をすることはある。だが今は人を探す旅の途中だ。こんな腕輪を嵌めた男を見なかったか」

 アイネスは右腕を兵士にずいと差し出した。よく日焼けし、筋肉のついた裸の腕には、金と銀の竜の絡み合う腕輪が嵌っている。兵士の目が物欲しそうに細められるのを見て、アイネスは腕を引っ込めた。

「背は俺よりずっと高い。巨漢で銀髪、褐色の肌、青い目をしている」

「名前は?」

「オーディ・オード。余人にはオードと名乗っているはずだ」

「知らないな」

「そうか。じゃあ最近街でなにか変わったことはないか。たとえば人が殺されたとか」

 兵士はぎょっとしたように目を見開いた。アイネスはその様子を真剣に見返した。やがて何がおかしいのか、男が呵々と笑い出す。

「よしてくれよ、物騒な。そのオードって奴は殺人鬼なのかい?」

「そうだ」

 男の笑い声が途絶えた。今度は男も、アイネスに負けず劣らずの真剣な目つきになる。

「ここは国境の街トリフェルドだ。人の出入りが激しいから事件も起こるが、殺人なんてものは起きちゃいない。それより俺はおまえさんが心配だ。こう云っちゃなんだが、傭兵なんてのはごろつきの類だからな」

「長居はしない」

「本当だな?」

「オードがいなければ出て行く。あんたの話してくれた竜王国に行くのもいいな。本当に戦争が起こるなら、路銀を稼げるし、奴がいるかもしれん」

 男はアイネスのことばに納得したように頷き、体をどかした。

「よし、通れ、ここを出た先が目抜き通りだ。宿も食事処もすぐに見つかるだろうよ」

「ありがとう」

 アイネスは兵士の横を通り過ぎて、城壁のトンネルを抜けた。


 食事をすませたあと、アイネスはあちこちの酒場や食事処へオードのことを訊ねて回った。これで何軒目になるかは筆者も数えてはいないが、まあ五指には余るであろう。そこは大口の酒場で、店先の敷地に食卓や椅子が並べられて露天をなしていた。

 一同に向かって大声を張り上げたところ、アイネスはいきなり一人の泥酔した男に絡まれた。軽くいなすこともできたが、酔漢どもの注目を集める好機と思って、アイネスはその顔に鉄拳を見舞ってぶちのめした。男の体が独楽のように回って食卓に激突する。食卓が倒れ、皿や杯が派手な音を立てて散らばった。

 わっ、と周囲から歓声があがる。

「この野郎!」

 男の仲間と思しき男たちが次々に立ち上がって向かってきたので、アイネスはやんやの喝采のなか、その全員を楽々と殴り倒した。

 笑顔を広げて力こぶを示していると、恰幅のいい女性が店から飛び出してきた。

「喧嘩するならよそでやりな!」

 アイネスはそうきつい声を飛ばした女性に一言詫びると、注目の的になっているのを感じながら一同に向かって両手を広げた。

「人を探している――」

 それからアイネスはオードの名と特徴を話して聞かせた。

「誰か知らないか」

 客たちは互いに顔を見合わせたり野次を飛ばしたり、興味をなくしたように食事を再開するばかりで、アイネスの期待に応えてくれる者はいなかった。また空振りか、とアイネスが差しうつむいたときである。

「知ってるよ」

 男の声だった。露天の片隅の席から、狐みたいな顔をした長身痩躯の男がこちらを見ている。金茶色の豊かな髪を油で撫でつけていて、眼光は鋭い。身なりは上等に見えた。

「あんたの云うような特徴の男を見たぜ」

「本当に?」

「巨漢で銀髪、褐色の肌、青い目をした剣士だろ? 間違いない。なによりあの太い腕にあんたがしてるのと同じ腕輪を見た」

「では剣は?」

 男の顔がやや強張った。アイネスは手応えを感じて意気込んだ。

「たとえ鞘から抜かれていなくとも、あの男の剣には一目でわかる特徴がある」

「ほのかに、青白く光ってた」

 そこで男は自分の失言を悔いるように片手で口元を覆った。一方、アイネスは興奮に目を見開いていた。

「どうやら、間違いないようだな」

「あれは一体何だったんだ? 最初は光りの加減かと思ったんだが……まあいい」

 男は気を取り直したように作った笑いを浮かべると、向かいの空席を指で示した。

「座りなよ。話を聞かせてやろうってんだ」

 アイネスは背負っていたリュックを下ろし、促されるまま固い椅子に腰を落ち着けた。すかさず店員が注文をとりにくるので、アイネスは「エール」とだけ短く云った。


 アイネスがエールを一口飲んだところで、それまで黙ってアイネスに視線をあてていた男がやっと口を開いた。

「俺の見たことを話す前に聞かせてほしいんだが、あんたの追ってるそのオードって男は何者なんだい? 具体的にどんな奴だ?」

「戦士だ。とても強い。そして危険な思想の持ち主でもある。俺は彼を止めるために来た。知っているなら教えてほしい」

「金で動く?」

「そういう人格ではない」

「奴の目的は?」

 アイネスは眉をひそめた。

「なぜそんなことを知りたがるんだ。金がほしいなら」

 腰のベルトの財布に手を伸ばそうとしたアイネスを、男が手の平を向けて制する。

「金はいらない。俺がほしいのは情報だ」

 酔漢どもの馬鹿騒ぎも霞む、きっぱりとした声だった。

「そもそも俺がこの街にいるのも、その戦士がこっちの方から来たらしいって情報を得たからでね。せめて正体くらいは探れるかと思って調べに来たんだ。そうしたら、こうして思わぬ出会いがあった。俺はついてる。そしてあんたも、ついてるんだぜ?」

「つまり、情報交換がしたいと?」

「そういうことさ」

 その言葉を聞いたアイネスは、気持ちを切り換えるようにため息をついて姿勢を楽にした。

「俺はアイネス、北から来た。あんたは?」

「パリスだ」

「よし、パリス。奴の目的が知りたいんなら教えてやる。殺人そのものだ」

「ふむ。わからん」

「だろうな」

 アイネスはエールを呷った。ぬるい苦さが口のなかに広がっていく。

「今度はあんたの番だ。教えてくれ、オードをどこで見た?」

「その前にアイネス、あんたこの街についてどれほど知ってる?」

「国境の街ということだけだ」

「よし。じゃあこの辺の地理について一つ語ってやらなくちゃなるまい」

 パリスは食卓に片肘をつくと、肉を一切れ指で摘んで口のなかに放り込み、くちゃくちゃと噛みながら話し出した。


 ここトリフェルドの南には底知れぬ森が延々と広がっており、この森がこちらアルカイック騎士王国と、その向こうにあるベルギア竜王国との、天然の国境をなしている。この森の中央を、ヒストリア川が南北に貫いて流れていた。

 たったこれだけのことを話すのに、パリスはずいぶんと時間をかけた。飲み食いしているだけでなく、時折まったく関係ない挿話をするからだ。そのうえ微醺を帯びてきたらしい、話す言葉が覚束なくなってきている。

「どこまで話したっけ?」

「ヒストリア川が両国の交易路になっているというところまでだ」

 アイネスは声に苛立ちを込めてぶつけた。

「そうそう、ヒストリア川だ。ベルギアってのは土地が痩せてて作物が育たない。だが豊富な金山を持っててな、この辺じゃ金の産出量が頭一つ抜けてる。それを元手に交易しているわけだが、移動にこの川を使わなきゃならんのは、二つの国のあいだに広いひろーい迷いの森が広がっているからさ。歩いて行くのはとても危険だ。なぜだかわかるかい?」

「知るか」

 短く吐き捨てたアイネスに、パリスは冗談めいた口調で云う。

角耳族つのみみぞくがいるからさ」

 アイネスはどう反応していいのかわからなかった。角耳族という種族がいるのはもちろん知っている。なんでも森の奥で他種族を寄せ付けずにひっそりと暮らしている、気難しい連中だそうだ。好戦的ではないが森に踏み込む者には容赦がなく、様々な幻術を使って殺してしまうのだという。容姿は人間に近いがそれは人を誑かすための擬態で、本性は醜い化け物らしい。人間の子供を頭からばりばり喰らうという逸話も耳にしたことがあった。ただアイネスは、角耳族を実際に見たことがない。

「本当にいるのか?」

「勇敢な木こりや無鉄砲な少年が、森に出かけてそのまま帰ってこないなんてざらさ。まあとにかく、死にたくなけりゃ森には近づくなってのが、この辺の不文律なんだが」

 笑いを含んだ声で話したパリスは、そこで口調をがらりと変えた。

「最近になって、その森でちょっと変わったことが起こった」

 その目つきは真剣で、酔いなど微塵も感じさせない。

「俺はその日、ベルギア竜王国の首都ベルンで色々と調べ物をしてたんだ。そしたら戦支度をした兵隊さんたちが、馬に空の荷車を牽かせて出て行くじゃないか。これは臭いと思って後をつけたんだよ。奴らは森の傍まで行った。いったい何が始まるんだろうと思って様子を見てたら、森から大男の戦士が出てきたんだ。ほら、あんたの云ってた」

「オードか!」

 アイネスは勢い込んで食卓に身を乗り出した。

「そいつは森から出てきて、どこへ行った?」

 するとパリスは苦笑いしながら、酒の匂いをふりまいて云う。

「そう結論を急ぐなよ」

 アイネスは渋々引き下がり、椅子に座りなおした。パリスが長い人差し指を立てる。

「森から出てきたその戦士は、今度は兵隊さんたちを引き連れて森に入っていったんだ」

「角耳族と戦争でもしにいったのか」

「わからん。俺は森には入らなかったからな。で、一夜明けて、奴らは森から出てきた。大荷物を抱えてな」

「荷物?」

「ずだ袋さ。人がすっぽり入りそうな大きさのな」

「おい、まさか」

「決めつけちゃいかん。確証は何もないんだ。ただ奴らはそのずだ袋を空の荷馬車に載せると、森を後にした。俺はやつらを追跡した」

 そこでパリスは言葉を切ってエールを呷った。喉仏が何度も上下する。アイネスは両手を組んで先を急ぎたい気持ちを堪えた。ジョッキが食卓に乱暴な音を立てておかれると、手の甲で口元を拭うパリスに、熱のこもった早口で訊く。

「で、オードとおぼしき男とその兵士の一団は、ベルギアのどこへ向かったんだ?」

「それより俺が気になるのは、森で何が行われたのかってことなんだ。情報は何にしても正確じゃなきゃいけない。憶測で物事を決めつければ大変な過ちを犯すことになる。それに奴らが何をしたのかは見当がついても、なぜそんなことをしたのかはさっぱりなんだ。もっと精度の高い情報がいる。この際、真実は森のなかに入って確かめるしかない」

「では森に行けばいい」

 アイネスが不機嫌な声でそう促すと、パリスは大仰に肩をすくめた。

「角耳族のいる森なんて冗談じゃない。いや、それを抜きにしたって、あの森は深いんだ。うっかり迷えばまちがいなく死ぬ。できれば誰か代わりに行ってほしいと思ってる」

 パリスのアイネスを見る目には期待が籠もっていた。アイネスは目を伏せ、嘆息した。

「よくわかった」

「話が早くて助かるよ」

 パリスは笑顔を広げてアイネスに手を差し出してきた。

「森で何が行われたのか、確かめてきてくれ。その情報と引き替えに、オードって男と馬車の一団がどこへ向かったのか教えよう」

 アイネスは渋い顔でその手を握り返した。

「森のどの辺りだ?」

「川の西側ということしか判らない」

「広いな」

「生きて帰れたらベルンに店を構えてる金蘭亭きんらんていってとこに来てくれ。うまい飯をおごるよ」

 パリスは茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。


 その後パリスと別れたアイネスは、その晩は宿を取って休んだ。

 明くる日は地図と食糧を買い、情報を集め、一日かけて森を踏破する準備をした。アイネスが森に入ったのは、さらにその翌日のことである。


        ◇


 光りの差さぬ、肌寒い蒼然とした森だった。あちこちの葉から朝露がしたたり落ちている。辺りは鳥の歌声に満ちている。虫の羽音もした。そして大いなる森のうねりが、ときおり頭上を通り過ぎていく。最初そのうねりを耳にしたときは、すわ魔物かと思って剣の柄に手をかけたアイネスであるが、冷静になってみれば何のことはあらん、風が木々の枝々を渡り、葉叢はむらを騒がせる音に過ぎなかった。

 厄介なのは、どこを見回しても似たような景色ばかりが広がっているため、だんだん方向感覚を失ってきたことだ。そのまま日没を迎え、木の根方で毛布にくるまり、虫と温気がひたすら不快な夜を過ごすことになる。次の日も平穏だった。

 だが三日目。リュックを下ろして太い木の根にまたがり、途方もなく巨大な樹の幹にもたれて休んでいるところを、アイネスは襲われた。

 最初に聞いたのは、弓弦を弾く音だった。横様に飛び退くが早いか、直前までアイネスのいた空間を風切り音が貫いていく。白い矢羽をつけた一本の矢が、爽やかな音とともに樹幹に突き立った。

 木の根から土の上に落ちたアイネスは、立ち上がりながら剣を抜きつつ、森の薄闇に顔を振り向けた。

「待ってくれ! 話をしたいんだ!」

 しかし叫びは空しく森に吸い込まれて消え、返事の代わりにまた矢が放たれた。それを見るなりアイネスは目を剥いた。矢が蛇行しながら飛んでくる。さながら意志ある生き物のように樹間を縫って、ひゅんひゅんと鳴きながらアイネスの眉間を狙ってくるのだ。

「くっ!」

 アイネスは左手で右腰の短剣を抜きざまに投げた。短剣は狙い過たず、矢にぶつかって烈しい音を立てる。だが矢は空中で体勢を立て直し、獲物を狙う猛禽さながらに飛翔してアイネスの右肩に食い込んだ。たまらず尻餅をついた拍子に剣が手から零れ落ちる。その剣の柄を求めて本能的に動き出した手を止める声があった。

「動かないで」

 銀鈴を転がしたような女の声である。

「ゆっくり、こっちを見なさい」

 アイネスは云われた通り、前方に視線を投げた。女が立っていた。黄金色の髪が腰まである若い女だ。人間離れした美貌の持ち主で、雪花石膏の肌とあいまって、とても赤い血の流れている生き物とは思えない。エメラルドグリーンの双眸がアイネスにひたと据えられている。頭が小さく、袖のない緑色の衣服を身につけており、左手に長弓を携え、腰のベルトに剣と矢筒を提げていた。長い脚に膝まである茶色のブーツを履いている。そしてこれが一番の特徴なのだが、金髪のあいだから真横に長い尖った耳が突き出していた。噂に聞いていた角耳族そのものの娘だった。

「剣を拾ったら殺すわ」

 女はそう警告すると、殺気立ちながら下生えを踏んでアイネスに近づいてきた。アイネスは足を投げ出して座り込んだ格好だ。尻の下に土のしめりけを感じながら、女に眼差しを据え、頭の片隅で手と剣の距離を計っていた。

 女がアイネスの間近で立ち止まった。ほのかに花の香りがした。気品ある匂いだ。そういう香水をつけているのか、それとも角耳族というものはみんなこんな匂いを放つのか。その女はアイネスの右腕の腕輪を見て、人間とは思えぬ美貌に怒りを張り詰めさせた。

「人間の剣士、右腕に金と銀の竜が絡み合った腕輪」

 女は弓を投げ捨て、右手で剣を引き抜いた。アイネスの剣とまともに打ち合ったら折れそうなくらい細い長剣である。ただ切っ先は鋭く研ぎ澄まされており、それが森の薄闇のなかで異様な輝きを放っていた。その剣がアイネスの喉元に突きつけられる。

「私の里を襲ったのはあなたね」

「違う」

 アイネスがかすれた声でそう答えると、女の目に軽侮のひかりが宿った。命惜しさに嘘をついたと思われたに違いない。だが本当に違うのだ。

「俺と同じ腕輪をした男が、君の里を襲ったんだな?」

「そうよ」

「ならばそいつはオーディ・オードという男だ。俺ではない」

「なぜそんなことを知っているの?」

 女がアイネスの喉に剣先を押しつけた。殺意が迫ってきた。喉の皮膚がやぶれて血が滴るのがわかる。

「答えて」

 アイネスは喉元の刃と戦いながら、強張った声を振り絞った。

「俺はオードを追ってきた。奴がこの森でなにかしたという噂を聞いて調べに来たんだ」

「じゃあどうして同じ腕輪をしているの」

「兄弟だからだ」

「兄弟ですって?」

 ぎり、と女が歯ぎしりする音さえ聞こえたような気がした。

「やっぱり仲間なんじゃない! 答えて、みんなをどこへやったの?」

「だから、俺はオードを追ってきたと云っているだろう。わかれ」

「わからないわ。わかるように説明してちょうだい」

 肩がずきずきと痛む。さっさと矢を引き抜きたい。だが女の目は、アイネスが少しでも動けば喉を一突きにすると語っていた。

「少しばかり長い話になる」

 女の顔にはなんの感慨も浮かんでいない。ひょっとしたらこの女は俺を蟻かなにかだと思っているのではないか。そんな疑念を懐きながら、アイネスはなおも語りかけた。

「剣を引いてほしい。それから傷の手当てをしたい」

 女の両目が底光りしたかと思うと、アイネスの喉元から剣先が少しだけ引かれた。それだけでも精神的にはだいぶ楽になる。アイネスは自分の息遣いがいつのまにか浅くなっていたことに気づき、大きく息を吸った。

「矢を抜くことだけ許可するわ」

 アイネスは「ありがとう」と礼を述べて右肩に刺さる矢を左手で引き抜いた。鏃に返しがついていなかったのが不幸中の幸いだろう。アイネスは血のついた矢を脇に投げ捨て、疲れた面持ちで女を見上げた。

「矢が生き物みたいに飛んできた。あれが名にし負う角耳族の魔術なのか?」

「お喋りしてないで、オードという男のことを云いなさい。話に不審な点があれば殺すわ」

 そのきつい物云いにアイネスは嘆息した。だが気持ちを切り替え、峻厳な顔つきの女をぼんやりと見上げて、舟を漕ぎ出すように話し始めた。

「俺はさる高名な剣士の弟子で、師と三人の兄弟子とともに諸国をさすらい、戦争に参加したり秘境を探ったりしてきた。オードというのは、その一番上の兄弟子だ。俺たちは互いに血が繋がっていないが、同じ師に剣の教えを乞う兄弟だった。仲はよかったよ」

 アイネスは昔を懐かしもうとする心を縛り上げて先を続けた。

「ある国の戦争に参加したときだ、師が命に関わる傷を負った。もう自分が助からないとみた師は、臨終に際して俺たち四人の弟子に遺産を残した。オードには奥義を、三番目の兄と俺には、それぞれ名のある剣をくれた」

 アイネスは右手の近くに転がる剣に眼差しをあてた。

「二番目の兄には何が遺されたの?」

「血だ。彼は師の実子だった。師は死ぬ間際になって初めてその事実を彼に明かしたんだ」

 アイネスは短く息を吐いた。

「話を戻そう。ともかく俺の師は死んだ。そしてその後、オードが三番目の兄を殺して剣を奪ったのだ。魔剣をな」

「魔剣……」

 女はなんとも実感の湧かなそうな顔をしていた。それを見てアイネスはほっとした。この人間とは思えぬ美貌にも、怒りや惑いといった、アイネスにもわかる情が浮かぶのだ。言葉も通じるし、角耳族も噂に聞くほどの化け物ではないらしい。

「それは本物の魔剣なの?」

「そうだ。魔剣にも色々あるが、そいつはまさしく魔剣中の魔剣、極めつけの呪われた剣だ。なんといっても人の魂を喰らう」

 女はうさんくさそうに眉をひそめた。アイネスは構わずに、口を極めて語る。

「オードはその魔剣で百万人殺すつもりだ。そしてそれを阻止したいなら、俺に後を追ってこいと云った。自分を止めてみせろと。オードにはオードの考えがある。だが俺は」

 そこで云い淀んだのは、出会ったばかりの相手に本音をさらけ出すことを躊躇したからだ。しかし衷心からあたらねば、相手の心にも響かないだろう。

「俺は兄を止めたい。昔みたいな兄弟に戻りたい。だから奴を追ってここまで来たんだ」

 そこでアイネスは言葉を切った。あとは彼女が今の話を信じてくれるかどうかにかかっている。二人はお互いの心を見極めようとするかのように、長いこと見つめ合っていた。やがて女が口を開く。

「嘘を云っている目には見えないわね」

 アイネスはほっとして笑顔を広げた。

「もちろんだ。どうか俺を信じてくれ」

「信じる?」

 女が鼻先でアイネスを嘲った。

「信頼というのは長い時間をかけて積み重ねていくものよ。ましてあなたは人間。そう簡単に信じることなんてできないわ」

「なら、どうすればいい?」

「そうね……」

 女は顔を横向けて思索に耽りだしたようだった。彼女としてはアイネスに剣を突きつけたままだから、それで充分と考えたのだろう。しかしアイネスにとってはそうではない。今なら油断をついて剣を取り、攻撃をしかけることもできる!

 だがアイネスは敢えてそれをしなかった。

 やがて女はアイネスに目を戻した。

「一緒に、私の里まで来てちょうだい。生き残りがいるから、彼らにあなたが私の里を襲った人間かどうか確かめてもらうわ」

「おまえは見てないのか?」

「私は里が襲撃されたとき、留守にしていたのよ」

「なるほど。だから無事だったわけだ」

 アイネスは得心がいって頷いた。

「わかった、おまえと一緒に行こう。立ち上がってもいいか?」

「その前に、あなたの剣を預からせてもらうわ」

「構わないが、師から受け継いだ大事な剣なんだ。俺の潔白が証明されたら返してほしい」

「約束しましょう」

「信じよう」

 すると女は一瞬、恥じるようにアイネスから目を逸らした。だがふたたびアイネスに目を向けたとき、その顔には二倍の敵意が漲っていた。

 女はすばやくしゃがみ込んでアイネスの剣を拾い上げると、自身の剣を鞘に収め、投げ捨ててあった長弓を拾った。そしてアイネスの剣をアイネスに突きつけてくる。

「立って。背中を向けてちょうだい」

 アイネスは云われた通りにした。立ち上がったときに角耳族の女が思ったより長身なことに気づいたが、問答無用で後ろを向かされ、背中に剣の切っ先を擬せられる。

「これから私の云う通りに歩いて。一緒に里まで行ってもらうわ」

「荷物を拾いたいんだが」

 アイネスは木の根元に下ろしたリュックや、先ほど投げた短剣が気になっていた。だが背後で女が首を振る気配がする。

「だめよ」

 にべもなくそう答えた彼女は、剣の切っ先を軽くアイネスの背中に押し当て、前に進むよう促してきた。アイネスは諦めて仄暗い森のなかへと歩き出しながら、なおも口を開いた。

「さっきみんなをどこへやったの、と訊いたな」

 アイネスはパリスの話を思い出していた。森から出てきた兵士たちは、人一人がすっぽり入りそうなずだ袋を抱えていたという。

「やはり連れ去られたのか」

「黙って歩けないの? それとも人間は喋らないと死ぬの?」

「わかったよ」

 しかしアイネスは立ち止まって肩越しに振り返った。

「ただせめて名前くらい教えてくれないか? 云い忘れてたが、俺はアイネスだ」

 女は眉間に皺を作って黙り込んでいたが、やがて早口で云った。

「エーデルワイス」

「長いな。エーデルって呼んでもいいか?」

「好きにすれば」

「よし、決まりだ。よろしくエーデル」

 アイネスは握手でもしたいところだったが、剣にせっつかれて仕方なく歩き出した。


 暗い森を長い時間、飲まず食わずで歩かされた。しかも喉と肩の傷は手当てもしてもらえない。血が固まった嫌な感触がする。変な虫がわかないかが心配だった。エーデルワイスはいつのまにか剣を下ろし、アイネスの横に並んで歩くようになっていた。

「なあ」

 アイネスがそう声をかけると、エーデルワイスは弾かれたように飛び退いて剣をアイネスに突きつけてきた。アイネスは敵意がないことを示すようにひとまず両手を広げた。

「おまえ、本当に道がわかってるのか? でたらめに歩いてたりとか、しないよな」

「この森のことは私が一番よく知っているわ。心配しないで」

「ならいいんだが、いつになったら着くんだ」

 アイネスは頭上を仰いだ。深い森の底にいて空も見えないが、全体的な暗さから夜が近づいてきているのがわかる。

「明かりはないのか?」

「森のなかで火を使うなんて馬鹿な真似をするのは人間だけよ」

「このまま夜になったら、何も見えなくなる」

「私はこの森なら目を瞑ってでも歩き回れるわ」

「俺はおまえがどこにいるのかも判らなくなるぞ」

「仕方ないわね」

 エーデルワイスは足を止めて辺りを見回し、剣先で巨木の下を指し示した。木の根っこが土から浮き上がっているところがあり、その下に潜り込めそうな空間がある。

「そこに入って」

「俺を何だと思ってる」

 アイネスは文句を云ったが、口論しても消耗するだけだとわかりきっていたので、しぶしぶ根っこの下に入り込んだ。湿った土の上に座り込むと尻に冷たさを感じる。

「毛布はないのか」

「あるわけないでしょう」

「冷たい土がどれだけ人の体温を奪うか、知らないわけじゃないだろう」

「一晩くらい我慢して」

 エーデルワイスは身軽に根っこの上に飛び乗り、腰を下ろしたようだった。アイネスからはぶらぶらさせた二本の足が見える。

「そこで大人しくしてなさい。朝になったら出発よ」

 アイネスはもう口を利く気力もなかった。やがて夜が薄暗い森を射干玉ぬばたまの闇で塗りつぶしていく。あまり眠れなかった。圧力すら感じる闇のなか、虫のすだきだけが聞こえる。

 アイネスとエーデルワイスが角耳族の里に着いたのは、翌日の昼頃のことだ。


 森のなかに忽然としてその都市はあった。そう、角耳族の里は樹木に囲まれた円形の土地に無数の塔が建ち並ぶ、広大な都市だったのである。

 塔は白い大理石の塔、黒曜石の塔、陽射しを透かしてピンク色にきらめく硝子の塔など様々だ。道には白い煉瓦が敷き詰められ、さらにどこからか引かれた小川が、ちょうどアイネスの立っている石橋の下をさらさらと流れていた。

 しかし奇妙なのは、角耳族の姿がまったく見あたらないことだ。美しい街はそこかしこに襲撃の爪痕を残しながらも、まるきり無人である。それに死体や血の跡がまったく見られないのもおかしい。

「誰もいないのか?」

 アイネスがそう訊ねると、エーデルワイスは憂色の濃いため息をついた。

「みんな殺されるか、連れ去られるかしてしまったのよ。元は三〇〇人近くいたのに、残ってるのは、私を含めてたった四人」

 アイネスはさすがに絶句した。全滅だ。どうやら徹底的にやられたらしい。

「これからみんながいるところまで連れて行くわ」

 里の中央にはひときわ巨大な純白の塔が建っている。その塔へまっすぐ伸びる道を踏みしめながら、エーデルワイスはこの里を襲った災厄についてぽつぽつと語ってくれた。

 数日前、人間の軍勢が夜明けとともにこの里に攻め寄せてきたのだという。角耳族の戦士たちは弓矢と魔術を駆使して戦ったが、先頭に立つ戦士の尋常でない強さの前に敗れ去った。その戦士の右腕に、アイネスのと同じ腕輪が輝いていたというのだ。

「私も戦いたかった」

 悔しさの滲むその声に、アイネスはしんみりとなって尋ねた。

「里を空けていたんだろう?」

「ええ。他の里に使いに出ていて、用事はすぐに済んだんだけど、森の木を伐る不埒者がいたから追い払いに行ったのよ。でも今から思えばそんな人間、殺してやればよかった」

「少しくらい木を伐ったからって殺すことはないだろう。こんなことがあったんだから人間を恨むのもわかるが――」

「少しくらいですって?」

 エーデルワイスは横目でアイネスを睨みつけてきた。憎悪のこもった視線だ。

「これだから人間は嫌いなのよ。私たちのこと、なにも解ってないんだから」

「それを云うなら森の奥に引きこもり、人間を寄せ付けない角耳族の側にも問題がある」

「なんですって?」

 エーデルワイスがぴたりと足を止める。アイネスもそれに付き合って、気色ばむエーデルワイスを挑戦的に見返した。

「角耳族の側にも問題があると云った」

「野蛮な人間に云われたくないわ」

「おまえ、人間の友達はいるのか?」

「いるわけないじゃない。私はエルフよ」

「エルフ?」

「そう。あなたたちは私たちのこと勝手に角耳なんて呼ぶけど、私たちにはちゃんとエルフっていう種族の名前があるの」

「そうか」

 アイネスは気勢を削がれた思いだったが、気を取り直して話を先へ進めた。

「じゃあこれからはそちらの流儀に合わせてエルフと呼ぼう。それでエルフのエーデル、人間と話したことは?」

「あなたが初めてだわ」

「それなのになんで人間が野蛮だと解るんだ?」

「常識だからよ」

「人間のあいだじゃ、エルフは人間を食べるってのが常識なんだが」

「冗談じゃないわ!」

 エーデルワイスが激越な反応を示した。こういうとき、人間だったら満面朱をそそぐものだが、彼女の美しい顔は雪のように白いままだ。

「私たちは人間なんか食べない」

「よくわかった。そしておまえたちエルフが得体の知れない種族だから、人間もそんなでたらめを信じるんだってことを、おまえも解っただろう?」

「人間が私たちエルフに偏見を持ってるってことは、わかったわ」

「お互い様だ」

 低い声でそう吐き捨てたアイネスは、しかし、このまま決裂しては残念だと思い直した。

「人間のどの辺が気に入らないんだ?」

「森を荒らすところよ。森はエルフの世界なのに、勝手に入ってきて木を伐るからいけないんだわ。あなたたちが一切樹木に手をつけなければ、私たちだって少しは心を開くわよ」

「そんなのは無理だ」

「どうして!」

「木を伐らなければ、人間の生活は成り立たない。おまえたちだってそうだろう?」

「ええ、そうよ。でも私たちが木を伐るのは、材を採る以上に、森全体を活かすためだわ。一本の木を伐ることで、他の木の生長を助けるのよ。でも人間は森を壊すじゃない!」

「それだけ必要だってことだ」

 エーデルワイスが息を呑んだ。アイネスはさらなる爆発を予測して身構えたが、案に相違してエーデルワイスは静かに身を引き、顔を横向けてうっそりとこう呟いた。

「どうしてこの世に人間なんて生き物が蔓延ってるのかしら。絶滅してしまえばいいのに」

「そんなに木を伐るのが駄目なのか」

 アイネスは先ほどから視界の隅に映っていた、一本の若木に顔を振り向けた。道の端に、白い煉瓦を突き破って一本の木が生えている。こんなところから樹が生えているのは奇妙だったが、エルフの里では普通なのだろう。ここでは塔の扉の前や道のど真ん中に、ほっそりとした木が植わっていたり、美しい花が咲いていたりするのだ。

 アイネスは手近の若木に手を伸ばした。

「触らないで!」

 アイネスはぴたりと手をとめた。

「それに触らないで。人間が触れていいものじゃないのよ。それから足元にも気をつけてちょうだい。花を踏んだら殺すわ」

「わかった」

 アイネスは大人しく手を引っ込めた。エーデルワイスが厳しい顔をして歩き出す。純白の塔はもう目の前にまで迫っていた。


 純白の塔の一階部分には扉がなく、アイネスはエーデルワイスの後について、塔の外壁についた螺旋階段を上った。塔を一周するたび高さが増していく。右手には塔の白い壁があるが、左手にはなにもない。足を踏み外せば地面まで真っ逆さまだ。

 やがて階段が途切れ、塔の外壁から岩棚のように突き出している足場にやってきた。そこに花模様の彫刻された銀色の扉がある。両開きで、材質は一見した限りでは石か金属か判然としない。

 エーデルワイスはその扉を開けようとして困ったようだった。右手にアイネスの剣、左手に長弓を携えているので、両手が塞がっているのだ。

「俺が開けよう」

 そう申し出たアイネスをエーデルワイスはきつく睨みつけたが、咎めはしなかった。

 アイネスは扉に左手で触れた。冷たくて硬い。きっと重いだろうと思って力を込めて押したら、意外にも扉は簡単に開いた。

 扉の向こうは白い石の敷き詰められた円形の広間だった。壁に並ぶ無数の窓から差し込む光りのおかげで明るさは申し分ない。不思議なのは、塔のなかだというのに樹木や草花が点在していることだ。どれもほっそりとした木ばかりだが、根が床石のあいだに食い込んでしっかりと根付いている。

「なんでこんなところに樹があるんだ?」

 その問いかけにエーデルワイスは答えず、広間の中央に向かった。そこにエルフの男が、一人ぽつねんとうずくまっている。

 髪はエーデルワイスと同じ黄金色だが、肌は男の方が日に焼けて小麦色を帯びていた。長身痩躯の体に、袖のない、裾が踝まである緑色の長衣を身に着けている。

「今帰ったわ、グリンガルム」

 エーデルワイスにグリンガルムと呼ばれたエルフの男は、エメラルドの瞳でアイネスを胡乱げにねめつけてきた。

「人間」

 荒涼とした声である。

「連れ去られたみんなの手がかりになるかと思って連れてきたの。その様子じゃ、里を襲ったのは彼じゃなさそうね」

「ああ。だがあの男と同じ腕輪をしているな」

 グリンガルムの視線がアイネスの右腕に注がれていた。

「兄弟だそうよ」

「仲間か」

「いえ、例の男を追ってきたみたい。なんでも兇行を止めるんですって」

「そういうことだ。俺はアイネス。初めまして、グリンガルム」

「人間は嫌いだ」

 苦笑したアイネスに、エーデルワイスが逆手に持ち替えた剣を差し出してきた。アイネスはそれを右手で受け取ろうとして痛みに顔をしかめ、左手で受け取った。片手一本で剣を器用に操り、鞘にしまう。

 エーデルワイスが広間を見回しながら云った。

「ねえ、ペルペテュエルとオライオンは?」

「オライオンは哨戒に出た。会わなかったのか?」

「いいえ」

「しょうのない奴だ。こんな侵入者を見逃すとは、哨戒に出た意味がない」

「まったくだな」

 アイネスが頷くと、グリンガルムは不快そうに顔を強張らせた。ところが白い敷石のあいだから咲き出している一輪の赤い花を見るや、その顔がたちまち悲しみに掻き曇った。

「それからペルペテュエルだが、今朝方、手当ての甲斐無く死んだ」

「そう」

 エーデルワイスもまた悲しげに赤い花を見つめた。

「我らの都も随分寂しくなったものだ」

「そうね」

「ところで」

 アイネスが口を挟むと、二人のエルフは花からアイネスに視線を移した。アイネスはその眼差しを受け止めて軽く胸を張った。

「エーデルから事のあらましは聞かせてもらった。それでもう少し詳しく話をしたいんだが、その前に傷の手当てをしてくれないか」

「どうして私たちが」

 不満そうなエーデルワイスに対し、アイネスは噛みつくような声をあげた。

「おまえがやったんだろう」

「森に入ってきたあなたが悪いのよ」

「昨日からずっと痛いのを我慢してきたんだ」

 アイネスとエーデルワイスはしばらくにらみ合っていたが、やがてエーデルワイスの方が諦めたように嘆息した。

「仕方ないわね」

 エーデルワイスは身を翻したあと、肩越しにアイネスを振り返った。

「ついてきて」

「待て」

 頷いて歩き出そうとしたアイネスにグリンガルムからそう声がかかった。

 グリンガルムは懐から取り出した鶏の卵ほどの青い壜をアイネスに投げて寄越した。アイネスは驚きながらも左手でそれを受け止め、胸の高さに持ち上げてためつすがめつした。

「これは?」

「エルフに伝わる霊薬だ」

「霊薬?」

 と、不思議そうな声をあげたのはエーデルワイスであった。グリンガルムはエーデルワイスに一瞥をくれたあと、アイネスに眼差しを据えてぼそぼそと語る。

「善人にとってはどんな傷でもたちどころに癒してくれる魔法の薬だが、悪人にとっては確実に死に至る猛毒となる。どうだ、舐めてみるか?」

「面白い」

 アイネスは左手の親指で壜の蓋を開けた。ガラスの蓋が床に落ちて高い音を立てるのを聞きながら、壜の縁に口をつけて中身を呷る。どろりとした液体が流れ込んできて、口のなかにしつこい甘さが広がった。まるで水飴だ。

「甘いな」

 アイネスはそう述べ、肩の傷口を打ち見た。裂傷が口を開けており、赤黒い血がこびりついている。鈍痛は今もアイネスを苛んでいた。体にはなんの変化も訪れない。傷が塞がることもなければ、毒が回って倒れる気配もなかった。

「なにも起きないぞ」

 アイネスは不満そうな顔でグリンガルムを見た。グリンガルムの顔に苦笑が浮かぶ。

「躊躇なく舐めたな」

「悪人と呼ばれるほど悪いことをしてきたつもりはないからな。だがどうやら俺は善人でもなかったようだ」

「……ただの甘味だよ。花の蜜を集めて作ったものだ」

「だましたのか」

「試したのさ。この程度のことでもおまえの人格について、尻尾くらいは掴める」

 グリンガルムは先ほどから立ち尽くしているエーデルワイスに顔を振り向けた。

「エーデル、手当てをしてやれ。それから少し休ませてやるといい。だいぶ疲れているようだ。詳しい話はそのあとでする」

「云われなくてもそうするところだったわよ」

「普通の手当てではなく、癒しの魔術を使うのだぞ」

 グリンガルムのその声に、エーデルワイスはたちまち顔を引きつらせた。

「どうして私が人間に!」

「おまえがやったんだろう?」

「あなたまでそんなこと――」

 なおも反駁しようとしていたエーデルワイスの声が、急にしぼんだ。グリンガルムの瞳の圧力がそうさせたのである。それが兄の威圧的な眼差しであることを、四兄弟の末弟であるアイネスは懐かしく思い出していた。

 やがてエーデルワイスは長弓を強く握りしめた。

「わかったわよ」

「なあ、癒しの魔術ってなんだ?」

「黙って、ついてきて」

 エーデルワイスは据わった目でアイネスを睨みつけると、今度こそ脇目もふらずに歩き出した。壁際に上階へと続く階段がある。

 アイネスは釈然としなかったが、空になった壜をグリンガルムに投げ返すと、小走りになってエーデルワイスを追いかけた。


 階段を上った先は廊下が塔を半円に分かつようにしてまっすぐ伸びていた。両側の壁には扉がいくつも並んでおり、エーデルワイスはその一つを開けて中へ入っていく。そこは窓が一つしかない小部屋だった。部屋の一隅に水瓶が置かれているほかは、簡素なベッドがひとつあるだけで、他に家具と呼べるものはない。

「殺風景な部屋だな」

「小綺麗と云ってちょうだい」

 エーデルワイスは弓を壁に立てかけるとベッドを指さした。

「そこに座って」

「その前に水だ」

 アイネスは部屋の隅に置かれている水瓶の前まで行って中を覗いた。うまそうな水がなみなみと入っている。アイネスは俄然と喉の渇きを覚え、左手で水を掬って思うさま飲み始めた。

 アイネスの胃袋が重たくなったころ、

「もういいかしら?」

 と怒りと呆れが半分ずつ混ざったような声が飛んできた。腕組みしたエーデルワイスが、アイネスを厳しい目でねめつけている。

「ああ、悪い悪い」

 アイネスは口元を拭うと、大人しくベッドに腰掛けた。途端に疲労が襲ってくる。どうやら相当疲れていたらしい。エーデルワイスはそんなアイネスの前に立つと、顎を引いて尖った目つきで見下ろしてきた。

「これからあなたに癒しの魔術を施すわ。信じてもらえないかもしれないけど、これを使うと相手が致命傷を負っているのでもない限り、たちどころに回復するの。グリンガルムがペルペテュエルにやったときは駄目だったけど、あなたくらいの怪我なら治るはずよ」

「それは楽しみだ」

 屈託なく笑うアイネスに、エーデルワイスはあくまで冷たい声をあてた。

「まず目を瞑って。それから息も止めて。私がいいと云うまで絶対に目を開けたり息を吸ったりしないこと。これを破ったら殺すわ」

「わかった」

 アイネスは云われた通りにしたが、いつまで経ってもなにも起きなかった。だんだん、息苦しくなってくる。そのときなにか、気高い香りが鼻をくすぐったような気がした。

「なあ」

 アイネスが目を開けるや、小腰を屈めていたエーデルワイスが身を仰け反らせた。

「目を開けたら殺すと云ったでしょう!」

「待て待て」

 本当に剣の柄に手をかけたエーデルワイスを必死で宥めながら、アイネスは懸命に言葉を手繰った。

「息ができなくて苦しいんだ。時間がかかるなら云ってくれ」

「別に時間なんてかからないわよ! 初めてやるから勝手がわからないだけ!」

 エーデルワイスは強がるように叫ぶと、出し抜けにアイネスの胸ぐらを掴んできた。思わず身構えたアイネスの目に、エーデルワイスの美しい顔がみるみる大写しになっていく。驚きに包まれるのと、唇を合わせるのは同時だった。

 重ねられた唇を通して、熱い息吹がアイネスの体に流れ込んでくる。それは全身を駆け巡って灼熱させ、たちまち右肩から痛みを取り除いた。傷口の奥から新しい肉が盛り上がってきて、再生された皮膚がそれを覆う。アイネスの傷はあっという間に回復した。

 エーデルワイスが顔をあげても、アイネスはしばらく彼女の唇の柔らかさや、その髪から立ち上る高貴な香りにうっとりとしていた。

「今のは治療よ。わかってるわね?」

 その声に陶酔を破られたアイネスは、気持ちを切り換えて自分の右肩を見た。まだ固まった赤黒い血がこびりついているが、傷自体は完全に塞がっている。

「すごいな。まるで魔法だ」

「まるでじゃなくて、まさによ」

「うん。それはそうと、血のあとを拭きたいんだが」

「拭けばいいじゃない」

「布巾かなにか、ないのか?」

 エーデルワイスは面倒くさそうな顔をしたが、「ちょっと待ってて」と云い残して部屋を出て行った。彼女はまもなく清潔な布巾と水差しの入った籠を持って戻ってきた。

 その籠を受け取ろうとしたアイネスは、突如、右肩にびりびりとした強烈な刺激を感じて驚いた。エーデルワイスはその異変に目敏く気づいたらしい。

「急に傷が治ったから、体がびっくりしてるのよ。しばらく動かさない方がいいわ」

「じゃあ拭いてくれ」

「どうして私がそこまでしなくちゃいけないのよ?」

「頼む」

「いやよ。痺れはそのうちなくなるでしょうから、そのあと自分でやりなさい」

 エーデルワイスはそう云うと籠をベッドの横において腕を組み、つんとそっぽを向いてしまった。アイネスは黙ってエーデルワイスに視線をあて続けた。やがて沈黙の気まずさが押し寄せてきて、エーデルワイスは何度かアイネスをちらちらと見つめたのちに、組んでいた腕をほどいてため息をついた。

「……仕方ないわね」

 エーデルワイスは渋い顔をしつつ、布巾を水で濡らし、それでアイネスの肩を拭いてくれた。

「これで満足?」

「ああ、ありがとう。ついでに喉の方もやってくれると嬉しい」

 エーデルワイスは諦めたように嘆息して、右肩と同じようにアイネスの喉の血も拭いてくれた。そのとき、首を絞められるような感覚にアイネスは顔をしかめた。

「もうちょっと優しくやってくれ」

「注文の多い男ね」

 エーデルワイスはぶつくさ云いながらもアイネスの云う通りにしてくれた。それからベッドに座るアイネスを高飛車な目で見下ろしてくる。

「今度こそ文句ないわね?」

「うん、ありがとう。ところで腹が減った。なにか食べるものはないか?」

「ないわ」

 にべもないその返答にアイネスは眉をひそめた。

「ないこともないだろう。それとも俺に分ける食事はないという意味なのか?」

「そうじゃないわ。私たちは人間のような食事は必要としない生き物なのよ。穀物や肉類はいらないの」

 アイネスは絶句しかけた。完全に言葉をなくさなかったのは、先ほどグリンガルムに謀られたときのことを思い出したからである。

「だって花の蜜を集めた甘味を持ってたじゃないか」

「それは単純に甘いものを味わうためよ」

 布巾と水差しを籠に戻し、それを胸に抱いて立ち上がったエーデルワイスは、ふと思い出したように付け加えた。

「だから林檎か桃ならあるかもしれないわ」

 アイネスはほっとして相好を崩した。どうやら飢え死にしないですみそうだ。

「それで構わない。持ってきてくれるか」

「いいわ。ただ一つ断っておくけれど、こんな非常時でもなければ、私たちエルフが人間であるあなたに施しをすることなんか決してない。里に入ってきた時点で殺してるところよ。そこだけは勘違いしないでね」

「なぜそんなことを云うんだ?」

 するとエーデルワイスの眼差しが尖る。

「わからない人ね。れ狎れしくしないでほしいのよ。あなたちょっと厚かましいわ。私たちエルフと人間は、本来なら敵同士なんだから」

「敵?」

 アイネスは瞠若しながら左手で右肩をおさえた。もうそこに傷はない。傷は優しいくちづけでもって治してもらったのだ。

「もうそんな風には思えないな」

 するとエーデルワイスは籠を抱きしめる腕に力をこめ、顎を引いてアイネスを瞳の奥から見据えてきた。

「あなたって変だわ。人間ってみんなそうなの?」

「善い人間もいれば、悪い人間もいる。エルフだってそうだろう?」

「エルフは違うわ。みんな森を愛する善い人ばかりよ」

 エーデルワイスの瞳には一点の曇りもない。その輝きを否定するのも忍びなくて、アイネスは曖昧に頷いておいた。するとエーデルワイスは満足そうな顔をして、波にさらわれるように部屋を出て行った。

 一人になるとアイネスは鎧を脱ぎ、ベルトから剣を外し、それを抱いて右肩を上にして横になった。

 トリフェルドの街で会ったパリスという男がオードを目撃したのはもう間違いがない。オードがこのエルフの里を襲ったのも疑いようのない事実である。

 だが一体なぜ、なんのために?

 ベルギアの兵士が動いているのなら、竜王国自体が一枚噛んでいるということだ。

 パリスはエルフの里で何が行われたのかを確かめてきてほしいと云っていた。あの男はいったい何者で、なぜこんなことに首を突っ込んでいるのだろう。

 わからないことが一杯だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る