第95話

3月9日はどしゃ降りの水曜日だった。

蘭は、下校後クラスメイトの家に遊びに行く予定だったが、

「雨で、靴もソックスもビショビショになって気持ち悪かったから、やっぱり帰って来た。」

と、4時直前に帰宅した。これはうれしかった。

父の部屋では、説得する山本さんと家族、渋る父の攻防が終息しようとしていた。母も、入院は仕様がない、と判断していた。

私と蘭は、父(祖父)の枕元に立った。

「蘭か。じーちゃん、もう帰って来られへんかもしれん。」

と、薬の副作用でほとんど見えなくなった目を孫に向けた。

「短い間やったけど…… 3年余りか……… それでも孫と一緒に暮らさせてもろた。」

と、弱気な台詞を吐いた。蘭は今でこそ反抗期だが、桂よりおじいちゃん子だった。

「帰ってこうへんと、許さへんで。」

と言うので、私は鼻の頭が酸っぱくなった。一人っ子の私の子供は蘭と桂の2人。桂は台湾にいるので、父のそばに寄れる孫は蘭しかいない。


息が切れて、自家用車まで行くこともままならなくなって久しい。

山本さん主導で、救急車の手配と日赤の入院受け入れ準備が進められた。

母は何度目かの入院準備に走り回っていた。父は救急隊員3名の手で、横たわった敷布団のまま、救急車まで運ばれた。

4:30頃には、雨の中、父を乗せた救急車は西へ遠ざかって行った。


夜9時前、日赤から帰って来た母は、

「長期戦になりそうやで。」

と決意を固めるように言った。

翌木曜日の夜、私は蘭に、

「週末土曜日か日曜日に、じーちゃんのお見舞いに行こな。」

と言うと、彼女はコクリと頷いた。


力のある声。この場にいたっても出る駄洒落。〝いろいろ試してみたい治療がある〟との片岡院長の言葉。長期戦。

うつ症状に押される重い身体と頭で、私もそのつもりになっていた。

なのに、父は翌朝3月11日8:58、気心の知れた看護師・上田さんとの会話途中に、急にしゃべらなくなり、それっきりだった。


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