第96話

母は55年間寄り添い合った夫の最期を看取れなかった。

「今日は、朝遅めに出て、お昼お父さんと一緒に食べて来る。」

そう言って家を出た。新婚時代から変わらぬ仲睦まじい夫婦だった。母は入院病棟の廊下で、

「乾さんが話ししてないんやわ〜」

と、目を真っ赤にして駆け出て来る看護師の上田さんを見た。

少し震えが伝わる声で母が電話をかけて来たのは、9:03頃。

「信じられへんやろ……」

陳腐な言い様だが、私は「えーっ!」と漏らすだけで、本当に〝信じられなかった〟。長期戦って言ったじゃない。また帰って来る、と信じていた。

だから、

「どうせあかんなら、家におりたい。」

と入院を拒む父を説得した。家にいては危ない、と思ったから……


日常生活に埋もれると、寝たきりの父のそばには母以外、私も蘭もあまり行かなかった。様々な用事や介助は、母がして完結するものがほとんどだったし、台湾から帰国定住後は先の通り如意には行かず、話題が乏しかった上、ここ1年ほどは『台湾へ帰りたい』が本意だったため、よけい父とじっくり話しにくくなっていた。「そんなこと、お父さんには言わんといて。」と、母にも咎められていた。当然である。

この悔しく、申し訳なく、心残りな気持ちは蘭も同じだったらしい。

小学校には敢えて知らせず、毎週金曜日のピアノのお稽古に直接行き、夕方5時過ぎ帰宅して初めて祖父の死を知った蘭は、すでに集まった親戚たちがいる応接間には顔を出さず、物言わぬ祖父が眠る仏壇の間に1時間以上座り込み、泣き続けた。

「もう〜、なんで? まだ、なんにもじーちゃんに言うてない!」

蘭が言わんとする意味はよく理解できた。私も然りであった。私など47年間も育ててもらったくせに、何を言ってきただろう。何をしてやっただろう。

ただ…… 思いつくこと。

蘭と桂を産み、父に抱かせ、見せてやれたこと、それだけが、唯一の親孝行だった。

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