インタルード3

 朝、巡季は、全治三週間の大怪我だったのにも関わらず、あっさりと意識を取り戻した。もちろん、集中治療室にも入ってない。

 真澄は、血まみれの服で歩き回るわけにも行かず、不服ではあったが弟の四音に着替えを届けてもらった。四音は慣れているのか、血まみれの真澄を見て眉一つ動かさない。

 真澄は容姿で弟にコンプレックスを抱いていた。四音は、きれいな黒の長髪と顔立ちを持っている。いつも女の子に間違われると不満を漏らしていた。なら、髪を切ればいいと真澄は常々思う。弟とはいえ、男に容姿で負けていることにへこまされることも多い。トイレにある鏡の前でため息が漏れる。だが、気を取り直し持ってきてもらった服を身にまとい、化粧を直し、またいつもの自分に戻った。表面的には、そのつもりだ。

「ねえ、四音。シエには会っていかないの?」

「興味ねえよ」

 絶対嘘だ。真澄は直感的に思った。ただ強がっているだけだろう。本当は、会えると期待していたから真澄の着替えを持ってくるといった雑務をこなしたはずだからだ。

「……なあ、姉貴。そっちの世界に首突っ込んでて辛くないか?」

 真澄は一瞬言葉を失う。正直、驚いたのだ。今、真澄が揺らいでる問題そのものだったからだ。

「辛そうに見える?」

 なけなしの笑顔。きっと思ったほどに笑えてないだろう苦笑い。

「今日に限って、見える」

「そう……。心配してくれてありがとう。でも、まだ大丈夫」

 多分。と、心の中で付け加える。それに、きっとこれで最後だから。

「そっちの世界にいるとまた血まみれになるかもしれないし、もしかしたら血の池ので泣くことになるかもしれない。もしかしたら姉貴がその池の底にいることになるかもしれない」

 真澄の知らない世界を語る弟。それは、ものすごく現実的に聞こえて。

「それは、経験?」

「違うけど、俺のいる世界はそういう世界だと思ってる」

「……やっぱ、シエに会っていきなよ」

「いいよ」

「なんで? 明日にはもう会えなくなるかもしれないんでしょ?」

「いいか、姉貴。いいこと教えてやるよ。世の中には例外ってものが必ずあるんだ。そして、姉貴はそれに愛されてる。会いたきゃ、自分が死ななければいいだけのことだ」

 その顔は強い意志に満ちていた。知っているというよりは、信じているのだろう。

「わたしってそんなに特別?」

「他は知らねえけど、ことそれに関しては」

 そのまま四音は、血まみれの服を持って、帰って行った。

 真澄は、もう一度鏡を見て病室に戻る。シエリールはまだ帰ってないようだ。好都合だと思った。もう一度会ったら今胸に抱えている決意が揺らぐ。そんなのは容易に思い描けた。

 病室は、白を基調とした清潔感に溢れる感じで、差し込む朝日が反射して目に痛い。大きくない個室は、特別室らしい。非人間用の。

 巡季は、薄い青色の患者用の服を着て黙ってベッドに横たわっていた。動くものは、点滴の薬剤だけ。聞こえるのは、無神経な鳥のさえずりと、時計の時を刻む音。

 真澄は、来客用の椅子を引きずり出し、それに腰掛けた。腰掛けた瞬間に聞こえた椅子の軋む音がいやに耳に残る。

 真澄はぼぅ、とその横顔を眺めた。愛おしい人の横顔だ。それともお別れしなくちゃいけない。それが真澄の決意。決めたこと。

 自然、涙が溢れそうになる。なんとか我慢している状態だった。この数ヶ月、驚くことが多かったがその日々があまりに大事で。巡季が愛おしいのもあるが、それ以上にそれまでの日々が愛おしい。

 巡季がそれを見る。相変わらずの無表情だ。でも、にっこり笑う彼は想像に難い。

「私は、人の感情の機微に疎くて、よくわからないことが多いです。ですが、あなたが悲しんでいるのはわかります。恐らく、私たちとの関係あることで」

 巡季の顔は、いつもと変わらない能面のような顔で訥々と話す。

「普通あのような目に会うと、みな私たちとの関係を絶ちます。死にたくないのだから仕方ない。それが賢い選択です。ですが、悲しむのがわかりません。悪態をついて、恨みがましく去っていくものとばかり思ってました」

 そうなるのがさも当然であるかのように。真澄の決断もそうであると半ば決めつけるようだった。

「巡季さんは悲しくないですか?」

「どこを悲しめばいいのかわからないんです」

 あまりにも巡季らしい。

「もう会えなくなるんですよ? 寂しくなりませんか? わたしは、わたしは寂しいですよ」

「実は私は、友達というものを持った経験がありません。だから、友達が明日から二度とこないという経験がありません。それが悲しいことであるのは、所長を見ていてなんとなく理解はしているつもりですが。でも、実感としてはわかりません」

 絶句。聞くだけでも長い時間生きてきて友達が一人もいない? 真澄は自分との世界の断裂に目眩に似たものを感じた。でも、それだから一緒にはいられない。それを伝えなければ。自分がいればまた、迷惑をかける。

「今回、巡季さんが一人だったらきっとあのコートもあったし問題なかったですよね?」

 しばしの沈黙。実際に考えているのだろう。

「恐らく。ですが、余裕をもって見積もって七十パーセントの確率で生き残れますが、三十パーセントの確率で私は死んでいたと思います」

「そうですよね? やっぱりそうですよね。だから、この先、わたしなんて……」

 言葉に詰まる。笑顔を作ってみた。とても悲しい笑顔になったと思う。

「ですが。あのとき、真澄さんがいなければ私は多分死んでいたでしょう。あのときは実際にはかなり危なかった。でも、生き残れたのは真澄さんのおかげだと思ってます。あなたが一緒で本当に良かった」

 真澄は、言葉をなくし、両手で顔を覆い泣き始めた。余りに自分勝手だが嬉しい。

 巡季は静かにそれを眺めていた。

「真澄さん。お願いがあります」

「なんですか?」

 最後のお願いだろうか?

「笑っていただけませんか?」

「え?」

「私は、自分が生き残った証が見たいです」

 昨晩、シエリールが言っていた言葉。“あいつの守りたいもので迎えてやってくれ”がもう一度頭の中でよみがえる。

 少しぎこちないが、笑えた。だって、こんなにも状況にふさわしくなく嬉しいのだ、笑うことなんてどうってことはない。

 巡季はそれを見て満足そうに、一瞬本当に一瞬、微笑んだような気がした。

「私はそれを守れたのは誇らしい」

 そう言って真澄をしばし見た後、なにかを唐突に理解したような顔をした。

「そういうことですか。その笑顔を二度と見られなくなるのは、確かに惜しい。きっとそれが悲しいところなんでしょうね」

「そうですね。わたしも巡季さんやシエの笑顔を見れなくなるのは非常に残念です。だけど」

 息を一つ深く吸って。

「だけど、わたしはだからこそ離れなくてはいけないと思うんです。このままでは、いつかわたしのせいで二人を殺してしまうかもしれません。そうなったらわたし耐えられない」

 また少し間があった。巡季が考えている。

「私たち、特に所長は、あなたの笑顔を失うくらいなら死を選ぶでしょう。私には無理かもしれませんが、所長なら死すら乗り越えるでしょう。そういう方です。あなたの悲しみになることはないと思います」

「でも、わたしといたら同じことになりますよ?」

 これはほぼ確信に近い。

「では次も同じように守ります」

「こんな風に怪我をしながら?」

「失礼しました。次はもっとうまくやります。所長なら、彼女ならそう言うでしょう」

 珍しく、言葉に強さがある。真澄はとっさに答えられなかった。それには、本当はまだ一緒にいたいと思う気持ちもあるからだ。

「私たちは、あなたと関わることで受ける災厄を払いのける覚悟があります。後は、あなたがその覚悟ができるかです」

 昨日だって、コートがあったおかげで傷にはならなかったが銃で撃たれた。痛かった。怖かった。

 でも、弱っていく巡季を見るよりはマシだった。もう一度、いや何度でもあの場面に立ち会えるだろうか。

 それに、シエリールが倉庫で暴力団に襲われたときだって肝を冷やした。本当に撃たれて死んだと思った。車にひかれて終わりだとも思った。

 無理。

 真澄はそう思った。大事な人を失うような気分は二度とごめんだ。

 でも。

 でも? でもなんだろうか。正直に言えば。言う権利があるならば、一緒にいたい。シエリールや巡季とまだいたい。それが本音。

 自分が一緒にいることでシエリールや巡季が傷つく覚悟。できるだろうか?

 真澄は巡季の目を見た。巡季は揺るぎない視線でこちらを見ている。

 それで、そんなことで覚悟は決まった。

「わたしは、わたしといることで巡季さんたちが傷つくことを覚悟します」

 きっとここでそう言うことが彼らに対する最上の信頼の証だと思ったから。

「私は、その英断に、無限の感謝を捧げます。とりあえず、今日、所長の絶望は回避されました。素晴らしいことです」

「巡季さんはどうなんですか?」

 真澄はつい調子に乗った。悪い癖なのだ。

「正直、喜ばしいと言うよりは安堵感の方が強いです」

「安堵感ですか」

 ここは素直に嬉しいと言ってもらいたかった。

「私の未熟のせいであなたを失わずにすんで本当に良かった」

 でも、その良かったには安堵感が本当ににじんでてそれはそれで嬉しくなる真澄だった。今度は心の底からの笑顔で笑いかける。

 また、巡季がわずかだが頬をゆるめた気がした。

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