05.
土曜日の午後。シエリールは、巡季に命令し真澄に電話をかけさせた。理由は、晩ご飯に誘うためだ。
だが、どうしても口調が業務用のものとなり、細かくシエリールに突っ込みを受けながらの通話となった。電話の向こうで真澄が苦笑してるのが手に取るようにわかる。それでも、にやけているのだろうが。
真澄は、三時頃おやつを片手に事務所を訪れた。満面の笑顔だ。わかりやすくて実にいい。シエリールは真澄とは一見無為な時間の過ごし方をする。ただ、同じ空間を共有し、思い出したように会話するだけ。
五時頃、シエリールは自身の携帯電話に呼びつけられた。着メロは、無味乾燥な電子音だ。電話機の画面には、二戒道 所緒と表示されていた。
「はい。私だが。ふんふん。ご苦労だったな。六時? ああ。なに? 正装? あることはあるが。期待するなよ? いや無駄だったな。ああ、待ってる」
電話を切った後、いかにも疲れた顔を作り、眉間を指で押さながら息を吐く。
「えー、なになに? 正装ってドレスってこと?」
真澄は、くたびれたソファにもたれて顔だけを逆さまにこちらに向けて興味を示した。
「まあ、そういうことだ。男はいいなぁ。スーツがあれば大抵のところに出入りできて」
シエリールは、半まなこに嫌味を込めて巡季を見るが、巡季は書類から目を上げない。それを見てシエリールはさらに重いため息を吐いた。
「いいじゃん。着る楽しみがあるのも女の特権かと」
「なんでおまえがそんなに嬉しそうなのか気になるが、めんどくさいから言わなくていい」
あはは、と真澄は顔をかきながら呆れたように笑った。
「だってさ、きれいなもの見たいのに男も女もないじゃん。でしょ?」
真澄は笑っているが、真剣にそう聞いているのがわかった。
「ああ、まあ。そうなのかもな」
勢いに負けて曖昧に頷く。シエリールはこういうなんでもないことにも真剣さを持ち込める関係が好きだった。いやむしろ、なんでもないことへの真剣さこそ大事だと考えているぐらいだ。
でも、面倒くさいものは、やはり面倒くさい。三度目のため息を吐きながら三階にある自室へと歩を進める。
部屋に入るとまず、洋箪笥の両開きの扉を開けた。中には、いくつかのドレスと赤いシャツが掛けられている。これらの内シャツ類は、巡季の手により洗濯されたものだ。
少し迷って、グレーのカシミアのドレスを手にした。それを、扉にかけ、サンダル、ロンググローブ、ショール、髪留めを用意する。
着ている服を脱ぐと、ノースリーブのドレスに袖を通した。柔らかい肩関節を生かして、器用に背中のチャックを締める。胸のところで一度絞ってあって、そこからタイトなスカートに流れるワンピースタイプだ。胸元の主張もささやかで細身のシエリールにはちょうど良い。
そして、普段使わない化粧台の前に腰掛けた。最後に使ったのはいつのことだろう。見当すらつかない。そんな状態に自嘲しながら、化粧を始めた。手付きは覚束ない。でも、なんとか口紅まで引いて、唇の上下をこすり合わせて、開放する。上々だろう。
髪をあげて上で結わえる。それを髪留めで止めた。艶やかな首筋の線が露わになる。
ブーツを脱いでサンダルに履き替えた。鏡の前で軽く一回転して手落ちがないか確認する。取りあえず、大きな欠落は見当たらない。よし、と小さく頷いた。
最後に、いつも着ている闇色のジャンパーを手に取ると魔力を通す。すると、ジャンパーはみるみる姿を変え、巡季が着るのにちょうど良いくらいのロングコートになった。
それと、ハンドバック、ロンググローブ、ショールを抱えて二階へと下りていく。
「どうだ、真澄。面白いものでもないだろう?」
シエリールとしては、その肯定を期待した。だが、真澄は首肯するところか、少し見とれた後、首を力一杯横に振っている。
「あんた、自分の見てくれに対する評価を上げるべき。それともわたしにケンカ売ってる? そんなのただの嫌味にしかならないよ?」
もちろんそんなつもりはない。でも、自分はそう造られただけだから。少し、悲しくなる。
「ちょっとあんた、サンダル履いて足のお手入れなし? よく見たら手の指も? こっちきて座んなさい」
真澄が、なにかを見咎めて、いつもシエリールが座る一人がけのソファに手招きする。
腰掛けると、真澄は自分の鞄から小瓶を取り出した。赤い液体の入った小瓶だ。それのふたを開け、ついてるはけでその液体を爪に塗っていく。いわゆるマニキュアというやつだった。
手の指が終わると次は、足の指に塗っていく。
シエリールはその様子を見て、今までに味わったことのない感情が胸を満たした。嬉しい? 喜ばしい? 楽しいは少し違う。幸福感の一種であることはわかる。真澄がくれる感情なのだから。ここ最近急に増えた感動。それらは、自分の中に乏しかった感情。だけど昔からあったし、忘れちゃいけないものだったはずだ。
なにせ、あの男がくれたものだし、遺していってくれたもの。真澄を見て思うことは、もう二度とあの悲劇を繰り返してはいけない。繰り返させるものか。
「ほら、できた。さっきよりずいぶん魅力的になったよ」
そんな想いも知らず、シエリールにとってはどうでも良かったものに一生懸命になっている。でも、今はどうでも良くない。かけがえのないものだ。
「なんも、所緒に色気なんぞ使わなくてもいいじゃないか。私にその気はないんだ」
正直に感想を言うのが気恥ずかしくなって、照れ隠しを言ってしまった。
「違う! わかってないなぁ。女が美しくなるのは男のためじゃない!」
真澄は、人差し指を力一杯伸ばしながら、シエリールを差した。
「ほう。では、なんのためだ。伺おうじゃないか」
「義務。それはあんたが吸血鬼だとか、人造だとか関係なく、美しく生まれたものはその美しさを維持し、あわよくば発展させる義務があるのよ」
まさしく、シエリールが気にしていた問題。でも、真澄は関係ないと言い切った。一番言って欲しい人からの関係ないとの断言。しかも、胸を張って。
思わず、吹き出した。笑える。心地よい笑いだ。
「なに? これは絶対覆さないからね」
真澄は、僅かに顔を曇らせた。
「笑ったのはすまん。馬鹿にしてるわけじゃないんだ。でも、面倒だな」
正直な感想だった。こんな感想ならいくらでも出てくる。思わず苦笑した。
「あんたは間違いなく義務を負ってるわ」
「おまえもな」
涼しげな笑みを目元に宿しながら、言い返した。
「というか、あんたは普段の格好にも気を使うべき」
真澄が軽く顔を紅潮させながら、話題を強引に切り替えたのがわかった。
「一応、いつも着ているシャツとスカートは違うものだぞ」
真澄が心底不思議な顔をする。
「なんで、そんな微妙なことをするの?」
「私が私であることを知らしめるためだ」
それでも飲み込めない真澄は食い下がる。
「それは大事なことなの?」
「ああ。私は、その格好をもって私であることを知らないやつにも教えることで身を守る」
真澄は軽く首を捻って、思い当たった言葉を口にする。
「ヤドクガエル?」
「そんなところだ。おっと、時間だな。巡季、これを」
シエリールの携帯電話が着信を告げていた。もちろん所緒からだ。持ってきたロングコートを巡季に渡した。
「いいのですか?」
巡季が少し驚いた顔で尋ねてきた。それくらい身から離したことはないものだからだ。
「構わんよ。万一の備えだ。我等の友人を悲しませるなよ」
「了解しました」
その長身を折って、慇懃に頭を垂れる。
真澄は、なんのことかわからないという顔をしていた。
「気にせず楽しめ」
シエリールは笑顔を残して部屋を出た。願いは至って単純。彼らに楽しい一夜を。
月が青々と海辺の公園の道を照らし出していた。少し寒々しい色だったが、そこにいた二人にはかえって口実になっているようだ。むしろ街灯の黄色が無粋のようにも思える。
「あー、おいしかった。どうでした巡季さん?」
真澄は、しっかりと巡季の腕に絡みついている。巡季は、シエリールに渡された闇色のコートをしっかり着ていた。
真澄も女性にしては上背がある方だが、巡季と並んでしまえばちょうど良い。
巡季は女性との歩き方に興味を持ったことがないので、腕にべったりとくっついている真澄の甘え方に違和感はなかった。よく考えれば、街中でもたまに男女がこうして歩いている程度の認識だ。その関係について、深く考慮する必要も機会もなかった。
「美味しかったですよ。真澄さんは、あのお店によく行かれるんですか?」
無表情に見える顔で答えた。だが、これでも警戒している顔ではないのだ。
「はい。たまに会社の友達とかと行くんですよ。雰囲気とかはどうですか?」
真澄は一向に気にしたふうもなくそのまましゃべった。不快な状態ではないのはわかる。
「私のような者が居たせいで浮いてしまって、真澄さんが恥をかかれませんでしたか?」
一番の懸念はそこだ。いまいち人の感情の機微がわからない。
「なに、言ってるんですか。そんなこと微塵もないですよ」
真澄は静かに思い出し笑いをした。そして、巡季を見て言葉を付け足す。
「見てました? あの視線は侮蔑じゃなくて、羨望って言うんですよ」
誇らしげに巡季を見て言ったが、彼のまっすぐな視線に気後れしたのか恥ずかしそうに俯く。良かった。自分はどうやら、真澄の尊厳を傷つけなかったようだ。
「でも、オムライスはなかったですか?」
「いえ、一言にオムライスと言ってもいろいろとあって、興味深い経験でした」
品書きに書いてあった品々を思い出しながら答えた。
「今度シエにでも作ってやるときの参考にでもしてください。なんなら、また別のメニューを試しに行きますか?」
「そうですね。機会があれば是非」
真澄が、影で小さくガッツポーズを作ったように見受けられた。意味はわかりかねるが、真澄の表情と声色から不愉快な状態ではないことはわかる。わかるようになった。というべきか。
二人は夕涼みをかねて騒々しい街中を外れ、河口付近にある大きな公園に来ていた。公園は、異常に人気が無く、静かだ。二人が黙ってしまえば、風が木々を揺らす音と、寄せる水が川縁を叩く音しか聞こえない。
巡季は、至っていつも通り無表情。真澄は、完全にとろけきった顔をしている。
赤いポニーテールは、巡季に寄り添いながら幸せそうに揺れていた。
二人は、河に沿って設けられた散歩道を歩いている。だが、不思議なことに二人以外の人間が見あたらない。右手には河。左手には光を通さない木々。非常に不安を駆り立てられる。今襲われたとして、逃げるならば木々の方か。こういうことなら嫌というほど考えてきた。
「どうかしましたか?」
真澄がのぞき込むように巡季の顔を見上げた。
「ここは、いつもこんなに静かな場所なんですか?」
期待する答えは、肯定。しかし。
「そうですねえ、普段はもっとカップルがいちゃいちゃしてる気がします。うらやま、いえ、気になっていたので間違いないと思いますけど?」
この状況に作為を感じるのは、自分だけか。だが今のところ、敵意は感じないし、たまたまかもしれない。だが、気を緩めることができなかった。
「ホント、どうしたんですか? おかしな巡季さん」
そう言いながら笑顔を見せる友人に万一があってはいけない。シエリールとの約束だ。
「いえ、すいません。なんでもありません」
すると、前からウィンドウブレーカーを着込んで走っている人影が近づいてきた。白い息を吐きながら走り込んでいる。
それを見て、杞憂だったかと胸をなで下ろした瞬間、息を飲んだ。
その人影が木々の方に取り込まれる。まるで森に喰われるように。
「止まってください、真澄さん」
巡季の方を見ていた真澄は気づかなかったようだ。緊張せず、感情を殺し、冷静に真澄に話しかける。そういうのならば得意だ。
真澄は言われるままに立ち止まり、不思議そうな表情で想い人を見上げていた。
完全にはめられている。今立ち止まった場所は、公園のどの出口からも等しく遠い。まさに、絶好の襲撃地点だ。
周りに気を配り、敵を見極めんとする。戦うことは否である。真澄がいる。逃げの一手だ。
即座に逃走経路を思い描く。その計画が立ったか立たないうちに黒い絶望感をまとったようなスーツの男たちが木々の間から出てきた。
前に三人、後ろに二人。
男たちはみな能面。人間ではないことが容易にしれる。誰も感情を動かさない。そして、名刺か財布かを取り出すような自然な動作で懐から銃を取り出した。
前口上なんかは一切ない。ただ単純に死を突きつけてくる。
巡季も自分が殺される立場に置かれたことを瞬時に理解する。よくあることだ。
真澄は状況に全くついてきていない。巡季は、男たちが懐に手を入れた瞬間に自分の着ていたコートを脱ぎ真澄に被せる。
真澄が重みでふらついたが、それごとお姫様だっこで抱え込んだ。
「我慢してください」
それだけ告げると、木々の間の闇に向かって走り出す。巡季の一歩目と連中の一発目は同時だった。
今、巡季たちがいたところを弾丸が通過していく。
「なんなんですかぁ!」
真澄が、驚きで素っ頓狂な声を上げる。
木々の間にも男。数は確認できない。する必要もない。真正面に回り込んできた男を半ば跳び蹴りのような形で足蹴にすると、そのまま囲いを突破する。
正面からの発砲に、真澄は被弾するが闇色のコートは銃弾を通しはしない。
だが、それ以外の弾は、確実に巡季の肉を抉っていた。少し気がそれそうになるが、無視する。わかっていることは、遅れれば死。止まれば死。それも、友人を巻き込んで。人生初の友人を。
幸い、拳銃などは見慣れているし、撃たれることにも恐怖感はない。そもそも恐怖感というものがわからない。この場で足が止まるようなものならば無くて良かった。確かに、撃たれれば痛いし、動作に支障をきたす。しかし、痛みに耐えて任務をこなすのは慣れている。
巡季は、人間の形をしながら人間にはあらざる運動能力を発揮し逃走を試みる。人間には無手でも無理な早さだった。だが、男たちはそれを的確に追い、ついてくる。その上、その目にも止まらぬ速度で走る巡季に照準を合わせ、弾を浴びせてかけてきた。
植えられた木を上手く盾にしながら走っていくが、三発目四発目と着実に被弾数は増え、巡季は死へと一歩、また一歩と近づいていく。同時に、友人の命もまたしかり。
当たり所が良いから、まだ走っていられるのか。当たり所が悪いから、こんなに肺が焼けるように熱いのか。とにかく、歯が砕けるくらいの力を込めて食いしばる。
公園の出口までは僅かに百メートルを残すところまで来た。抜けそうになる膝に活を入れ、切れる息に呻く。街の明かりが見えた。背中が燃えるように熱い。呼吸には熱はもちろん、血の味も混じっていた。
巡季たちが、公園の出口に向かって走る間十分。この間に、巡季は致命的と言っても過言ではない量の銃弾を浴びた。
公園から出て、そこかしらに平穏のにおいがする場所まで辿り着く。
男たちはさすがに、そこでは事を構えるつもりはないのか、すっと闇に消えていった。舌打ちが聞こえた気がする。
巡季は、友を守った。彼女がいなければもっと早い段階で膝を折れ、あの暗い木々の間で最期を迎えていたかもしれない。シエリールとの約束というのもあるが、それよりなによりも巡季自身が真澄を守りたかった。初めての友を。
真澄を下ろし、コートから解放する。真澄は、撃たれた箇所をさすりながらだが、しっかりと大地に立ち、無事のようだった。
事情が飲み込め無かった真澄は、巡季を見て、一瞬で青くなった。驚きのあまり声も出ないようだ。
巡季は体の至るどころに必要な血液が渡っていないように感じていた。直立しているつもりだが、視界が左右に揺れている。
紺色のスーツには血の染みがいくつもできているし、未だ広がりつつあった。呼吸は細く、息も絶え絶えとはまさにこのことだ。
巡季本人としては、自分の無事を主張するため立っていたかったが、それも叶わなくなった。なんとか仰向けに地面に転がる。
真澄はあわてて救急車を呼んだ。そして、どこを押さえていいのかも判然としないままに、巡季の傷口を押さえた。真澄が泣いている。大粒の涙をいくつも落とした。
ああ、一番避けたかったのに。彼女を悲しませてしまった。残念だ。
真澄は必死に傷口を押さえてくれている。流れ出る巡季の命を守るために。
気の利いた存在ならばこんなとき、かける言葉があるのだろうか。少なくとも巡季の中にはなかった。だから。
「私を、美作中央総合病院にお願いします。後、所長と一緒の二戒道氏にも連絡を」
そんな事務連絡になってしまう。
真澄は、ぼろぼろと泣きながら、何度も頷いて、大事な人の血で真っ赤に染まった手で携帯電話を操作し、シエリールを呼び出した。この電話を急いでも、状況は今すぐに好転しないのはわかっていたのに、当り散らすようでいて、なにかにすがるように、必死に電話のコール音に集中する。
「はい。シエリールだ。どうし――」
シエリールの、言葉が終わらないうちに真澄は、状況を主観的で、願望的で、
「じゅ、巡季さんが撃たれたの! 血が、血がいっぱい出て、わた、わたしどうしていいかわからないの。どうしたらいい? シエ……!」
真澄は、消え入りそうな声で彼女自慢の友人を頼った。
「しっかりしろ! 真澄!」
シエリールは、強い口調で、真澄の正気を取り戻すために言っていた。優しいはっきりとした声で答えている。
「巡季に聞いてみろ。そいつは、言ったことは守るんだ」
ゆっくりと、電話を耳から離す。
「巡季さん。わたし、わたしどうしたらいいですか?」
息も上がり、細くなっていたが、目の光に翳りは無く、強い意志で真澄を見つめているつもりだった。巡季は、瞬刻考えて、口を開く。
「では、泣くのをやめてください。私は、死にませんから」
真澄は、必死に泣くのを止めようとする。それができれば、巡季は助かると言わんばかりだった。だが、その非現実さが、彼女の涙を増やす。悲しみは、悲しみを呼び、どんどん負の方向に彼女の思考を引っ張っていったように見えた。泣くのを止めるために、笑顔を作ってみても、うまくいかないようだ。
「あ、あれ。おかしいな。泣きませんよ。はい、泣きません」
「そうですね。真澄さんは、笑顔の方が魅力的です。それこそ、私たちが守るべきもの。……信じてください」
巡季は、血でべっとりと濡れた皮手袋を脱いで傷口を押さえている真澄の手を強く握った。
「はい!」
真澄は自分に言い聞かせるように強く頷く。巡季の強い視線と、意志のこもった言葉は真澄の涙を止めることができた。
ああ、こうすればいいのか。すとん、と一つ心の中で欠片がはまったような気がした。
何分が過ぎただろう。真澄は、自信の持つ祈りの言葉を全て言い終えているらしく、同じ言葉を繰り返している。
巡季は、涙で顔をぐちゃぐちゃにしている友人を置いていくことに、知らない感情が湧き上がってきた。先を考えると陰鬱になる思考。そして、是が非でも避けたいと心が願うこと。生きたい。初めて思う。
死ぬわけには行かない状況は幾度となく経験したが、誰かのために生き残らねばならないと思ったのは初めてだった。
いつの間にかできていた人垣を割って、所緒とシエリールがやってくる。人造の巡季には、人間の血よりも専用の血の方が都合がよい。所緒は、こういう場合に備えて自分の車に輸血パックを常備しており、救急車より迅速に動けた。
これらのことは、巡季や、シエリールには、日常であり、予想の範囲内だからだ。闇医者の所緒にとっても、それは日常に近いものであった。撃たれて死にかけることも、それを治すことも、それに備えることも、〔当たり前の世界〕。それが、巡季たちの生きている世界だった。
輸血で命をつないだ巡季は、到着した救急車で病院に運ばれ、緊急手術となった。巡季に喜んでもらおうとめかしこんだ真澄の服は、彼の血を吸ってすっかり黒くなっている。一度家に戻れとシエリールは言ったが、真澄はうんと言わなかった。ただ、黙って暗い廊下で待つことを選んだ。
「真澄。私はやらなきゃいけないことがある。後のことは頼んだぞ」
シエリールは病院の白い廊下の壁にドレス姿で寄りかかっている。真澄は待合の長いすに腰掛けて、手を組んでなにかに祈りを捧げていた。
手術が始まってどのくらい経っただろう。もう二人とも時計を見ていない。深夜であることが病院の陰気な雰囲気で容易にわかる。
「ちょっと、どこに行くのよ? 巡季さんはまだ手術中でしょ!」
「ここの最高の執刀医が心配ないと言っている。なれば私のすることは座して待つことではない。私にしかできない、私がすべきことをしに行く」
シエリールは確かに真澄に向かって話しかけているのだが、顔を見てはいない。
「あんたにしかできないこと?」
真澄にはそれがなにを意味するかわからないようだ。当然だ。やろうと思ったことすらあるまい。
「そうだ、私は愚劣でな、巡季の怪我を癒してやることはできない。神に祈ることすら許されず、ただ、人間の医者に委ねるだけだ。そんな私にできること、それは私たちに手を出すことのツケを回収しに行くことだけだ。いかに高額か教えてやらなきゃならない」
ぎりっと、強く、爪が食い込んで皮を破るくらい、拳を握りしめた。
「でも、それは、巡季さんを救うこととは関係ないじゃない! 誇りとか、矜持とかそういうものでしょう? 今は、居てあげなよ? 一番喜ぶのはあんたの顔でしょう?」
シエリールの頭をよぎった印象は、きっと、真澄は勘違いしているということだった。巡季がこうなったのはシエリールの命令のせいだと思っているだろう。
「いや、起きたとき私が何もしていないと言ったら逆に不安を覚えるはずだ。喜ばす役目は、おまえに任せる。我々が生き残るためには、そういうことも大事なのだよ。そうしなきゃ生きていけないんだ。巡季の帰る場所を守るためだ」
ここでようやくシエリールは顔を真澄に向けた。これ以上ないと言うくらい暗くて悲しくて寂しい笑顔だ。過分に自嘲がこもっていた。
「でも、あんたの命令を守ったから巡季さんはこんな目にあってるのよ!」
シエリールの思った通りだった。シエリールは、きちんと巡季の意志を伝えようとさらに言葉を連ねる。
「違う、真澄。私は、あいつに防弾のコートを貸し与えた。自身の身を守る道具を与えたのだ。おまえを泣かすなとは言ったが、五体満足で、とは命令してないんだ。おまえが今、廊下で巡季を待てるのは、巡季がそうして欲しかったからだ」
「だけど――」
「それに、ここで死んだら、命令をまっとうできないからな。あいつは、大丈夫。あいつが守りたかったもので、迎えてやってくれ」
シエリールは、それだけ言うと右手だけをあげて、それを挨拶として行こうとした。
「ちょっと、待って」
真澄は、シエリールの肩を掴んで引き止める。そこから見えたシエリールの貌容はかつてない感情を浮かべていたようで、真澄が思わず言葉につまっていた。
「なんでそんなに辛そうなのよ?」
「辛そう? 私が?」
「引きつった怯えの混じったような顔よ? まるで、シエじゃない、知らない誰かの苦痛を覗き見てしまったように見える」
「そうか」
シエリールは、今自分の感情が理解できていなかった。真澄が見て、辛そうということは本当にそういう顔なんだろうと、シエリールには珍しく人を通して己を知った。だけど、辛い。なにが? シエリールは、感情を言葉にしてみる。
「報復しなきゃならない人生が、辛いわけではない。嘘ではない。ただ、いつも
やられたらやり返す、そんな生き方に疲弊は感じても正体不明に自身の感情を歪ませるには至らない。そうやって生きてきたし、生きていく。
「真澄、私は殺すぞ」
気がつけば、そんな言葉を口にしていた。
「えっ?」
唐突にそんなことを言われ、真澄はあからさまな動揺を示した。
「私は、おまえに深い悲しみを与え、巡季をこのような目に合わせた連中を殺す。彼らは人間ではない。だが、化け物であるからといって打ち倒されるためにいるわけでもない。私は、そんな連中を殺しに行く」
シエリールは、言葉に殺意を滲ませる。
連中は殺し、殺される立場にあるんだ。だから、だから――そんな自分を許して欲しい。また、変わらぬ笑顔を向けて欲しい。
言いたいことは言葉にならない。シエリールは、俯いて黙ってしまった。自分がどれほど強欲で自分勝手なことを思っているか自身が一番知っている。
「――この生き方が辛いわけじゃない」
シエリールは、見当違いなことを、もう一度口にする。抵抗は無かった。
なにが悲しいのか、真澄は再び涙を流してくれる。
その悲しみがシエリールには悲しかった。
真澄の涙は、ごまかしようがないくらいシエリールの心を揺さぶる。
真澄の手が、シエリールに向かって伸ばされたが、シエリールは逃げるように廊下の闇へと融けていった。
これが最後になるかもしれないのに。そんな単純なことにも思い至れなかった。
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