なけなしの泉

六平彩

第1話

 誰かがわたしの身体を触っている。

 いや、正確にはわたしではないのか。このわたしを所有していた誰かの身体か。

 わたしの懐から、携帯端末が抜き取られた。ずるりとはらわたが飛び出るようにやけに臨場感あふれる感覚であった。

 葉巻をすぱすぱ吸っている目の前の男はわたしの身体を見つめ、これは酷いとつぶやいた。当然だ。後肢はありえない方向に曲がっている。大腿骨が中腹部で折れているようで、それを外側に曲げ、本来なら一方向にしか曲がらない膝を折られているのだから。前肢に至っては、右腕が肘の方向――つまり、伸ばしすぎた様な状況である。

 正確な日時は憶えていないが、つい最近のことだったと思う。まだ目の眩むような、網膜に光が焼き付くような時間帯――朝とでも言えばいいのだろうか。そのとき、わたしは完全にわたしではなかったから、よく覚えていないけれど、痛覚だけは鮮明に刻まれている。

 すべすべとした柔肌が表皮を滑って、節々に腕を挟んで、わたしを――彼を折り潰すように、ゴキゴキ、バキバキ、彼を砕いていった。

 最後に、もうその時、彼はショックでこと切れており、そこからわたしは意識を確立させているのだけれど、鋭利な刃物か何かで、抉るように腹を刺し貫かれた。いくら死体のわたしとて、痛覚は生きている。それを阻止できないのが心苦しかったけれど。

 葉巻の男は後ろにいる女――ええと、篠宮巡査と言っただろうか――にわたしから抜き取った文明の利器を渡した。女の口元が歪んでいることなんて知りもせずに、葉巻の彼は証拠の蒐集に勤しんでいる。

 チャック付きのビニール袋にタッチパネル式の携帯を入れて、更に後ろにいる青年にそれを渡す。わたしの体液が付着した気味の悪い携帯端末。

 篠宮という女は葉巻と列んでわたしを触り始める。喉とか、血みどろでどてっぱらの空いた腹とか、曲折した後肢とか。くまなくくまなく隙間なく、探し始める。彼女はわたしを依然無表情で見据えていて、随分肝の太い女だという印象を受けた。体温を失ったわたしの前肢に彼女の手が触れると、彼女は慌てて何かを探るように、わたしの手指を掻き分けた。わたしから、冷たい銀色の、装飾がついた何かが奪われる。――なるほど。

 没収したそれを、あたかも服がきついようにずらしつつ黒色のタイトスカートのベルト部に挟み込み、今度はわたしの髪に触れる。ふふっと笑っていたようだが、隣の葉巻の男に気付かれなかったようで、咳払いを一つした。

 分かっているよ。篠宮巡査。君はわたしの――彼の恋人だったのだろう? 結婚間近で、婚約の証を交換した。でも彼は他の女に目がくらんだ。君よりも抱き心地がいいと言って、結局、指輪を外していなかった彼に憤りを覚えて、せめて無惨に殺そうとしたのだろうね。でもね、きみ。わたしに隠し事は通用しない。私はすべてを知っている。だから、安心してお行き、楽しんでおいで。地獄のような日々を、黄泉の旅路を。

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なけなしの泉 六平彩 @aniichi

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