君の目には、世界がまるで違うように見えているのかも

佐々木缶

第1話

 無機質な灰色のドアに手をかけて、部屋に入ったらまず言うべき言葉は「失礼します」だったはず、と羊谷は思い出していた。うん、間違いない。確かめるように軽く頷いた。震えている手を引く。なるべくスムーズに、滑らかに。ドアノブの表面に自己の身体から滲み出た脂汗が付いているのが見えた。半身を滑らせるようにして部屋に入る。さっと目を走らせて中の様子を窺う。思ったよりも広くない。奥には二人の人間が座っている。一人は眼鏡をかけた白髪交じりの初老男、もう一人は四十代から五十代と思われるクリーム色のタイトスーツに身を包んだ女性だった。怪訝に思われないように、目をやるのはほんの瞬きの間だけに留めた。

 どうでもいいことだが、タイルカーペットがグレーとベージュの二色構成であることに気づいた。目に優しい、と羊谷は思った。

「失礼します」

 緊張はしていたが、声は震えていない。うまくいった。こういった場面に慣れていない羊谷にとっては、ひとつずつステップをクリアしていくことが自信につながる。自然と会釈を交わすこともできた。スーツの女性が部屋の中央に鎮座するパイプ椅子に手のひらを向け、「お座りください」と明瞭な声で指示した。羊谷は慣れないスラックスの窮屈さを感じながらも、てきぱきとした所作で椅子に腰を落とすことに成功する。背筋を伸ばし、まっすぐ前に目をやりながら、次に来る言葉を待ち受ける。

 まず面接官から繰り出されたのは、こんな質問だった。

「早速ですが、簡単に自己紹介をしてもらえますか。氏名、出身地、通っている学校なんかについてね」

 初老男の口調は柔らかだった。羊谷はリラックスした状態を保ちながら、時節多少の詰まりはあったものの、滑らかに回答することができた。心なしか、二人の面接官の表情も満足げに見える。羊谷が生まれ育ったのは本州から近い離島であり、その島は観光名所として少しは名が知られているものの、小さな島であり出身者は少ない。羊谷の平凡なプロフィールにおいて、最も特徴ある点だった。自己紹介をする中で島の話に触れたとき、女性面接官の眉毛が上がったことを羊谷は見逃さなかった。少なくとも俺に興味を持ってはくれたようだ。

――ところで、この場には関係のないことだが、羊谷はまさしく、この瞬間ですら童貞であった。それはなぜか。恋愛への無関心さを答えに求めることもできる。だが、重要なポイントは他にある。

 それに関わる重要な質問が、続いて女性面接官から飛んだ。

「なるほど。それでは、学生生活の中で頑張ったことを教えてください」

 新卒の学生が面接で答えなければならない質問の中では、割と簡易な部類に入るこの質問。しかし、羊谷はうっすらと額に汗を滲ませた。なぜか。羊谷は、最近まで大学に一日も通っていなかったからである。サボりではない。ずっと病欠だった。登校初日に国道を跨がる横断歩道を自転車で渡っているときに運悪くトラックに轢かれ、そのまま意識を失い、入院していたのだ。トラックにぶつかって身体が宙を舞う間、自転車が空中でも既にぐにゃぐにゃにひしゃげていたことは覚えているが、その後、地面に落ちてからは記憶が無い。ふたたび覚醒したのが、それから約三年後、三月も終わりの頃。担当医師から寝たきりだった事実を聞いたとき、もちろん衝撃を受けたが、それ以上に驚いたのが、自分がちゃんと進級していたことだった。一日も出席していないのに。ゆるい大学とは聞いていたが、ここまでとは。

 一日も登校していない羊谷には、当然ながら大学の友人は皆無だった。その状況の中で、必死に状況を理解し、大学生活に急いで慣れ、社会生活を健全に送れるようにリハビリを行い、今日、就職活動までしていることは、奇跡的ですらある。

 そして、童貞を失える人生の中でも最大のチャンス――大学一年から三年の青い春――を棒に振った羊谷にとって、セックスの経験が無いのは当たり前だとも言える。しかし、周りの人々にとってはそうではない。

「大学では何も頑張りませんでした」

 羊谷は正直に答えた。女性面接官が目を丸くする。こめかみを指で押さえ、「それって……どういうことでしょうか?」と尋ねてくる。初老の男も腕を組んで唸っている。

 羊谷は、自分が大学にほとんど通っていないことを、詳しく説明した。その事故は、自分にとって不可抗力であったことを特に強調した。二人の面接官は、ときどき目を合わせながら耳を傾けていた。

 ひととおり話したところで、初老の男から「わかった。君の事情はよくわかった。もう十分だ」と遮られた。

「君の身に大変な事故があったことは理解した。大学生活をまともに送れていないこともわかったよ。それにしても、君の通っている学校はおかしな大学だな。出席日数ゼロで進級させてしまうなんて」

「そうですよね」

 羊谷は大げさに頷いた。

「確かにね」

 横の女性面接官も同調した。彼女は、羊谷が話している間、熱心にノートにとっていた。その姿は、相手方の喋ることを一言も聞き漏らさんとする新聞記者のようだった。

 彼女は、初老の男が唸っている間、自分のノートを眺めていたが、途中で何かに気づいた顔をした。そして、意を決したようにストレートな質問が来る。

「あなたは大学生活三年間をほとんど棒に振った。ということは、あなたはまだ、童貞なの?」

 瞬間、初老の男は、ものすごい勢いで女性面接官のほうを振り向いた。「何を言い出すんだ、この女は」男の鋭い目は、そう語っている。

 だが、女性面接官は意に介さず、続けて早口で自分の分析を述べた。

「もちろん、中学・高校では経験していないっていう前提だけど。あなたの見てくれでは……たぶん高校生のときにはそんなチャンスは無かったんじゃないかしら。であれば、十八歳から二十歳ぐらいの頃に一番可能性があったはず。私たちの時代もそうだったもの」

 自分が最も触れられたくない部分への質問を遠慮無しに投げかけられて、羊谷の喉の奥から腹に拳をめり込まれたような鈍いうめき声が漏れた。どう答えればいいのだろう? 適切な回答を探そうと頭の中を駆け回るが、その世界は大気と地面の境界がわからないほどツルツルで何も無い。

「どうなの? 童貞なの? それとも違うの?」

 女性面接官は、身を乗り出してしつこく尋ねてくる。その目は真剣そのもので、ふざけているようには見えない。

「どうなの? ねえ? 童貞なの? ヤッたの?」

 気迫に押されて、羊谷は自分の胸のうちにそっとしまっておいた秘密を思わず漏らしてしまう。

「童貞です。一応……」

 女性のほうから「一応って何?」とさらなる質問が出されると同時に、初老の男が机を叩いて立ち上がった。「やめないか! そんな質問。プライバシーの侵害だぞ!」最初の落ち着いた表情とは打って変わって、怒気を帯びた真っ赤な顔。身体は小刻みに震えている。女性面接官は初老男性のほうを一瞥し、羊谷のほうを向いたまま、「業務にとても関係のあることです。プライバシーの侵害ではない」と冷たく言い放った。

――業務に関係のあることと言えば、募集要項の条件にうっすらと「童貞でないこと」と書かれていたような気もする。そんなことはあるはずないのだが、強い調子で言われるとそう書かれていたような……。羊谷は頭の中で幻を作り出していた。

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