我は仮王に非ず
大は皇帝や王、小は邑の父老に至るまでの当時の権力者の間には、自分の発言に責任を持たないという共通する政治的手法が存在した。やや皮肉に近い表現ではあるが、これは彼らが置かれた状況に柔軟に対応し、その都度自分の意見を変えた、ということである。時には自分より上の権力者の側に寄り添い、またある時には民衆の側に立った行動を示した彼らの政治は、まるで綱渡りのようでもある。しかし、彼らも政治家である前にひとりの人間であることは間違いなく、そうである以上本音というものが心中にあることは確かであろう。その本音を押し殺して政治に徹することができたという事実は、賞賛に値するものかもしれない。
しかし私は決してそれに倣おうとは思わない。これは、韓信も同様であった。
一
曹参はもと沛の獄吏であり、そのころから蕭何の下で働いていた男である。
その彼が上役の蕭何と諮り、沛のごろつきに過ぎなかった劉邦を担ぎ上げたところから漢王朝の歴史が始まった、と言っても差し支えない。のちに蕭何の死後、漢の二代目の相国として王朝創業時の混乱期を支えたことから判断しても、いかに彼が有能な人物であったかを想像することは難しくないだろう。
しかし、劉邦が彭城で惨憺たる敗北を喫してから皇帝に即位するまでの間、彼に与えられた役割は、ほぼ一貫して韓信の下の一武将として働くことであった。
魏豹を征伐する作戦に招集されたのに始まり、代、趙の制圧、続いて斉の攻略……。曹参がこの間に韓信のもとを離れたのは井陘の戦いの後から斉へ出撃する間までしかない。
劉邦の意図が、自立の可能性が高い韓信の行動を監視させることにあったとすれば、信用できる重鎮である曹参にその役目を与えた、ということであろう。しかし疑惑のある韓信に替えて曹参を大将に任じた、という事実はなく、これは曹参の才が韓信のそれを上回ることがなかった、ということを意味している。
韓信は言葉にこそ出さなかったが、そのことを後ろめたく感じ、曹参と会うときには遠慮がちに言葉を選びながら話すことを常としていた。
だが、当の曹参はあまりそのようなことを気にせず、おおらかに、細かいことを言わず、包み込むような態度で韓信と接したという。
のちに蕭何の跡をついで相国となり、人民を統治するにあたり「静」・「清」の二点を重んじて善悪正邪を併せ入れることに徹したという彼の性格の一端が、ここに顕われている。
この当時の曹参は武将であったが、韓信は曹参のそのような点を信頼し、斉国内の鎮撫を含めた内政の大部分を彼に任せ、自身は国境付近を渡り歩いて再び楚が介入してくることに備えている。
その曹参が使者をよこして、韓信に訴えた。
言上は次の通りである。
「斉の住民は漢の支配を快く思わない様子……。民衆は我々に石を投げつけ、武威を示しても畏怖する気配もなく、日夜、騒動が絶えない。このまま放っておくと騒動が反乱となり、反乱は戦争に至る。私が思うに、これは斉の住民の不安が引き起こした事態である。彼らは王国の維持を期待し、斉が漢の一郡となることを欲していないのだ」
この言を受けて韓信は臨淄に向かい、それとなく住民の様子を観察した。
しかし臨淄の街道は戦時の混乱期にも関わらず、以前と変わらぬ賑わいを見せ、表面的には不穏な空気は感じられない。住民に対しては、たとえ領主が変わっても自分たちの生活には干渉させない、という意気込みさえ感じた。
ただし臨淄の風景は、韓信が想像していたものと、やはり若干違った。
彼は臨淄を学問の都として捉えていたのである。
戦国時代の斉は学問を奨励し、諸国から集まった学者たちに臨淄の南門にあたる
彼らはそこで日夜論議を交わしながら研究にいそしみ、これが斉のみならず中国全体の文化発展に寄与したのである。これらの学者たちは稷下の学士と呼ばれ、その代表的人物として、かの孟子や荀子がいる。
しかしこのときの臨淄の街角では、人々は闘鶏に興じ、たむろして博打を打っている。
辻には怒号が飛び交い、路地裏にはならず者たちが闊歩していた。
活気があることは確かだが、殺伐とし過ぎていて、それが健全な活気であるとはいい難い。学問の都だからといって町中の人間が皆学者であるはずもなかったが、もう少し秩序のある世界を韓信は想像していたのだった。
実際に臨淄の様子を見て不安を抱いた韓信は、城内の父老連中を招き、議論の場を設けた。民衆の心を安んじるには、まず父老から、というのがこの時代、この国の定石である。
「……私が見るに、斉の人心は荒れているようだ。私の認識では、臨淄とは諸国から学問を志す者が一同に集結する場所で、百花繚乱の文化が花開いた土地であったはずだが、実際に見てみると、とてもそのような印象は受けない。これは単に私の認識違い、ということなのか。それともなにかの原因によって民衆はすさんだ心を持つようになった、ということなのか」
これに対し、父老たちは若い韓信を鼻で笑うような態度をとった。
「臨淄は学者だけの町ではござらぬ。鉄、銅、織物……。これらの産出量で臨淄の右に出る城市はないであろう。臨淄は当代きっての工業都市なのだ。ゆえに、城内にはいろいろな者がいる。その中には性格が穏やかな者も、荒い者もいるであろう。その中で荒れた者が目立つのは自然なことだ」
父老の一人はそう語ったが、臨淄が大都会であることを誇りとし、それがあたかも自分の功によるものであるように語るのが、韓信には気に入らなかった。
「なるほど臨淄は大都会で人口も多く、さまざまな性格の者がここに居住している。しかしだからといって、人民が兵に石を投げつけたりすることを座視するわけにいかない。趙の邯鄲は臨淄と同じような都会であったが、このようなことはなかったのだ」
「経緯が異なる。臨淄の住民は、斉の王室になにが起きたかを知っているのだ。つまり、漢によって騙され、誑かされて滅びたということを、だ!」
二
その挑戦的な物言いは、韓信の心を大きく揺さぶった。
しかし、韓信にも反論できないことはない。
「斉を騙し討ちにする意志はなかったが、結果的にそうなってしまったことは事実として認めよう。しかし、私にも言いたいことはある。斉の王室は騙されたことにより、大きな国内の争乱を伴うことなく、滅んだ。君たち住民にかける迷惑はなかったとは言わないが、最小限にとどめることができたはずだ」
父老たちは互いに顔を見合わせ、
「聞いたか、これこそ詭弁よ……。そもそも漢が攻めてこなければ、なにも起きず、なにも変わらなかった。斉は斉人によって治められることを望む。漢の支配を歓迎するはずがない」
と、韓信に向かって口々に言い放った。
韓信は彼らを説き伏せねばならない。
もちろん一人残さず斬ることはできたが、そうしてしまっては民衆に反乱の種を植え付けるだけのことである。
「……君たち父老は、それほどまでにもとの斉王のことを敬愛していたというのか?」
韓信はあえて言葉尻に嫌みを加えて、父老たちに向けてこの言葉を発した。
「……無論である」
「それは嘘だ。もし本当なら、遠巻きに石などを投げつけるのではなく、より我々が確実に死ぬ方法で攻撃すべきだろう。我々はそれなりの軍備を保持しているが、君たち民衆に比べればはるかに寡勢なのだからな」
「……かつてこの地に暮らした学者たちは、そのような行為を非文明的だと批判したものだ。我々も同意見だ」
「そうかな? 私の見る限り、臨淄の街道には命知らずを気取った連中が何人もいたようだったが? 君たち自身ができないというのであれば、彼らに命じるなり、褒美をとらせるなりしてやらせればいいだろう。どうしても斉の王室の復権を望むのであればな」
「…………」
「むろん、そんな状況になって私が黙っているはずがない。君たち民衆に比べれば、我々が寡勢であることは先に述べた通りだが、それでも精一杯抵抗を試みるとしよう。しかし君たちが優勢であることは動かしがたい事実だ。よって、早く行って町のならず者どもに命じるがいい。漢を称する逆賊どもを皆殺しにせよ、と。檄を飛ばして我々の非を打ち鳴らせ。……聞くところによると、田横はまだ存命であるとのこと。彼を担ぎだせば斉を再興する大義名分も立つ」
「…………」
父老たちは、なにも言わなかった。
「どうした。……できないか? そうであろう。できないに違いないのだ。理由を説明してやる。一言でいえば、君たちが斉の王室のためにそこまでする義理はないからだ。つまり、君たちにとっては我々も斉の王室もたいして変わらない。どちらとも存在しなければ自分たちが自由気ままに生活できる、その程度の存在だからだ。したがって君たちが我が兵に石を投げるなどの行為は、単なる日ごろの憂さ晴らしであり、それに大義名分はない。我々が斉の王室を騙して敗走させたことなど、後からとってつけた理由に他ならないのだ」
「…………」
「君たちは青二才の私を手玉に取ろうとし、どうせ支配される身であればより良い条件で、と望んだ。斉の民衆は戦乱に馴れ、自分たちの安全のためには嘘偽りを申す者が多く、なおかつ腹黒い者が多い、と聞いていたが、なるほどその通りであった。私を
韓信は議論で相手を威圧することには馴れていなかったが、ここは精一杯の努力をし、父老たちを恫喝した。
――自分は、やはりしょせん武の道にしか生きられない男なのだろうか。戦場に出ることもせずに権謀を弄する輩が、これほど気に入らぬとは……。
言葉を失った父老たちを前にして、韓信はそう思わずにはいられない。自分が完全に正しいとは信じられないが、目の前の父老たちが正しいとは、どうしても思えないのであった。
いったい正しいこととは何なのだろうか?
「相国さまのおっしゃる通りでございます……。私どもはしょせん自らの道を自ら決めることができず、自ら行動も起こせない弱虫でございます。しかし私どもはそれでも市井の者どもを導き、保護する立場にございます。相国さまには不愉快な思いをさせたかもしれませぬが、これもひとえに斉の民衆を思いはかっての行動にございます」
父老の一人のこの言葉を聞いて、韓信は一時的に人間不信に陥った。この老人どもは、ほんの数刻前の自分たちの発言を覆しておきながら、そのことを恥じる様子を少しも見せなかったのである。韓信はついに怒気を発した。
「口先ではなんとでも言える! 貴様らのその一貫性のなさはいったい何だ? 斉の民衆を思いはかって、だと? 嘘をつく奴は決まってそういうことを建前にするものだ。やれ人のために、社会のために、と言うが、私にとって嘘をつく奴の本質は変わらない。……自分を守ろうとしているだけだ。民衆や社会などというものは建前に過ぎぬ!」
父老たちは互いにささやき合い、相談している様子だったが、やがてひとつの結論を出したようだった。代表と思われる人物が話し始める。
「相国さまはまだお若いようで、人の心がどう動くのかご理解していらっしゃらない様子……。よいですか、相国。世の中に嘘をついたことのない者など、皆無なのです。仮にあなたさまがこれまで嘘をついたことがないとしても、これから先には必ず嘘をつく必要性に迫られましょう。……しかしながらあなたさまの心は清廉にして、そのようなことを避けたいと願っていらっしゃいます」
「そのとおりだ。なるべくなら民衆とは本音で語り合いたい。君たち父老ともだ。私は常にそう願っている。……しかし、それは私の心が清廉だからではない。私は敵と戦うにあたって、常に相手を騙し、裏をかくことで勝利してきた。……私が人と真情で向き合いたいと望むのは、その裏返しに過ぎぬ」
「しかし、政治というものは一種の戦場でございます。あまり相手を信用すると、それこそ裏をかかれるものです。どうか、我々を信用なさってください。相国さまには気に入らないことも多いとは思いますが、そこを我慢してくだされば、住民に嘘をついて従わせるなどの汚れ仕事は我々が引き受けます」
韓信は思う。政治とは、やはりいやなものだと。彼らは人を信用してはいけないと言いながら、自分たちを信用しろと言っているのであった。とても実行可能な話ではない。
だが、自分が制圧した土地だからといって、必ずしも自分が統治しなければならないわけでもない。自分がこうして指導的立場に立っているのは当座の方便であり、その間に先頭に立ちたがる者に立たせてやるのも、あるいは一種の統治策といえるのではないか。
「……諸君の言動は、甚だ不遜で、私としては虫が好かない。手のひらを返すように前言を撤回する態度も気に入らぬ。しかし我慢することにしよう。思うに諸君は首を切り落とされることも覚悟で、ここに来たのだろう。私は諸君のその気構えには感服している。ゆえに諸君の願いをひとつだけ、聞いてやろう。包み隠さず、申せ」
「……斉は春秋時代、最初に天下に覇を唱えた国にして、古くは
韓信は実はほんの一瞬頭の中で戸惑ったが、父老たちにはそうと悟られぬよう、毅然とした口調で言い渡した。
「いいだろう。……ただし、自治を認めるということではないぞ。それにそのことを決めるのは私ではない。漢王がお決めになることだ」
三
「お見事でした」
曹参はそう言って讃えたが、韓信としては結局してやられたように思う。
そもそも城邑の父老などは、領主が変われば贈り物を用意して取り入ろうとするのが普通である。それに比べて斉の父老たちときたら……。結局は舐められたように思われるのであった。
「本当にそう思いますか? しかし実を言って私には斉をどう治めてよいのか見当もつかない。父老たちにはあのように言ったが、本当は自治してもらった方が楽なことは確かだ。しかし……占領しておいてまさかそうするわけにもいくまい」
曹参は韓信に同調したが、ここで意外なことを言った。
「斉の民は農奴や子供に至るまで謀略に慣れ親しみ、信用できません。自治はおろか彼らの親しむ者を王に擁立することさえも、危険過ぎます。よって斉は漢が統治すべきで、もし斉を王国として残すのであれば、漢の者を王としてたてなければなりません。……相国、お立ちなされ」
韓信は曹参の言葉を聞き、少なからず動揺した。
「! ……冗談でしょう。私などより……君の方が適任だ。識者だし、人望もある。漢王も君ならば信用するでしょう」
「まさか。私はかつて蕭何とともに漢王を擁立した身。その私が自ら漢王と並び立つわけにはいきません。私には相国のような知謀も少なく、王となっても国を守ることはできないでしょう」
「私なら、それができるというのか?」
「貴方以外の他に誰がいるというのです?」
「…………」
しかし、一武将に過ぎない自分が勝手にそのような決断をしても構わないものだろうか。韓信は漢の将の面々を頭に浮かべ、王にふさわしい者がいるか考えを巡らせた。
黥布には淮南王の地位が約束されている。
彭越には梁(魏の東半分)の地を自由に切り開く権利が劉邦より保証され、ゆくゆくは、かの地で王位につくに違いない。
その他盧綰や周勃、樊噲をはじめとする劉邦の子飼いの連中……忠誠心はあっても能力的には疑問符が残る。
韓信は彼らを見下していたわけではないが、彼らが王に向いているかと問われれば、否定せざるを得ない。
武力だけでは単なる暴虐な王が誕生しやすい。
知力だけでは政策が陰謀に傾きやすく、民が心服しないこと甚だしい。
王になるには人徳が不可欠である、とはこの大陸における定説であるが、では人徳とはなにか、ということになれば明確な定めはない。
しかし韓信はそれを武力と知力の均衡である、と考えていた。そして人に対する厳しさと優しさの均衡、さらには鋭気と自制の均衡、それを持つ者のみが人々の尊敬を集め、運に恵まれると結果的に王位に就くことになる、と考えていた。
では自分はどうかといえば、韓信としては自分自身をいくらでも否定することができた。
武力と知力は兼ねそろえているつもりではいるが、それは軍事に限ったことで、政治にそれを応用できるかといえば、自信はない。
人に対して厳しいか、といえば、あるいは自分は優しいといえるかもしれない。
しかしそれは表面的なもので、基本的に彼は自分を含め、人が嫌いであった。自分の優しさは他者と深く関わることが嫌なことの裏返しであることが、彼自身にはわかっている。
そして自分には鋭気などない。
もともとはあったのかもしれないが、彼は相手の鋭気を利用することを得意としたため、自分自身はそれを持つことを極力避けてきたのである。
鋭気がないのに自制などしようもなく、この点においても自分は不適格者だと、考えたのだった。
しかし曹参の言うように、他に誰がいるということになれば、やはり思いつく人物はなかった。
韓信には本気で曹参自身にやってもらいたい、という思いがあったものの、冷静に考えてみればそれもやはり無理な話である。
「立たれよ、相国」
曹参はもう一度韓信に言った。韓信は戸惑いつつも、決心を固めねばならないと自分に言い聞かせた。そのときの彼の頭の中に、先日の酈生の書状の内容が浮かんだことは想像に難くない。
四
結果的に韓信は次のように劉邦に対し、使者を通じて意見を奏上した。
「斉という国は、民衆に至るまで嘘や偽りが多く、変心に満ちており、端的に申せば、変節の国だと言えましょう。また南は国境を楚と接し、防衛に関しても容易ではなく、非常に統治するに難しい国です。厄介なこの国を治めるにあたっては、王をたてて徹底的に支配するしかありません。一武将の地位では不十分なのです。願わくは私を仮の王として任命していただくよう、お願い申し上げます」
韓信としては謹み深く、遠慮がちに「仮の王」などとしたのだが、おりしも劉邦は窮地に立たされているさなかであったので、これに激怒したという。
というより、ここ数年の劉邦に順風満帆なときはなく、常に窮地に立たされているありさまなので、韓信がいつ意見をいっても素直に受け入れられることはなかっただろう。
「王になるだと! わしが苦しんでいるというのに知らぬふりを決め込んで、王になるだと! 助けにも来ず、あいつは勝手なことばかりほざきおって」
使者が恐縮するのを前にして劉邦はさらに言おうとした。
「いったい韓信のやつはわしのことを……痛っ!」
劉邦は突然口を閉ざした。
韓信を個人的に攻撃しようとする言動を抑えるために、張良と陳平がふたりで劉邦の足を踏んだのである。
びっくりした劉邦の耳に張良が口を近づけ、使者に聞こえぬよう声を潜めて囁く。
「漢は、甚だ不利なときにあります。ここで韓信に不満を抱かせては、助けに来ないどころか、叛く恐れがあります。……韓信は王に取り立ててやれば、少なくとも自分の領地は守ろうとするでしょう。韓信の領地は、間接的には漢の領地でもあります。彼が敵でないことに、満足すべきです」
そこで劉邦は気付く。
韓信がとてつもない戦果をあげ、いまや自分に対抗できる勢力になったことを。
かねてより抱いていた懸念がいま、このとき実現しつつあるのであった。
「……立派な男が、諸侯を平定したのだ。なぜ仮の王などと言うのか。遠慮せずに堂々と王を称せばよい!」
劉邦はいきなり前言を覆した。
表向きは態度を軟化させたのである。使者は劉邦の意図が読めず、わけが分からなかったが、少なくとも韓信が王位に就くことを漢王が認めた、ということだけは理解できた。
かくして劉邦は新たに斉王の印綬を韓信に授けることになる。これは同じ王といえども斉王より漢王の方が格上で、覇者の肩書きは韓信ではなく劉邦にあることを意味する。
そして印綬を韓信に届ける役目は、張良に与えられた。
――信よ……これ以上望むな。……それがお前のためだ。
使者として旅立った張良と、送り出した劉邦はそれぞれ同じようにそう思ったのだった。
韓信が張良と対面するのは、久しぶりのことである。再会を喜ぶべきであったが、しかし張良の面持ちはどこか暗い。常に病気がちな青白い顔色をした張良が、目元に憂慮の色を浮かべていることは、韓信にもわかった。
「将軍……いや、韓信。君に斉王の印綬を渡す前に言っておくことがある。なにしろ王ともなれば至尊の身。いまのうちでなければ言いたいことも言えぬ」
「子房どの、そういう言い方はやめてください。私は王位に就くといっても、なにも漢王に対抗しようとしているわけではありません。どうかいままで通りのおつきあいをさせていただきたいものです」
「本気でそう思っているのか」
「……どういうことですか? 私にはわかりませんが」
張良はため息をついた。
もともと韓信を別働隊の将として推薦したのは彼自身であったが、こういう事態になるのであれば、韓信を劉邦のそば、息のかかるところに置いておくべきであった、と後悔したのである。
「漢王は君が斉王に就くことを了承なさったが、実は危惧を抱いている。君は有り余る能力を持ちながら、なかなか漢王の救援に訪れない。斉を治める苦労があることはわかるが……さっき君が言ったように、君が漢王に仕える身であれば、まず第一に漢王の窮地を救うべきではないのか。王を称して斉国内の地盤固めをするのは民衆のためか? それとも自分の権力増強のためか? いずれにしても漢王のためではないことは確かだ。そうではないか?」
「……本意ではないのです。斉は大国で、うまく御することができれば、漢や楚に対抗できる勢力となりえる……。これが危険なことであることくらいは、私にもわかっています。だから、漢王からよほどの信頼を受けている者しか、斉王とはなれません。だが、斉はうまく御することこそが難しいのです。漢王の信頼を得ている、そのことだけでは斉王としてはうまくやっていけないでしょう。斉を治めるには反覆常ない民衆を抑え込む武力が必要なのです。私は、漢王の信頼はおぼつかないが、武力はある程度保有している。これが、私がやるしかないと考えた所以です。できれば斉王の地位など、替わってくれる者がいたら、替わってもらいたい」
韓信のいうことは張良にもわかる。
しかし、彼の返答は張良の質問への答えにはなっていなかった。
「それはわかる。しかし、漢王は憂慮しておられる……」
「漢が強権をもって治めなければ、斉は簡単に心変わりをし、楚につきましょう。だから、私が斉王を称するのは漢のためなのです。また、漢に味方することが斉の民衆のためになることは明らかです。だって、そうでしょう? 漢は楚に勝利して天下を統一するのですから! そして斉を治めることに成功すれば、結果的に私の権力は増強されることになるでしょう。それによって漢王から疎まれることになるかもしれません。が、それは私が自制すればすむ話です。……なんの問題も起きません」
張良は、もしかしたら韓信がこの種の問題に対する勘が鈍く、無頓着にことを進めているのかと疑っていたが、想像に反して韓信はわかっているようだった。
「韓信……くれぐれも自制を。そうしなければ、君自身の身を滅ぼすことになる。このことを忘れるな」
張良は別れ際に、酈生と同じく「このことを忘れるな」という言葉を残し、去っていった。
しかしその言葉は似たようなものであっても、内容はまったく反対の意味であるようにも思えた。
韓信にはどちらの言葉に従うべきか、その明確な答えはない。
五
一心に剣の手入れをしていると、気が紛れる。
微小な剣先の欠けに注意を払い、それを見つけると納得がいくまで研ぎ直す。その間に考えることは何もなく、ただ作業に集中するだけであった。
韓信は、思索で頭の中がはち切れそうになると、好んで自ら剣の手入れをする。
斉を攻略するにあたって、韓信は自ら剣を振るうことはなかった。前に使ったのはいつのことだったか……。
――思い出した。カムジンを斬ったときだ。
韓信はあの時も思い煩い、一心不乱に剣を研ぎ直したものだった。それ以来剣を使う機会は一度もなく、そのため刃こぼれが見つかるとは思えない。韓信は今、鞘に納まった剣を前にして、どうやって現在の不安感を解消しようかとひとしきり悩んでいた。
やがて思い切ったように鞘から剣を引き抜いてみると、驚くことにその刃にはうっすらと錆が浮いていた。
韓信はそれに気付き、よくもこんな状態のまま戦場に立ち続けていたものだ、と思った。
――あるいはこれも、自分の運の強さを示しているのであろうか。
そう思うと心強く感じられることは確かだが、一方で馬鹿馬鹿しさも感じられる。
錆び付いた剣を持ちながら生き残った、それは確かに強運を示すことかもしれない。しかし彼は人生を運に左右されるのではなく、自分の行動で決めたかった。これまで運を信じて行動したことなどなかったのである。
――この錆は、死者の呪いなのだ。
迷信めいた考えであることには変わらないが、そう思った方が得心がいく。カムジンの呪い、酈生の呪い、陳余の呪い、田広、竜且の呪い……そして章邯や雍昌……。
ずいぶん昔のことを思い出した。
雍昌を仕留めたのはまだ韓信が淮陰にいたころだった。かつて淮陰城下で剣を引きずりながら歩いた幼き日の自分……。母や栽荘先生の姿が懐かしく思い出された。
――あの人たちが生きておられたら、いまの自分を見てどう評価するだろう。
章邯を殺したのは確かに韓信ではなかったが、章邯の運命を決めたのは他ならぬ韓信である。
――あの頃の自分は内に潜む心の弱さを見透かされまいと、剣を杖がわりにして自分を大きく見せてばかりいた。章邯の姿が恐ろしく、垂直の城壁をよじ登って逃げた姿の方が、本当の自分であるというのに……。
――そう思うと、やはり運か……。
しかし、そうとは認めたくない。彼はあの章邯を自分の策略で追いつめ、その結果、漢に勝利をもたらしたのだ。それは決して運などではない。
――やはり、呪いだ。
結局どちらにしても彼にとって歓迎せざるものであった。しかし呪いが自分の招いた結果だとすれば、恨むべきは自分自身しかいない。
そう思った方が韓信にとっては気が休まるのである。
おそらく母が生きていたら、生前と同じように「もっと人を信用するものだ」と言い、栽荘先生が生きていたら「太子丹と似て不器用だ」と言うだろう。
ともに彼のひとりよがりな性格を指摘するに違いないのである。
しかし二人ともすでに死者であったので、韓信としては想像して苦笑するしかない。
――死者が物を言うはずがない。
そう思う一方で、母と栽荘先生の呪いが剣に込められていないことを願うのである。
もし死者が生者を呪うことができるなら、物を言うこともできるかもしれないのだが、それを考えようとはしない韓信であった。
韓信は剣の表面に浮かぶ錆を見つめながら、そのようなことを考え続けた。物事を考えないように剣の手入れを行うはずが、結局その剣が彼の思考を複雑にした。
考え込む韓信の姿には、錯乱している様子はうかがえない。しかし逆に思考に集中しすぎて全く周囲が見えなくなるようであった。
このとき、魏蘭は韓信の前にしばらく前から座っていたのだが、それでも韓信には全然気付いてもらえなかった。
「将軍……いえ、王様」
蘭は我慢できなくなって自分から声をかけたが、それに反応した韓信の目はどこか空ろだった。
「王様……」
「……そんな呼び方はよしてくれ……私らしくない」
韓信は気だるそうに蘭に向き直って言った。その様子には蘭の目から見ても王らしい威厳はない。
「張子房さまには、なにも問題ないとおっしゃったそうですが……その様子では本心から言った言葉ではなさそうですね」
蘭としてはいたわりの言葉をかけたつもりであったが、韓信にとっては嫌味に聞こえたようである。
「見ての通り、このざまだ。いまにして思えば、趙歇の気持ちがよくわかる。なりたくもないのに王にされた気持ち……。他人にはわかるまいよ」
「でも、王座に就きたいと漢王に上奏したのは、将軍ご本人ではありませんか」
蘭は韓信のことを王様と呼ぶのはやめて、これまで通り将軍と呼んだ。
「違う。私は仮王になりたいと言ったのだ。私の自分の気持ちに対する最大限の妥協だ。王にはなりたくないが、なる義務があると感じたから言ったまでだ。それを漢王は遠慮せずに真の王になれと……。それでいて叛逆を疑うとは、どういうわけだ……。いったい私にどうしろと?」
「推挙してもらえばよかったのです。斉には王をたてねばなりませんが、誰か適任の者はおりませぬか、漢王にそう申し上げればよかったのです。結局漢王は将軍を王にたてるしかなかったでしょうが、自分から言い出したのと相手に言わせたのとでは、印象の度合いがまるで違います」
「それは……確かにその通りだが、しかしもう遅い。君もそれを先に言ってほしかったものだ」
韓信の言う通りだった。蘭は自分の考えがいわゆる後知恵だったことに気付き、素直にそれを詫びてみせた。
「申し訳ございません。私は幕僚としてなんの役にも立てず……」
「よい。過ぎたことだ。それより今後のことを考えるとしよう。何度も言うようだが、私は一体どうするべきか」
蘭は少し考え込んだが、基本的に考えはあらかじめ定まっていたようである。ただ、それを韓信にどう伝えるべきか迷ったようであった。
「天下がいずれ漢王のものとなったとしたら、この世界がどうなるかということを考えて行動なさればよろしいと思います。おそらく漢王は皇帝を称して、権力を自らのもとに集中させましょう。民衆はその権力に恐れおののき、一時は戦乱が収まるかもしれません。でも、果たしてそれは理想の世界なのでしょうか」
「ふむ……」
「漢王は今のところ庶民的な感覚をお持ちで、そのためある程度民衆をいたわる気持ちがございますが、権力を持った途端にその感覚を失うことも充分に考えられることでございます。人は権力を持つと自制がきかなくなり、暴走するものなのです」
「なにが言いたい」
「天下が漢に定まったのちに漢王の暴走を止められるのは、将軍の存在しかないように思われるのです。力を蓄えて、漢王を掣肘できる立場を目指すべきです」
「それではいずれ私は疑われ、早いうちにせっかく就いた王の座を降ろされるかもしれない。まあ私はそれでも構わないが……」
ここで韓信はすこし笑いを漏らした。
「どうしたのです?」
蘭の問いに、韓信は珍しく浮ついた表情を見せて言った。
「いや……私は王座などから降ろされてもいっこうに構わないが、それでは君を王妃に迎えることができない、と思ったまでだ」
韓信が意外に感じたのは、蘭が顔を赤らめもせずにその言葉を受け止めたことだった。
「ご冗談を。でも私もいっこうに構いません。私は将軍が将軍のままでも構いませんし、仮に平民になられたとしてもお供します。もちろん、王となられても」
「蘭、君の気持ちは嬉しいが、どうして君は私のことをそのように思ってくれるのか? いや、……今さらかもしれないが聞かせてもらいたい」
蘭は韓信の問いに、気負う風でもなく答えた。
「……将軍の武功は前例がないほど大きなものですが、将軍個人のお人柄は……傍で見ていて、どうしようもなく頼りなく見えるのです……将軍は他人を信用なさらないし、生き方も不器用で……私は、常におそばに控えていないと心配で仕方がありません」
このとき蘭は韓信にとって重要な位置を占める二人の死者がいうべき言葉を、全く不自然な様子もなく言ってのけた。その事実に韓信は具体的な説明はできなかったが、深く心を動かされたのである。
しかしなぜ自分の気持ちが高揚したのか……自分で自分に説明ができないことを彼は苛立たしく感じた。
常に明確な解答を求め、理路整然とした論理を好む……韓信とはそういう人物だったようである。
紀元前二〇三年二月、韓信は斉王として君臨した。
当時の人間で、それがよいことであると断言できた者は、ほとんどいない。当時の誰もがそうするしかない、他にどうしようもない、と思った結果、生じた出来事だった。
(第二部・完)
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