#031 その時、天空帝国の大人たちは

♯星歴682年 10月 17日 午前7時25分

  アゼリア市東区上空 天空揚陸艦パレイベル艦橋


 帝都東区上空、水位が回復しつつある外周運河がいしゅううんがの上空に、天空揚陸艦パレイベルは留まっていた。〈ランペル・シュルーペの漏斗ろうと〉が出現する直前に、沙夜法印皇女さやほういんこうじょから燭光信号しょっこうしんごうにて、この位置での待機を求められたからだった。

 そして、沙夜法印皇女さやほういんこうじょらを巻き込んだ状態で漏斗魔法ろうとまほうが発動し、天空騎士てんくうきしたちを動揺に包み込んだ。沙夜法印皇女さやほういんこうじょ、テュー男爵家だんしゃくけより出仕している侍女官じじょかんを乗せた飛竜、さらに魔法機械騎士まほうきかいきしガストーリュが、跳躍転移に巻き込まれた。


 ソニス法符師ほうふしは、魔法符形解析器まほうふけいかいせききをフル稼働させて、魔法跳躍先の算出を試みようとして……絶句した。

 跳躍飛距離の予測数値は、帝国版図ていこくはんとを遙かに超えて北極圏へ到達する勢いだった。あまりの計算結果に、昏い絶望が首をもたげ始めた。傍らに立つラファル技巧官ぎこうかんと戸惑い顔を見合わせた。

 第七艦隊群の天空船てんくうせんすら到達不可能な遠距離へ、沙夜法印皇女さやほういんこうじょたちは飛び去っていうことしていた。帝都上空にいるパレイベル船橋からでは、ただ魔法符形解析器まほうふけいかいせききが示す数値に、ただ圧倒されるしかなかった。


 しかし、陽炎の如く立ち上っていた黄金色の竜巻が、ふいに掻き消された。

虚数月魔法きょすうつきまほう〈ランペル・シュルーペの漏斗ろうと〉……解除されました」

 天測てんそくを担当する技巧官ぎこうかんの声は、何が起きているのか解らず唖然としていた。


 明らかに異常終了と見られる転移魔法の中断――符形解析器ふけいかいせききまでもが、誤差の増大により意味をなさない数値を吐き出して止まった。

 慌ただしく怒号すら飛び交っていた艦橋だったが、さらに続いた漏斗魔法ろうとまほうが突然に消滅する新たな事態に、もはやため息すらでない。天空騎士てんくうきしたちは、ただ目の前の……金色の砂のように崩れていく巨大な円環魔法陣えんかんまほうじんを見守っていた。


 跳躍転移の魔法符形まほうふけいシステムは、世界の基礎構造に干渉するその性質から、極めて厳重に保護されている。多少の不具合で異常終了することは考えられない。たとえ障害が発生したとしても、自動的に対応プログラムが稼働し、安全かつ正確に跳躍が完了するはずだった。

 〈ランペル・シュルーペの漏斗ろうと〉を異常終了させることは、不可能に近い。しかし、現実にそれは起きた。


 突然に、帝都内に跳躍転移の門が開くことなどあってはならない出来事だった。

 さらに、その跳躍魔法に、就任したばかりの幼い法印皇女ほういんこうじょらが巻き込まれた。

 そして、異常な跳躍の中断……

 

「……何が、起きているの?」

 ソニス法符師ほうふしの声は震えていた。



♯星歴682年 10月 17日 午前7時43分

  アゼリア市中区 天空艦隊てんくうかんたい統合指揮所


 セオル筆頭戦術技巧官ひっとうせんじゅつぎこうかんは、深いため息をついた。真鍮しんちゅう製の丸眼鏡を拭いて、掛け直した。チョークを手に、ゆっくり黒板へ歩み寄った。

 対応状況の時系列を整理していた巨大黒板へ、「7時43分 虚数跳躍転移魔法、中断」と白チョークで書いた。

 そして、天空艦隊てんくうかんたい統合指揮所に並ぶ各艦隊群のテーブルへ向き直った。

「皆様、状況は新しい段階へ移りました。帝都内に妖魔ようまは存在しません」


 セオル筆頭戦術技巧官ひっとうせんじゅつぎこうかんが、この事態を受けて、それぞれの天空艦隊群てんくうかんたいぐんに出した要請は明確だった。


 レアトゥール関門に待機中の直轄領守護艦隊ちょっかつりょうしゅごかんたいへは、前進し妖魔艦隊ようまかんたいを撃退するように求めた。結果として、帝都内に侵入した機械獣魔きかいじゅうまは排除された。妖魔ようま側が仕掛けた、帝都アゼリア市を内外から切り崩す連携作戦はもう成立しない。

 ならば、レアトゥール関門から直轄領守護艦隊ちょっかつりょうしゅごかんたいを押し出し、アゼリア直轄領ちょっかつりょうからも妖魔ようま天空艦隊てんくうかんたいを排除するのみ。


 そして、最も高い速力を持つ天空第四艦隊群へは、艦船の分散配置を提案するとともに、沙夜法印皇女さやほういんこうじょの捜索及び救出を求めた。もちろん、メートレイア伯爵家はくしゃくけ絶対指揮権ぜったいしきけんを担う第四艦隊群の天空騎士てんくうきしにとって、それは命じられなくとも是が非でも行う任務だった。天空第四艦隊群に属する騎士たちにとって、ちっちゃな法印皇女ほういんこうじょは敬愛の対象だったのだから。



♯星歴682年 10月 17日 午前7時45分

  天空艦隊てんくうかんたい統合指揮所、天空第四艦隊群テーブル


 水晶柱に封入ふうにゅうした百合の白い花がテーブルを飾る。

 天空第四艦隊群から派遣された連絡役の天空騎士てんくうきしたちが詰めていたテーブルは、セオル筆頭戦術技巧官ひっとうせんじゅつぎこうかんの要請を受けて、にわかに慌ただしくなった。


 法印皇女ほういんこうじょ任命式の当日に帝都への妖魔ようま侵攻などと言う無粋な出来事が起きなければ、たとえ沙夜さや本人が嫌がったとしても、祝宴という名目の乱痴気騒ぎを夕刻には始めて、そのまま朝まで飲み明かすつもりだった。

 そのために、旗艦グルカントゥース以下、天空第四艦隊群の中核にあたる天空船てんくうせん数隻が、こっそり任務を離れて帝都に集まっていた。さらには、同じく武家ぶけ繋がりの天空第七艦隊群にも、懇親会の案内状を送っていた。

 幼い法印皇女ほういんこうじょ侍女官じじょかんにはお菓子と果汁ジュースを、天空騎士てんくうきしたちには溺れるほどにアルコールを、と――帝都桜通に面した行きつけの酒房にも予約を取っていた。


 それが突然の危機対応に走らされたおかげで、キャンセルになった。飲み明かすために帝都に舞い戻っていた第四、第七艦隊群の天空艦船てんくうかんせんはそのまま、妖魔ようま天空軍船てんくうぐんせんへの対応に向かわされた。


 もちろん酒房も良く心得ていて、今回の宴席のために取り寄せた珍しい銘柄の瓶については、預かっていてくれる。

 

 だから、幼い法印皇女ほういんこうじょたちを必ず帝都に連れ帰らねばならない。

 法印皇女ほういんこうじょ就任を祝うだけでなく、機械獣魔きかいじゅうま相手に見せた勇気ある戦いぶりを褒めてあげるためにも。

 統合指揮所、第四艦隊群のテーブルには、ソニス法符師ほうふしからの転移先計算結果を含む多数の情報が集められていた。誤差だらけの数値でも、ないよりはましだった。

 

 さらに、直轄領ちょっかつりょう北部地域の複数の市町からも、不思議な色合いの流れ星のような輝きが、夜明け直後の空を横切ったという目撃情報が届き始めた。

天空回廊てんくうかいろう管制局にも問い合わせろ、近隣を航行中の天空船てんくうせんから天測てんそく情報を集めるんだ」

「ユーフリア地方の各貴族きぞく家にも通信で協力を求めろ。情報収集を急がせろ」

 転移回廊かいろうが向かった方角、帝都の北に位置するユーフリア地方に城館を持つ地方貴族きぞくたちにも、急ぎ通信で連絡して情報を集めさせた。妖魔ようま襲来の際に真っ先に駆け付ける天空第四艦隊群からの依頼に対して、地方貴族きぞく家の多くは協力的だった。

 それから、次々と対応に追われた天空騎士てんくうきしたちは、ふいに思い出したように顔を見合わせた。にやりと笑い合う。

「あと、沙夜さや様とユカ殿には、ご褒美もな……そうだな、例えば、どんなぬいぐるみならば喜ばれるか、検討を頼む」




♯星歴682年 10月 17日 午前7時58分

  アゼリア直轄領ちょっかつりょう西部、法印皇女船ほういんこうじょせんレアルティア


 ノイズ混じりの蛍砂けいさ表示管越しに、セオル筆頭戦術技巧官ひっとうせんじゅつぎこうかんが、慇懃いんぎんに深く一礼した。

「なんてことを……」

 瑠華法印皇女るかほういんこうじょは、声を震わせた。


 一昨日、愛娘の法印皇女ほういんこうじょ任命式の前日に、よりによってアゼリア直轄領ちょっかつりょう内に妖魔ようま軍船団ぐんせんだんが大挙侵入した。娘と楽しく一日を過ごす予定が吹っ飛んだ。それにもかかわらず、深夜に外周運河がいしゅううんがより飛び立って最前線に向かった。

 主人であるバルク・イス・メートレイア伯爵はくしゃくが率いる天空第四艦隊群、旗艦グルカントゥースにも連携を求めた。

 旗艦グルカントゥースは、もともと任命式の行われる金穂月シュス・イズエ十六日、午後に外周運河がいしゅううんが入港を目指して天空回廊てんくうかいろうを航行していた。それが、大幅に行程を繰り上げ、十六日未明に帝都に到達した。さらに、十七日早朝の現時点では、レアルティア後方、約二十五メルトリーブにまで迫っていた。

 天空艦隊最速てんくうかんたいさいそくのレアルティアを相手に距離を詰めてきたのだ。主人が率いる第四艦隊群の風読みの手腕に、瑠華法印皇女るかほういんこうじょは満足げだった。


 そう、幼い娘たちを安全な帝都に残し、夫婦で敵、妖魔艦隊ようまかんたいと張り合うはずだった。


 それなのに……

 セオル筆頭戦術技巧官ひっとうせんじゅつぎこうかんの報告は驚愕の一言だった。たったふたりだけで、帝国版図ていこくはんと外縁部付近まで跳躍転移魔法で飛ばされて、しかも正確な位置はまるで解らない。通信も繋がらない。もちろん安否も不明……


 それでも帝国最強の法印皇女ほういんこうじょは、大きく息を吸うと、自身をとにかく落ち着かせてから、言葉を紡いだ。

「天空第四艦隊群と連携します。よろしいですね」

 セオル筆頭戦術技巧官ひっとうせんじゅつぎこうかんは、静かに頷いた。




♯星歴682年 10月 17日 午前8時05分

  アゼリア直轄領ちょっかつりょう西部、天空第四艦隊群旗艦グルカントゥース


 瑠華法印皇女るかほういんこうじょから、天空第四艦隊群旗艦グルカントゥースの船橋に仁王立ちするバルク・イス・メートレイア伯爵はくしゃくに通信が入ったのは、直後のことだった。


「うちの子と、テュー男爵だんしゃく殿からお預かりしたユカさんを、あなたがお迎えに行って下さいませんか」

 妻から連絡を受けたメートレイア伯爵はくしゃくは低い声で深く唸った。ほぼ同時に、帝都にある天空艦隊てんくうかんたい統合指揮所からも同様の要請が届いていた。

「しかし、現在、我が第四艦隊群は敵妖魔軍船団ようまぐんせんだんに向けて進撃中だ。引き返せというのか?」

 船橋には、旗艦グルカントゥース付きの戦術技巧官せんじゅつぎこうかんが整理した状況図が、蛍砂けいさ表示管に浮かんでいた。まもなく法印皇女船ほういんこうじょせんレアルティアを追い越し、その後は敵妖魔軍船団ようまぐんせんだんに突撃を食らわすプランが進行中だった。

「いいえ、あなたなら、敵艦隊をぶち抜いてから、子供たちのお迎えに行っても間に合うでしょ? 後片付けは私が引き受けますから……」

 妻である瑠華法印皇女るかほういんこうじょは、腰まで伸ばした鮮やかな赤い髪を揺らして微笑した。清楚な雌ヒョウと形容すべき妻の仕草は、猫のそれに似ている。可愛らしさと、獰猛どうもうな狩人の残忍さの両方を同時に兼ね備えているのだ。

 メートレイア伯爵はくしゃくは低く唸った。法印皇女船ほういんこうじょせんレアルティアは、帝国最速さいそく天空船てんくうせんだが、一隻しかない。対する天空第四艦隊群は、その名のとおり複数の天空艦隊てんくうかんたいを束ねた艦隊の群れである。直轄領ちょっかつりょう付近を航行中だった艦船を掻き集めた臨時部隊だが、それでもこの時点で九隻いた。捜し物をするのなら頭数が多い方が良い。妻の提案には、充分に合理性がある。


 メートレイア伯爵はくしゃくは、自身に付き従う天空騎士てんくうきしたちを振り返った。旗艦グルカントゥースの船橋に居並ぶ天空騎士てんくうきしたちは、老若男女を問わず、不適な笑みを返してくる。

「承知した。ひと仕事の後に子供たちのお迎えに行こう。後ろは任せる」

 蛍砂けいさ表示管の中で、美しい妻が深く一礼した。

 

 ◇  ◇

 

 旗艦グルカントゥース付き戦術技巧官せんじゅつぎこうかんは、緊張と歓喜と高揚の中で戦術プランを更新した。ここまで話が進めば、メートレイア伯爵はくしゃくが何を決断したのかは、こと天空第四艦隊群に限ってはもう言葉での指示を待つまでもない。


 衝角攻撃しょうかくこうげき戦にプランを移行。


 船橋中央に新たな戦術プランの表示が立ち上がった。メートレイア伯爵はくしゃくは、その表示にうなずいた。

「これよりうちの娘たちを迎えに行く。その前に正面に展開中の妖魔軍船団ようまぐんせんだんを、ぶち抜く。なお、一連の作戦に関しては時間が肝要である。よって、衝角戦しょうかくせんをやる。まだ寝てるヤツは全員、たたき起こせ」

 衝角戦しょうかくせん――それは、天空帝国てんくうていこくが誇る突破力の権化、天空第四艦隊群が切り札的に温存していた特異な戦術だった。

 久しぶりの衝角戦しょうかくせんに沸き立つ船橋詰め騎士や技巧官ぎこうかんたちに、メートレイア伯爵はくしゃくは満足げだった。これまでの鬱憤を晴らすような派手な戦い方は、嫌いではない。否、むしろ、好ましい。

最速さいそくで目標座標に到達可能な航路を算出せよ――北行きウルスティア回廊かいろう及び東行きアゼリア回廊かいろうを組み合わせていけるか、試算してくれ」

 そして従者役を務めていた少年に命じた。旗艦グルカントゥースの幼い筆頭操演術師ひっとうそうえんじゅつしを船橋へ連れてくるようにと。

「ラティーナを起こしに行ってくれ……あと、寝ぼけているだろうから、コーヒー牛乳を暖めておくのだ」

 少年は心配そうに表情を曇らせた。

 天空第五艦隊群の絶対指揮権ぜったいしきけんを持つカルシオン伯爵家はくしゃくけから預かったラティーナという少女は、驚異的な操演そうえん技術を持つ天才少女だった。一方で、低血圧らしく呆れるほどに寝起きが悪かった。従者を務めている少年は、散々に苦労させられていたのだ。

「あの、ラティーナ様は朝は弱いので……」

 だが、メートレイア伯爵はくしゃくは悪戯っぽく笑った。

「大丈夫だ。衝角戦しょうかくせんをやるから、今すぐ船橋に来いといえば、目の色を変えて走ってくるはずだ」


 ――五分後、パジャマ姿の少女が素足のまま、旗艦グルカントゥースの船橋へ駆けてきた。そのまま操演台そうえんだいへ登り、次席操演術師じせきそうえんじゅつしの老騎士と交代する。老騎士は少女の無邪気な様子に微笑んだ。

「あの、メートレイア様、をやるって本当ですか!」

 メートレイア伯爵はくしゃくは、少女の栗色の髪を撫でて嬉しそうに笑った。旧友の末娘を預かって天空船てんくうせん操演術そうえんじゅつを教えているのだが――これまで衝角戦しょうかくせんだけは座学だけで実践教育はできなかった。衝角戦しょうかくせんというのは、その性質からも簡単に繰り出せる戦い方ではなかったためだ。しかし、ついに時はきた。

「本当だ。これより妖魔軍船団ようまぐんせんだん最速さいそくでぶち抜く。妖魔ようま天空軍船てんくうぐんせんに、特大のを食らわせてやろう」

 ラティーナ・メル・カルシオンはまんまるの瞳を輝かせた。



♯星歴682年 10月 17日 午前8時40分

  アゼリア直轄領ちょっかつりょう西端部、法印皇女船ほういんこうじょせんレアルティア


「まもなく、アゼリア直轄領ちょっかつりょう境界線です。これより本船は直轄領ちょっかつりょうを出て、ウルスティア領に入ります」

 青い空には何も境界線なんてものはない。地図の上にだけ人工的な境界線が引かれているだけだった。しかし、瑠華法印皇女るかほういんこうじょはにんまりと微笑んだ。巨大な法印皇女船ほういんこうじょせんを操る魔法の珠、操演球そうえんきゅうを抱いていた。魔法的な感覚が天空船てんくうせんが宿した魔法機環まほうきかんで拡張されるから、主人の率いる天空船てんくうせんが一気に増速したことが解った。


「天空第四艦隊群旗艦グルカントゥース、左舷を通過します。つづいて二番艦、重機甲要撃艦じゅうきこうようげきかんサクラメルカ、三番艦クルックメルカ、右舷を通過します」

 法印皇女船ほういんこうじょせんレアルティアを友軍艦船が追い抜く様子を、天測技巧官てんそくぎこうかんが読み上げて報告した。瑠華法印皇女るかほういんこうじょは、船橋に佇み、夫が率いる天空艦隊てんくうかんたいが猛烈な速力で自身の船を追い越してゆく有様を見守っていた。

 直後に天空第四艦隊群の艦船が巻き起こした乱気流が、レアルティアを揺さぶった。

「相変わらず、迷惑な飛び方ね、うちの人は……」

 瑠華法印皇女るかほういんこうじょはくすりと含み笑いをした。

 天空第四艦隊群の管轄区かんかつくは、対妖魔戦たいようませんに限っては、アゼリア直轄領ちょっかつりょうを除く帝国版図ていこくはんとの全てだった。この境界線を越えるとき、メートレイア伯爵はくしゃくは多少は礼儀をわきまえた飼い猫から、獰猛どうもうな肉食獣に豹変ひょうへんする。


 帝都との連絡を担当していた通信担当の技巧官ぎこうかんがふいに声をあげて呼んだ。

瑠華皇女様るかこうじょさま、帝都統合指揮所より問い合わせが一件、届いております」

「何事でしょうか?」

「実は……」

 通信担当官は、微妙な笑いの混じる声で続けた。


 そう、帝都からの問い合わせは、沙夜法印皇女さやほういんこうじょとユカ侍女官じじょかんへのご褒美に贈るぬいぐるみについてだった。

「これは、かなり困難な案件ね――間に合うかしら……でも、あの子たちも頑張っているんだし、私も何とかするしかないわね」

 瑠華法印皇女るかほういんこうじょは、逡巡しゅんじゅんの後に、決意を込めて答えた。

「帝都帰還までには、何とか間に合わせますっ!」


 実は……瑠華法印皇女るかほういんこうじょは、沙夜さやとユカ、ふたりの娘たちにプレゼントするために、うさぎさんとりすさんのぬいぐるみを内緒で手縫いしていた。

 テュー男爵家だんしゃくけとメートレイア伯爵家はくしゃくけはもともと親密な関係だった。天空第四艦隊群の中でも、テュー男爵だんしゃくは第二支援艦隊を率いており、メートレイア伯爵はくしゃくに次ぐ、事実上の副司令の役目を果たしていた。

 ゆえに、テュー家の娘であるユカは、メートレイア伯爵家はくしゃくけ総領姫である沙夜さや侍女官じじょかんを目指したのだ。瑠華法印皇女るかほういんこうじょは、そんなユカをたいそう気に入っていた。うちの沙夜さやのために一生懸命なユカへ、何かしてあげたいと考えた結果、お揃いのぬいぐるみをプレゼントすることにした。

 この事実を知っていたのは、レアルティア船内でも瑠華法印皇女るかほういんこうじょ付きの侍女官じじょかんの他、数名でしかない。

 しかし、完成させると宣言はしたものの、この段階では様々な忙しい出来事に翻弄されて、ぬいぐるみ製作の進捗は芳しくはなかった。綿を詰めて形になっているのは、うさぎさんの耳や、りすさんのしっぽだけだった。残りはまだ裏から縫い合わせている段階だった。間に合わせると言ったものの、瑠華法印皇女るかほういんこうじょはため息をついた。


 その陰では、瑠華法印皇女るかほういんこうじょ付きの侍女官じじょかんたちが、こっそり微笑んでいた。天空帝国てんくうていこく対妖魔戦たいようません最強の存在として、その名を轟かせる武闘派法印皇女ぶとうはほういんこうじょは、その実、お裁縫が大好きな可愛らしい乙女でもあるのだから。

 

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