◆26:Cum tacent, clamant.

 きちんと折りたたみながら秀英は黒い長シャツの袖を捲り上げた。


 右腕の手首から肘、肩へ向けて一直線に走る不格好な傷が露わになって、隣に立っていた女性がぎょっとしたように後ずさる。


 それもそうだろう、過去の生傷以外に、この前の崖崩れで負った擦り傷を塞ぐためのガーゼや絆創膏も大量に貼り付けてあるのだから。


 左腕もまくり上げる。


 蝋を垂らされたときに出来た無数の火傷痕が、まるで爬虫類の鱗のように広がっていた。


 女性がさらに半歩分、上半身を引いた。

 奇異の目を向けられて、秀英の額から冷や汗がたらりと落ちてくる。

 大きく息を吸って肺に送り、暴れる心臓と胃腸をなだめるように体を抱きしめた。



 これが、まさしく、緊張っていうのかも。



 今から一世一代の爆弾をこの夏祭りに投下する。


 いずれこの日が来ることは覚悟していた。



 さっきトップバッターの男性が呼ばれて出て行った。秀英は悪運からか二番のクジを引き当てたから、順番はもうすぐだ。



 小寺さんは大丈夫だろうか。



 彼女だけを神楽殿の前に置いてきてしまったが、少しでも事情を話しておいた方がよかったかも知れない。いや、何も話さないのが小寺さんのためになるはずだ。約束をきちんと守るためにも何も説明しないのが一番だったはず。



 小寺さんは今頃クラスの友人と合流して秀英の帰りを待ってくれているだろう。


「男子ってクラスの男子じゃん、まーいーけどー」


 ふわふわのボブカットを揺らしながら歎いていた三嶋千佳子さんや園崎柚さん、その他クラスの男女数人の顔を思い出す。

 小寺さんが集められたのは合計七人だったが、それだけで十分だった。

 残り全員は鷹来が声をかけている。多分、どこかにいるだろう。



「次、二番の札をお持ちの方」


 運営のアナウンスが聞こえて、秀英は両手を拳にした。ぎこちない足取りで一番手の男性が通った経路を辿る。神楽殿の上手へ登り、袖を抜けると日没前だというのに辺りが真昼のように明るくなった。


 思わず目を眇めて立ち止まってしまう。


 視界にはこちらを向くサーチライトしか見えないのに、その向こうにたくさんの人の群れと、彼らの熱気を感じる。

 びりびりと両腕の傷がうずく。

 右腕は自分でガラスを殴ったときに負ったものだ。

 クラスでのいじめ、無視、親や先生誰にも相談できなくてぺちゃんこに潰れていた心が爆発したその痕跡。

 何かを思いっきり殴って、傷付いて、鮮やかな鮮血を止めどなく流しながら秀英は気付いたのだ。


 持ち主からも迫害されネグレクトされた心は、それでも、本当は叫びたがっていたのだと。



 運営スタッフに促されるまま神楽殿の中央に立つ。マイクを渡され、受け取る。金属で出来たそれは重たかった。



「では、エントリーナンバー二番。浅岡秀英さんです。今日はクラスメイトに告白したいことがあるそうです。何でしょうか? 好きな子への告白かも知れませんね!」



 ようやく目が慣れてくる。

 緊張はどんどん高まって口の中はからからで、顔には変な笑みが張り付き小指が痙攣している。


 これが緊張。


 誰かに殴られたり蹴られたりからかって笑われたりする事を恐れて怯え萎縮するのとは違って、胸のすくような快感があった。



 全てが、自分次第だ。



「僕は」



 マイクに向けて喋る。微細な空気振動を拾ったコイルが、それを電気信号に変換しアンプを通じて巨大な空気振動へと変えた。その場にいた人々の視線が、すっと秀英へ集中した。



 ――後のことは任せた。



 そう信じてくれた彼の言葉に背中を押して貰う。



「僕は、罪を犯しました」



 舞台の左袖辺りに橋本萌々さんが居るのを見つけた。

 中央付近に目を転じると小寺さんがぽかんとこちらを見上げていた。


 汗で滑り落ちそうなマイクを両手で握りなおす。

 ゴロゴロと雷鳴のような音が耳の奥で鳴っていた。


「どういった罪か、これから全て告白します」


 いったん言葉を切る。


 ない唾を無理矢理飲み込んで食道を潤そうと喉が上下する。


「僕はクラスの黒板に落書きをしました。今週の火曜日のことです。一番最初に登校してみんなを驚かせてやろうと思いました。友だちに協力を頼みました。彼の名前は、M君とさせて下さい。多分、僕のクラスメートは誰かわかると思います」



 秀英はつっかえつっかえ、頭を今までになく高速回転させて言葉を選んで懺悔を続けた。



 七月十九日の朝。小言を振りまく母親からどうにか逃げ出して七時半登校を実現させてくれた前坂君と校門前で合流し、黒板にメッセージを書いた。メッセージは前坂君が考えてくれた。



“このクラスの誰かが殺される”



 計画を持ちかけたとき、どうせならセンセーショナルなものを書いてみんなをあっと言わせてやろう、と片目をつぶって歯を見せた彼の笑顔を思い出す。



「メッセージは、僕が考えました」


 嘘を告白する。

 少しでも、前坂君への恨みが少なくなるように。



「殺すつもりはもちろんありませんでした。だから、殺される、かもしれない、ギリギリの言葉を選びました」



 主張としては多分、苦しい。

 説明している秀英自身もそう思うが、前坂君がそれ以上のことを教えてくれなかったのだから、それ以上むやみに脚色してしまうことは出来なかった。わかるのは、そこに伊比君が関わっているらしいと言うことだ。



「二日目は、僕が勝手に書きました。一日目のメッセージだけでは、望んだ結果が得られなかったからです」


 ともすれば悪趣味、ブラックジョークが過ぎると忌避されかねないメッセージの提案を二つ返事で受けたのは、秀英にとってもそれが都合よかったからだ。



 いじめられて逃げてきた秀英を、温かく迎えてくれたクラスだったからこそ、同じ間違いを犯して欲しくなかった。

 クラスのみんなに考えて欲しかった。

 いじめられているクラスメートについて、彼女の、近原さんへの接し方について、何が最良なのかを。



 いつの間にか迫っていた雨雲から酸性の水が降ってきて、歎くように地面を叩く。傘を持たない人が蜘蛛の子を散らすように去っていったが、ここに呼び集めたクラスメイトは全員残ったようだった。



「“殺してやる。近原スナオ”。こう書けばきっとみんな考えてくれると思いました。僕は近原さんが昔の僕と重なって見えました。昔の僕は、少しいじめられていて」



 免罪符にしてはいけない。

 今でも掘り起こした記憶に夜眠ることもままならなくなるが、それでもそれを理由に悪行を為して良いと言うフリーパスにはならない。



「いじめと言うほどのものでもなかったんだけど、色々怪我をさせられました。その結果、僕は自分で自分を傷付けました」



 右腕の傷を見せる。今は抜糸もとうに済んでいるから、茶色い割れ目が走っているだけだ。どれだけ遠目にも視認できるかはわからなかった。



「彼女にはそういったことになって欲しくなかったんです。もしも、クラスのみんながひとりひとり、何かを考えてくれたら,と思いました。本心を知りたかったんです。だけど、みんな、一日目のメッセージを本気にしてくれなかった」

「そんなの、前坂君と浅岡君が面白がって引っかき回したからじゃない!」


 右袖の方から怒りの声が投げつけられた。


 橋本さんが顔を真っ赤にして縮緬の手提げを振り回している。


「みんなを怖がらせた悪戯の理由にならない! もし本当に考えて欲しかったら学級会議で提案すべきだったのよ!」


 彼女の言葉は、泣きたいくらいに正論で、泣きたいくらいにズレていて、悲しいほど救いの力を持たない。


「橋本さん。その通りだと、僕も思います。だけど、僕には、それが出来なかった」


 学級会議で担任という大人を交えて公然と議論したところで、状況は変わらなかった。皆が皆建前を口にして、いじめはやめましょう、と道徳的な結論に達して、だけど結局誰もが長いものに巻かれた。先生ですら。このクラスは、この担任は違うと思っても、信じきることができなかった。


「僕の心が弱かったんです。本当はみんなを信じたかったけど、信じられなくて、試すような真似をしてしまいました。結果、近原さんを傷付けて、みんなを怖がらせてしまいました」


「お前さあ、じゃあ、三日目どうなんだよ。あれはどう説明するんだよ」

 怒りつつも呆れを滲ませたぬるい温度感の声。


 左手の方から聞こえたが、同じような丸刈りの男子がかたまっていて、声の主は見つけられなかった。

 耳に残された記憶から、野球部の垣内君かも知れないと思う。


「三日目は、おばさんに協力して先生に嘘をついて貰いました。その帰りに野球部の朝練と遭遇しました。警察の人にはいなくなったのが僕であること、誰にも言って欲しくないことを伝えました。あの時の崖崩れはダウンバーストという気象現象だったそうです。すぐに僕は無事だと伝えられず、心配をかけてしまい、すみませんでした。

 これが、これが、一連の僕が犯した事件の真実であり、M君の書いた筋書きです」


 どういうことだ、というどよめきが聴衆に走る。


「おい、ボウズ、友だちに罪を全てなすりつける気か!」

 男性の怒声が聞こえて、空き缶が飛んできた。

 当たりはしなかったが足下でぶつかって、コロコロと転がる。

 男性の糾弾を皮切りに、黙って耳を傾けてくれていた人たちが批難の声を上げ始めた。


「ちがいます!」


 秀英はマイクに向けて叫ぶ。

 指の皮膚から骨が突き出そうなくらい強く、マイクを握る。


「違います! 違う。違う、そうじゃないんです。


 僕がM君を騙しました。復讐したかったんです。どんなに苦しくても助けてくれなかったから、心の奥底でみんなも苦しめばいいと恨んでいました。


 M君は全てM君主体でやったことだから、みんなにさっきのように説明して欲しいと言いました。


 だけど、本当は、探偵役を手伝って貰った以外、全部僕が勝手にやったんです。黒板に文字を書いたのも全て僕ひとりで、メッセージも僕が勝手に決めました。彼は、僕の代わりにクラスの人の声を集めてくれた、それだけです。どんなに謝っても許されないことだと思います。だけど、謝らせて下さい」



 膝をつき、額を床板へすりつけんばかりにして土下座する。



「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」



 辺りが雨音だけになった。傘を持つ人も持たない人も、じっと黙って秀英を見上げている。



 その静寂を壊すように、人垣を掻き分けて近付いてくるものがあった。騒がしさに秀英は顔をあげる。


「小寺さん、やめなよ、ねえ」

「関わったって得することないじゃん」


 ズルズルと友だち、三嶋さん、園崎さんを体に巻き付け引きずりながら近寄ってくるのは全身濡れネズミの小寺さんだった。神楽殿の裾までたどり着き、まなじりをつり上げて秀英を睨みあげる。腕を振り上げて叫んだ。



「バカ! 浅岡君と前坂君のバカ! そんな良い子ぶった告白して、あたしたちの本心が知りたかったなんて言わないでよ!」


「やめて亜樹!」


 三嶋さんが制止の声を張り上げる。


 秀英は目を丸くして見下ろす。


 小寺さんは憤怒に燃えた顔で泣いているようだった。


「本当は、二日目の犯人が知りたくて嗅ぎ回ってた癖に! やったのはあんたでも前坂君でもない! わかってるんでしょ。あたしたちだって!」



 守れなかった。



 指先から冷たい絶望が這い上がってきて、秀英はマイクを落とした。

 ほんの数センチの落下音が何十倍にも増幅され、辺りの空気に亀裂を入れる。




 ◆




 電車がトンネルに入った。


 空気の層にぶつかって、ばしん、と車体が叩かれる。


 三十秒程度の短い暗転の後、トンネルを抜けて県庁所在地に入る。

 既に雨が辺り一面を支配していて、車窓を背後へ流れて行く木々も苦しそうにその幹をたわませていた。



 舞夏はスマートフォンでウェブブラウザを立ち上げる。手にしたメモに書かれた十桁の数字を打ち込んだ。


 検索結果としてロボットが拾って来たのは、中央総合病院の名前と写真、地図、そしてホームページ。画面をタップしようとして気付く。指先だけでなく奥歯までカタカタと震えている。鼻の奥が苦しくて、舞夏は自分が泣きそうなのだと知った。



 やっと見つけた。



 だけど、どうしてこれを前坂君が?

 どうしてこのメモを?



 どれだけ考えてもわからなかった。メモは大学ノートの切れ端、それもちぎり取ったものだ。書かれているのは三行だけ。



「友井雄太さんから

 携帯×××-××××-×××

 入院先×××-××××-×××」



 入院先。


 それが中央総合病院と言うことなのだろう。

 額を車窓に付ける。

 冷えたガラスが怯える舞夏の体をさらに冷やす。



 前坂君が落としたのはメモだけではなかった。

 もう一枚、こちらはハサミで丁寧に切り取ってあったのだが、こちらが悪夢の根源だった。


 週刊誌のものらしい、粗悪で薄っぺらくつるつるの紙。記事のタイトルには見覚えがあったが、文面には所々違和感があった。舞夏が買い集めて読んだ週刊誌の中の一冊に同じ記事があったように思うが、記憶の中のそれとぴったり重ならない。


 なにより、一番最後に書き添えられた情報は、絶対に購入したものには書かれていなかったと言える。それは、舞夏がずっと探し求めていた、だけど、ずっと見つからないで欲しいと願っていた情報だったから。



 記事はこんな文章で始まっている。



「××県××市××町にて、一昨日土曜日の未明」



 ニュースを報じるありきたりなテンプレートにはめ込まれているのは、舞夏の住む町であった、先週の交通事故。バスとバイクがぶつかり、多数の重軽傷者とひとりの死者を出した忌まわしい出来事だ。意識不明で病院へかつぎ込まれた後、バス運転手含め死んでしまった人もいると聞いている。


 これは未公開記事なのだろうか。何かの事情で差し戻されたものなのだろうか。それとも白昼に見ている縁起の悪い幻想なのだろうか。そうだったらいいのに、と思うのに、もしも本当だったらと確かめずには居られない臆病な自分がじっとしてくれない。



 電車が目的の駅に着く。何かにせっつかされるようにして降りる。改札を出た後は、傘を差すのもそこそこに、中央総合病院へ向けて走っていた。



 先週の土曜日、舞夏は偶然事故現場に居合わせていた。コンビニでジュースでも買おうとふらふら歩いていた。そこで、見てしまったのだ。救急車で慌ただしく運ばれていく人の顔、それに見覚えがあった。


「あの! 面会時間はいつまでですか?」


 病院の受付で咳き込みつつ尋ねる。


「六時までですので、まだ十分ほど有りますよ」


 看護師が柔和な笑みを彼女へ返す。


「患者さんのお名前は?」


 もしかしたらもういないかもしれない。いや、いてほしい。

 相反する気持ちの狭間で、きりきりと胸を締め上げられながら舞夏はその名を絞り出した。


「伊比、雅さんです」



 患者との間柄は、とは訊かれなかった。

 そのかわり、息子さんが一度も来ない、と歎かれた。



 伊比雅、伊比君の母親はまだ意識不明のままだという。

 今は重傷個室で眠っていると説明された。

 ナースシューズで白色はくしょくの床を鳴らす看護師の後を追う。

 三階の奥にある病室を案内される。


「こちらになります。体の方は意識さえ戻れば回復すると思われるのですが、なるべく安静にお願いしますね」


「わかりました」

 頷いて、病室の扉を開けた。


 中にはベッドが二台。そのそれぞれの枕元に、トロフィーや賞状、家族写真などが置かれている。


「ご主人の方がお見舞に来られる度置いて行かれるんです。思い入れの強いものが近くにあれば、目覚めるかも知れないとおっしゃって」

「あの」

「なんでしょう?」

「どうしてベッドが二台なんですか?」


 まさかと思うが、別の女性と相部屋なのだろうか。


「あら、いやだ、あなたそう言えば、雅さんのお見舞にいらしたのよね。てっきり、お友達だと思っていたわ」

「友だち……?」

「そうよ。嘆かわしいことに、伊比さんは親子一緒に事故に遭われたの」

「それは、知ってます」


 さっき見た雑誌の最後に書かれていた。



 以下にこの度事故に遭われた方々の名前を上げる。

 重軽傷者……××××さん、××××さん、××××さん。

 意識不明……伊比世界さん、伊比雅さん、××××さん、××××さん、××××さん。



 舞夏がどんなに探し回っても見つけられなかったのが、事故に遭った人の名前だった。まるで何かの圧力がかかったように、新聞、テレビ、ラジオ、はてはネットニュースまで、そっくりその情報を抜け落とさせていた。


「世界さんもこちらで寝て頂いているのよ」


 看護師が手で手前のベッドを示す。

 そこには、点滴のチューブに腕を繋がれて、すやすやと眠る姿があった。



 伊比君にそっくりな、だけどどこか線の細い顔の造り、喉仏のない首。



 ああ、そうだったのか。



 舞夏は初めて全てを悟る。




「外見は同じなのに、俺よりかっこよくてはるかにパーフェクトな奴だよ。俺は双子の兄として形無し」




 伊比君の言葉が脳内で蘇った。

 彼がその話題をどことなく避けたがっていた理由。


 それは、双子の片割れである世界が、妹だったからなのだ。



 全身から力が抜けていく。



 私はなんて愚かな、救いようなく浅はかな、考えでいたのだろう。



 伊比君を救いたかった。

 彼の抱える弱さの支えになりたかった。



 舞夏は床に崩れ落ちる。



 立ち上がって今すぐにでも彼の所に行かねばと思うのに、体は微動だにせず重たい。



 自分は、どうしようもなく無力だ。




「そうなの? 弟さんに会ったら好きになっちゃうかも」


 あの時の自分の言葉。



 これ程残酷で彼を傷付ける冗談はない。

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