◆25:Errare humanum est.
前髪がばしばしと倭の顔面に打ち付けていた。周囲の木々や壁が目に見えない絶対的な力に揺さぶられたたかれて、巨大な獣のごとき咆哮をあげている。彼方から近付いてきた雨雲が試すように雨滴をいくつか摘下したと思ったら、一分後には辺り一面豪雨に取り囲まれ水も陸地もない状態になっていた。
倭とシンは互いの間合いと隙を探るように向かい合い黙りこくっている。倭の視界に映るシンの嘲笑を、強まる雨脚が白く掠めていく。
最初に沈黙を破ったのは倭でもシンでもなく、その場にいた三人目の人間、近原スナオだった。
「あたしに殺人ショーを見せるつもりなら、ごめんこうむるわ」
監視員用の階段付き椅子のてっぺんに座し、かぶったピンクの鬘を雨で濡れそぼらせたスナオは、頬杖をつきながら言う。
「アタシは伊比倭という男にも、古藤信治という男にも用はないの。この大雨の中いつまでも付き合っていたくないわね」
「スナオ、君はこの男に頼まれてここまで来たのだろう?」
首だけを彼女の方へ向けてシンが問うた。
「ええ、そこにいてくれるだけで良い、と言われたわ。だから、あなたたちのやりとりを邪魔するつもりはない。むしろさっさと可及的速やかにスムーズに端的にひと言ふた言で終わらせてもらえないかしら」
「それは僕には難しいね。彼次第だよ。さて、伊比倭、君の目的を聞かせてくれないかな。僕の姫君が風邪を引いてしまう」
倭は前髪を掻き上げ顔面の水を払うが、無尽蔵のエネルギーを腹へ蓄えた雨雲の追撃によってすぐまた顔面は水で覆われてしまう。全身は今や空気を感じるよりもべったりと張り付く雨水の重さを強く感じている。体温はジワジワと吸い上げられて、胃の底にこびりつく不快感が徐々に増していた。雨によって目覚めさせられた死骸の腐敗臭が、無言のまま胃袋へ進入し吐き気をあおっている。気がつけばすぐ傍まで迫り来ている死を怖いと思う。
「今月の一九日、この学校の二年B組の黒板に奇妙なメッセージが書かれていた。“このクラスの誰かが殺される”と。オレは直接見てないが、友だちに動画を見せて貰った。それからだ、俺のクラスで、いや、俺の回りで頭痛のするほど馬鹿らしいことが次々と起こった」
倭は酸味のある唾液を飲み込みながら切り出す。
「それが、何か問題なのか?」
「ああ、頭痛のするほど馬鹿らしいことの筆頭がお前だ」
「それは。面白くないな」
「一日目、一九日の日は朝予告が書かれた後、犯人の動きは放課後までなかった。いや、俺が近原につきまとわれて別れるまではなかったと言った方が良いか。その後、お前の言ったように通り魔が近原を襲った。通り魔と言うことになっているが、実際にこいつを襲ったのが、予告を書いた犯人だと知っているのは俺のクラスの者だけだ。近原の親父さんや先生には、通り魔に見えたのかも知れないが」
そこまで話したところで、左横方向から何かが飛んできて頭にぶつかった。見ると、ブラックレザーのパスケースだ。
「なんだよ近原。話の邪魔をしないんじゃなかったのか?」
「ふん。ここに来て得意げに下らない推理を繰り広げてるから馬鹿らしくなっただけよ。大目に見てあげるからとっとと先を話しなさい」
そっぽを向いたまま、右手を追い払うように振る。
「僕は少し興味が湧いてきたな。ちょっとは面白いことが聞けそうだ。それで、その後どうなったんだ?」
顔に喜色を咲かせてシンは先を促した。
「ひとつその前に訊きたいんだが、お前は近原と目的を共有しているんだよな? じゃあ何故この事件のことを知らない? いや、知らないふりをする? お前はあいつが怪我をした理由は知っている風に話していただろ」
彼がスナオと全ての記憶を共有しているならば、彼を裁ける可能性がゼロに等しくなってしまう。
「知らないふりなんかしてないさ。僕がスナオと共有している記憶は七月二〇日の昼頃までだ。それに、君の話す内容に興味があってね。スナオが見た事実と君の見た事実が必ずしも同じとは限らない。自分以外の人間の視点というのはいつでも面白味に溢れているものさ。とは言え、一点、許せないものもある。君は入川舞夏を魅力的な人間と思っても好いてはいないだろう。そんな中途半端な馬の骨に最愛の人を奪われた僕の気持ちがわかるか?」
「ああ、少しならな」
スナオが最初から倭に対して見せていた敵対心や覚えのない恨みを思い出す。言えない事情があったのはわかるが、振り回された苦い記憶を思うと理不尽さにはらわたを煮えくり返しても良いのではないかとも思う。けども、倭は自分の行動の及ばないところで買ってしまった憎悪にいちいち正負の感情を抱くような興味も気力も持ち合わせていなかった。拳が飛んできたら受け流す。それが要領のよい生き方だと思っている。
しばらく待ってもスナオが拾いに来る気配が見えないので、倭はとりあえずパスケースを尻ポケットにしまった。
「翌日、二つ目の予告があった。二〇日の朝だ。“殺してやる。近原スナオ”。俺は最初、これを近原への殺害予告だと思った」
「なるほど。確かに僕もそう思うよ」
「けど、これは近原の代わりに殺してやる、そういう意味だったんだ」
「面白い! 実に面白いね!」
シンは大仰に拍手をして見せた。
からかわれているような気がして倭は少し鼻白む。
「三日目、二一日、終業式の朝だ。この日は“ごめんなさい。許して。悪かった。傷付けるつもりはなかった。もう終わらせます”と書かれていたが、これまでとあまりにも様子が違いすぎる。堂々としていない。小さい文字で黒板を埋め尽くしていた」
「つまり、君は別の人間が書いたと、そう思っているんだね? それで、結局犯人は誰なんだ? 教室には私物も置かれてるだろうから、放課後、鍵はかけるんだろ?」
「もちろんだ」
倭は鷹来から得た情報をそのまま話した。
「だけど、鍵なんか、ピッキングできる奴は簡単に開けるだろ。かかっていても密室だとは言えない。考慮する必要はない」
「ピッキングで扉を閉め直せるのか?」
「窓を開ければいいだろ。前坂は窓まで調べてなかったからな」
「なるほどね。誰かが気づきそうなものだけど。それで犯人は誰なんだ?」
「お前は近原の上位互換だと自称していただろ?」
「ああ、そうだね」
デニムの両ポケットに親指を引っかけ、シンは首肯した。
「じゃあ、近原、お前、その椅子から最短コースで降りろと言われたらどうする?」
「飛び降りるわね」
スナオは左腕にギプスをはめ指を固定され、右腕も包帯だらけの状態で、危なげなく濡れたプールサイドへ着地して見せた。重心の据わった綺麗な着地だった。衝撃で水しぶきが跳ね、遅れてツインテールが優雅に流れ落ちる。彼女はずっと椅子に座っていて身体が強ばっていたのか、ぐるぐると全身の関節を回した。
「近原は怪我をした状態でもここまで動ける。何回もぶっ飛ばされた経験から論理を展開するのも癪だが、こいつはある程度体術に覚えがあるんだろう」
「まあね。女の体でも男に匹敵するだけの強さが欲しかったのよ。拳法、柔道、合気道。ひととおり習ったわ」
コンクリートの弊へ背中を預けながら彼女は怠そうに肯定した。倭の視界で、シンの背後にスナオが並ぶ。
「つまり、こいつを通り魔が襲うのは成功率がかなり低いってことだ」
「そうだね。まあそうだと思うよ」
雨が反時計回りに渦を描く風に乗って波を作っている。雨粒の世界を叩きつける音が大きくなる。カーテンのように何枚も襲い来る雨の幕をくぐって息を継ぎ、倭は懐に忍ばせた
「だが、その通り魔がお前だったらどうだ?」
「つまり?」
両手を腰元で軽く広げ、シンは挑発するように先を促した。
「お前なら、近原を襲い、その手を砕くことも容易にできたはずだ。黒板にメッセージを書いたのもお前だろう。いかにも凝った演出が好きそうだからな」
表を向けたカードを場に提示して、相手の反応を待つ。
ゆっくりとシンの目が見開かれていく。広げた両手は雨をすくい続け、肩は小刻みに揺れ始める。
「くくっ、くくくっ。何を言うかと思えば……」
上半身を折り曲げ、全身で彼は笑い始めた。
「確かにそういう劇場型犯罪は嫌いじゃないさ。いや、むしろ好きだと言えるかも知れないが、くくっ、直接ターゲットに響かない方法で舞台を盛り上げても仕方ないだろう」
倭のたどり着いた結論がよほどおかしかったのか、笑いで痙攣する胃袋をなだめすかしながら彼はどうにか倭の方へ顔を向けた。手の平で左胸を叩くジェスチャーをする。時々薄い唇の間から笑いを漏らしながら彼は告げた。
「ひとつ、アドバイスをあげよう。君はもう少し周囲を疑う癖を付けた方が良い。クラスメイト、友人、親兄弟。みな、君の思っているような存在だとは限らないぜ。どうやら、僕は君に最後の授業をしてあげなくちゃならないみたいだね。異教の言葉にちょうどいいものがあったな。そうだ、冥土の土産にするといい」
◆
「あら、ひよ子じゃない」
箱の中にきちんと整列した小さな鳥型饅頭を見て第一声、苫田郁美は歓喜の悲鳴を上げた。
「これは?」
さっそく箱から一羽取り出して名菓ひよ子と書かれた包装紙をむく。半分に割って口へ放り込むと黄味餡の優しくも濃厚な甘さと、繊細ながらもしっかりと焼き上げられた皮の香ばしい香りが口中に広がる。目を輝かせて舌鼓を打っていると、隣に座すかつての同級生にケラケラと笑われた。
「ははは、苫田さんは昔から変わらないなあ。お土産のおすそ分け。社内で食べてよ」
ここは昼の情報バラエティ番組パロットを始め、いくつものローカル番組を取り扱う民放のオフィスビル、そのロビーで、ふたりが座っているのは備え付けのベンチソファーだ。
正面、南側の壁はおおよそ五階分に匹敵する吹き抜けの天井まで、一面のガラス張りだった。日中など強烈な太陽光が差し込んで、炎天下のボンネットみたいに明るく暑くなる。空調経費の無駄遣いを助長する成金趣味なデザインだった。せめて遮光ガラスにすればいいのにと思うが、逆に曇天の空が見渡せて外の天候がよくわかる。驚くほど早く流れる雲の水墨画を見上げ、ひと嵐来そうだと思う。
高校時代からの悪縁、
「先日北陸方面へ出張する仕事があったから、途中東京で買ったんだよ。きみは昔っから食い意地が張ってたよなあ」
「食欲だけが私の取り柄だもの」
「そうだな」
当たり前のように頷く雄太の脛を、そこは否定しろよと抗議の意味を込めてパンプスで蹴る。
「いった!」
彼は不快そうな顔は見せず笑顔のまま足をさすった。
「今は副編集長やってるんでしょ? どうなの仕事の方は?」
「毎日バリバリですよ。朝の七時前から夜の零時を過ぎても仕事三昧」
缶コーヒーのプルを引く軽い音。喉仏を上下させて中身をあおってから、雄太は両膝に肘を突いて郁美を見上げた。子犬のように人なつっこかった眼光は今、とっつきやすさをそのままに鋭さを増している。彼と会う度郁美の心は切なさにざわめいた。
決して彼に恋をしているわけではない。
どちらかと言えば線の細い文学少年が幼い頃から好みだったから。
それでも何故か泣きたくなるのは、彼が昔から郁美の二歩も三歩も先を歩いているからだろう。
頭もよければ運動も出来て仕事だって充実している。それでいてこんなにキラキラとした笑みを見せてくるのだから、少しもけなせる所がない。
アシスタントディレクターとして働いて数年、日々高くなっていく求められる仕事のクオリティと、託される業務の難易度の板挟みで溺れ死にそうになっている郁美なら、仕事はどうだと聞かれても空元気で誤魔化すことしかできない。
「いい年の重ね方してるわね」
「なんだそれ、はは、おばさんくせぇな」
「あーもーむかつく!」
げしげしと蹴ってやった。彼の、上品なストライプがいけ好かないスラックスが土埃で白くなる。少し溜飲が下がった。
「まあ、おれも別にそこまで順調ってわけではないんですよ」
「そうなの?」
「よだれよだれ」
言われて口元を拭うが、口紅が手の平に付いた以外、完全に口周りは乾いていた。
「いや、そうじゃなくて。おまえ、おれが上手く行ってないといつも安心したような顔するだろ」
「してないわよ」
これ以上蹴ってやるのは忍びないので、向き合っていた体勢から膝の向きを三十度ほど遠ざける。
何でもお見通しなのも気に食わない。
片や大勢の部下を抱え、仕事のために全国を飛び回り、片や上司の命令通り犬となってメディアの素材を集め、やりたいことはその傍らこそこそ慰み程度にすますだけ。交流範囲も、出した仕事の成果も、年収だって雲泥の差だろう。机を並べた高校時代から、どこでこんなに差が付いてしまったのだろうか。悔しさと悲しさを、ばれないようにため息にしてそっと吐き出す。
「私だってぜんっぜん順調じゃないわよ。オカルト集めもままならないし」
「苫田さんは昔から変なもの好きだよなあ。感心するわ。うん。俺のつい最近の失敗は、せっかく書かせた記事が雑誌ごと蔵入りになって回収されたことだな。
「それ毎週のことでしょ。よくやるわよね私たち。栄養ドリンクないととっくに潰れてるわ」
「ほんとそれ」
「でもこれぞ醍醐味って感じじゃないの?」
「そうそ。ふふん、ギリギリを攻めますから」
雄太は得意げに鼻を鳴らした後、腕時計を確かめた。
「じゃあおれそろそろ。そうだ、お蔵入りになったゲラ、一冊やるよ」
鞄から取り出し郁美の方へ放る。月曜日にコンビニや売店で見かける週刊誌だ。郁美は愛想程度にページをめくった。
「最新号じゃない」
「それさ」
「なに?」
雄太は缶コーヒーの中身を飲み干して言葉を続ける。
「原因になった記事でインタビュー答えてくれた子にもあげたんだよね。どうしても欲しいって言うから」
「へえ。いいのそれ」
「さあ。よくないんじゃないかね」
「うわあ」
いやだわこの人、と言いながら、雑誌を膝に置き、両手を胸の前でクロスして彼を遠ざける。
くすくすと雄太は笑った。そのまま鞄を持ち上げ、手を振る。
彼がエレベーターへ姿を消したのを確かめてから、郁美もソファーから立ち上がった。パンツスーツの裾とジャケットを正し、両手で頬を叩いた。パン、と軽い音が響く。
「きみ」
「え? あ、ひゃあ!」
突然背後から声をかけられて飛び上がる。
いつの間にか壮年の男性が至近距離に立っていた。
雄太と同じく主に上半身に筋肉が付いた逆三角形の体型だが、その引き締まった首回りや黒光りする日焼けした皮膚から知れるのは彼が今も現役であると言うことだ。見上げた彼の眼下にはやつれたようなどす黒い隈があり、対して眼光はぎらぎらと光っていた。不健康そうに乾燥した弱々しい皮膚と対照的な、怒りに燃えた瞳、わななく頬。
「あの、うるさくしてしまいましたでしょうか? もうしわけございま」
「いや、そうじゃない、きみとあの男はどう言う関係なんだ?」
「先の、友井のことでしょうか? 高校の同級生ですが」
この男性は何をこれ程に怒っているのだろう。不思議に思う郁美の首がその疑問をボディランゲージに変え、少し左に倒れる。
「ふん、あの若造に言っておいてくれ。感謝の気持ちもポリシーもない仕事はするなとな」
何となく察する。彼は雄太のジャーナリズムの犠牲にされた誰かなのだろう。
「苫田ーすまんすまん、遅くなったな。次の打ち合わせにギリギリになってしまった」
背後で開いたエレベーターから、人波を掻き分けて走ってきたらしい上司が息を切らしながら隣に立つ。そして、から唾を呑んだような短い音を喉で鳴らす。
「あ、いや、遅れまして申し訳ありません。こちら部下の苫田です。何か粗相はしでかしておりませんでしょうか?」
「そんなことはないですよ。まだ時間まで二十分もあります。それに彼女は元気そうな方で、一緒に仕事をさせて頂くのが楽しみです」
郁美は即座に脳を仕事モードへと切り替えた。振って湧いたこの隈が濃い男性は、次の仕事でパートナーになる人らしい。慌てて頭を下げ、自分の名を名乗る。
「私もちゃんと名乗っていませんでしたね。私はこういう者です。普段は小さな旅行会社で働いております」
彼の営業スマイルは柔らかさの中に優しさをはらんだ心地の良いものだった。なぜかその成熟した笑顔に、最近出会った少年の不安定な愛想笑いが重なる。
差し出された名刺にはシンプルにこう書かれていた。
フリーカメラマン兼ルポライター
伊比 伸彦
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