◆23:Nota bene.(2)

 鷹来は歩速を緩めることなくふたりに近付いていった。


「何話してんだ?」


 机の上で顔を寄せ合うと形容するにはあまりに険悪過ぎる雰囲気をたたき壊すように間へ割り込む。


「嫌だって言ってるでしょ」

「だから、そこにいてくれるだけでっうわっ」


 近原サンへ向けて何かかき口説いていたらしい伊比が驚いて飛び退いた。


「びっくりした。前坂か。何笑ってやがる」

「いや、なにも? 近原さんも自己主張することあるんだなあって」

「こいつ、以前からいたっ」

「うんうん、オレは何となくそうじゃないかと思ってたぜ」


 近原サンが実際の所、あえて根暗キャラを演じているのではないかと感じることは度々あった。何か理由があるのだろうと思ったから今まで立ち入ったことはない。けども、彼女の演技のおかげで純粋な人間がひとり気に病んでしまったのは、残念なことだった。鷹来にはどうしようもない問題だったのだが。



「しゅーえーとこでらんは?」

「なんだそのあだ名は……。そういやいなくなってるな」

「喉が渇いたって。ふたりで出て行った」


 近原サンが端的に説明してくれた。


「ん、そうか」


 伊比の隣に席を決めて腰を下ろす。

 そこでようやく机の上に山と積まれているものに気付いた。


「なんだこれすげー新聞の山」

「ああ、入川に持ってきてもらった」

「いびっちに思いついたから持って来てって頼まれたの。それで、思いついたことって何なの?」


 向かいに腰を下ろしながら入川サンが話を促す。

 新聞がごっそり無くなっていたのは伊比と入川サンの仕業だったらしい。


「あー思いついたって言うか、気付いたって言うか」


 伊比が一番上に積んだ新聞を手もとへ引き寄せた。


 新聞の後ろから二面目、ローカル記事を取り扱う社会面だ。ここなら、鷹来もさんざん目を通している。


「ここ読んでみ」


 だが伊比が指でぐるりと円を描き指し示したのは、犯罪や事故など血生臭い内容のものではなく、近くで竜巻があったという天災の記事だ。


「これ、隣の市で起きたことだね。知ってる。あまり規模の大きい竜巻じゃないらしくてテレビでも一分くらいしか取り上げられてなかったよ」


 入川サンも耳へ髪を掛けて覗き込む。


「ああ、隣の市で起きたことだから、俺も見落としてたんだ」


 どういうことだ、と首を傾げる鷹来と同じ心中なのか、全員の目線が伊比へ集中した。


「この記事、一昨日の夕刊、つまり七月二一日の夕刊なんだよ」

「終業式の日だな」


「そう。その日に隣の市で竜巻があった。竜巻ってさ、俺アメリカとかカウボーイが走り回れそうな広大なとこでしか起きないと思ってたんだが、日本でもちょくちょく発生してるらしい。この間の地学で習ったろ?」


「そうだっけか?」


「試験には出ないと行ってたからなあ。俺も忘れてた。まあ、竜巻があったことは俺の推測を補強する材料にしかならないんだが」


 ガサガサと新聞を掘り起こして、一冊の本を取り出す。


『雲から読み解く気象の変化』と書かれてあった。


 伊比はパラパラとページをめくり、竜巻の項で止める。


「垣内が山の中で浅岡を見かけたって話があっただろ。その時の強風だが、これは浅岡らしき人影が消えたきっかけでしかないんだ。ほら、みんな、神隠しだとか言ってただろ」

「実際あの後捜査しても誰も見つからなくて、何があったか警察の人に聞いたんだけどさ、よくわからないとかって口を濁すんだよな」


 隣で呆れたため息が聞こえた。

 警察にまで首を突っ込んでいるのかと言わんばかりだ。

 鷹来はこっちだって背水の陣なんだぞと思うが顔には出さない。


「あの女の人は陰陽道だとか言ってたよね。それとは違うの?」

「陰陽師?」

「うん、ヒントをくれた女の人がいたの。安倍晴明とかなんとか、そんな感じのことを言ってた」

 頬に人差し指を当てながら入川サンは言う。


「違うって言えば違うし、そうだと言えばもちろんそうとも言える。昔の陰陽道は天文学のことを言うんだ。たぶん、これは黒板に予告のあった一連の事件とは関わりがないんだと思う。偶然浅岡に似た誰かがいて、いなくなっただけじゃないかな」


「というと?」


「うん」

 頷いて伊比は薄暗い窓の外を見た。


 外では一段と嵐の気配強まった様子だったがそれは緩やかな変化で、風は東北東、木々は西南西へ押し倒され続けている。夏の始めの台風だからか風源の存在はまだかなり遠くに感じられた。それでも低気圧が近付いているのがわかる。頭痛に加えて全身のだるさも増している。


「風と気圧の問題だったんだ」

 どこからか飛ばされてきたらしい紙切れが宙を舞い去るのを目で追いかけてから、倭は三人へ顔を向け直した。


「入川覚えてる? 二二日、水曜日の夜のこと」

「えっ? えっええ、うん。覚えてるよ」


 入川サンは何故か動揺してちらちらと鷹来の方を見ながら答えた。


「買い出しの件でメールくれただろ」


 ああ、メールアドレスのことかと鷹来は合点が行く。


「その時の満月、変じゃなかった?」

「変っていうか、気持ち悪かった」

「赤くて歪んでたからだろ。あれは、上空と地上で気温差が生じてたからだったんだろうな」

「どういうこと?」


 入川サンが首を傾げる。

 近原サンはさっきから一貫して無言だが、話は聞いているようだ。


 伊比が目を閉じて回想する。

 クールビズだとか言ってちっとも効果の感じられない冷房が送風方向を切り替えて、彼の長い前髪を揺らした。


「あの日は空気が乾燥してた。加えて月の位置が満月にもかかわらず低かった。赤くて歪んでいた。星は見えなかった。雲が厚く覆っていた。つまり、地上に比べて上空は湿っていた。月が大きく見えたのは光の屈折現象だ。上空に湿って暖かい空気がある時、途中で光が屈折し月が拡大される。この本によると最大45%。また、湿った空気層には水分が多い、つまりそれだけ光が拡散されて、波長の長い光は届きづらくなる。波長が長いのは青、短いのが赤。つまり、月が赤く見える」


「ちょ、ちょっとまった」


 つらつらとまるで暗記したものを読み上げるように言う伊比にストップを掛ける。

 彼は疎ましそうに半眼を鷹来に向けた。


「一気に話してしまわないと俺もどこまで話したかわけがわからなくなるんだけど」

「ああ、すまん。オレは既について行けてない」

「結論から話した方が良いか?」

「それで頼む」

「ええと、どこまで話したっけな」

「月が大きいのは空気のせいって所まで、かな」


 同じく理解が及んでいないらしい入川サンが不安げに言う。


「ありがと。あの時の空の状態は、一口に言ってしまうには複雑過ぎるんだ。だから、翌日にあったことを先に言ってしまった方が良いのかな。結果から言うと、あれは高度を保てなくなった積乱雲が落っこちてきた、ってことになる」


「は?」


 目が点になった。


 積乱雲が落っこちる?

 どういうことだ?


 意味がわからない。



 伊比は『陰陽道の歴史』と書かれた本をスナオの手元からたぐりよせ、適当にパラパラとめくってから閉じた。


「陰陽道は五行を扱う天文学であり、すべての自然現象を帝に報告する役職のひとつだった。呪術師のイメージは当時はなかった。安倍晴明とか苫田さんが言ってただろ。乱暴過ぎるけどヒントとしては的を射ていたんだ」

「いや、オレ苫田さん知らないんだけど」

「知らなくても問題ないけど、あれを見せられてないのか。うーん。誰かペンと書くものかしてくれ」

「はいどうぞ」


 入川サンが手近にあった自分の筆記用具を伊比に渡す。

 伊比は真っ白なノートにコップらしいものをひとつ描いた。中を青で塗りつぶす。


「これが、水の入ったグラスだとする」

「わかった」

「で、ここに牛乳の入ったグラスがある」


 隣にもうひとつコップを描いた。

 こちらは牛乳だからか塗りつぶさない。


「これを水の入ったグラスへ勢いよく注ぐ。するとどうなる?」

「牛乳が水を突き抜けて下に落ちる」


 入川サンが手を上げて答え、伊比が指を鳴らす。


「そうその通り。じゃあ、なんでこんなことが起きる? それは比重の問題なんだ。重たいものが、軽いものを突き抜けて落下する。これは自然の摂理なんだよ」

「あーなんとなくイメージ湧いた。あの日は上空の方が地上より空気が重たくて、だから、落下してきた、と」

「そういうこと」


 無言を貫く近原サンの方を見れば入川サンや鷹来以上に話へついて行けなかったのか、理解を諦めた無の表情で宙を見つめていた。


「で、時間を巻き戻すぞ」


 指先でシャーペンを回しながら伊比が言う。



「入川が俺にメールをくれたのは、水曜日の夜だ。その時地上は熱く、それに比較して上空が涼しい状態だった。言いかえれば低気圧が発達していて、周囲の空気が温度差から中央へ流入を続けていた。だけど、地上は乾燥していたから、積乱雲の成長はいったんそのころで止まっていたんだ。


 空気って言うのは湿っている方が乾燥しているよりも軽い。湿っているのは水分、つまりH2O水蒸気が多いってこと。空気の主成分はN2窒素O2酸素。それぞれ一モル当たりの重さが24グラムと32グラムで平均すると29グラム。それに対してH2Oは18グラムだからな。めちゃくちゃ軽い」


 この辺りは化学基礎だから、鷹来も質問せずとも理解出来た。


「何が言いたいかって言うと、上昇気流を失った積乱雲は、萎んでいたはずだった。それが、一夜明けて太陽が昇り始めた頃に、もう一度湿った空気がやって来て再度積乱雲は成長を始めたんだ。


 だから、木曜日の朝は晴れていたし、南から来る蒸した空気を吸い上げていてくれたから山際は比較的気持ちの良い季候になっていた。一晩明けたとは言え相当成長していた積乱雲は、短い時間で一気に巨大なものになったんだと思う。その湿った空気の供給が途中で無くなった。何が原因で途切れたのかはわからないが、隣の市で発生した竜巻も積乱雲が要因になるものだから、この辺りになんか因果関係があるんだろうと思う」


「竜巻も積乱雲が原因なの?」


 近原サンがようやく口を挟んだ。質問内容はそのまま伊比の説明をオウム返ししたものだ。


「ああ。メカニズムは詳しく解明されていないが」


 竜巻のページへ視線を落とし、言葉を続ける。


「積乱雲って言うのは一種の低気圧が出来てる状態だ。空気が熱せられて上空へ引き上げられる。地球は自転しているから、回転しながら上空へ向かう。同時に気圧差を維持するため、その低気圧の外側は同じく回転しながら下降気流が発生する。


 これが小規模で繰り返されると、風速差や気流の乱れが生じて、渦が出来る。渦が中央の上昇気流と接触すると、急激に上昇気流が強まって、竜巻になる。こっちの竜巻に湿った空気を持ってかれたんじゃないかと思う」


「なるほど」


 理解出来なくても関係なさそうな部分だったので、したり顔で相づちを打っておいた。



「で、俺達の町に戻る。巨大に発達した積乱雲が、途中で雷雨性高気圧メソハイ、つまりエネルギーを断たれたらどうなるか。地上の分は昨日の内にエネルギーを吸い尽くしてしまったから、朝日を受けて温まりはしたけど乾燥している。上空は夜間に冷やされてしまって、なおかつ分厚い雲だ。中央はかなり冷たくなっている。水蒸気は氷粒に凝固してしまい、気圧差や温度差にもよるが乱暴に言えば水分子は密度が1700倍になっている。つまりめちゃくちゃ重たい。


 常に下降気流が発生し、落下しながら周囲から融解熱を奪う、周囲を冷やす。そして乾燥した下の空気層に突入すると気化熱を奪い、もっと周囲を冷やし密度を上げる。加速度的に重たくなっていく。勢いが付く。結果」



「どかーん」



 近原サンが頭の悪そうな擬音を挟んだ。


 びくっと入川サンが肩を震わせる。



「地上へ積乱雲が落っこちてくる」



 鷹来もぶるりと身震いした。


 夏の空に浮かぶ積乱雲は非常に大きい。

 時に天にぶつかってそのてっぺんを折り曲げるほどに。

 そんな巨大な空気の塊が落下してきたら、どうなるのか、ようやく想像が付いた。



 地表という柔いゼリーが巨大な鉄のハンマーで殴られるに等しい。



 あの日突然降ってきた雨、垣内の話していた、地表へ叩き付けられるような強い風、その後に残ったえぐられた地面。

 陰陽道だかなんだか知らないが、それこそ、人為を超えた天災であり、神の仕業と言わざるをえない災厄だった。



「これは一般的にダウンバーストって言われるものだ。発生時間帯は気温が上昇する一四時から一六時に集中するらしいけど、一年を通して七月が最も発生しやすい。山間部より積乱雲の巨大な成長が期待できる平野部で特に多いが、これは考慮に入れなくていいと思う。発生場所は全国に分布してるからな。


 まあ、実際、これをダウンバーストというのかガストフロントに分類するのか、それともただの小規模な突風に分類するのかは気象庁の厳密な調査が必要なんだ。だから、警察も口を濁すしかなかったんだろうな。探してる人間も見つからない限りあまり色々情報を出すことも出来なかったんだろ」


 言い切って、ああ、疲れた、と言わんばかりに伊比は足を投げ出し、椅子の背にだらしなく頭を預けた。



「結局その子は見つかってないの?」


 疲労困憊の伊比を鞭打ったのは近原サンだ。


「知らん。どっちでもいいだろ。クラスの奴らは全員無事なんだから」


「ねえ、何の話してるの?」


 投げやりな返事にかぶせるように質問してきたのは小寺サンだった。

 両手に午後ティー、オレンジジュースとカルピスを携えている。


「はい、舞夏はカルピスでしょ。で、近原さんはオレンジジュース。アタシは午後ティーね」


 ぎょっとしたように近原サンが小寺サンを見上げる。


 当然だ。

 今まで近原サンがジュースを買って配ることはあっても、小寺サンがそれをすることは決してなかった。


 脳疲労で伸びている伊比以外、不気味なものを見るような目で彼女を見てしまったのはしかたのないことだと思う。


「はいはいはいはい、わかってるよ。らしくないってんでしょ。アタシも黒板の一見があって考え直したの。もう幼稚なことはやめる」

「うんうん」


 小さな声で頷いたのは、いつの間にか鷹来の背後に立っていた浅岡だった。

 振り返ると恥ずかしそうに顔を赤らめる。

 その右頬が真っ赤に腫れ上がっていた。明らかに平手を食らったらしき跡が付いている。


「浅岡、それ」

「なんでもないよ。はい、コーラとコーヒーとスポーツドリンク、どれが良い?」


 一緒に飲み物を買いに行ったふたりが一緒に飲み物を持って戻ってきて、ひとりは頬に手形をつけている。どう考えてもぶった犯人は明らかだったが、浅岡が触れて欲しくなさそうだったので、鷹来はそれ以上足を踏み入れるのをやめた。


「俺スポドリ」


 伊比がさっさと飲み物の選択肢を減らしてくれる。


「オレは」


 浅岡はあまり炭酸が得意でなかったことを思い出す。


「コーラが飲みたい」

「はい」


 コーラを鷹来へ渡し、浅岡は窓の外へ視線を転じた。


「風、強くなってきたね」

「そうね」


 小寺サンがズルズルと午後の紅茶を飲みながら同調する。館内は飲食禁止だったはずだがお構いなしのようだ。


「夏祭り、できるかなあ」


 小寺サンが机に上体を伏せながら呟いた。


 ゆっくりと低気圧が近付いて来ている。

 海上で吸い上げたエネルギーでその体を肥大させ、中心風速を上げながら。

 進行方向にある全てのものを無慈悲に蹂躙しながら。



 とてつもなく巨大で不気味な何かが鷹来たちの未来をその貪欲な腹へ飲み込もうとしていた。

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