◆18:絵馬に託して

 夏祭りの準備を忙しそうに執り行う町内の人から冷えたお茶と和菓子をお裾分けしてもらい、提出すべき課題に必要な話をノートにまとめた一行は舞夏の提案で絵馬を書くことにする。


 絵馬を購入するため一度社務所の方へ向かうと、奥から神社に全く似つかわしくない雰囲気の男女二人ずつの四人組みが出て来た。男性の服装は倭達や町内の人々と変わらずカジュアルで普段着と言っても差し支えないものだが、纏う雰囲気に地元のショッピングモールと高級ブティックぐらいの落差があった。デニムジャケットや綿パン、レザースカートなど決してフォーマルではないのにそう感じられたのは、全員黒尽くめだったからだろう。インナーのシャツとブラウスだけは漂白したような白で、眩しいほどの爽やかさが溢れていた。彼らが持つのは、ぱりっと周囲を引き締める緊張感と見る者を高みへ引き上げる吸引力。


 なかでも中央にいる男性が目を惹いた。髪を雪もかくやと言うくらいに白く脱色してツーブロックにし、前髪は七三にざっくりとわけている。左耳はピアスを付けているのか太陽光を反射しキラキラと光っていた。顔は皮膚が薄く涼やかに整って、桃色の唇は端がやや持ち上がり人形のような可憐さを持ち合わせている。



 脇に付く女性が一人だけスーツを身にまとっていた。彼に比べればかなり庶民的ないでたちではたったが、ストッキングに包まれる尖ったくるぶしから他者を圧倒する者を感じた。彼らは仲よさそうに顔を寄せて話し合い、互いに腕を回したり小突きあったりしている。


「誰かな」


 亜樹が前坂に小声で問い、前坂はちらりと倭の方、舞夏とスナオがいる方向へ目線のみで同様の疑問を投げる。倭はなぜか知らないと言い切れず首を傾げる。どこかで見たような気がする。それもほんの二三日前に。


「さあ」

「芸能人っぽいよね。バンドとか」


 亜樹が指摘して、倭はあれが誰であるかを思い出した。一昨日スナオに会う前にオーロラビジョンで見た青年だ。彼の正体が分かったとしても名前まで思い出したわけではないからじっとかのミュージシャンを遠巻きに眺める。白髪の男性がひそひそと噂する倭達の視線に気付き、優雅な足取りで近寄って来た。


「こんにちは。僕達ジラフって名前でバンドやってるんだけど、知ってる?」


 にっこりと浮かべる営業スマイルは特等級の輝きを放ち、籠絡された亜樹がかっこいーと歓声を上げる。遠くからだと同い年くらいに見えたが、実際はもう少し年上、二十歳手前頃に見えた。


 倭たちは顔を見合わせた後、「いえ……」と口ごもる。グループ名すら耳にするのは二度目だ。


「そぅっかー。悔しいなまだまだメジャーじゃないんだな。あ、僕はボーカル担当のシンって言うんだ。君の名前は?」


 最後の質問を投げる時、シンは前坂に及ぶ長身の膝をやや折り曲げ舞夏に目線を揃えた。


「え? 私ですか?」

「そうそう。君の名前」

「入川舞夏ですけど、でも……」

「入川舞夏ちゃんって言うんだ。イルカちゃんだね。ね、今度デートしない? サインあげるよ」

 舞夏の手を取り、意味ありげにウィンクする。


「え? あ、はあ!?」

 焦って声をうわずらせたのは鷹来で、「いやいやちょっとちょっと」とふたりの間に腕を広げて割り込む。平らな額の下にあるシンの目が不愉快そうに細められた。


「君はイルカちゃんの彼氏?」


「あ、いや、彼氏はこいつっすけど」

 親指で指名された倭はシンの満面の愛想笑いと言う敵意を投げつけられた。飛んだ流れ弾だと苦虫を噛みつぶす。自分の唇がねじれるのがわかった。


「どうして君じゃなくて、この子がしゃしゃり出てくるの? 気に食わないな」


「あなたこそ初対面ですごく印象が悪いと思いますが」

 言い返してみたものの、自分が一歩出送れてしまったことを倭は理解している。


 もちろん、このシンというミュージシャンが突飛で不振な人間であるということに変わりはないが、自分の行いが客観的に見て薄情と避難されるべきものであるとも知っている。だからこそ口の中が苦くてたまらない。この状況なら倭の方から敵意や警戒心を見せつけても良かったはずなのに、どうしてかそれは出来なかった。


 舞夏に対する想いの薄さや心の遠さ、それに比例する不信、そのようなことも一因子かも知れないが、最も大きな怒りのストッパーはシンに対するアンチパシーだ。どうしてか、敵意を抱くよりも近寄りたくない、不快だ、と言った生理的嫌悪感が先立つ。シンの感じが良さそうな目尻に埋め込まれた瞳の、粘り着くような軽蔑、嫌悪、それがいちいちカンに触る。


「反論はそれだけ?」

 小首を傾げて不思議そうに眉をひそめる。彼は肩をすぼめて失望したように息を吐いた。


「はあ。良い加減な彼氏だね。資格無いよ。彼女がかわいそうだ。ねえ、イルカちゃん。僕たちは今日初めて出会ったけど、僕はイルカちゃんが運命の子だと思う。今まで君みたいに心を揺さぶられる子に出会ったことがない。ね、君さえよかったら付き合」

「シン!」


 鋭い叩きつける声に名前を呼ばれて彼は、やば、と子どものように首をすくめる。


「シーンー! 何してるの! 一般の方に迷惑かけてないでしょうね!?」


 スーツの女性が肩を怒らせ砂利をうがつ勢いでヒールを踏みならして迫ってくる。野牛がごとき形相の彼女に、シンは冷や汗の光る額を向けた。


「たまよマネ、大丈夫大丈夫。迷惑かけてませんて」

「あなたの迷惑かけてないは信用ならないのよ。いっつもいっつもファンに対して喧嘩ばかりふっかけて! ちょっと遠巻きに見られるくらいかまわないでしょう。何が倫理に反してるというの? この子達がいつ勝手に写真に撮った?」

「はい、はい、僕は何もされてません。大丈夫大丈夫、ケンカなんかしてないから」


 確かに喧嘩をふっかけられたわけではないが女子一名がナンパされている時点で十分に迷惑をこうむっているだろう。蛇に睨まれたカエルの心境を脱しつつ、倭は舞夏を引き寄せて安否を確認する。


「何もされてない?」

「うん。でもイルカちゃんって呼ばれるのはなんだか嫌。あの人、普段からあんなのなんだね」

「みたいだな」


 たまよマネと呼ばれた女性から渡された名刺には千代田真世とあった。倭達に向けて彼女が掛けた心配の声は、うっとうしがられなかったか、立ち退けと言われなかったか、と言った拒絶有無確認のニュアンスを含んだ物だった。特に倭と鷹来に対して重点的に尋ねてくる所を見ると、シンは男嫌いであるらしい。一通り確認して安堵の息を吐くと、千代田真世は髪をかき上げて何度目かわからない謝罪を繰り返す。


「ごめんなさいね。うちの古藤信治が迷惑を掛けてしまって。以前ファンの子から嫌がらせを受けてから、警戒心が強くなってしまったの。悪気はないんだけど、そう言う問題じゃないものね。不快な思いをさせたでしょう。重ね重ね申し訳ありません。今後こういうことがないようしっかりと言い聞かせておきます。もし、よろしければ明日夏祭りでステージを開くから聴きに来てくださいね」


「いえ、俺らは大丈夫ですけど」


 舞夏の手を握る。汗ばんだ互いの手の平がしっとりと吸い付いて、彼は軽いめまいを覚えた。感情と行動が一致しない。本当の自分はいったい何を思い何をしているのだろう。シンに指摘されたように、自分には舞夏の彼氏たる資格どころか自覚もない。ただ、用意された台本をなぞるだけ。彼女の手の平がぶよぶよした不定形の何かになってしまわないよう、ぎゅっと握りなおす。


「でも、あまり近付かないようにします。また会いたいとは思わないので」

 きっぱりと落ち着いた声を意識して言った。


「そう。本当に申し訳なかったわ」


 彼女は郁美とは対極的なあっさりとした態度で引き下がった。むしろ、興味を失ったようにすら見える。交渉の余地無しと判断したのだろう。


「機会があればジラフをよろしくね。さあ、シン、帰りますよ!」

「嫌だ、僕この子に用事が」

「グダグダ言わないの。迷惑がられてるでしょう。あなたはいつも人に見られているの。ちゃんと自覚してしゃきっとして」


 千代田真世に首根っこを捉えられ引きずられるシンはグダグダと口で抵抗しながらも本気で逆らう様子は見せず本殿の方へ歩き始める。


 倭達とすれ違う時、舞夏に胸焼けしそうなほど甘い笑顔で手を振り、倭には一点蔑むような敵意を剥き出しにし、最後に一番後ろで隠れるようにしていたスナオの頭へ大きな手の平を置いた。そっと耳元へ口を寄せ、倭にもぎりぎり聞こえる声量で宣告する。



「君はそこで指をくわえて待っててよ」



 今までこの騒動を外野の位置から傍観していたスナオは弾かれたように体を震わせシンをねめ上げた。


 倭はあ、と声を出しそうになる。


 ピンク髪ツインテールの鬘をかぶった時のスナオと、派手な髪色のシンはどこかが恐ろしく似ている。

 具体的には顔の造作、倭への敵意、開けっぴろげな性格、そして何か秘密を抱えたような雰囲気。

 偶然の空似なのだろうか。ふたりは知り合いなのだろうか。



「じゃあねー!」


 スナオに疑問の声を上げる余地を与えず、肩から腕を振り回すようにして別れを告げる彼の態度は完全にアーティストのそれに戻っていた。


「なんなのあいつ、なんなのあいつ、しんじらんない」


 気を取り直して絵馬をひっくり返しサインペンを右手に握ってみたものの、シンがもたらした衝撃はなかなか消化できるものではないらしく、むしろ安堵してからぶり返してきたようで、舞夏は一文字も書けないで管を巻いていた。アウトドア用のテーブルに、髪が汚れるのもいとわず顔面から突っ伏してふてくされている。


 なだめようとしてか亜樹は「だよね、しんじらんない、気にしなくていいからね」といらだった興奮気味の声で友人の背中をさすっている。同調してと言うわけではなく本気で怒り心頭のようで、頬が紅潮し時々犬歯が剥き出しになっていた。


 一方スナオは俯いてぶつぶつと誰にも聞こえないほどの小さな声で何か考え込んでおり、眉を鋭くひそめ絵馬に触れようともしない。鷹来は願い事が思いつかないのかそれとも迷うのか、腕を組みサインペンをくわえて動作を止めている。



 倭も同様に何を書けばいいのか分からず木目だけを数えていた。


 夢、願い、希望。沢山あった選択肢は成長する中でひとつひとつ捨ててしまった。

 ただ唯一、泳ぐことを残して。


 そのただ唯一を追いかけんがために、それに全力で専念せんがために、道を妨げるもの、自分を甘やかすもの、迷いをもたらすものをことごとく、片っ端から、要らないと切り捨ててきた。

 それが正しいと教えられてきたし、事実そうすることで自分は自分を磨いてきた。

 成果をひとつ積み重ねる度、他に何を持つことが出来なくても、それさえあれば自分は大丈夫だと信じられた。


 なのに、その唯一を無くしてしまった。


 どんなに愛し望んでも、心は現実に届かず裏切られてしまった。今まで自分が数多ある選択肢に対して行ってきたように、泳ぐと言うことが、まるで腐ったトマトを潰すように倭を切り捨てた。


 いつの頃からか目標がするすると遠去かって行った。泳いでも泳いでも持てる肉体は望む記録に遥か及ばずただただ重たかった。倭とそっくりな姿をした自分より遥かにパーフェクトな双子の世界は泳ぎの才能を思うがままに発揮したというのに。諦めきれず何度も食らいついて食らいついて彼らの世界に取りすがろうとはしたのだ。だが、伸ばした手はいつも虚しく空をつかみ、絶望を何度も塗り重ねた。


 体と心の境界線がなくなるまで肉体を酷使しても、負け戦の黒星が増えるだけだった。


 ついに倭は自分自身に対して期待することに疲れ果て、彼らの後ろ姿を忸怩たる思いで眺めることしかできなくなった。



 悔しかった。

 恥ずかしかった。

 苦しかった。

 情けなかった。

 泣き叫んで当たり散らしたかった。

 プライドが許さなかった。

 だけど、自分を殺してしまいたかった。




 双子の世界は泳ぐことが好きだった。



 泳ぐことが好きで魚も好きで、将来ダイバーの資格を取って南の海で魚と海の魅力を広める仕事をするのだと息巻いていた。溢れ出る才能は世界が一介のダイバーになることを許さず、倭が焦がれた水泳選手への道を歩ませた。倭たちは子どもだったから、大人の敷いたレールに従うしかなかった。


 そして、倭は榎水高校に、片割れは九州の高校へスポーツ推薦で進学し、それに母が付き添った。母からはおまえは何をしても無駄なのだから余計なことはするな、出しゃばるなと物心ついたときからしつこく言い聞かせられたように思う。それはいつも決まって腕に抱かれながらのことだったから、母親のぬくもりがそのまま自我の否定とリンクしていた。



 つまり。からからに渇いた口中で、無い唾を飲み込む。



 書くべきものを倭は持たない。願いについて思考することすら自己の否定につながるような気がして。きっと泳ぐこと以外を捨ててきた自分にはなにも残っていないから。



 からっぽだから。



「はああああぁぁぁああ」



 景気づけに大きなため息をついて、適当な文言を絵馬に書きなぐった。



『帰ってきてほしい』



 何に対して帰ってきてほしいと願ったのかはわからない。


 ただ、いつの日か失ってしまったものがあって、きっとそれは彼を形作るための大切な鉄骨で、もう手遅れだと理解しつつも欲しいと望んだのかも知れない。


 ぽっかりと人生の設計図から抜け落ちた鉄骨は何本も行方不明のままなのだ。

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