7/21(木)

◆12:第三の予告と二人目の被害者

 20××年7月21日(木)


  翌、終業式。


 その日は朝八時前から急な激しい雨だった。空は明けても薄暗く暗雲が立ち込め、ごうごうと風が木々を押し倒す勢いで吹き下ろし、バケツをひっくり返したような量の水が地表を叩く。時折雷が太い亀裂を天空に生み出し、走る雷のあまりの明るさでその度に地上はちかちかと明滅した。


 連日続く猛暑に加え、日本海側から来た湿った空気が山を超える前に水分を絞りきれなかったのが原因だろうと、悪天候などどこ吹く風にスタジオからニュースキャスターは涼しげな顔で報道した。東高西低の気圧配置で、太平洋沖には台風が発達している、とも。


 下着までずぶ濡れになりながら倭と前坂が登校すると、教室の中央で結城ゆうき優菜ゆうなが泣いていた。周囲には橋本萌々を始めとする面倒見の良い女子が集まり彼女の背中をさすったり何かなだめる言葉をかけたりしていた。



「結城さんどうかしたのか?」



 前坂がシャツの裾を絞りながら教室の前方入り口付近にいた男子に問うと、黒板にまたメッセージが出てたんだ、と緊張した声で答えが返ってくる。黒板を見るとやはりカラフルなチョークで何ごとかが書き殴られてあった。


 倭はそれを見て驚くと同時脳内に疑問符が浮かび顔をしかめる。


 前坂は書かれた内容より先に黒板にメッセージが書かれたことと結城優菜が泣いていることの繋がりを知りたいのか、それとも単に彼女が心配なのか、質問を重ねた。



「それでどうして泣いてるんだよ? 結城さんの名前が書かれているようにも見えないけど」


 前坂の問い方が歯切れ悪くなってしまうのは、メッセージのせいだ。黒板には今までと同様教室の端から端まで広がる黒い空白を利用してメッセージが2―B生徒に向け発信されていたが、そこには簡潔さがなかった。メッセージが難解なのではない。メッセージが読み取れないのだ。



 鞄を持ったまま倭は黒板に近付き記された文字列を追う。



「犯人は何がしたいんだ……?」


 おそらくこのクラスで今朝から何人もの生徒がが抱いたであろう疑問を口にする。



 おおよそ三センチメートル四方の小さな文字がぎっしりと黒板を埋め尽くしていた。


 中央だけ大きな文字で”クラスの皆へ”書かれてはいるが、他は良くて三センチメートル四方、小さいになるといっぺんが一センチメートルよりも短くなり、潰れてしまって何が書いてあるのか分からない。今まで巨大な文字でこれを見よ、これを読め、と言わんばかりだったスタイルが一転して、非常に述懐的になっていた。



「イインチョ、どうしたの?」


 男子の説明だけでは不十分だったのか、前坂が萌々に状況を尋ねる。萌々は腕を組み困った表情で前坂に向いた。


「浅岡君が居ないのよ」


「しゅうえー?」

 秀英? 浅岡? 気の抜けた返事をして、前坂は背中を丸めて萌々と視線を揃えた。


「どういうこと?」


「昨日一番にメッセージを見たのは浅岡君でしょう?」


 ややヒステリックにうわずった調子で萌々は確認する。


「わからないならもう一度説明するよ。一番目のメッセージを一番に見たのは近原さんでしょ。その近原さんが翌日何者かに襲われて重傷で、今日は二番目のメッセージを最初に見た浅岡君がまだ登校してないの。書かれたメッセージの第一目撃者が被害に遭うのよ。こう言うと、前坂君の探偵ごっこに荷担するようで癪だけど」


「なるほど、今日一番にメッセージを見たのは結城さんか」


「そうなのよ」

 萌々自身相当怯えているらしい。肯定する声が今にも空中分解しそうだった。癪だと言ったのも、強がりなのだろう。


「わかった。ごめんな」

 前坂は頷いて萌々の肩を励ますように叩いた。

 彼は恐らく、昨日クラス内の事件解決を萌々に応じさせたことを悔いているのだろう。萌々は委員長をしているが、基本的にタフさのない打たれ弱い凡庸な少女だ。無論、彼女が恐れているのが次の事件なのか、教師からの叱責なのかは分からない。


 前坂は黒板へ戻って来て「なあ、何て書いてある?」と倭に尋ねた。



「ごめんなさい。許して。悪かった。傷付けるつもりはなかった。もう終わらせます」



 どうにか読める文字を一つ一つ指で辿って倭はメッセージを読み上げて行った。

 謝罪の言葉と懺悔の意思が連ねられていて、攻撃的な文言は見当たらない。

 だが、肝心の書き手が誰なのかは全く分からない。



「これって次で最後ってことか?」


 黒板を見たまま独り呟くように疑問を口にする。メッセージの書き方が違うのが気になった。


「それとも模倣犯」

「いや」


 きっぱりした声で前坂が否定する。


「それなら文字の書き方も真似ると思う。何より模倣犯が犯罪を加速させることはあっても、真犯人を止めることなんて出来ないんじゃないか、普通」

「今までも、犯人は何がしたかったんだろうな」


「何が……?」


 倭が動機に言及すると、前坂は考え込むように口元へ手を添えた。


「調べることに夢中になってて、考えたこと無かったな」


 意外な発言だった。倭は文字を追うことを止め、彼に目を向け呆れたように息を吐く。


「どうしてやったかを考慮せずに捜査してたのか」


「失念してたなあ」

 申し訳なさそうに彼は頭をかき回した。



「おい!!」


 呼び声がしてふたりは廊下へ振り返る。


 結城優菜が泣き続け、誰もが遠巻きにざわつくだけで黒板に書かれたメッセージを消そうとせず緊張感が教室の壁を破りそうなほど膨らんだこの場に風穴を開けたのは、朝練から帰ってきた野球部員だった。


 彼はランニングの途中で雨に降られたらしい。


 頭の先からつま先まで水浸しで、野球帽のつばからぽたぽたといくつもの水滴が落下している。彼はぐるりと教室を見回し、黒板に文字が書かれているのを見て恐れるように目を見開いた。



「浅岡が……浅岡が消えた」


 ユニフォームを着た垣内はそれだけを告げ、帽子を頭から外してうなだれた。





 垣内庸一の細切れで時系列に沿えない説明をパズルピースのように整理して並び替えるとこのようになる。



 甲子園球場へのチケット獲得権を地区予選二回目の試合で失った野球部は、今朝も平常通りの練習メニューを消化すべく校舎の外周を走りこんでいた。学校敷地をぐるりと一蹴するだけでは距離と新鮮味が足りないため、野球部は日替わりでランニングコースを変えているらしい。今日は、距離は短いが道の勾配がきつい山道散策コースを走っていたのだと言う。朝から曇っているため日差しはきつくなく、空気がいつもより乾いていて肌に爽やかなランニング日和といえた。


 山の中なら木々の光合成とフィントチッドで空気は浄化殺菌されさぞかし美味しいだろう。野球部員たちは景気よく校門から公道へ繰り出した。時刻は朝の七時四十五分。これはいつもこの時間に出るよう練習メニューを組んでいるので間違いが無い、と彼、垣内は力を入れて断じる。学校が始まってすぐのこの時間帯は学生がまばらで、人影もさほど多くない。


 しばらくイチニ、イチニ、と声を出しつつ走っていたが、次第に天候が悪化して雨がぱらつき野球帽や頬を打ち始めた。雨が降り始めてからは一気に天候が崩れ、瞬時に視界は雨のカーテンで遮断される。突然の大雨にぬかるむ足元が、彼らの走行速度を吸い取った。視界も不確かで足元も頼りない状況のため、今日の練習は終わりにして引き返そう、と一緒に走っていた顧問が言う。彼らは向きを変え、来たときとは違って滑りそうになる足元に、一歩一歩選びながら山道を下ることになった。



 その途中だった。



 視界の端に人影のようなものが見えた。反対側の山の斜面と急激に近くなる場所がある。そこで見えたのだ。気になって目を凝らしていると、白いシャツに黒いズボンの男子生徒のようだった。


 何故浅岡秀英であるとわかったのか。萌々の追求に、きっちりと長袖のシャツを着ていたからだと垣内はぼそぼそ口を動かして伝えた。白いユニフォームを泥にまみれさせ、髪から雨を滴らせる彼は焦燥したように目の色がうつろだ。



「声はかけたんだ。届くはずもなかったけど」



 大雨の中叫んだ名前は当然のように対岸の山へ及ぶわけもない。手を振ってみたら振り替えしてくれた。視力が二.〇以上ある彼には雨で悪い視界の中でも、それだけでその相手が浅岡秀英であることを直感的に認識出来た。


 それに、商店街に住まう秀英が、遠回りになる川見不駅を使わず、山の手を経由して徒歩通学している事は今日のような学外訓練で見かけることもあり知っていた。だからこの時点では、垣内もあまり相手の状況を気にはしていなかったと言う。



 全身から血が抜けて行くような焦りと恐怖に見舞われたのは、その後だった。



「なんか、音がしたんだ。空の上の方からびゅうびゅうって風切り音みたいに鋭い音が。それで、」



 ドッ。耳に巨大で重たい音がぶつかって体が地面に押し付けられた。

 ひどい圧力だった。


 雨が常識的な落下速度を超えてつぶてのように頭部へ叩きつけ、痛みに転がる野球部員達の足元を穿つ。

 木の幹をへし折る異音が雨と風の激流を縫って微かに聞こえて、垣内は今ここで死んじゃうんじゃないかと頭を抱えた。


 それくらい、とてつもない規模の超常現象が起きていた。


 原因どころか、これが何なのかすら分からない。


 前触れもなく訪れた自然の暴走がちっぽけな人間に対し身を起こすことすら許してくれないとあっては、もはや破壊神にひれ伏すような心境だった。


 おののき身動き出来ずにいる間にも視界の端で崖が端から脆いビスケットのように砕け谷間へ落ちていく。


 水を高圧噴射されているかのような雨が弱まったのは、数分経ってからだった。


 その数分は、もう終わらない死の時間のように感じていたから、解放されてからもしばらくものが言えず腰を抜かしていた。


 死の淵をくぐり抜けたんだ、と語る垣内の言葉はリスナーであるクラスの生徒達にとって誇張表現に捉えられたけども、恐怖に張り付く喉から伝えるべき言葉をひねり出す彼はあくまで本音だった。



「もっと早く気がついていたら、助けられたのかも知れない」


 向こうの山にいる誰かも、同じく激烈な雨と風の猛威に見舞われているに違いないと気が回ったのはさらに五分以上の時間が経ってから。彼の安否を確認しようと震える膝を押さえて立ち上がった垣内は、頭が真っ白になった。



 何もない。



 さっきまであったはずの道が根こそぎ叩き潰され、新品の切り立った崖がその荘厳な美を誇っていた。喪失。ぽっかりと、人間を乗せた大地が消えていた。



「どうしよう、どうしよう。頭が何も考えられなくなって、耳の内側から何かが破裂しそうだった。怖かった。取り返しの付かないことをしてしまったような気がして、なんとかしたくて野球部全員で探し回ったんだけど、見つからなかった。見間違いってことだけはないと思う。ほとんどの部員が見たって証言してるし、手を振ったときは振り返してくれた」


「それ、本当に秀英か?」

 前坂が垣内の肩を掴んで揺さぶった。


 倭は取り乱す彼らをぼんやりと見つめる。

 実感が湧かない。遠いドラマのように思える。


 それは、本当に秀英だったのだろうか?


 同じ疑問を胸に抱くのに、表出される感情は摂氏百度と華氏百度ぐらい温度差がある。つまり相容れない隔たり。


 他の生徒も想定しうる最も都合の良い答えのチョイスにすら迷っているようで、無言を保守している。



「この時期長袖をカフス留めて着てる奴なんて、あいつしか居ないだろ!」


 机を拳で殴る垣内を前坂は真剣な表情で見つめる。揺らがない、鋭い目つきだった。普段飄々としてヘラヘラ笑っている奴であるだけに、鋭さが怖い。


「わかった」


 ぎゅ、と垣内の肩を揉む。


 そして、彼を掻き分け教室を飛び出していった。



「おい!」


 倭は叫んで彼に続くが、わき目もふらず振り返りもせず突き進む彼を、階段を下り下足室で靴を履き替える所まで付いていくのがやっとだった。学校から飛び出して行く時、ようやく前坂は倭に返事を与える。


「スマン、お前は付いて来ないでくれ」


 両手を合わせ、片目を閉じて拝む仕草をする。軽妙な態度で拒絶された倭は、追うに追えなくなった。


「おう。成績表だけもらっとく」

「アリガト。マジ助かる」



 鷹揚に応えて見せたものの、倭の足下には無力感だけが残された。





「いびっち? 前坂君どうしたって?」

「ああ……」


 付いてきていたのか、ロッカーの陰から舞夏と亜紀が姿を現した。亜樹は怒ったように腰に手を当てている。


「浅岡探しに行ったのかも」

「電話は? つながんないの?」


 亜樹が倭に手を突き出して尋ねた。さっさとスマホを出して連絡しろ、ということなのだろう。


「あいにく、教室。取りに戻んないと」


 倭が自分の来た方角へ上半身を傾けると、見計らったようにチャイムが鳴る。


「あーあ、無理だね」


 舞夏が残念そうに言った。



 三人が教室に戻ると中は異様な空気になっていた。みな席についていて、橋本萌々だけが立ち上がり、教壇に立つ半田へ何か訴えている。精神状態は回復したというより一周回って麻痺してしまったのだろう、涙が枯れたように時折声がかすれる以外は淡々とした口調で話していた。カチカチカチカチと響いている異音は半田の手もとからだ。


「わかった」


 ぱん、と閻魔帳で教卓を弾いて半田は張り詰めた空気に変調を打ち込む。手ぶらで教室に戻った倭たちを目で追いかけ、「橋本も座れ」と命じた。


「説明はちょっと待ってくれ。後でしっかり聞くから。この黒板は消さずに残しておきたいのか? 今日は終業式だから掃除しないわけにはいかんぞ」


 半田はこの状況をさほど大きく捉えていないのか。偶然だと思っているのか。まるで、萌々の言う通りだとしても黒板に二度や三度メッセージが書かれていたくらいでどうした、という態度だ。


「とりあえず今は体育館に行け。僕のクラスだけ集まってないとなったら大問題だ。お前らもほかの教師に無駄な目をつけられたくないだろ?」


 もうこうなったら断固として大人に事態を預けて解決してもらおうと身構えていた生徒たちだったが、半田の提示したデメリットにそれもそうかと納得する空気が流れる。緊張状態を解除する手がかりを半田はぐいっとつかんで操縦した。


「はい、じゃーわかったら体育館行くぞー。もう時間ないぞ、いそげー」

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