◆8:ミーティング
「それでまぁ、おまえがいないからさ、俺たちで班分けしちゃったわけ」
時計台の下、大理石を磨き上げた像が太陽を受けて黒光りしている。水瓶を抱えた女性がちょろちょろと噴水に水を注ぎ、素っ裸の男の子がトランペットから水の音を奏でている。
倭達の通う榎水高校がある山からほど近い高台にある広場だ。
視界にそびえる風情あるレンガ造りの建物は地元有名私立女子大の図書館らしい。さっきから視界に映るのは私服姿の若い女子ばかりだ。
近くのアイスクリームショップで甘味を調達し、倭、鷹来、秀英は中央に地図を広げて車座になっていた。秀英はかろうじて花壇のフチに腰をひっ掛けているが、倭も鷹来も鉄板も書く矢に熱されたアスファルトへ直に腰を下ろしている。
山間部は町より涼しいのが常識だ。そのためわざわざここまで出向いて来たのに呆れかえるほど暑い。
照りつける日差しがまぶしすぎて、地図が真っ白に見えてしまう。倭はぎゅっと目を眇め手庇して空を仰いだ。ゆるゆると牛歩のような風が汗の流れるシャツの下を抜けていく。
一方秀英は、真っ黒な日傘を指しているも長袖の癖に、憎たらしいほど涼しそうな顔をしていた。
鷹来は露骨に熱そうで、スラックスのすそをぐるぐると捲くりあげ、足を投げ出し上体をのけぞらせている。骨の折れた団扇で扇いでいるが全く涼を取れている気配はない。
時折風向きが変わって雨霧のように鼻へ届く水しぶきだけが救いだ。
「班分け?」
やや身を乗り出して地図に影を落とした。見てみると、倭たちが通う学校を、中央よりやや北東の位置に納めたかなり縮尺の小さい地図らしい。A版サイズの地図の端のほうには、倭の家から見た最寄り駅まで入っている。
目を眇めて地図を確認しながら、最後の一口になっていたケーキクラムをまぶしたベリーシャーベットを口に運ぶ。甘ったるい粘つきは喉の渇きを癒す代わりに増幅させてしまったかもしれない。
「そう! 夏休みの課題でさあ、オレら、地元地誌調査を引き当てたんだよ。くじ引いたのは入川さんだけどさー」
衝撃を受けて倭はむせた。
「うっわ、吐くなよ。てかどうした」
「すまん、すまん、ちょっと今、その名前出されるとは思ってなかったから。どうせわかることだから今言うけど、」
昨日告白をされたことを思い出す。倭は断ろうとして、出来なかった。
「俺、入川と付き合うことになった」
「はぁ!? 何だって!?」
鷹来が飛び起きる。驚いて周囲の鳩が羽根惑い、秀英はそれに驚いて立ち上がった。
「昨日だよ」
「どっちから?」
日傘の下から秀英。少し怯えたような声。
「入川」
「はぁ!? 意味わかんねぇ。ってか、俺達とだべってていいのか? 今一番楽しい時だろ? 一緒に帰る約束とかは?」
「前坂の恋愛観は告白ピークで下り坂一直線かよ。約束は、あーしてる暇なかったんじゃないか」
「ドライだね」
「それで入川さん俺たちと組むって言って来たのか」
「そうじゃね」
舞夏に対する倭の答えはイエス。平凡で取り柄のない男子学生が美少女から告白されたら、よっぽど相手に興味がない善人でない限り諸手をあげて抱きつくはずだ。だから、倭はオーディエンスを使った。結果はきわどいラインのシックスティフォーティ。
舞夏のことは未だに恋愛対象としては見ていない。けど、告白を受けたとき、確かに喉の奥が鳴った。拒絶しないでと伸ばされた彼女の手に、甘美な刺激を受けた。舞夏が倭に期待すること、彼女の隣に倭がいること、倭が彼女のものになること、それが、とてつもなく魅力的だった。
人から欲しがられることが、こんなに気持ちがよいものだということを、久しぶりに思い出したのだ。だから、普通ならこうするだろう、なんて建前をシミュレートしなくても、倭は頷いていただろう。
「入川入るなら小寺もか?」
「鋭いな。だが今回は六人班なんだぜ。ラストのひとりはけっこう、きわどいぞ?」
「知ったら驚くよ」
キャラメルアイスをなめながら秀英は同意した。秀英の何に安堵するのか彼の周囲に鳩が戻ってきて、その肩にも一羽止まっている。
「わからん、誰だ?」
「お前考える気ないだろ。近原さんだよ」
「へえ」
前坂の博愛主義的な優しさなんだろうか。それとも、舞夏か亜樹が、彼女をいつものように何か使いっ走りさせるつもりなのだろうか。
不穏な気配、予測、それに伴った欺瞞の怒り。
あぶくのような感情が足元を歩き回る鳩の中にごちゃりと湧いて出たが、すぐに弾け倭はそれを見失う。
「んで、課題なんだけどさぁ、さっさと終わらせたいだろ? 明後日行かね? ちょうど土曜日だし。場所はここな」
地図の中央よりやや東にずれた箇所をショッキングピンクのアイススプーンでポイントする。等高線で結べば、山の中腹にある榎水高校と同じライン上にある。
「通称
川見不神社から西、地図の中央へスプーンの絵を滑らせる。国道でもないのに道が太いのはかつて栄えていた証拠だろう。
「つうわけでオレは今から神主さんにアポ取っとくから、チミたちはオレの仕事をありがたく感謝しつつ神主様の歴史話と説話を聞いてくれ。秀英はボイスレコーダー担当ね。次に各自商店街から三つずつ気になる店をピックアップして、満遍なくインタビュー。
で、日曜はちょうどここで夏祭りあるだろ、打ち上げ代わりに全員参加な。日曜の集合はいったん午前にして、集めた情報を系統立てる。具体的な作業ははマップ作りになるからデスクワークは女子チームに任せて、オレたちは平日のうちに忘れずに市役所でゲットした地図を土台に、そこへポップアップ付けとく。
個人提出のレポートはボイスレコーダーから書き起こした店舗インタビューをテキトーに水増ししたら問題ないと思う。こだわり派はチームにガンガン貢献すること。以上が我ら五班の使命。終わったら祭りで遊べる。
オーケー?」
「うす」
倭は低い声を出して返事した。ぎっしり詰まってやや胃袋に持たれそうなスケジュールだが、グループでレポートをまとめるにはまあまあ効率が良い気がする。図書館での資料集めより足で稼ぐ作戦は、この炎天下体へ堪えそうであっても、資料を読みあさるガリ勉タイプに比して何倍も見た目のパフォーマンスが高いからやる価値は十二分にあるだろう。
心中思う。前坂優秀すぎ。
彼のバイタリティというかリーダビリティというかは船頭多くして舟進まずになりがちな班行動にとって非常にありがたい。
「入川さんのことはおいおいこいつから根掘り葉掘り聞き出すとして」
前坂の言葉に合わせ、秀英が透明な箱を横に置く仕草をした。このふたりは妙に馬が合うと言うか、秀英が前坂に懐いているような節がある。
「事件だ」
ぺしゃんこの学生鞄からノートを抜き出す。倭は開かれたページを覗き込んでみた。大ぶりの罫線からはみ出しがちな文字で各生徒の証言が書き込まれている。
スナオからほどほどにさせるよう頼まれていたことを忘れていた。彼女の力になるつもりは毛頭無かったが。
「まず、一日目な。これは七月十七日。黒板に書かれていたのは“このクラスの誰かが殺される”だ。最初にこれを見つけたのははっきりしないんだが、オレと秀英か、近原さん」
一瞬、ふうん、そう、と聞き流しかけて踏みとどまる。
「は? おい。おい、ちょっと待て」
倭はふたりの前に腕を突き出した。
「お前らってどういうことだ?」
「その日は僕たち一緒に登校したんだよ。ちょうど途中で一緒になって。……ね?」
「ああ。朝っぱらからオカンの逆鱗踏んじゃってさあ。ろくろく朝ご飯も食べず家を出たから、いつもより早くなったんだよなあ」
やや不満そうに彼は犬歯へスプーンをあてがった。ガジガジと噛む。
「じゃあ、はっきりしないってのは」
「うーん、それがさー、証言の裏が取れてないんだよなあ。近原さんはいつも一番に登校するから、俺達が教室に着いたときには鞄はあったんだよ。でも姿はなくてさ。彼女が言うには自分が登校したときには何も書かれていなかった、て。けどなあ」
シャツの裾で顔の汗を拭い考え込む。
「早く登校しすぎだろ。近原さんが教室に一旦入って、出た後、犯人が黒板にあんだけ凝った文字を書く。それからオレ達。まあ確かに? オレ達が着いたのは七時四五分だったけども」
釈然としないのか、認めたくないようだった。
これに対し秀英は「ありえるよ」と意見が割れたが、結局三人とも、当のスナオが襲われたから犯人ではない、と言う結論で一度着地する。
「この日は何人か午前中のアリバイが成立しない生徒が居て」
ノートをめくり、名前だけを書き連ねたページを見せる。グリーンとブルーのマーカーで色分けされていた。その中には、倭の名前もあり、何色のマーカーも引かれていない。ざっと見たところ、舞夏の名前はなかった。
「グリーンが昨日から今日にかけての調査でアリバイが成立した奴。ブルーが二日目はアリバイがあった奴。
だから例えば、二日目で被害者になって容疑から外れた近原さんはブルー。
二日とも裏が取れていない伊比はマーカーなし。
ちなみ、お前はどうなの? 一日目は冗談だと思ったから聞き込んでない相手もちらほらいんだよね。伊比は一日目は遅刻だけどさ、その理由を証明出来る人は?」
「いない。独りで川辺にいた」
ちらっと横目で見た地図には、東西に盛り上がった山の間を北から南へ一直線に川が下っている。この中のどこかにいたことにしておこう。
「了解。二日目は?」
「野球部の朝練とすれ違ったな。垣内と挨拶したから、証明になると思う」
「それ、何時頃?」
「何時頃って、確かいつも通り八時十分くらい」
「朝練だと校舎周囲での走り込みだろー。それは駄目だな、一回学校に入ってメッセージを残した後しばらくどこかに隠れて、頃合い見計らったかも知れないし」
友人ですら真っ向から疑う前坂の調査スタイルに、倭はむっとする。紙カップに残ったアイスの汁をすすった。
「こういうの、オレ達だけで解決しようとしない方がいいんじゃないか?」
倭の不快を汲み取ってか汲み取らずか、ノートに証言を書き足していた彼は気まずそうに眉尻を下げ、秀英と目を見合わせる。
「それがさあ、」
「クラス会議で、クラス内でまずは解決してみようって話になったん、だよね」
「はあ!? マジかよ。信じらんねえ。人が一人襲われてんだぞ?」
「うん、そうだよね」
秀英は日傘の下に隠れようとする。
「半ちゃんに言うべきかどうかって話になってさあ」
前坂はノートを投げ出して、クラスで内密に行った会議を振り返る。
『今朝のこと、先生に伝えた方がいいと思う』
学級委員橋本萌々が鷹来の席まで来て投じた一言が発端だった。
彼女は学級委員を任される生徒としてはあまり気の付く方のではなかったが、人一倍努力家で頑張り屋で、それと同じくらい目立ちたがり屋だった。彼女はなんとかして自分にリーダーシップがあるのだと周囲にアピールし内申に記載して貰おうとしていたが、要領の悪さと政治力の低さから、たいていの場合魂胆が筒抜けになっていて、少々の揶揄と励ましを込めてインチョとあだ名されている。
「前坂君、動画に撮ってたでしょう、それ、半ちゃんに説明するために貸してもらえない?」
「ええっ、オレのスマホ? ちょ、待った待った。インチョの写メ見せたらいいじゃん。オレの見せたら没収されちまう。ダメ、絶対ヤダ」
スマートフォン没収の危機に生存本能から鷹来が大声を出したため、昼休みの歓談中だった周囲の生徒が何事かと注目を始めた。
「うーん匿名の写メにしてプリントアウトするよ。これならいい?」
「やだなあ、インチョ、誰が写真撮ったのかっつう話になるじゃん。ハンちゃんがクラス中の持ち物検査始めちゃったらどうすんだよ。ハンちゃん事件より先にクラス風紀の内実固めてきそうじゃん」
萌々と鷹来の会話を耳にして、悪戯だと軽く捉えて黒板を消してしまったクラスメイトがざわつき始め、教室は“伝えた方がいい派”と“伝えない方がいい派”で真っ二つに分かれた。
飛び出した意見から体感的に統計を取った結果、どちらの派閥の中にも、これをただの冗談だと軽視している者と、
犯人はクラスメイトの誰かかもしれないしと冗談めかしつつ最悪の可能性を直視したくない者が三割程度混じっていることが分かった。最悪の可能性とは、クラスメイトが酷薄な犯罪者ではないかということだ。
スナオがクラスから浮いていたことが災いして、議論を煮詰める内、これはクラス全体が招いたいじめの域を超越した犯罪だったのかも知れないと言う奇妙な暗示に掛かる者までちらほらと現れた。
さまざまな立場からの発言は、教室を暗澹とした罪悪感と疑心暗鬼のツイスト状に捏ね上げて、しまいには心理的負担から泣き出す生徒まで現れた。責任のなすりつけ合いと他者否定の怒号、落涙の阿鼻叫喚を極めた混迷を終着させたのは、それまで無派無言を貫いていた、舞夏のグループである。
「無関係かも知れないのに、無理矢理関係づけて騒ぐのはどうかと思う」
舞夏と萌々は睨み合う。舞夏の発言は萌々の行為を諫め否定するニュアンスがあったから、良い所を見せたい萌々がとうとうヒステリーを起こすのではないかと皆身構えた。
「それもそうだよね」
流れ行く情勢から遅いか早いかの違いがあるのみで、クラスの膿を外に開示したくない多数派に対して正義感を貫く萌々の敗北は明らかだったため、彼女は早々に白旗を揚げる。倒すべき相手をを失った議論は失速し、生徒は散り散りに日常の昼休みに帰って行った。
「と、まあ、こういういきさつなわけ」
何がこういうわけだと、その場の切迫した空気を知らない倭は盛りに盛られた語り口調に対して思ったが、多数決で決まったのであれば異論を唱えるつもりはなかった。答えのない問いに、多が保守隠蔽を唱えるのであれば、それで正解なのだろう。
「そんでさ、二日目のメッセージも書かれたのは朝、誰も居ない間なんだよなー。前の日の掃除当番がしっかり黒板を消した後、教室に 誰も居ないことを確認して下校してる。掃除当番の中に補習授業を受けてる子が混じってて、ホタルノヒカリが鳴るまで居たらしい。つまり放課後に書くのは無理だ。そう考えると、一日目と同様、こちらも朝書かれた可能性が非常に高い」
おもむろに鷹来は居住まいを正した。アスファルトの上で膝を揃え、頭を下げる。
「おい」
「お願いする!」
大声で叫んだ。通りすがる女子大生が指差しながら何事かとこちらを見てくるから、倭は気まずくて彼を起こそうとする。
「この事件、このまま放置してたらいけない。オレたちで解決しなくちゃならないことだ。協力してくれ」
「そこまでしなくちゃならないことか?」
「ごめん、言ったように、今事件の全容はオレたちだけが知ってるんだ。任せる相手がいないんだ」
炎天下の太陽光が彼の後頭部を直撃して、汗の粒をキラキラ光らせている。
ぽたり、ぽたり、と舗装された地面に黒い染みを作った。
三つ指を突いた長く節くれ立った指が、小刻みに震えている。
もしかして、怖いのか。
いつも自信に溢れた鷹来が?
「しゃあねぁなあ」
倭はしぶしぶと頷く。出過ぎた領分の行動だとも考えたが、ここまでくい下がられては断れない。鷹来に歪んだしまりのない笑顔を向けつつ、なぜかむき出しのカミソリを拾うような、奇妙な緊張感を覚えていた。
地面から顔を上げた鷹来の目が、妙に座っていたから。
じっと試すように倭を見ていたから。
「僕も手伝うよ」
「そう言ってくれるか友よ」
秀英が淡々とした口調に決意をにじませると、鷹来は大げさな演技で彼に抱きつき覆いかぶさった。
「あーもーシュウちゃん大好き!」
「うん、だって気持ちが治まらないんでしょ? 僕も、落ち着かないし」
「そう! そうなんだよ! それに対し伊比は冷たい! 水臭い! 氷山から溶け出す水みたいだ!」
「意味がわからん。心ゆくまでじゃれてるがいい」
倭は三人分のアイスカップを回収し、ぐだぐだとじゃれあいモードに突入した二人をその場に放置する。
ふらふらと散歩がてらゴミ箱を求めて歩き回れば、周囲はからりと乾いた風が吹く、ずいぶんと空気の澄んだところだった。
普段通らない道を通って訪れたこの高台からは、青く空気に霞む神水八代の鳥居を望むことができる。緩やかな丘ではあるが市街地よりは小高い場所に設けられているため、耳に届く音も鳥や蝉の鳴き声ばかりでなんとはなし浮世離れしていた。女子大学前、という場所柄もあって花も木々もふんだんに植えられて、どこか楽園めいてすらいる気がする。
倭たちの高校も坂の上にあるのだが、斜面にしがみつくように立てられた住宅の只中に突っ立っているため、風も自由に動けないのかじっとりとねちっこく、坂を上って通う面倒さ以外特に丘面の恩恵を感じない。見晴らしのいい崖際に設置されたゴミ箱を見つけカップを捨てる。
ポケットに入れっぱなしだったスマートフォンをふと取り出すと、電源が落ちていた。保健室で寝ている間呼び出し音に邪魔をされてはかなわないときっておいたままだったらしい。電源を入れると、途端に電子画面が点灯し、側面のイルミネーションがリズムを取り始めた。
スナオかと一瞬心臓がはねたが違う。登録済みの番号だ。名前が画面に表示される。苫田郁美。名前を確かめたとたん、彼の気持ちは今日一番の急上昇を示した。
「もしもし」
「あ、もしもし? もしもし? 苫田ですけど。伊比君?」
「そう」
「やぁっとつながったー! もう、なんなのよどうしてつながんないのよ。君の方から用があって電話してきたくせに、出ないんだからもう。これで出なきゃあきらめようかと思ったわよ」
「ごめん」
「なに笑ってるのよ」
「うん、元気だなあって」
学校とか事件とか、自分にまつわるものごとと全然関係のない世界にいる人の声は、こんなにも自由に聞こえるのか。
「あ、馬鹿にしてるでしょー」
「してないよ。なんかそういう余裕のある返し、いいよね。癒される」
「あきれた。なあにこの子。天然タラシとか言われない?」
倭はベンチの上で膝を抱え込むように立てた。郁美の声は溌剌として明るく聞いていて元気が出る。
「言われないけど」
ゴミ箱脇に据えられたベンチに腰を下ろす。にやにやとにやける頬を親指で押さえ込み、郁美をからかう。
「いまどきの男子高校生はみんなこのくらい言うよ」
「ほんと?」
「マジで」
電話口で彼女はくすくすと笑っている。
「君ってひねくれた性格してるよね」
「自覚ある」
「インタビューしたときもなんか変に突っかかってきて。もっと人生楽しんでいいんじゃない?」
「そうっすね」
「ま、誰だってそういう時期はあるわよ。で、私は今脱稿したばかりなのね。会社のロビーから電話してるのよ。君、これから暇? 付き合えない?」
「いやー……」
崖側へ首をひねる。風が彼の髪を弄んで行く。
「ちょっと不便な所にいて無理ですね」
「なんだ、残念」
「どうかしたんですか?」
「うん。相手にドタキャンされてね」
アハハ、からりとした調子が電話向こうから届く。
「大学の友達なんだけど、仕事バリバリしてるの。全っ然都合が合わない」
「へえ。男? 女?」
「男よ男男」
「もったいないな」
「もったいないって?」
「苫田さんと話したら元気充填されるじゃないですか」
「よねー、そうよねー。そういう所が付き合えないって言われちゃったからねー」
あっけらかんと郁美は言ってのけ、倭にはこれが嘘なのかどうか分からない。彼女なりの照れ隠しなのだろうかと考える。
「で、それで? 私に何か用事があったみたいだけど?」
受話器の向こうが雑音にまみれ、話す郁美の声が大きく不明瞭になった。外を歩いているのかもしれない。
「ああ。おもしろいものがあるんだ。見て欲しいな。ネタになるかもよ。苫田さん好きでしょオカルト系とか」
「オカルト系? わかる? 好きなのよねーそういう解けそうで解けないミステリーとか、特定の世代の子に支持されてるおまじないとか。ふふふ、だから頑張って集めてる。地域性も萌えポイントね。ローカルであればあるほどワクワクしちゃう」
「だと思った」
「それってこの距離で見られるものなの? 会員制であやしげなオカルト系サイトとか、嘘が本当になるブログとか? あ、それとも特定の空間を使った呪術? 私がそっちに今から行く? ビールとおつまみ用意しよっかな」
「よくそこまでぽんぽん先読みするなあ」
倭は郁美に対して敬語を使わないが、彼女は別に気にならないらしい。歯に衣着せない彼女の受け答えが大人としても今まで出会ってきた他人としても新鮮で彼には気が楽だった。
本能で生きていそうな同級生、たとえば頭は切れるけど直情型な前坂とかに感じない、努めて開かれた雰囲気は、センスの良い見せる収納に似ている。計算された開放感。対面になれば視覚情報とかそれなりに取り繕うのかもしれないが、電波越しだからかはしゃぎっぷりにも気兼ねがない。
「殺人予告に興味ある?」
「殺人予告?」
跳ね上がる調子を無理やり押し殺した声が返ってきた。
「くーっいいねいいね」
「俺のクラスの黒板にかかれてたやつ」
「どんなの? 見せて見せて。知りたいなー」
「わかった。今から送る。動画だからちょっと待ってて」
電波の負荷を軽くさせるため一度通話を終了し、前坂から押し付けられたメールを転送する。
送り終えてさらに数分後、郁美から再び電話が鳴る。
「見たわよ。これ、君の教室に書かれてたもの? いつ? 朝?」
「そう。書かれていたのは昨日の朝」
「昨日、君はプールにいたよね。撮影したのはいつ?」
「朝。撮ったのは俺の友達」
「もう一枚添付されてた写真は? あれは君? それともその友達?」
「写真は俺が撮った」
「メッセージが違うよね。いつの?」
「今日の朝」
矢継ぎ早な質問で彼女は状況を整理しているらしい。しばらく押し黙った後、ふぅん、と奇妙な息を漏らした。
「根本的なこと訊くわよ。これを私に見せて何がしたかったの?」
「なんとなく気になったから。それよりも苫田さんに電話する口実が欲しかったのかな」
「なるほどねぇ」
私も歳をとるはずだわ、高校生ってこんなに若かったのねぇとあきれ返った調子でぼやいている。
「苫田さんも十分若いと思いますけど」
「それお世辞」
「結構感情が表に出るところ、興味にまっすぐなところ、単刀直入なところ」
「そんなの、そうやった方が楽しいから、楽だからに決まってるじゃない。君はひねくれてるから子どもっぽいと思うのかな。そうね、私なんて人生の大先輩から見たらまだまだ赤ちゃんなのよね。あー明日もシャキシャキがんばるかー」
のびのびとした声から、彼女が腕を振り回したり全身のばねを使って伸びをしたりしている様が目に浮かぶようだ。けたたましいクラクションの音が響いて、彼女が左右不確認なまま行動していたことがわかった。
「それで、何かわかる?」
倭はなんとなく落ち着かない気分になって話を促す。彼女はすでに黒板に書かれたメッセージからは興味が失せ始めているようだった。かなり八方塞がりの謎だというのに、これでは彼女の興味を引けなかったらしい。
「うーん、それを答えるにはまだパズルのピースが足りないわね」
予想していなかった返事に彼は唖然としてスマートフォンを耳から離した。
「何かわかるの? これだけで?」
「名探偵苫田郁美様にかかればねー」
威張るように声の調子を上げて言い、次いで真面目な口調になる。
「でも私が見ているのは事件の全部じゃないはず。きっと今言えることを君に教えても変に混乱させるだけじゃないかと思う。この事件はいろんなものが絡まっていて、下手に手を出したら火傷するくらいすっごく複雑。もしかしたらこの想定すら複雑な出来事の端っこかもしれないくらい」
「どうして、そう思う?」
なぜかその宣言を否定する気持ちは湧かなかった。
目をそらし続けていた現実と直面させられたみたいな、喉元に焼きゴテを突きつけられたみたいな痛みと渇き。
首元を伝う汗をぬぐうと、ねっとりと手のひらに絡みついた。嫌な予感がする。汗がつぷつぷと額に湧いてくる。
「カン、かな。メッセージの内容と、これを書いた人の気持ちを想像したら、痛いくらいの必死さが伝わって来たのよ」
「必死さ? 狂気や殺意ではなく?」
「そう。きっと、君にはこれを解く義務があるはずよ。心当たりは?」
「ない」
全く、見当も付かない話だった。誰も彼もがこの事件を解く義務だとか、この事件に関わった責任だとかを感じているらしいけども、倭だけは感じずにいた。ゲームのように少々刺激的でニュースにあふれる出来事みたいにほんのり猟奇的で不可解な事としか捕らえていなかった。
「これを解いたら、素直であることの大切さが身にしみてわかるかもね」
意地悪く、この事件が招いた被害については何も知らない郁美はからかうように笑う。
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