第4章 鋼の神楽舞・甲
まず初めに、神の夫婦がいた。夫の名は
この夫婦神は数々の島を生み、国を生み、そこに住まうべき神々を生んだ。
ある時、火の神を生んだために
夫・
そこで伊邪那岐が見たものは、おぞましく腐乱し蛆をたからせた、死体そのものの伊邪那美の姿だった。
伊邪那岐は恐れをなし、現世へと逃げ帰った。
伊邪那美は夫のこの仕打ちを深く怨み、神代から現在に至るまで、この現世に死と破壊をもたらし続けている。黄泉醜女を使って、だ。
創世の女神にして黄泉の女帝、伊邪那美命。
彼女の先兵となって破壊と殺戮を行っているのが、大小各種の黄泉醜女なのである。
伊邪那岐命という男神の愚かさ身勝手さが招いた災いである、と言う事も出来る。
伊邪那岐は男という生き物の愚かさ身勝手さの象徴であり、今日の黄泉醜女による災害は即ち、男によってもたらされたものである。
大八嶋女学院の教師たちの中には、そう声高に語る女性も少なくはない。
そんな事は関係なく、美鶴は戦うだけだ。世の人々を守るために。
人々を守れるのが巫女だけであると、世に広く知らしめるために。
「役に立ってもらうわ、あなたたちに」
優美な巫女装束姿を深々とシートに沈めながら四条美鶴は、センサー・アイ越しに黄泉醜女の群れを見つめた。
綺麗な唇が、呟きを紡ぐ。
「
少女の繊細な両手を貼り付けたまま、左右の制御宝珠が白くゆっくりと輝きを増す。
人型戦闘機タイプ・カンナギ
乙式「草薙姫」よりもさらに華奢な機体に、力が漲ってゆくのを美鶴は感じた。
高天原より召喚した力。この現世においては、巫女だけが行使する事の出来る力だ。
召喚された力が、5門の浮揚砲へと流れ込んで行く。
美鶴は目を閉じた。センサー・アイが捉えた機外の情景は、それでも見る事が出来る。
脳裏で映像化された黄泉醜女の群れに語りかけながら、
「砕け散りなさい……私のために」
美鶴は、目を開いた。
理知的な瞳が、眼鏡の奥で、冷たく、鋭く、輝きを孕む。
(私の力を、世の人々に……知らしめるために)
同じように冷たく鋭い、青い光が、叢雲姫の顔面、両目の細いスリットから溢れ出す。
5本の浮揚砲身に流れ込んだ力が、純粋な破壊力に変換されてゆく。
そして一斉に、放たれた。
叢雲姫の周囲で、5つの砲口が、轟音と光を迸らせる。
(私たちの、力を……)
砲弾状に固まったエネルギー光が、神祇本庁庁舎を護る退魔障壁に内側から激突。
そして貫通した。と言うより、擦り抜けた。
薄いエネルギー防壁には、一時的に波紋が浮かんだだけだ。
静かな水面に、小石を幾つか投げ込んだような光景である。水面には波紋が出来るだけで、穴が穿たれる事はない。
それと同じで光の砲弾たちは、薄い光の防護膜に傷一つ残さぬまま何事もなく、退魔障壁の外側へと飛んで行く。
そして流星雨の如く、巨大種の群体に降り注ぐ。
(私たち……巫女の力を。世に広く、知らしめるために)
廃墟エリア認定は確実な、破壊された街の有り様。そのあちこちで、黄泉醜女のおぞましい巨体が、光の流星雨に打たれて次々と砕け散り、消滅してゆく。
(巫女の力……女の、力を……)
美鶴の思念に合わせて、5門の浮揚砲は間断なくエネルギー砲弾を吐き出し続けた。
雨の日の水面のように退魔障壁が波紋で揺らぎ、そこを通り抜けた光弾の雨が、廃墟同然の街に降り注ぐ。そして黄泉醜女たちを打ち砕く。
(現世を、人々を守る力を持つのは、女。男ではなく、女……それを、世に広く知らしめるために……)
「出来る限り華々しく、砕け散りなさい……ふ……うっふふふ……」
美鶴は、笑っていた。
巫女が、女が、人々を守る。そして男の上に立ち、世を支配する。
その体制を守るための、道具。
タイプ・カンナギは本当に、笑いたくなるほど、おぞましいものだった。
女が男の上に立つ、美しき理想の社会。
その美しさを守るためには、美しくないものによる、美しくない殺戮が必要なのだ。
群れを成していた巨大種たちが、エネルギー光の雨に打たれ、目に見えて減っていく。
これと同じような光景を1年前、美鶴は自らの手で作り出した。
タイプ・カンナギ甲式の試用実験。廃墟になりかけの街もろとも、美鶴は無数の黄泉醜女を撃ち砕いた。
黄泉醜女ではないものも、撃ち砕き消滅させた。
本当にタイプ・カンナギとは、おぞましいものだ……。
『……輩……美鶴、先輩? ……』
静葉の声で、美鶴は気付いた。通信が繋がったまま、自分が笑い声を発していた事に。
『どうか、したんですか?』
「……何でもないわ。気にしないで」
静葉は知らない。タイプ・カンナギという兵器が持つ、あまりにもおぞましい業を。
巫女の力、タイプ・カンナギの力が、世の人々を守るための純粋で美しい力であると、宮杜静葉は心の底から信じている。
彼女は、それで良いのかも知れない。
「それよりも静葉。私が来たからと言って安心しきってしまうのは、どうかと思うわよ」
『え…………?』
静葉の声が、疲労で惚けている。彼女は気付いていないのだ。
片膝をついたまま立ち上がれずにいる草薙姫に向かって、黄泉醜女・巨大種が2体。瓦礫を舞い上げ、突っ込んで行く。巨体に似合わぬ滑稽なほどの速度で、破壊の流星雨から必死に逃げつつ、腹いせのように草薙姫を押し潰そうとしている。
その動きを見据えながら、
「まあいいわ。あなたは、そこで休んでいなさい」
美鶴は、叢雲姫の左腕を背後に回した。
細い左手が、機体背部に取り付けられていたものを掴む。取り外し、構える。
弓、である。特殊鋼線の弦が張られた、長弓。
退魔砲撃では草薙姫もろとも吹っ飛ばしてしまいかねないほどの距離にまで、2匹の黄泉醜女は迫っている。
「諸々の禍事、穢れ……」
美鶴の祓詞に合わせて、叢雲姫が弦を引く。
その優美な形が、キリッ……と引き伸ばされて歪む。矢がつがえられていないままだ。
弦を摘む左手の指先から、微かな光が走り出す。それがまっすぐに伸び、やや太さを増しながら棒状に固まった。
棒と言うよりも矢だ。白色の光が、矢の形を成している。
「祓い給え……清め給えッ」
操縦者の鋭い声と共に、叢雲姫は弦を弾いた。
光の矢が、白色の筋となって、退魔障壁を擦り抜ける。一瞬、波紋が生じた。
その一瞬の間に、白色の筋が2つに分かれる。
草薙姫に体当たり、と言うより踏み潰しを食らわせる寸前だった黄泉醜女が、2匹同時に痙攣し、動きを止めた。
2つの醜悪な巨体に、各々1本ずつ。光の矢が深々と突き刺さっている。
突き刺さったまま、光が一気に膨張した。
2匹の巨大種が、膨張した白色光によって体内から灼かれ、弱々しく焦げ崩れてゆく。そしてサラサラと崩壊し、跡形もなくなった。
『あ……せ、先輩……!』
今、静葉は気付いたようだ。
『すっすいません、あたしボーッとしてて』
「いいのよ静葉。ぼうっとしてなさいな」
幾分、苦笑混じりに美鶴は応えた。
静葉も、頑張ってはいる。それは認める。
だが戦闘において、この少女にあまり高レベルの仕事を期待するのは、まだまだ酷というものだろう。退魔覚醒・死反玉を使っても、あの程度の黄泉醜女を仕留める事しか静葉は出来ないのだ。
美鶴は思う。もし自分が、死反玉を使ったら。叢雲姫の力を、最大限まで発揮してしまったら。
黄泉醜女、だけではなく市街地そのものが消滅してしまいかねない。廃墟エリアから人が住む街への復興など、不可能なくらいにだ。
(私に死反玉を使わせないでね、静葉)
声には出さず、美鶴は後輩の少女に語りかけた。
美鶴に語りかけてくる者もいた。脳裏の、遠い記憶の中からだ。
お前には、こいつを使って欲しくないなあ。俺たちの実験が終わったら多分、お前がこいつを使う事になるんだろうが。でもなあ、このシステムは相当やばいぞ。下手に使うと、何もかもぶっ壊しちまう。特にお前、こういうの使うの下手そうだからな。黄泉醜女だけじゃない。ビルとか街とか、いろんなものぶっ壊して……いろんな人間から嫌われるぞ、お前。
お前にはそんなふうになって欲しくないよ、美鶴……
頭を振って、美鶴はその声を振り払った。
これで何度目だろう。叢雲姫に乗る度に聞こえる声。いくら振り払っても。頭の、心の奥底から消える事は絶対にない声。
半ば無理矢理、美鶴は眼前の光景に意識を集中した。
黄泉醜女の群れは、すでに少なくとも半分は減っている。そこへ光の砲弾が、なおも容赦なく、破壊の豪雨となって降り注ぐ。
5門の浮揚砲は、叢雲姫の周りで、轟音と光を発し続けた。
すでに自分の意思から離れかけている、と美鶴は感じ始めていた。
高天原から現世へと、強大な力が流れ込んでいる。美鶴と叢雲姫を媒体として。
そう。巫女とは、媒体なのだ。
神々の力を現世へ導き入れるための、生ける門。生ける通路。それだけのもの、でしかないのである。
静葉はまだ、その辺りの事を理解していない、と美鶴は思う。
あの少女は、自分の意思というものを強く持ち過ぎている。戦いぶりを見ていれば、わかる。己を神々に乗っ取らせまい、などと考えているのだろう。
だからそこで、力の召喚・流入にブレーキがかかってしまう。
宮杜静葉がヒモロギ・システムを今ひとつ使いこなせていない、最も大きな原因であると言える。
「高天原に、神留り坐す……」
大祓詞を、美鶴は呟き始めていた。綺麗な唇から、流れるように紡ぎ出される。
「皇親神漏岐、神漏美の命以て……」
それに合わせて、叢雲姫の周りで五芒星の形に並んだ砲口から、光の砲弾が間断なく迸り出る。
巨大な退魔障壁が、波紋で乱れ続けた。
「八百万神等を、神集えに集え賜い、神議りに議り賜いて……」
光の流星雨が、廃墟に降り注ぐ。そして黄泉醜女を、瓦礫もろとも打ち砕く。
本当に、1年前のあの時と、全く同じ光景だった。
「我が皇御孫命は、豊葦原水穂国を、安国と……平けく、知ろしめせと……」
操縦室が震動し続けた。
凄まじい量のエネルギーが、叢雲姫の細身を押し潰しかねない勢いで降りて来る。
ふっ、とシートから身体が浮き上がるような感覚が、美鶴を包み込む。
自分の身体が、自分のものではなくなってゆく。それを、美鶴は止められずにいた。
荒ぶる力が、自分と叢雲姫を通して現世に溢れ出す。それを、美鶴は止められなかった。
「平けく……知ろしめせと……」
止める必要など、ないのだ。
神々の意思に己を委ね、神々の力を現世にもたらす。それが、巫女の役目なのだから。
巫女自身の意思など、そこには全く存在しない。してはならない。
「た……平けく……知ろしめせ、と……」
己の意思を保ったままでは、あんな事など出来はしない。
「………………哲弘…………」
祓詞ではないものを、美鶴はいつの間にか呟いていた。
先輩の目の前で、あまりにも醜態を晒し過ぎた。
後は美鶴に任せておけば良い、などと先程は思っていたが、そんな思いも今は消し飛んで跡形も静葉の中には残っていない。
「休んでるとこ、ごめん。お姫ちゃん……あとちょっとだけ、頑張ってみよっか」
片膝をついていた草薙姫が、斬魔刀にすがりついて弱々しく、辛うじて、立ち上がる。
その背中でヴォ……ォンッと、光の翅が開いてゆく。
端整な仮面のような顔が、両目のスリットから淡い眼光を漏らしつつ、キッ、と左方向を睨みつける。
黄泉醜女・巨大種が1体。瓦礫や円明元年式の残骸を蹴散らしながら、突っ込んで来るところだった。
美鶴の退魔砲撃から逃げ回る、と同時に草薙姫を轢き殺しにかかっている。
叢雲姫が、甲式破邪弓に光の矢をつがえる、よりも早く草薙姫は地面を蹴った。
乙式斬魔刀がエネルギー光を宿し、輝き始める。
それを両手で構えたまま、細身の機体が超低空を飛翔する。群がり襲い来る歯舌を、光の翅が打ち砕き続ける。
それら歯舌の発生源である、醜い顔面だらけの巨大な肉塊。
眼前に迫った、その醜悪な巨体に、静葉は思いきり、
「でえぇぇぇいッ!」
斬魔刀を、叩き付けた。
草薙姫の細身が高速でねじれ、巨大な切断兵器がエネルギー光をまといつつ水平に一閃。
黄泉醜女が、上下真っ二つになって上半分が宙に浮いた。それと下半分との間を、草薙姫が飛翔し通過する。
通過しきらぬうちに、上下の断面で光が膨張してゆく。
両断され、2つの肉塊と化した巨大種。それが上下両方とも、光の中で破裂した。
天地2方向から襲い来る爆風をかわし、瓦礫を削り取りながら着地する草薙姫。
「さて次……っと、あれ?」
静葉は気付いた。今、自分が叩き斬った黄泉醜女が、最後の1体であった事に。
破壊されたビルが小規模な火災で照らされ続ける、廃墟の夜景。
つい先程まで、おぞましい生き物たちで満たされていたのが嘘のように、今は静まり返っている。
僅かな火災の光と煙、以外に、動くものは見当たらない。静葉は苦笑した。
「やれやれ、本当に……ちょっとだけ、だったね。お姫ちゃん」
大量殺戮能力において、草薙姫より叢雲姫の方に性能的な分があるのは確かである。
にしても、圧倒的であると言わざるを得ない。
黄泉醜女を1匹、静葉が叩き斬っている間に、美鶴は群れそのものを消滅させてしまったのだ。
「本当……さすが、ですねえ先輩」
『…………』
静葉の讃辞に、美鶴は聞き取れぬ声で応えた。
いや、応えたわけではない。通信機能の向こう側で美鶴は、後輩の言葉など聞かず、ただ何事か呟いただけだ。
何を、呟いたのか。人の名前、のように聞こえなくもなかった。
「美鶴先輩……?」
『……あぁ……静葉……』
美鶴が、今度はどうにか聞き取れる声を出した。我に返った、という感じだ。
「どうかしたんですか?」
『何でもないわ……』
美鶴が微かに笑う。その声に、僅かながら疲労が滲み出る。
それは疲れるだろう、と静葉は思った。今の巨大種の群れは、その大半を美鶴が単身で片付けたのだ。
叢雲姫と草薙姫。砲撃戦闘と斬撃戦闘という役割の違いこそあれ、性能の高低にそれほど差はないはずである。
差があるのはやはり、操縦者である巫女の力量であろう。
四条美鶴。この先輩には永遠に追い付けない、とまでは静葉は思わなかった。
(ま……それでも何年先になるか、わかんないけどね)
苦笑する静葉だったが、苦笑している場合ではないと頭ではわかっていた。自分がもう少し頑張らなければ、美鶴に負担を強いる一方なのだ。
『こちらコントロール。現時刻をもって作戦は終了……』
大久保中佐が、相変わらず暗い声で終了を告げた。
『シャーマンα、シャーマンβは速やかに帰投して下さい。お疲れ様でした』
「あ、はい。お疲れ様でした」
静葉は応え、美鶴は黙っている。男などと口をきいてはいられない、というわけか。
「……作戦、ね」
静葉は呟き、軽く息をついた。
黄泉醜女に破壊され尽くした街の有り様を、センサー・アイ越しに見渡してみる。
単に廃墟エリアを1つ増やしただけの作戦、だったような気も、しないでもない。
男は戦闘的、女は平和的である、と大斎たちは言う。だが、この風景が物語る事実は。
「美鶴先輩……女が平和的だって話、あたし間違ってると思います。やっぱり」
大斎たちの耳に入ったら少し面倒な事になりかねない発言を、つい静葉はしていた。
「だってあたし……こうやって戦うの、実はそんなに嫌いじゃないし」
『そうね……時には男以上に、戦闘的に。凶暴に、残虐に。それが巫女というもの』
美鶴の口調は、笑っているようでもある。暗い、冷笑。あるいは嘲笑。
『……そうでなければ、タイプ・カンナギになど……乗っては、いられないわ』
「先輩……」
やはり、美鶴は何か変だ。疲労、ではない何かが、今の彼女にはある。
静葉は、美鶴の方を振り向いた。草薙姫を、叢雲姫の方に振り向かせた。
その時、妙なものが視界をかすめた。
センサー・アイが、廃墟エリアにあるはずのないものを一瞬だけ捉えたのだ。
(人……?)
人がいる、ように見えたのである。そちらに、静葉はセンサー・アイを向けた。
見間違い、ではなかった。
元々ビルだったのであろう瓦礫の山。その頂上に、黒っぽい人影が座り込んでいる。そして、こちらを見ている。
静葉は、声を出しながら息を呑んだ。
「あいつ……!」
迷彩の上下、鉢巻きのようなバンダナ。タイプ・カンナギを観察しつつニヤリと歪む、不敵そのものの微笑。
間違いない。先程、駅構内で出会った少年だ。
今の戦いを、まさかずっと見物していたのであろうか。
実に楽しそうに微笑みながら少年は、両手に持った何かを時折、口に運んでいる。
右手には缶。ジュース、ではなく、どうやら缶ビールだ。左手で掴んでいるのは、つまみだろう。ビーフジャーキーか、あるいは海産物の干物か。
「せっ先輩、あそこに人が」
『放っておきなさい』
美鶴が冷たく応える。自分の知った事か、という感じの口調だ。
センサー・アイ越しの視線を、感じているのであろうか。迷彩服の少年が、干物らしきものをかじりつつ、草薙姫に向かって缶ビールを掲げて見せた。
乾杯、の仕草だった。
「どう思う兄者。なかなか、使い物になりそうではないか?」
「まだ早いな。我らが直接、力を貸してやれる段階ではない」
「そうか? ……ふむ、確かに怒り怨みの心がいささか強すぎるようではあったが」
「駄目なのだよ、それでは。あの娘は1度、心の折れるような目に遭わねばならん。そこから如何にして立ち直るか、それ次第だな」
「……あまりのんびりやってはいられんのだぞ、兄者」
「焦ってもならん。わかるであろう? 今あの娘に、直に我らの力を貸したら……心の折れるような目に遭った際、間違いなく暴走する」
「ええい面倒な。いっその事、あやつに任せてみてはどうだ」
「何を言っている?」
「何だ、兄者は気付いておらんのか……生きておるぞ、あやつ」
「……まことか」
「まことであるとも。あれで生きておったとは大したものではないか? 俺たちの力を使う人間が、男であってはならん理由も特にあるまい」
「生きておったのではなく……黄泉返った、のかも知れぬぞ」
「ぬ……それはつまり」
「母上の御力に染まっておるやも知れん、という事だ」
「おい、姉上だけでなく母上も相手にせねばならんのか俺たちは!」
「我らだけではどうにもならんよ。やはり人間の……巫女の力を、借りねばならぬ」
動揺を、静葉に悟られなかったかどうか。さしあたって心配なのは、それである。
静葉はごまかせたとしても、この方々をごまかす事は出来ない。この方々に対しては、一切の隠し事が許されない。
だから、報告をしなければならないのだ。
神祇本庁庁舎、最上階。階全体が、1つの巨大な広間となっている。
その大広間の中に幾つか、奇妙なものが浮かんでいた。
直方体の、箱。いや部屋と言うべきか。天板と床板が4本の柱で繋がり、四方が御簾で覆われている。
その御簾越しにうっすらと、どうやら座っているらしい人影が見える。
内部に人を座らせた、巨大な箱。あるいは小さな部屋。
それが8つ、ぐるりと円形に並んで浮揚しているのだ。
御簾に隠された8つの人影たちに環視され見下ろされながら、四条美鶴は今、跪き深々と頭を垂れている。
普段は幾らか高慢なほど優美に立ち佇んでいる巫女装束姿が、今は卑屈なくらいに低く床にへばりつき、丸まっているのだ。
そこへ、声が降って来る。
「顔を上げなさい、四条さん」
女の声だ。玉を転がすような、だが決して若々しくはない声。
それに従って美鶴は、繊細な両手を床の上で揃えたまま顔だけを上げた。
「昨日の戦いは、実に見事でした。さすがは大八嶋の首席、と言うべきですわね」
別の女が、御簾越しに言葉を降らせてくる。
上げた頭を再び下げつつ、美鶴は応えた。
「身に余る御言葉でございます……
「だから、そう畏まる事はないと言っているのに」
8名の大斎の1人が、優しく苦笑した。
「秩序を守るために、私たちに対しては多くの方々に敬意を表していただいているけれど……貴女は別格なのよ、四条さん。貴女は私たちの、希望なのだから」
「昨日の戦い。確かに、希望を見せてくれたわね」
口々に、大斎たちは美鶴を褒めてくれる。
「世の人々は思い知った事でしょう。自分たちを守り得る存在が、巫女だけであると」
「巫女に逆らったら、黄泉醜女もろとも……滅びあるのみ、って事もねえ」
「人聞きの悪い事を言うのはおよしなさいな村野さん。巫女とはあくまで人々の守護者、それ以外のものではないのよ」
「そう……いう事に、しておかなければね」
忍び笑い、含み笑いが、美鶴を取り囲む。
「本当に、昨日の戦いはお見事でしたわ。ただ……退魔覚醒・死反玉を発動させれば、もう少し手早く片付ける事が出来たのでは、と思ってしまうのですけれど」
「そうね。叢雲姫に、または
「はっ……申し訳、ございません……」
平伏するしかない美鶴に、語りかけて来る声がある。記憶の、心の、奥底から。
お前には、こいつを使って欲しくないなあ。
このシステムは相当やばいぞ。下手に使ったら、降りて来た神様に乗っ取られちまう。お前が、お前じゃなくなっちまうんだ。まあ巫女ってのは元々そういうもんなのかも知れないが……お前にはそんなふうになって欲しくないよ、美鶴。
(哲弘……お願いよ、もう話しかけないで……)
声には出さず、美鶴は言葉を返した。
(貴方さえ……貴方さえ、いなくなってくれれば。私は、完璧な巫女になれる……何を考える事もなく、この方々に、叢雲姫に、そして天津神々に、身も心も委ねる事が出来る。貴方さえ、いなくなってくれれば……)
嵯峨野哲弘は、もういない。
なのに美鶴の、記憶の、心の奥底からは、いなくなってくれない。
「出来ているわよ? 四条さんは。あの宮杜静葉よりは、ずっとね」
「ええ本当……あの娘は本当に、お話にもならないわ。死反玉を発動して、あれだもの」
「叢雲姫で死反玉を発動したら一体どれだけ凄い事になるのか、楽しみだねえ」
「この庁舎まで消し飛んでしまうわ。四条さんはね、私たちの身の安全まで考えてくれているのよ?」
「ともあれ四条さん、貴女は本当に良くやってくれているわ。むしろ私たちの方が、貴女に対して敬意を表さなければいけないわね」
「それは甘やかし過ぎではないかしら。今、大八嶋の風紀がどれほど乱れているか、皆さん御存じないわけではないでしょう? ねえ四条さん、一体どうなっているのかしらねえ」
「おやめなさいよ小川さん。それは別に四条さんが悪いわけでは」
「内藤さんはお忘れかしら。ある意味、あの学院の風紀を率先して乱したのは……四条美鶴さん、貴女なのよ? わかっているのかしら?」
「はっ…………」
美鶴は、平伏したまま身を縮めるしかなかった。
見えない手で鳩尾の辺りを掴まれている、ような感覚がある。恐怖心であろうか。
だが哲弘の声に心奪われずにいられるのは、ありがたい事だった。
「そこまでにしておいてあげなさいな小川さん。それで」
大斎たちの口調が、改まった。
「今日は一体、何のお話なのかしら四条さん。貴女の方から火急の用などと」
「私らに時間取らせるだけの用事なんだろうねえ?」
美鶴は、すぐには応えられなかった。
だが再度、促される前に、どうにか声を発する事が出来た。
「……真北冬樹が、生きております」
間違いない。瓦礫の上で乾杯の仕草をしていた、あの少年。
間違いなく、真北冬樹だった。
静葉に対しては上手くごまかしておいたが、この方々に対しては。
笑い声が、あらゆる方向から聞こえて来る。大斎たちだ。美鶴を取り囲んで見下ろし、実におかしそうに笑っている。
嘲笑だった。美鶴は、そう感じた。
「偉いわ四条さん……よく、正直に報告したわね」
「貴女がきちんと報告に来るかどうか……うふふ、賭けをしていたのよ。皆で」
やはり、この女性たちは全てを知っている。全てを、掴んでいる。
「正直に言えば良い、というものでもないのよ。それはわかっているわね? 四条さん」
「申し訳ございませんっ……!」
眼鏡が床に触れるほど、美鶴は深々と頭を垂れ這いつくばった。そこへ罵声が降り注ぐ。
「わざと? わざとやっているのかしらねえ貴女は。私たちの目が届かないところで、私たちの意にそぐわない事をする。これはつまり、私たちを密かに馬鹿にしているという事になるわねえ四条さん?」
「やめなよ小川さん。わざと討ち漏らすんなら真北冬樹じゃなくて……嵯峨野哲弘、の方だよなあ? 美鶴ちゃん」
「…………」
平伏したまま、美鶴は黙っていた。うかつに答えられる問い、ではない。
美鶴が沈黙している間、大斎たちが会話を進める。
「真北冬樹に関しては、私たちも手は打っておいたけれど……少し、難しいわね」
「今の彼は、黄泉大神から何らかの恩恵を受けている可能性が高いわ」
「だとしたら四条さん、やはり貴女の出番という事になるわよ」
「少なくとも1度は必ず、真北冬樹は貴女の前に姿を現すでしょう。復讐のために、ね」
「返り討ちにしてやれって事さ」
復讐。真北冬樹が、自分を殺しに来る。
それだけでは済むまい、と美鶴は思った。
真北冬樹が生きている。それは、この社会の存続が脅かされている、という事だ。
女が、男の上に立つ。人類史上初めて作り上げる事の出来た理想社会。
それが、あの少年1人の生存によって、根本から崩れ去ってしまう。
(そんな事はさせないわよ、真北君……)
この場にいない少年に、美鶴は心中で語りかけた。
そこへ、命令が降って来る。
「改めて命令をあげます、四条美鶴さん……真北冬樹を、この世から消しなさい」
「この命に、代えましても」
間髪入れず応えながら美鶴は、心の中からの語りかけを続けた。
(真北君、貴方が私を憎むのは当たり前……私の命だけがお望みなら、あげてもいいわ。だけど、この社会は、この体制は、私が絶対に守ってみせる)
女性が頂点に立つ、美しき理想社会。
それを守るためには、美しくない事を誰かがしなければならない。おぞましい事を、誰かがしなければならない。
タイプ・カンナギは、そのために存在するのだ。
記憶の奥底から、また哲弘の声が聞こえて来る。
それを無理矢理、押し殺しながら、美鶴は心中で呟いた。
(もう一度、貴方に死んでもらうわ真北君。それが巫女として、女としての、私の使命)
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