好者・もふもふたいむ
詰所である。
なんで本日三度目の来訪なのに今日初めて中に入るのだろうか、甚だ疑問だ。
まぁそんなしょうもないことはどうでもよく、さっさと詰所での用事を済ませて飯を食いたいところ。というわけで俺が廊下を歩けば誰もが珍しいものを見たといった顔をし、こそこそと隣のやつと内緒話を始める。
その様を見て久咲の眉が吊り上がるが、俺からすれば慣れてしまった光景だ。実害があるわけでもなし。いや、つっかかられることはあるか、あれが初めての俺に対する意見だったけれど。
あの仔犬はよくやった方だ。晴天への憧れであんな行動に出たんだとは思うが、俺が寛容なやつじゃなきゃもう退魔局を追い出されるどころか、退魔師としての資格も剥奪されていただろう。
この遠野において退魔師を名乗れる存在は少ない。そもそもにおいて退魔師になるために必須の呪力を練れる存在が、百人に一人くらいしか生まれないのだからむべなるかな。そして呪力を練れるだけの存在ですらそれだけ少ないのに、実用的に術を使える段階まで進み、職業を退魔師にする人間がどれほどいるというのか。
遠野がいかに大都市といえど、現在退魔局に所属する退魔師が七十八人。そのうち半数ほどが極東各地へと派遣されているので、実際に遠野を守護する退魔師の数は四十人ほどだ。これは諸外国の魔物ハンターたちの数に比べると圧倒的に少ない。
まぁ、退魔師は国家資格であり、魔物ハンターは自称でも何も問題ないという差が一番大きいのではあるが。
そんなわけで、実力が高く退魔師になれたとしても死ぬ時は死ぬこの過酷な世界において、退魔師の数が増えないのは当然といえる。
呪力を練れる存在というのは先祖があやかしと交わった末であり、その先祖返りであるのだからあやかしと関わる因果を持っている。という俗説があるにはあるが、眉唾物であり信じるに値しないとされているのに、それを引き合いに出す大人の多いこと。
式としてあやかしたちを使役しつつも、あやかしとしてはふれあいたくはないというのが一般人の思考なのだろう。おかげで呪力を練れるってだけで学校で仲間はずれにされることも多い現代だ。さぞ俺らの後輩は生きづらいことだろう。
その境遇を反骨心にくべて退魔師になるものが多く、耐えられなかったものは人生からも退場するといえば、どれだけのリスクをもって生まれてきたかわかると思う。
……俺は家が恵まれていたから特に問題はなかった。俺が呪力を操れることは当然だったし、周りからしても俺が退魔師になることは当たり前だった。
だからだろうか、いつからか俺の性根が曲がり術までもが変質し始めたのは。
退魔師が通って当然の道を通らなかった俺は、だからこそ正統な退魔師になることはできなかった。晴天のように退魔師の顔となることは俺にはできなかった。
そうしてひねくれきった俺は、彼女と出会った。
それからだろう。俺がまたこうやって倦厭されつつも人並みに暮らせるようになったのは。彼女との出会いもまた久咲で出会った時のように運命的ではあったが、あれをそんな陳腐な言葉で形容することはできない。あのあまりにも悍ましく、痛々しく穢らわしい出会いをそんな言葉で表すことは許されない。
そして俺は思い知ったのだ。その悍ましく痛々しく穢らわしい、その様こそが俺には相応しかったのだということに。人並みに暮らす陰で俺は蔑まれているのだ。そのことに気づいた時、俺は認めざるをえなかった。彼女の言葉は正しく、そしてそれこそが導きとなるのだ、と。
「うし、久咲この保管庫から最近の開放事件の資料、特に鬼が関係するものを片っ端から探すぞ。新しいのはおそらく右の棚にまとめてあると思うんだが……ああ、そうだな、これだ。とりあえずここ一年分検討するから、頼んだ」
「わかりました。鬼の関係する事件資料を一年分、それ以外の開放事件に関してはいいんですか?」
「ああ、構わん。今回の件はおそらくそれ以外の事件は関わってこないだろう。俺の勘がそう言っている」
「なるほど、道臣の勘ならば信用できます。それでは探しましょうか」
あまり考えないようにしている方向へと流れていく思考をきりよく堰止め、資料探しを開始する。正直保管庫に着くまでの記憶が曖昧だが、詰所で俺に話しかけてくるやつの方が珍しいし、特に何も問題は怒らなかったのだろう。久咲も何も言ってこないし。
俺が考え事をしている時、久咲は俺に話しかけてこない。黙って俺の隣をついてくる。そういうところの気遣いでどれだけ俺が救われているのか、この狐娘は理解しているのだろうか。
今も俺の隣で黙々と資料を探す久咲を見て思う。こいつはこれでよかったのだろうか。晴天の前では大見得切ったが、久咲は俺の識で満足しているのだろうか。晴天のような退魔師のもとにいた方が幸せになれたのではないか。
作業を止めておもむろにこちらを見やる久咲。その視線は呆れに満ちていて、しばらく何もせずに久咲を見つめ続けていた俺を非難しているようだ。
「あなたが何を考えているのか私わかりますよ」
どきり、と心の臓が音を立てて跳ねる。久咲はたまにそういうところがある。よく俺を見ていてくれているのだろうが、考えまで見透かされていたのだろうか。
「きっとくだらないことに違いありません。顔にそう書いてありましたから。どうせ、私が貴方よりも晴天さんのもとにいた方が幸せになれたんじゃないか、とか考えていたんでしょう」
頭を振るった拍子にその綺麗な銀の毛並みが翻る。それはこんな埃臭い資料室めいた場所でも窓から入る光だけで輝いて、月の瞬きでも閉じ込めたのだろうか。
「そんなわけがないでしょうに。今までも再三言ってきたつもりですが、貴方の識となって私が後悔したことは一度もありません。いつも何事にも貴方は考えすぎなんですよ」
その洞察力と静かに見守る姿勢は夜空に浮かぶ月の優しさそのもので、俺はいつもこれに甘えてしまう。だが、甘えるだけでは駄目だろう。ここ半年、結局何もはっきりさせずに生きてきた。久咲が俺の識になったのだって不可抗力なのだ。後悔したことはないと毎度聞いてはいるが、その先の言葉を一度も聞いたことはない。だから、俺が不安になるのも当然のことだろう。だって、俺らはいつまでも宙ぶらりんだ。
相好を崩した久咲は俺の方に一歩寄ると、部屋の真ん中に一脚だけ置いてある椅子に俺を座らせた。そしてそのまま俺の頭をゆっくりとゆったりと子どもをあやすかのごとく撫で始める。
「不安が顔に出ていますよ。……確かに私が言葉足らずだったこともあったかもしれません。でも、踏み込まなかったのは貴方も同じなんですよ? 貴方だけが被害者面するのは不公平です」
茶目っ気を出す久咲の柔らかい笑顔。いつぶりに見ただろうか。もしかしたらそれこそ最後に見たのは、あの時だったのかもしれない。その可憐な笑顔に見蕩れた俺は、久咲が顔を座った俺と同じ高さに持ってくるのに反応できなかった。
頭を撫でるのをやめ、俺の頬に両手を添えた久咲は、
「私もそろそろはっきりさせなければと思っていたの。あなたと私。その在り方を。その関係性をね」
出会った時と同じ艶美な顔を俺に見せるのだった。
「……そう、だな。俺はこんな人間だから今まで逃げていたのは認める。だがっ」
「わかってる。あなたの過去もある程度知っている。それでも、踏み出してほしいと願うのは間違いかしら?」
艶然と微笑む彼女の手のひらの上で会話が進む。これはいけない。これでは何もはっきりしない。確かに在り方は変わるかもしれない。それが正しい関係性なのかもしれない。でも、この進み方では何も解決はしないんだ。
「久咲……いや、こ」
「その名前を言わないで。今の私は久咲でいいの。あなたがつけてくれた名前を大切にしていきたいと思うの。それでいいじゃない」
「そう……だな。いや、俺がどうかしていたんだな。一瞬お前が久咲になる前のお前に戻ったのかと思い込んだ。お前は、久咲でいてくれるんだよな。俺の……識でいてくれるんだよな」
「ええ、そう誓ったからこそこうやって私はここにいるんだもの。疑われる方が失礼しちゃうわ」
解決しない……と思ったのも早とちりだったのだろうか。彼女は久咲だ。久咲であろうとしてくれる。俺の識として、俺と一緒に生きていこうとしてくれる。それが無性に嬉しかった。
「もう、こんなことで泣かないでもらいたいところです。どうでもいいところで涙もろいんですから。その精神の脆弱さ、晴天さんを見習ったらどうですか?」
「全く、毎度久咲は容赦ないなあ」
「そうあるのが貴方の相棒として求めること、なのでしょう?」
「ああ、そうだとも。俺の識たる久咲にしか任せられないことだな」
すっかり俺は立ち直っていた。本当に久咲は俺のことをよく見ている。今はっきりさせれば何かがまたねじれてしまうことも久咲はきちんとわかっていた。もう久咲なしでは俺は生きていけないのだろうな。
だから、自然にその耳へと手を伸ばし、
「道臣……貴方は学習しないんですか? 資料探しをするのでしょう? 昼餉の時間がこれ以上遅くなったら晩飯が入らなくなりますよ? あの、だからちょっ、あっ、だめっ、そこはっ、はぁぅ……」
めちゃくちゃもふもふしたのであった。
「あ、だめっ。そんな尻尾を、そんなに乱暴に! ぅんっ、ゃ、ちが、丁寧に撫でて欲しいわけじゃなくて、く、くぅん!」
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