老者は嘯く

 コツン、コツンと。

 彼は、踵を鳴らしながら一段ずつゆっくりと下って行く。螺旋階段は地下深くへとつづいていて、外からの光が入らなければ壁掛けの燭台もなかった。大人の男が行くにはあまりに狭く、そのまま踏み外してしまえば捻挫どころでは済まないだろう。

 彼の左手は壁に添えられて、もう一方は手燭がある。慎重に歩を進めていくのは、彼がけっして臆病だからではなく、無意識のうちに高ぶっていた気を静めるためだ。彼はふた月に一度、おなじ階段をおりる。すでにそこで待っている客人は、地下の他を指定せずに、それが公爵であろうともこうして呼びつける。彼は騎士の矜持を大事にする人だが人間性はまた別で、倨傲きょごうなたちではなかった。

 なにより相手が相手だ。多忙を理由に断るのは、ほぼ不可能に近い。相手は彼の予定のすべてを把握しているのだから、隙間の時間さえも与えてはくれないのだ。

 彼は、闇のなかでため息を落とした。

 と会話をしたのはいつだったか。この下に待つのはヘルムートの父親ではなく、ヴァルハルワ教の枢機卿だ。

 父子おやこの仲はとうに冷え切っている。ムスタール公女であった母親はヘルムートを産み落とすと、居館から離れた別塔へと引き籠もってしまった。養子として入った父親の心もまたヘルムートにはなく、父親は教会のためだけに時間を使う。ヘルムートを成人まで育ててくれたのは彼の祖父だ。やがて、老いた祖父に代わってヘルムートが公爵を継ぐ。父親がヘルムートに与えたものといえば、ヴァルハルワ教徒としての義務のみだ。しかし、彼にとってそれは義務とはちがい、あくまで習慣だった。

 大司教の妻を娶り、授かった二人の息子たちも母親とおなじく、食前や就寝の前に長い祈りをする。時を知らせる鐘の音は祭儀の合図で、彼らはそのたびに大聖堂へと赴く。崇高な精神を保つためには必要な儀式だろう。彼らにとって贖罪は救済とおなじだ。ヘルムートもそれにならう。時間が許す限りだが、しかし彼もムスタールの人間だからだ。

 信仰心はある。ただし、彼の心のすべては神に預けてはいない。それだけだ。

 最下段に着いた。目の前には小部屋の扉だけ、彼はそこで二呼吸を置く。客人の要件はいつも決まっていた。イレスダートはもとより、マウロス大陸のなかでもこれほど信徒が多いムスタールにおいて、資金集めにそれほど苦労はないはずだ。それでも多少の漏れがあるのかもしれないし、教団を維持するには莫大な費用が要るらしい。イレスダートは長きに渡って戦争をしている。民は神を縋り、教会は人々の心の拠り所として、否定はできない存在だ。

 それなのに、不快に思うのはなぜか。

 父親に対して嫌悪を抱いていることを、ヘルムートは認める。厭悪えんおと言ってもいいほどに、ヘルムートは枢機卿の顔をする父親を苦手としている。父子の情愛などない。公爵と枢機卿と。己の権限を持って追放するのは簡単でも、それでは多くの敵を作る。そして、ヘルムートはどこかで信じているのかもしれない。それが、願望だったとしても。

「お待ちしておりました」

 しかし、見事に裏切られてしまったようだ。

 ヘルムートは男を睥睨へいげいする。地下室には簡素な机と椅子が用意されているが、他には両手剣が三つ、槍と斧がひとつずつと、まるで拷問部屋だ。事実、ここでは過去にそれが行われていて、地下特有の黴臭さに加えて鉄のにおいがする。父親に呼びつけられなければ、訪れたいとは思わない場所だ。

「可笑しなことだな。我が父は、いつ枢機卿から元老院へとすり替わったのだ?」

 揶揄やゆを受けて老者の唇が動く。笑みを描いているつもりなのだろうか。奸計かんけいにたけた人間でなければできない表情だ。

「おや。ムスタール公爵に冗談のひとつが言えたとは。……いえいえ、失礼を。お父上がご子息を案じておられましたので」

 ヘルムートは歯噛みする。

 ヴァルハルワ教会と元老院との繋がりは知っている。父親と元老院が一人、この老者とも昵懇じっこんの仲なのだろう。つまり、はじめからヘルムートは謀られていたのだ。

「お座りになっては、いかがですか?」

 老者は、なおも誘う。

 最初からそうだとわかっていたならば、ヘルムートはけっして出向かなかった。彼は、心のどこかでヴァルハルワ教会を厭わしく感じていても、その存在自体を軽視したりはしない。だが、相手が元老院ならば話は別だ。 

「話すことなどない」 

 嫌悪と怒りと。剥き出しの感情をヘルムートはやめない。

 威圧に対しても男は芝居染みた笑みを止めずに、またそうした余裕があるのだろう。老者はヘルムートを蔑視べっししているのだ。

 男が身に纏う白の法衣は特別な技法と魔力がかけられている。人々は擦れ違うよりも先に老者に敬意を示す。そうして崇められた元老院は、己が神か王と等しい挙措きょそをする。それこそ、冒涜ぼうとくだ。ヘルムートはそう思う。

「いえいえ。ぜひ公爵の耳に入れて頂きたい。公に諮詢しじゅんするのは、我が元老院の総意でもありますゆえに」

 沈黙は了承だと解釈したようだ。老者は勝手に喋りはじめる。

「近頃の国王陛下のご様子を、公にも知って頂く必要があるでしょうな。白の王宮からムスタールまでは遠い。事が起こってからでは遅すぎるのです」

「聞く必要も知る必要もない」

「そういうわけにはいきませぬ。ムスタールの黒騎士と名高いヘルムート公の知恵を、我らに授けて頂きたい」

「知恵、だと……?」

 勝手な声ばかりをする。ヘルムートの作った拳が震えていた。この手は、剣を握るためだけにある。他者を痛めつけ、粗野な声をしてはならない。そうした感情のすべてを静かに殺すべきだ。ヘルムートは己に言いきかせる。そうだ。ヘルムートが忠義を為すのは王家であり国である。彼らでは、ない。

「ええ。陛下は我らの声をきき入れてもくださらない。我らが王が覇者であってはならないと、そう思いませんか? 陛下の負担を軽減するためにも、誰かが悪徒を務めねばなりませぬ」

 たしかに、王とは孤独な生きものだろう。助言をする者も必要だ。時の王は彼らの力を信頼し、だからこそ彼らを傍に置いている。しかし、アナクレオンはどうか。甘んじて白の王宮に置いてはいても、奴らを毒だと称する。薬は一時の気休めにしかならず、与えすぎれば毒となろう。彼らの力はイレスダートにとって危険なのだ。アナクレオンの声をヘルムートは疑わない。

「イレスダートに災いをもたらすことなど、誰が望みましょうぞ。我々は危惧しているのです。和平を望むがあまりに、国王陛下は見誤られるのではないかと。陛下はこと情に甘い。下々の者に対して哀憫あいびんの情を持つことは人としては許されても、王としてはいかがなものか。陛下は素晴らしき慧眼けいがんを持っておられるお方。ですが、国の明日を憂うあまりにたがえられるのではないかと、不安視する声も出ているのです」

 たいした演説だ。熱烈な信者であれば、喝采を送るところだろう。

「このままでは、イレスダートは憎きルドラスに蹂躙じゅうりんされるやもしれません」

「何が言いたい」

「かの聖騎士殿はルドラスの騎士と密談したと、聞き及んでおります。こともあろうに、敵の将に停戦を持ちかけたというではありませんか」

「それが陛下の意向であれば、彼はそれに従ったまでだ。何の問題も見えないが?」

「はたして、そうでしょうか? 北の蛮族相手に正気の沙汰とは思えませぬ。国王陛下は近しい人間に甘い。聖騎士にはそれなりの誅罰ちゅうばつを。何より国王陛下には自重頂かなくてはなりません」

 最後まで甘んじてきいたのは、自制心を保つためだった。

 剣を抜き、飛びかかり、その首を跳ねてしまいたいほどの衝動を、ヘルムートは抑えている。無価値な弁舌の末の目的は何か。考えるまでもない。同調する要素などひとつもないのだ。

「お引き取り頂こう。これ以上は、時間の無駄でしかない」

 ヘルムートは男に退出を促した。まったく、無意味で無価値な時間だった。老者はやおら立ちあがると、ヘルムートに向けて一揖いちゆうする。くだらない演出だ。しかし、その最後にひとつだけ、老者は声を落とした。

「そうそう。王都では王女が行方不明だという噂が流れてますが、あくまで噂でしょう。公のお耳に入れるほどでもないことです」

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