混迷はやがて闇の方へと

 季節外れの雨は七日を過ぎてもなお降りつづいている。

 王都マイアは北の城塞都市ガレリアほどではないが、例年のこの時期ならば雪が積もる。氷雨混じりの曇天が王都マイアを覆い、朝から降ったり止んだりの繰り返し、しかし雪へと変わる様子はなく冷たい雨が止む気配もなかった。

 ムスタール公爵ヘルムートは扉をたたく音に気づいて、顔をあげた。

 王都マイアの北区、白の王宮にほど近いその場所にムスタール公爵家の縁者が居を構えている。此度の伺候しこうは私用に近かったものの、ここに顔を出せば縁者たちも喜ぶためヘルムートは世話になっていた。

 とはいえ、まさかこんなにも長く居座ろうとは。

 秋のはじめに訪れてから早いもので、もう本格的な冬へと季節も変わろうとしている。夜中やちゅう酒肴しゅこうを届けてくれる老女はヘルムートとは傍系の親族、そしてここの主の妻だ。たくさんいた息子たちもそれぞれ独立して長年連れ添った夫を見送ったあと、他に近くに親族はいないためか寂しいのだろう。何かとヘルムートを気に掛けてくれるし、我が物顔でここに居座りつづけていても煙たがったりはしない性根のやさしい老女だ。

 ヘルムートはちょうど手紙を書き終えたところだった。

 ムスタールから連れてきた扈従こじゅうはもう寝ている時間なので、いつも手紙は老女へと託している。妻女コンスタンツへと宛てた手紙は公用の用事ばかりで、たまには家族への手紙を綴るようそれとなく諭されたときには苦笑いで返したものの、基本的にこの老女は物静かである。

「どうした?」

 ところが酒肴を持ってきた様子もなく、ただこちらの反応を待っているような老女にヘルムートは問うた。なにか後ろめたいことでもあるのか、視線もあちこちに動いている。

「さきほど、ムスタール公にお客さまがお見えになりました」

 ヘルムートはまじろぐ。この老女の性格からして、客人とあらばすぐにここに通すはずだ。

「このような夜分に火急の知らせとあってはいけません。すぐ閣下に知らせようとしたのですが、どうやらお急ぎだったようで、用件だけ残して帰られました」

「して、用件とは?」

「アナクレオン陛下が、白の間にてお待ちでいらっしゃいます」

 ヘルムートは立ちあがった。通常、夜間の時間帯であれば白の間は閉ざされている。何らかのはかりごとを疑うにしても、公爵である自分を貶めるような理由が見つからない。そもそも、元老院はヘルムートを担ぎあげようと、二度もムスタールに訪れたくらいだ。

「その客人は名乗らなかったのだな?」

「は、はい……。お伺いする前に帰ってしまい……」

「いい。だいたいの想像はつく」

 質問を繰り返していれば老女を責める結果となってしまう。ヘルムートは身支度を調え、帰りを待たずに就寝するようにと老女に言いつけた。公爵に従順な老女は、ヘルムートがすぐに戻らずとも扈従を起こして大騒ぎしたりはしないだろう。

 馭者ぎょしゃを待っていればそれだけ遅れる。傘も持たずに出てきてしまったが、振り通しだった雨も小雨へと変わっていた。数ヶ月前に王都内で起きていた不可解な事件は未だ解決していなかったが、ある要人の失踪を機に凶行は止まり、人々も凶徒に怯えることなく通常の生活を送るようになった。今宵は雨のせいか道行く人の姿もまばらなもので、しかし大衆食堂や酒場は賑わっているようだ。

 この王都は守られている。

 王都を守護する白騎士団の働きがあってこそ、彼らを導くのは王の盾である聖騎士フランツ・エルマンだ。あれ以来、ヘルムートは白騎士団団長とも会えていない。彼も多忙を極めている身、先日のようにいきなり押しかけては職務も滞るだろう。

 王都を包み込むように振りつづける凍雨のなか、ヘルムートはある二人を考える。

 一人はオリシス公爵アルウェン。当時、ともに公子だった二人は王都マイアの士官学校で出会い友誼ゆうぎを結んだ。アルウェンはときおり士官学校を抜け出しては王立図書館に通っていた。何度目かの誘いでヘルムートも彼に同行し、そこで彼が密会していた人物を知って目をみはった。その要人こそアナクレオンだった。

「お前の見解は実に面白いが、これでは周囲に敵を作りかねない。オリシスの明日が思いやられるな、アルウェン」

「しかし、君も私と同類と言ったところだろう? アナクレオン、保守的な君など何の趣もない。元老院と渡り合うならば、もっとしたたかになるべきだ」

 いったい、彼らはいつからこの関係にあったのだろう。すこし気安すぎないかと、ヘルムートは気を揉んでいたが、こんな場所でへりくだる方が彼の正体が知れると逆に説教された。

 二人の繋がりはアルウェンがオリシスから動けなくなるまでつづいたように、ヘルムートは思う。アルウェンがアナクレオンの意に背いたわけではない。ただオリシス公は失敗をして、騎士として戦えなくなったその人はもう、アナクレオンの傍にはいられなくなっただけだ。

「どれだけ離れていようとも、私はアナクレオンを信じているよ。だが、老獪ろうかいな役者ばかりが集まっている元老院を相手取るには、アナクレオンはあまりに孤独すぎる。時として、見誤ることもあるかもしれない」

「私たちにいったい何ができる? アルウェン」

「簡単なことだ。陛下に建白すればいい。王とて人間だ。そのすべての言葉が正しいとは限らないし、過ちを正す者が要る」

「それは傲慢だ。アルウェン、貴公ともあろう者が滅多のことを口にするものではない」

「ヘルムート、貴公は真面目すぎるのだ。だが、それでいいのかもしれない。私が行き過ぎた声をしたときは、貴公が私を止めてくれる。なに、心配するな。そんな危ない橋にはそうそう渡らないし、友の危機にはすぐに駆けつけるさ」

 しかし、彼は先に逝ってしまった。

 オリシス公暗殺の報は王都を震撼させ、あらぬ憶測ばかりが飛び交っている。元老院がアルウェンの妹ロアに接触しているときき、ヘルムートは彼の妻テレーゼに手紙を書いた。無事に届いたかどうかはわからない。

 アルウェンの死に関わっているのが、アストレアの聖騎士だ。

 聖騎士に会ったのは春先だったと、そう記憶している。当時ガレリアを指揮していたのはランドルフ卿、聖騎士とは折り合いが悪かったのかもしれない。城塞都市から更迭され、祖国アストレアに戻る途中だったのだと聖騎士は言った。その目には偽りなど見えなかったように思う。アストレアの公子が連れていたのはわずかな麾下だけ、先にアストレアの蒼天騎士団を返した理由はわからなくもなかったが、ヘルムートはそこでもう一人を見た。

 あれはやはり、王都にいたはずのレオナ王女だったのだ。

 元老院の甘言をすべてきき流していたわけではない。信じたる証さえそろえば、ヘルムートもまた疑心を持つのは当然だ。王都から消えた王女、逃げた聖騎士、オリシス公暗殺、サリタ攻略の失敗、城塞都市ガレリアの陥落、そしてラ・ガーディア。西の大国が騒がしくなっていると、すでにヘルムートの耳にも届いている。これらすべてに聖騎士が関わっているとは言わないが、されども王の剣であるはずのアストレアの聖騎士はイレスダートにはいないのだ。

 なぜ、聖騎士はヘルムートの前で嘘を吐かなければならなかったのか。

 なぜ、国王陛下はこれらの件をヘルムートに届けなかったのか。

 例えようのない感情がどす黒い渦となって、ヘルムートのなかで沈殿しているのがわかる。随分と待たされた。国王アナクレオンは多事なる日々を送っているのはたしかで、とはいえこれほどに待たされるとも思わなかった。アナクレオンが病に伏していたのも本当だったのかもしれない。いかに竜の血を受け継ぎ、大病などしないマイア王家の一族にあっても、心労がつづけば倒れもするだろう。まずは見舞いの言葉から、そして次は自分などに時間を割いてくれたことに感謝を告げるべきだ。

 白の回廊を渡って、王の待つ間へと真っ直ぐに進む。

 外套を侍従に預けて名を呼ばれるまでしばしの時を待つ。ヘルムートが白の間にはじめて呼ばれたのは、十五の歳だった。

 公爵だった祖父の隣で平身低頭をただつづけていた。極度の緊張に口のなかは乾ききっていたし、掛けられた言葉もろくに覚えていなかった。けれども前王アズウェルはヘルムートを歓迎し、騎士としてのこれからを期待してくれた。怯懦きょうだな王は元老院の言いなりだと、周囲はアズウェルをそう揶揄していたが、若いヘルムートは前王の青玉石サファイア色の瞳に、平和と協調を重んじるやさしい人柄を見たのだった。

 ヘルムートは王の前で膝を折った。

 高く広い天井も、真紅の絨毯も、柱に施された彫刻もそれぞれが歴史を刻み、重々しくも荘厳な雰囲気を造りあげている。この広い間に二人だけだ。衛兵も側近も、ヘルムートとアナクレオンの二人以外誰もいないのは信頼の証である。

 入室してから数呼吸は経った。

 ヘルムートは許しがあるまで、いつのもように頭を低くしている。挨拶もそこそこに、普段ならばここで世間話からはじまることもあった。

 聡明英知で賢王と名高い国王アナクレオンだが、臣下相手といえ旧知の者に対して気安いのが王の長所とも短所ともいえる。一通り国政に関わる話が済めばがらりと話題が変わって、個人的な質問をされる場合もあり、そんなときはまずヘルムートは苦笑いで返した。

 ここでアルウェンのように弁の立つ性格ならば、もっと上手く立ち回れたと思う。しかし、生まれ持った性格というものはなかなか変えられずに真顔で答えれば、アナクレオンもまた苦笑で返すのだった。

 沈黙がつづいている。

 ヘルムートはまず王に感謝の意を告げた。見舞いの言葉もそこそこに、雨期の災害による王都からの物資の支援に助けられたのは真実であり、白騎士団を動かしているのは紛れもない王だ。それからこの時間を割いてくれた礼を告げようとしたものの、王の声が先だった。そこでヘルムートは激しく瞬いた。そう、王は言ったのだ。お前はいつ王都に来たのか、と。

 ヘルムートは思わず顔をあげてしまったが、直後にまた視線を床へと落とした。

 王が知らないのも無理はない。王都マイアで起きた不可思議な事件は未解決のままだったし、他にも王を悩ます案件はいくらでもある。伺候に訪れる要人にしても、他にたくさんいるのだろう。近臣たちは王の負担にならないようにと、時間の配分に気を遣っているはずで、余計な声を王の耳に届けたりはしないのだ。

 だから、ヘルムートはひとつ嘘を吐いた。

 王の前で落とす言葉を偽るのは心が苦しかったが、こうした時にすこしくらい演者となる必要もある。アナクレオンはそれ以上つづけなかったので、ヘルムートは強引に話題を変えようとした。長話をして王を疲れされるのは不本意だったし、本来の目的を見失ってはならない。

 オリシス公の死、公爵不在となったオリシスには公女ロアが残されているが彼女はまだ若く援助が要る。亡き旧友にしてやれることといえば限られていても、それこそ自身の役目だろうと、申し出るつもりだった。ところが、アナクレオンは戸惑った様子でこう返す。

「あそこは元老院に一任しているゆえ、公には関わりなかろう」

 何を言われたのか、はじめは理解できなかった。にわかには信じられない思いで胸が締め付けられそうになる。アナクレオンとアルウェンは主君と臣下の間柄とはいえ、そこに築いていた友情はたしかなものではなかったのか。

「そうだな、アストレアに関しても同様だ。白の王宮の監視下に置く必要はある。すでにランドルフ卿に委ねてあるので、何の問題もなかろう」

「ランドルフ卿、ですか……?」

 王の表情に動きが見えない。かの要人とアストレアの公子との確執を知らないというならまだ話はわかっても、聖騎士を更迭したのは元老院ではなく王であるならば筋が通らない。

「し、しかしアストレアを監視下に置くというのはあまりにも……。それではアストレアがマイアの属国に、」

「それのなにがいけないのだ?」

 ヘルムートは瞠目し、乱れた呼吸を戻そうとする。

「オリシスにしてもおなじく、あれは不幸な事故だったがこうなることは時間の問題だっただろう。あの男は勁烈けいれつすぎる。元老院はかねてよりオリシス公を危険視していた」

「お、お待ちください、陛下。アストレアとオリシスを支配下に置くなど、他の公国が黙ってはおりません。なによりそのような謂われは、」

「ルドラスに差し出すのだ。これで、戦争は終わる」

 玉座の王は、いま何を言ったのだろう。

 耳から心臓の音がきこえる。膝が震えていまにも倒れそうなくらいに眩暈もする。声をつづけなければならないのに、渇いた唇はうまく動いてはくれない。最初にヘルムートにこれを進言したのは元老院だった。

 長きに渡って戦争を繰り返している敵国に停戦を持ち掛ける。六年前に実現化しなかった和平条約をふたたび蘇らせるなら、手土産もたしかに必要だろう。アストレアとオリシスはそのための犠牲となるのだ。しかし、その行いは売国奴に等しい。そう、ヘルムートに老者はうそぶいた。

 誰かが悪徒を務めなければならない。王が道を誤ったそのとき、正しき道へと導く者が要る。ヘルムートの耳元で、懐かしき友の声がきこえたような気がした。

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