天は誰に味方したのか①

 氷上のたたかいから遡ること半日。

 セルジュが地下牢から出されたのは、夜明け前だった。

 そこそこに広い牢屋である。他にも囚人らしき者がいるかと思いきや、人の声もその気配すら感じなかったので、おそらくセルジュ一人きりだったのだろう。四方は石の壁に囲まれているために、ひかりはまったく入ってこない。隠し持っていた短刀も、懐中時計ですらも奪われていたので時を知る手段はなく、けれども日に三度の食事でだいだいは把握できた。

 さすがはムスタールの騎士である。捕虜といえども人間の扱いをしてくれるようで、毎食出されるパンは固くて酸っぱい黒パンでなければ、そこに卵料理も付いてくる。あたたかいスープには形の残った根野菜も入っていて、おまけに水もちゃんと冷えていた。囚人ではなく客人さながらの対応にセルジュはやや驚きつつも、それらをしっかり胃の腑に収める。いざというときに動けなければ、その意味がなくなるからだ。

 ところが、それがぴたりと止まった。二回も食事を抜きにされたらさすがに腹は減るものの、セルジュは冷静だった。つまり、時が来たということだ。セルジュをそこから出したのは、ムスタールの騎士ではない。そこには見覚えのある白髯はくぜんがセルジュを待っていた。

 白髯の騎士は元が無口であるからか、無駄な声を一切しない。セルジュもただ黙って着いていくだけだ。とはいえ、静かすぎる。セルジュは周囲を見渡した。回廊にはすでに明かりが灯っていたが、夜が完全に訪れたわけではない。大台所は忙しくしている頃であるし、なによりも騎士の姿がまったくないのだ。

 セルジュは暗い地下に閉じ込められているあいだにふたつの可能性を思考していたものの、これでは後者に可能性が近くなる。オルグレム将軍が本当に裏切ったのならば――。

 やがて、一室へと通されたセルジュを待っていたのは、老将軍だった。隣にはいつものように禿頭とくとうの騎士もいる。オルグレムは実に堂々としていて、まるでここの城主のようだ。だが、真の城主の姿がないのはなぜか。こたえを求めるべくセルジュは視線を送ったものの、老将軍は首を横に振るだけだ。では、ムスタールの侯爵は逝去せいきょしたのだろう。

オルグレムがどのような手でここを制圧したのかを、セルジュは知らない。

 老将軍にすべてを任せていたからその手段を問わなかったし、セルジュはオルグレムの声を首肯した。要はここの戦力を無効化にすればいい。彼らをそのまま戦力として加えるのは、さすがに無理だったようだが、これも致し方ないというべきか。どんな名軍師でも、人の心までは完全に掌握することなど不可能だからだ。

 侯爵は自ら命を絶ち、抵抗する騎士たちはオルグレムの軍が抑えた。

 主君のあとを追った者も少なくないのかもしれない。命を絶つという行為が許されていないヴァルハルワ教徒があえてそれを選んだのならば、止める者は誰もいない。騎士は生よりも己の矜持を選ぶ生きものだ。いや、騎士だけではない。エルグランの王もまた、尊い身分であるにもかかわらず、降伏を受け入れずにそれを選んだではないか。

 セルジュの口のなかに苦いものが広がってゆく。

 自分たちがしているのは戦争だ。戦争とは勝者がいて敗者が存在する。セルジュは軍師であるから勝つための戦争をするだけだ。慚愧ざんきえないのか。そのこたえは、誰かに教えてもらうまでもない。

「そなたは聖騎士殿の元に戻りなさい。ここは、儂らが引き受けよう」

 後始末は老将軍が負ってくれるらしい。セルジュは老将軍に一揖いちゆうする。伏兵部隊や誘導部隊にしても、本陣が壊滅していれば何の意味もない。間に合うだろうか。なにしろ、いまの主の傍には監視役がいなかった。老将軍の声に従って、一刻も早く公子の元へと行くのが正しい選択だ。それなのに、オルグレムはセルジュを呼び止めて、いま一度声を落とす。それは、忠告というよりも警告のようだった。

「この戦いは、一度負ける」










 天空より放たれた白い光を見たときに、ディアスは己の心が冷えてゆくのを感じた。

 悲歎ひたん憐憫れんびんか。そのどちらでもなかったように思う。けれどもあれは、あのひかりは、たしかに幼なじみの魔力が具現化されたものだった。箱庭の姫君は、またしても自身が望まぬ場所へと立っているのだろう。それこそあるべき場所とは、ほど遠いところで。

「あれはマイアのレオナ王女ですね」

 麾下きかの声にディアスは反応しない。つれない主だと言うように、オスカーは肩をすくめて見せた。

「黒騎士ヘルムートには、運命は味方しなかったようですね」

「まだ、勝敗が決したわけではない」

 オスカーが失笑する。アストレアの聖騎士もマイアの姫君もディアスの幼なじみだ。知っているからこそ、わざと麾下はけしかけている。

 たしかに気にかけてはいる。とはいえ、いまの彼らにとってディアスが味方とは限らない。

 むしろその逆であると、思う。ディアスは己の立場を理解しているし、だからこそムスタール公爵を案じるべきだ。オスカーはそれを言いたいのだろう。

 斥候部隊が戻ってきた。報告をきいてもディアスは相好そうごうを崩さずに、かわりに嘆息したのはオスカーだった。

「出撃なさらないのですか?」

 ディアスは声を落とさない。それこそが、こたえだ。

 ヴァルハルワ教徒が多数を占める黒騎士団は、あの白い光に神の怒りを見た。戦慄せんりつする者に祈りを唱える者に、騎士たちは己が罪を嘆く。叛乱軍はその機を逃さずにこれを突破する。白の王宮の姫君を死の戦場へと引き摺り出したくらいだ。どんな手を使っても、彼らは勝つための戦争をする。

「たしか、ムスタール公爵は公子の教官でしたね」

「それが何だ?」

「いえ、兄君も酷なことをなさいます」

 オスカー・パウエルはディアスよりふたつ上で、かつてディアスの守り役だった騎士の息子だ。

 公爵家に近しい人間ならば複雑な事情も知っているはずだし、ディアスの性格をよく知っている。そうだ。いまのランツェスの立場は実に危うい。北のルドラスと交わした密約は、兄ホルストが勝手に起こしたものだったとしても、白の王宮はこれを裏切りだと見做みなす。なによりもアナクレオンという人間を騙せない。

 だからこそ、わからなくなる。あのとき、ディアスはたしかに見たのだ。王の目はひかりを失ってはいなかった。試されているのだろうか。そして、王の声だったのか。

「なぜ、引き受けたのです?」

 現実主義のくせに、麾下はときどきこうした声をする。

 王命は叛乱軍の討伐であり、白の王宮は聖騎士の首を求めている。だが、ランツェスは動かない。となれば、窮地に立たされるのはムスタール公爵だ。ヘルムートという騎士が赤の他人だったならば、このまま見捨てたとしても心は何も感じなくて済む。同情のつもりだろうか。いや、そうではない。オスカーはディアスに教唆きょうさしている。

「王命だ。兄上は拒否したが、父上が許さなかった」

「あなたも、公には逆らえませんか?」

「お前は俺に何を期待する? ランツェスをアストレアやルダのようにしたいのか?」

「いいえ、その逆です。そのように思い悩まれるのでしたら、あなたが爵位を継げばいい」

 唐突に、それも遠慮のない物言いはこれが最初ではなかった。麾下はいつだってそうだ。ディアスはひとつ息を吐いた。あまりにも馬鹿馬鹿しく、反論をするのも無駄なくらいだった。

「ああ、それは困ります。あなたが、ホルスト殿のように扱いやすい人間であれば、別でしょうけどねえ」

 声には気をつけていたはずだが、しかしいくらか感情が高ぶっていたのかもしれない。ディアスとオスカーの会話に割り込んできたのは、ルドラスの使者だ。

「そんなにこわい顔をしなくてもいいのですよ? 兄君には内緒にしてあげます」

 男は人差し指を唇に当てる。白皙の肌に、白金の髪と薄藍の瞳。その容貌から白皙の聖職者と呼ばれる男を、ディアスの傍に置いたのは兄だ。

「私はたしかに監視役ですが、あなたが思うようになさい。ここだけの話、ルドラスはどちらでもいいのです」

「ワイト家はいつからイレスダートではなく、ルドラスの犬になった?」

「とうに消えた家の名です。でもね、そんな可哀想な捨て犬を拾ってくれたのが、ルドラスの覇王なのです。この意味がわかりますよね? 賢い弟君ならば」

 エセルバート・フォン・ワイト。それが、この男の名前だ。いや、だったと過去形にするべきか。敬虔なヴァルハルワ教徒の名家であり、イレスダートでも有数の貴族は没落した。数年前のはなしだ。ワイト家は四散し、エセルバートも姿を消した。そのはず、だった。

「それにしても、ずいぶんと派手な演出をするものです。レオナはやさしい娘でしたのに、ねえ? あなたも苦しい立場にある。ええ、お察しいたしますよ。ですから私は、このままあなたが軍を動かさなくとも、見逃してあげます」

 饒舌な聖職者だ。いや、これもかつてのと言うべきか。落ちた聖者は艶麗えんれいな笑みをする。

「あなたには同情しているのですよ。だから、ここだけの話をしましょう。本当はね、共倒れになってくれるのが一番良い。ええ、そうです。ランツェスはこのまま動かずとも、いずれこの内乱は収まりますとも」

 エセルバートがそう言い終えると、麾下はディアスの前に立った。嫌悪、いや厭悪えんおと言ってもいいほどに、白皙の聖職者を睨みつけている。殺気を隠すつもりもないらしい。しかし、エセルバートは笑みを止めなかった。

 ディアスは目顔でオスカーを諫める。麾下はルドラスの使者を斬り殺す勢いだ。それだけは、できない。この男を殺すのは、ウルスラを殺すとおなじ意味だ。

「そうそう。もうすこし南へと入れば、そこはベルク将軍の管轄だとか。ずいぶんと若い騎士らしいですが、あなたもお知り合いなのでは? 彼は、どう出るのでしょうねえ? 止めるなら、いまのうちですよ」

「俺には関係がない」

 ディアスには覚えのない名だ。幼なじみならば、と。考えたところで止めた。ランツェスが傍観者であるかぎり、何もできない。そう決めたのはディアス自身だ。

 白皙の聖職者は会話に飽きたらしく、去って行った。オスカーが無遠慮なため息を吐く。

「父上はたしかに老いたが、判断力は鈍ってはいない。それに、嫡子はあの人がいる」

 実の兄を他人みたいに呼ぶのは、いつからだろう。望まぬ方へと流されてはならない。ディアスは戒めのために、あえて声にする。

「この話は、二度とするな」

 麾下の三度目の嘆息がきこえた。

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