一章
古びたアパートが所狭しと立ち並ぶ細い路地を、一人の
日当たりの悪いアパートの、さらに日陰となる階段のそばにうずくまるようにして座っていた少年が、ふと顔を上げて眼前を通る男を見上げた。
暗くよどんだような瞳で男を見ていた少年だったが、やがて口元をゆがめるようにして笑った。小さく手を挙げ、少し離れた場所にいた仲間たちへと合図を送る。わらわらと集まってきた仲間たちに短く声をかけると、少年は何かを探し歩く男のあとを一定の距離を保って追いかけた。
一方、少年たちにまったく気づかぬ様子で歩いていた男だったが、不意に小走りに駆け出した。あるアパートの一室の前で立ち止まると、手にした紙片とアパートの壁に書かれた住所とを何度も見比べる。
少年たちの間に緊張が走った。物陰から男の様子を窺い、飛び出すタイミングを計る。
男がうなずき、扉を叩こうと右手を挙げたその時――。
「何か、用ですか?」
張り詰めた緊張を打ち破り、女の声が響いた。弾かれたように男がそちらへと振り返る。
いつの間に現れたのだろうか、男がやって来たのとは反対側の路地に一人の若い娘が立っていた。人形のような感情の窺えない瞳で、じっと男を見つめている。
娘に気づくや否や、蜘蛛の子を散らすように少年たちが逃げていく。それを視界の端に捉えながら、娘が口を開いた。
「もう一度聞きます。こんなスラム街に何の用です? このあたりは特に
そう告げられるも、男は
まったく反応を示さない男を
「……聞いていますか?」
重ねて問われ、男はハッと我に返ったように何度もまばたきした。娘から目をそらし、おずおずと口を開く。
「……あの、ここに腕のいい何でも屋が住んでいると聞いたんです。それが【鮮赤のメシア】ではないかというウワサもあったので、依頼に……」
「【鮮赤のメシア】ですか。たしか、十四歳でライセンスを取得し、十五歳で特級に昇格したという凄腕の討伐士――でしたか」
男の言葉に、娘は深々とため息をついた。
「そんな話、いったいどこで聞かれたのです?」
吐息と共にこぼされた小さなつぶやきを拾い、男が顔を輝かせた。
「では、やはり……!」
口を開きかけた男を遮るように娘が言葉を続ける。
「ですが、あなたのご期待には沿えないかと思います」
「……どういう、意味です?」
「言葉通りです。たしかにこのあたりには何でも屋を生業とする者が多く住んでいますけれど、【鮮赤のメシア】は流石に言いすぎでしょう」
そもそも、【鮮赤のメシア】は死んだという話ではないですか。そう告げた娘に、男は顔を伏せた。拳を握りしめ、つぶやきを漏らす。
「それは、そうですが……でも……」
「そんなウワサに頼らざるをえないような何かが起こったと?」
娘の問いかけに、男は小さくうなずいた。
「異形が、現れたのです。協会の討伐士でも太刀打ちできないほどの……」
「失礼ですが、なぜ討伐士協会では手に負えないと判断なさったのです? 仮にも彼らは異形退治の専門家。もう少し信じてみてもよいのではありませんか?」
娘の問いに、男はためらうように視線をさまよわせた。何か言いかけ、けれども結局口をつぐむ。
「協会が途中で依頼を放棄するようなことはありません。討伐士の派遣が遅いというのが理由であれば、派遣先が遠方で時間がかかっているだけだと思いますよ」
安心させるように娘はそう言って微笑んだが、男は首を横に振った。眉を寄せてつぶやく。
「もう三回失敗してるんです。これ以上、討伐士を派遣してくれるとはとても思えなくて……」
男が告げた内容に、娘が驚いたように目を見開いた。――三度の失敗。声に出さずにそうつぶやく。
「
「ミロディですが……。あの、それが何か?」
唐突な問いかけに、きょとんとした様子で男が答えた。
「鉱山都市ミロディ、ですね?」
念を押すように繰り返された問いに男がうなずく。それを見て、娘は険しい顔つきで口元にゆるく握った拳を寄せた。
娘は考え込む様子で微動だにしなかったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「依頼の内容は異形退治、でしょうか?」
「え、ええ……そうなります」
「その依頼、わたしに任せてみる気はありませんか?」
「……貴方に?」
意外そうな表情を浮かべて問い返す男に、娘がうなずく。
「ええ、そうです。わたしはディー、何でも屋をしています」
協会から討伐士が派遣される保証はないのでしょう?
まっすぐにディーを見据え、彼は小さくうなずいた。
「貴方に、退治を依頼します。どうか私たちを……ミロディを救ってください」
震える声での嘆願に、ディーは笑みを浮かべてうなずいた。
「契約成立、ですね」
◆
場所を変える、そう言ってディーが向かったのは奥まった場所にある通りだった。寂れたその場にはそぐわない裕福そうな
「彼らと目を合わせないように。何かしてくるとは思いませんが、
おどおどと落ち着かない様子で周囲に目を向ける男に向かい、ディーが注意する。
「何かあっても責任は取れませんよ」
脅すかのように付け加えられたその言葉に、男は慌てて視線をディーの背中へと向けた。空いた距離を埋めるため、足を速める。
男がちゃんと自分のうしろをついてきているのを横目で確認すると、ディーは角を曲がった。暗がりに隠されるように設置された階段を迷いのない足取りで降りていく。
終点にある朽ちかけた扉を開けると、外観から受ける印象とは裏腹に軽やかなベルの音が響いた。中は控えめに明かりが
「あら、いらっしゃい、ディー。ここに来るなんて珍しいわね?」
奥にあるカウンターから顔を出したエプロン姿の女が、ディーの姿を認めて笑みを浮かべる。
「こんにちは、マスター。こちらの方の依頼を請けることになったので、その立ち合いをお願いしたいのですが」
マスターと呼ばれた女はディーのうしろに立つ男を見やり、わずかに目を細めた。
「わざわざ来たということは、危ない橋を渡るということかしら?」
くすくすと楽しげに笑いながら問いかけた女に、そうなりますとディーはうなずく。その言葉に声を上げて笑うと、女は奥へと姿を消した。
それを見送ると、ディーは手近なテーブルに近寄って男の方を振り返った。どうぞ、とイスを示す。男が腰を下ろしたのを確認すると、自分も向かいの席に座る。
「あの、ここは一体……?」
きょろきょろと落ち着きなく周囲に目を向けながら男が問いかける。
「このあたりの何でも屋の窓口とでも言えばいいでしょうか。正式な契約を交わす際は、マスターの立ち合いをお願いすることとなっています」
「あら、別にいちいちアタシにお伺いを立てる必要なんてないのよ?」
笑みを含んだ声でそう言いながら、女がコーヒーの入ったカップをそれぞれの前に置いた。紙とペン、インク壺もテーブルの上に並べると、ディーの隣へと腰かける。
「アタシは確かに元締めって呼ばれてるけど、別にアタシを通さないと契約できないってわけじゃないんだもの」
トレイを膝の上に置き、くすくすと女が笑う。
「――まあ、場合によりけりだけれどもね?」
そう言って、男とディーとを見比べた。
「厄介ごとって言ったわね。具体的にどういう内容なのかしら?」
「異形の討伐です」
何でもないことのように告げたディーに、女の顔が険しくなった。確認するように視線を向けられた男が慌ててうなずく。
「詳細を」
先ほどまでのふわふわとした雰囲気を一変させ、女が厳しい声音で問いかけた。その真剣な様子に、男は居住まいを正して口を開く。
「私は鉱山都市ミロディから来ました、ダニエル・レングナーと申します。ミロディの市長を務めております」
そう言って頭を下げた男にディーも会釈を返し、もう一度名乗った。
「ディーです。今は何でも屋ですが、以前は討伐士をしていました」
服のポケットを探って拳ほどの大きさのメダルを取り出したディーは、それをテーブルの上に置いた。正面がダニエルの方を向くようにして前へと押しやる。
鈍い輝きを放つメダルの表面には、楯と剣を
「ですが、協会へはもう何年も顔を出していませんので、除籍処分となっている可能性もあります」
メダルを元のようにポケットへとしまいながら、それに、とディーは付け加える。
「今回の依頼は討伐士協会を介すつもりはありません。そのことをご了承いただけますか?」
挑むような、試すような目つきでディーがダニエルを見据える。その眼差しに、彼はわずかに戸惑う様子を見せた。
【異形】というのは、一般的なものとは見目の異なる生き物の総称である。動物のみならず、植物もこれに含まれる。攻撃性が非常に高く、人間に害をなす存在として広く認知されていた。
その異形を退治する専門家が【討伐士】である。難関と言われる試験を突破してライセンスを得なければ、その職に就くことはできない。ライセンス保持者が討伐士として仕事を請け負うためには【討伐士協会】に所属する義務があり、異形退治の依頼は協会を通してのみ受理されていた。
「個人間で取り交わされる討伐依頼となります。協会の知るところとなれば、そちらも何かしらのペナルティを課されるでしょう。それでもよければ、この依頼を引き受けます」
ためらいを見透かすようなディーの言葉に、ダニエルは拳を握った。ぎゅっと目を閉じ、息を吸い込む。
ややあって目を開くと、彼は小さくうなずきで返した。
「……かまいません。我々には、もうほかに方法がないのですから」
ダニエルの言葉を聞き、ディーは女へと視線を向けた。それを受け止めて女がうなずく。
「当人同士が納得しているのなら、アタシが口を挟む理由はないわ」
その言葉に、ディーもまた小さくうなずく。
「わかりました。では、詳しい話をお願いします」
もう、二か月以上前のことになります。そう言って、ダニエルは語り始めた。
発端は市民が姿を消したことだった。最初は鉱員が、その次は少年。
ミロディは大きいとはいえ田舎である。あるものと言えば鉱山くらいのものであり、その鉱山での仕事は重労働だ。鉱員の夜逃げや、若者が家出同然に都会へと出ていくことは、さして珍しいことではなかった。だから、これもそういったことの一つなのだと街の誰もが考えていた。
けれど、その後も姿を消す者は後を絶たなかった。若者や鉱員のみならず、様々な年齢や性別の者がある日
そうして、最初の行方不明者である鉱員の捜索願いが出されてから二週間ほどが経過したある日に、行方不明となった者たちの衣服や大量の血痕が旧坑道内部で発見されたのである。
「……衣服と、血痕のみ? それ以外は何も見つからなかったと? 死体や、異形に喰われたような残骸すらも?」
それまで黙って話を聞いていたディーが不意に口を挟んだ。ダニエルが神妙な面持ちでそれにうなずく。
「そのように聞いています。異形の仕業ではないかということで旧坑道は封鎖することとなり、討伐士協会に調査をお願いしました。幸いなことにミロディには協会の支部がありましたので、その日のうちに調査隊が旧坑道に入りました」
しかし、調査隊は壊滅に近い状態で帰還した。どうにか生還した者の話を元に討伐隊が組織されて旧坑道へと向かったが、今度は誰一人として帰ってくることはなかった。その後、協会本部からも討伐隊が派遣されたものの、やはり旧坑道から帰還する者はいなかったという。
「行方不明になった市民も見つからないままです。討伐士協会が動いてくれない以上、私がどうにかするしかないと思って、それで……」
ダニエルの言葉に、ディーは難しい顔で口元に握った拳を寄せた。
「本部が介入している以上、その異形が手配異形に指定されたと考えてまず間違いはないでしょう。協会としても、下手に動けば自分たちの首を絞めることとなりますからね。どうしても慎重な対応となります」
討伐士が討ち漏らしたり、特に被害報告の多い異形は手配書が作られる。こうなると、二級以下の討伐士では、たとえ問題の異形と遭遇したとしても交戦を禁じられるのだ。
討伐士には個々の実力に応じてランクが設定されている。一番上が特級、以下一級、二級、三級、見習いと下がっていく。
被害軽減のための措置とは言え、半数以上の討伐士の行動が制限されることとなる。その結果身動きが取れなくなるというのは、ある意味当然の帰結だが本末転倒も
「……あの。依頼は請けていただけるのでしょうか……?」
すがるようなダニエルの問いかけに、ディーはゆっくりとうなずいた。
「ええ、依頼はお引き受けします。その異形はわたしが討伐しましょう」
断言したディーに、安堵したようにダニエルが息を吐きだす。
険しい顔つきのまま、ディーは女へと視線を向けた。
「マスター、今の内容で契約書を」
「はい、了解。それと留守にしている間、アパートはどうする? 確保しておいた方がいいかしら?」
女の問いかけに、ディーは考え込むように目を伏せ、わずかに首を傾げた。ややあって顔を上げる。
「そうですね、家賃を三か月分先払いしておきます。もしそれ以上経っても戻らないようであれば、荷物ごと処分していただいてかまいませんので」
「わかったわ。では、そのように」
うなずくと女は紙の上にペンを走らせた。討伐依頼に関する契約書を二部作成し、ディーとダニエルの前にそれぞれ一枚ずつ置く。
「ミロディにおける異形討伐を、ここにいるディーが請け負うという内容の契約書です。確認して、問題がなければ両者サインを」
女の言葉を受けて紙面に視線を落とすと、ディーは迷いなくペンを走らせた。男もまた書面を確認し、考え込むようにわずかに首を傾げたあとペンを手に取る。それぞれ自分の前にある契約書に署名をすると、もう一枚にも同じように署名した。
男が署名を終えたのを見ると、ディーは契約書を二枚重ねて女へと差し出した。それを受け取り、確認するように女が書面に視線を落とす。
「はい、確かに。これで契約は完了しました」
顔を上げてにっこりと微笑んだ女は契約書の一枚をダニエルに手渡すと、もう一枚を手にしたままカウンターの方へと向かった。
「ダニエルさん、宿はどちらに?」
「……え? あ、中央通りの……歌う雄鶏亭というところに」
ディーの問いかけに、ダニエルは一瞬惚けたようにまばたきをしたあと、慌ててそう答えた。
「では、そちらまでお送りします。出発は明日の朝。始発列車に乗りますので、そのつもりで準備をお願いします」
「わ、わかりました。待ち合わせは駅でしょうか?」
「いえ、宿までわたしが迎えに行きます」
言葉を交わしながらダニエルを促し、酒場の出入り口へと向かう。扉をくぐる前にカウンターにいる女の方へと視線を向けると、ディーは小さく頭を下げた。
中央通りにある宿屋へと無事にダニエルを送り届けたあと、夕闇に包まれた通りを歩いていたディーはふと足を止めた。
「仮に相手が手配異形だとしても、あまりにも動きがなさすぎる……いったい、どうするつもりでいるのです?」
このまま見過ごすつもりはないのでしょう? 遠くミロディのある方角を見つめ、ディーは小さくつぶやいた。
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