ただ待つことしかできず
リーチェ
1928年 9月5日 夕暮れのフィウメを見下ろす丘にて
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アズダーヤ隊との決戦から三日。リーチェは、ヒポクラテス医師の家に留まり続けていた。重傷を負ったブランカの容体は決して楽観できるものではなく、今はヴァレリアナに任せるしかない。竜医ではないリーチェにできることは限られており、かと言ってブランカの側を離れる気にもなれず、アズダーヤ隊の討伐という目標を達成した気怠さに包まれながら海を眺める時間が増えた。
「おねえさまー、ご飯できたよー!」
エプロン姿のジニーが勝手口から顔を出し、ぶんぶんと手を振っている。軽く手を振り返してそちらへ向かおうとしたところで、一陣の風が吹き抜ける。まだ秋だが、夕刻の風は肌寒い。できることならブランカを天幕しか用意できないここからアレーニア家の竜巣へ移してやりたいところではあるが、飛ぶことはおろか歩くことも覚束ない状態ではどうしようもない。
キッチンとダイニングを兼ねた部屋に入ると、食卓にはヒポクラテス医師やヴァレリアナ、アレッサンドロといった面々に加え、ラフな格好にくつろいだ様子で歓談を交わすフェラーリンの姿があった。
「やあ、フェラーリン。元気そうだね」
「リーチェか。おかげさまで、ようやく書類の山から解放されたよ」
「領空侵犯の件は大丈夫だったわけ?」
フィウメで待ち伏せるはずだったフェラーリンが、誘導の途中で窮地に陥ったリーチェとブランカを助けてくれた件だ。民間人であるリーチェとブランカはともかく、イタリア空軍に所属するフェラーリンがユーゴスラヴィア王国の領空を飛び、あまつさえ空戦までやらかしたとなると、外交問題になってもおかしくない。しかし、当の本人は肩をすくめて言うのだった。
「イタリア空軍機はユーゴスラヴィア王国の領空を侵犯しなかった。だから領空侵犯の罪で営倉入りになるパイロットもいない。つまり、そういうことだ」
「公式には罪に問えないから、缶詰で書類仕事させられてたってわけ?」
「言うなよ。とにかく、お前が無事でよかった」
「うん……ありがとう。今日はたくさん食べていきなよ」
なにげなく言った言葉だったが、フェラーリンは露骨に顔色を曇らせる。そして言うべきかどうか迷うような素振りを見せてから、はっきりと言葉にする。
「……それはお前もだ、リーチェ。まともに食べてないんだろう?」
「そんなことないさ。ちゃんと食べてるよ」
「戦友が墜ちたときこそ、飯を食って休息を取れ。忘れてはいないな?」
「もちろんだよ、フェラーリン。その言葉はぼくが君に教えたんじゃないか」
「……そうだったな」
引き下がるフェラーリンに、ほっとした気分になる。嘘は言わずに済んだからだ。実のところ、食事は摂っているがあまり眠れていない。ここ数日、ブランカの鳴き声が聞こえたような気がして夜中に飛び起きては会いに行ったり、ブランカが息を引き取る悪夢を見てうなされた末に眠れなくなったりを何度も繰り返していた。
「さあ、料理が冷める前にいただこうじゃないか」
手を打ち鳴らし、おどけた口調で空気を変えてくれたのは、ヒポクラテス医師だった。六人が揃って食卓に着き、各々が食前酒として好みのリキュールを注いだショットグラスを手にしたのを確認すると、集まった一同をぐるりと見渡し、満足げにうなずいてから口を開く。
「さて、まずはこのささやかな祝勝会に集まってくれたことに感謝しよう。紺碧のアドリア海における航海と飛行の自由を脅かしてきた空賊一味は、ここにいるベアトリーチェ君とフェラーリン君、そして気高き白竜ブランカ君によって見事に討伐された。我らの愛する海に平和は取り戻されたのだ。海港都市フィウメの市民として、アズダーヤ隊の犠牲になった人々に哀悼の意を表し、空の騎士たちの健闘を称えることで挨拶に代えさせていただくよ」
ふとフェラーリンに目をやると、どこか遠いところを見ているような目をしていた。責任感の強い彼のことだから、アズダーヤ隊に墜とされた仲間のことを想っているのだろう。敵を墜とした喜びよりも、それまでに墜とされた仲間を救えなかったと考えてしまうのは、彼のいいところであり、悪いところでもある。
「では、乾杯はクロアチア風でいくとしようか。みな、わしに続いてくれたまえ」
ラキヤと呼ばれる杏子と蜂蜜を漬け込んだ蒸留酒からは、食卓に並んだ料理にも負けない華やかな香りが立ち昇ってくる。
「グラスは持ったかね? 乾杯の言葉はこうだ……ナズドラヴィエ!」
「ナズドラヴィエ!」
ショットグラスを満たす透明な液体を、一気に喉へ流し込む。度数は高いが、甘酸っぱく滑らかな舌触りでするりと呑めてしまう。鼻に抜ける爽やかな匂いが食欲を刺激し、空腹を思い出させてくれた。
「おねえさま、スープはわたしが作ったんだよ。飲んでみて?」
「新鮮な食材をダメにしてやいないか? お前はいつも火を通し過ぎるんだ」
「もー、おじいちゃんは黙ってて! 大丈夫ですー!」
「ん……おいしいよ、ジニー」
「でしょ?」
ブイヤベース風のスープはお世辞を抜きにしても旨かった。丁寧に下処理したエビや貝がごろっと入った、豪快な見た目と繊細な味わいを両立させたスープだった。
「数日の付き合いだが、ジニー嬢はこういう大鍋料理が実に上手い。察するに複数の料理を並行して進めるのが苦手なのではないかね? その分、大勢に振る舞うためのこうした煮込み料理は大の得意というわけだ」
「そうなんです! すごい、なんでわかるんですか?」
「ふふふ、長きに渡る人間観察、そして料理の研鑽に励んできた賜物だよ。うむ、ひとつのことに没頭して周りが見えなくなるのは、ジニー嬢のような技術者に多いタイプだ。こういうタイプは無理に並行して作業を進めるのではなく、メインの一品に集中して、残りは予め作り置きしたもので固めるといいんだ。あとでいくつか秘伝のレシピを教えてあげようではないか」
「わあ、うれしい!」
料理の話題で盛り上がるジニーとヒポクラテス医師、のけ者にされて機嫌を損ねつつも平静を保とうとしているアレッサンドロを横目に、フォークで突き刺したパプリカの肉詰めを口に運ぶフェラーリンに声をかけた。
「フェラーリン、いいかな」
「アズダーヤ隊のことだな?」
すぐに察したフェラーリンに黙ってうなずき返し、彼が口を開くのを待つ。
「ユーゴスラヴィア王国各地に放っている協力者から上がってくる情報をまとめた結果、アズダーヤ隊は実質的に壊滅状態だと推測される。基地周辺に潜んでいたと思われる整備士などの地上要員には手が出せんが、航空戦力がほぼ全滅し、組織的な空賊行為の継続はもはや不可能だろう」
「こっちはブランカにかかりきりで情報が入ってきてないんだけど、味方の被害は? それと、墜落した機体のパイロットはどうなったの?」
「味方の被害はゼロだ。墜落した敵機体が海岸の倉庫に突っ込んで、ボヤ騒ぎがあったくらいか。水上に不時着した二機のパイロットは捕縛に成功し、ここ数年に渡って各地で起きていた墜落や行方不明の事件に関して尋問している」
「墜落したエース機はどうなったの?」
「うむ、海上で待機していた艦艇が駆け付けたときにはゴットフリート・フォン・バンフィールドの姿はなかったそうだ。海に沈んだのか逃亡したのかは現在のところ不明。もし生きて逃亡していたとするなら、軍の責任だ。すまない」
「ん……まあ、殺したかったわけじゃないから、いいけど」
フェラーリンが撃墜したあのとき、パイロットは脱出する間もなく海面に叩きつけられたはずだ。重い飛行服こそ着ていなかっただろうが、ベルトを外し、義足で泳ぎ、海面を捜索するイタリア海軍の目を掻い潜ったとは考え辛い。着水の衝撃で機体から投げ出され、そのまま海へ沈んだのだろう。
「ブランカとズメイの戦闘についても、海上から見ていた者の証言がある。痛々しい話になるが、どうしても聞きたいか?」
「聞かせて。ブランカがどう戦ったのか、ぼくには知る義務がある」
「俺とお前でエース機を、部下の三機がそれぞれ一機ずつ、ブランカがズメイを相手取ったところまでは把握しているな? ブランカは一撃離脱に徹する形で優位に戦いを進め、ズメイはそれをかわすのでやっとの様子だったという」
リーチェが教えた通りの戦術だった。結果的には一番長くかかってしまったものの、本来は二対一で早期に決着をつけたリーチェとフェラーリンが、残り二つの戦いを支援する作戦だったのだ。フェラーリンが続ける。
「幾度とない交錯を経て、ズメイは矛先を変えた。俺の部下が乗る一機を目掛けて急降下をかけたらしい。それがフェイクだったのかどうか、今となってはわからないが……ブランカは、一対一のドッグファイトに集中してズメイの攻撃に気付かない俺の部下を救おうとしたそうだ。そこを、ズメイに捉えられた」
「ブランカが……」
「ズメイに組み付かれたブランカは振りほどこうとしたが、ズメイは翼を切り裂かれつつも激しく抵抗し、二頭はもつれあうように落下していった。その後のことは、ここにいる皆さんの方が詳しいだろう」
「地面に激突する寸前でズメイを引き剥がすことに成功するも、態勢が悪くて引き上げが間に合わず、二頭とも墜落。それでも戦いを諦めなかったズメイと地上での戦いを繰り広げたって聞いてる。逃げるズメイには誰も手出しできず、丘まで辿り着いたブランカはおばあさまの手当てを受けて一命を取り止めたんだ」
「ブランカの容体はそんなにも悪いのですか、ヴァレリアナさま?」
フェラーリンが話を振ると、ヒポクラテス医師と竜医学の話題で盛り上がっていたヴァレリアナは、ロールキャベツにナイフを入れる手を止めて、言った。
「ええ、そうね。いい機会だから言っておこうかしら。リーチェ、貴方、しばらくの間、ブランカから離れて過ごしなさいな。そうね、一年くらいかしら」
「な……どうしてですか、おばあさま!」
「患者のためにならないからに、決まっているでしょう? もっとも、あの子を二度と飛べない身体にしたいのなら、話は別だけれど」
「順を追って説明して下さいますか、ヴァレリアナさま」
思わず椅子を蹴って立ち上がりかけたリーチェを、フェラーリンの声が冷静に引き戻してくれた。かけ直して、ヴァレリアナの次の言葉を待つ。
「まず患者の容体についてだけれど、右翼上腕骨の骨折一か所、左翼尺骨およびとう骨の骨折がそれぞれ一か所、翼膜の断裂多数、胴体部に内臓まで達する裂傷が一か所、肋骨も五本ばかり折れて、一本は肺に突き刺さっていたわ。加えて、負傷したまま激しく運動したために出血が酷かったの。輸血もできないから、肺に突き刺さった骨を抜いて、傷を縫合したら、あとは竜の治癒力に任せるしかないわね」
「回復の見込みはあるのですか? 部下の命を救ってもらった恩返しもできないままでは、あまりに惨い……」
「そうね、竜医として全力を尽くすわ。けれど、決して楽観しないでちょうだい。それに、仮に飛べるようになったとしても、今までのように飛ぶのは不可能よ。わたくしの言っていることが理解できるかしら、リーチェ。貴方と一緒に賞金稼ぎとして飛ぶのはもう無理だと、わたくしは言っているのですよ」
「……はい、おばあさま」
「理解できたら、しばらくブランカの側を離れなさいな」
「……なぜですか? ブランカが辛いとき、ぼくがどこかに行くわけには」
「これはわたくしの予想なのだけれど、あの子はリーチェの側にいたら、治り切らないうちから無理に飛ぼうとして、翼をダメにしてしまうわ。いいえ、それだけで済めばまだいい方かしら。ねえリーチェ、貴方はあの子をどうしたいのかしら?」
「……わかりません」
「なら考えなさいな。それにね、リーチェ。脅すわけではないけれど、ブランカはこのまま衰弱死する可能性だってあるのよ。そのことは考えたかしら?」
「……いいえ」
「わたくしは怒っているのですよ、ベアトリーチェ。貴方がこの三日間にしたことと言えば、自分とブランカを憐れむだけ。心に竜を棲まわせ、身は竜と共にありしアレーニア家の人間としての覚悟と矜持はどこへやったのですか?」
「…………ぼくは」
気まずい沈黙を切り裂いたのは、けたたましく鳴り響くベルの音だった。成り行きを見守っていたヒポクラテス医師が、落ち着き払って席を立つ。
「急患の電話かな? 失礼、わしは外させてもらうよ」
会話が途切れ、沈黙が立ちこめる中、ほどなくしてヒポクラテス医師が戻ってくる。彼の口から発されたのは、思ってもみない人物の名前だった。
「リーチェ君。きみのお父様、レオーネ・アレーニア氏から電話のようだよ」
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