きみの翼に

ブランカ

1928年 8月1日 コモ湖畔にて

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 新型機の試験飛行をするリーチェの上空に影が差した瞬間、ブランカは地を蹴って空へと舞い上がっていた。あのように危険な接近をする飛行機が友好的な相手であるはずもなく、なによりその飛行機の青灰色の塗装はリーチェが怪我をする原因となったあの竜に酷似していた。戦闘機はリーチェの上空やや前方から急降下、掃射を浴びせてから急旋回してリーチェの後方に占位する。


 あのような飛行機になど乗るから。


 リーチェの乗る飛行艇は、艇体の上部に翼とエンジンを配置してあるために操縦席からの前上方の視界が極端に悪い。彼女が直前まで敵襲に気付かず、みすみす先制攻撃を許したのもそのせいに違いなかった。彼女が自分に乗っていれば、そのようなことは起きなかったはずなのだ。


 リーチェが自分の背に在れば、敵に引けを取ることなどないのに。


 ぎりぎりと歯を噛み締め、ブランカは飛ぶ。一か月半ぶりの全力飛行だが、翼に痛みや違和感はなかった。ヴァレリアナからはまだ空戦をするなと言われているが、もしここでリーチェが墜とされ、彼女を失ったのなら、それはブランカにとって自らが空に在る理由を失うに等しい。


「聞いて、ブランカ……!」


 湖岸からかけられた声に、ブランカは視線を送る。両手を口に当てて声を限りに呼びかけるヴィルジニアは、ブランカが自分に気付いたと見るや、リーチェのいる方向とは別の山を指差して、すうっと息を吸って、声の限りに叫ぶ。


「おねえさまはきっと、街から離れようとする! だから、先回りして!」


 リーチェを助けに行くな、と言っているに等しいヴィルジニアの言葉を、無視したい衝動に駆られる。しかし、リーチェならきっと彼女の言葉を冷静に吟味し、この状況において最適な判断を下すだろうという思考が、気付けばブランカをその場に留まらせていた。ヴィルジニアの言葉は続く。


「今のおねえさまが全速で飛んだら、いくら貴方でも追い付くには時間がかかる! だからわたしの言うことを聞いて、お願いブランカ……!」


 一度の旋回にかかるたった数秒が、酷く長く、そして短くも感じられる。今までなら、リーチェが結論を下すのをただ待っていればよかった時間。早く命令をくれればいいのにと思うだけだった時間が、自ら判断を下さねばならない重圧と焦燥へと変わってブランカにのしかかる。


「お願い、おねえさまを……!」


 迷うブランカに、ヴィルジニアの声は懇願の色さえ帯び始める。リーチェは湖の反対側で敵機の攻撃をかわし、なんとか上昇に転じている。ブランカがどう動くのが、彼女にとっての最適な行動なのか。試験飛行が始まる前の、リーチェとの会話がブランカの中で思い返される。


『……ねえ、言うこと聞いてよ、ブランカ。アズダーヤ隊が前みたいな連携と待ち伏せを仕掛けてくるなら、こっちも相応の対策をしないといけないのは分かるだろう? そのためには、ぼくが飛行機に乗って、連携しながら戦う必要があるんだ』


 ブランカの首を抱いて、リーチェが言う。


『……ぼくと一緒に飛べないのはいや? うん、ぼくもそうだよ。ずっと一緒に飛んできたからね。正直言って、きみと一緒に飛べないのは辛いし、怖い。けど、忘れないで。離れていても、ぼくたちはいつも一緒に飛んでるんだ』


 青灰色の戦闘機と正対し、反撃に転じたリーチェがいま考えていること。それは、街や市民に被害を及ぼさないことだ。なら、彼女がブランカに望むことはなにか。それはブランカに助けてもらうことではなく、協力して敵を墜とすこと。


『きみはぼくの翼だ、ブランカ。きっと一緒に飛んでくれると信じてる。頼むよ』


 彼女の翼たるブランカがいま成すべきこと。頭ではわかっているそれが実行に移せない理由、それはリーチェと離れて自分だけで飛ぶことへの恐怖、彼女に置いて行かれることへの恐怖なのだという自覚が、ふいに訪れる。


 ほんとうに大事なのは、彼女と共に空を飛び続けること。


 自らの怯懦を噛み締め、覚悟を決める。青灰色の戦闘機には、一対一だと思わせておけばいい。やつがリーチェを狙って照準を覗きこんだ瞬間を捉え、意趣返しも兼ねた一撃を叩きこもうと腹を決める。すぐさま翼を翻し、すでに山岳地帯へ向かいつつあるリーチェと並行する針路を取った。


 速い。自分でも容易には追いつけない。


 その現実を認めねばならない。アレッサンドロとヴィルジニアが仕立て上げた紅の飛行艇は、ブランカに比肩する速度を出せるのだ。それを追う青灰色の敵機もまた、同等の速度性能を持っている。竜が飛行機を速度で圧倒する時代、その終焉を意味する空戦が、いまブランカの目の前で繰り広げられていた。時代の変化が、リーチェとの関係をも変えようとしている。


 だが、捉えられる。


 インメルマンターンで反転したリーチェに青灰色の敵機が突っ込み、バレルロールで回避に入れつつすれ違う。位置を入れ替えるようにして両機がターン、再び正面から向かい合う。互いに無駄弾を撃つ愚は犯さず、大馬力の推力に頼り切ることもなく、速度と高度を保って攻撃の機を窺っている。


 やつが、アズダーヤ隊のエース。


 速度ではアズダーヤ隊のエースが操る青灰色の戦闘機が、旋回性能ではリーチェの駆る紅の飛行艇が上だった。機体性能はどちらとも優劣つけがたく、操縦士の腕前も互角。相手の速度を殺し、自らの銃口の先に敵機が鼻先を突っこむよう巧みに誘導する。天才的なセンスに支えられた複雑で滑らかな機動は、見守る者がいたならば優雅な印象すら与えることだろう。


 まだだ。


 相手にとっては敵地の上空であり、万が一にも撃墜されるのは避けたいはず。隆起した機首から激しくバックファイアの炎を吐き出す攻撃的な姿とは裏腹に、容易にはリーチェの誘いに乗ろうとしない冷静さを鑑みると、ブランカが介入して二対一になった時点で撤退を決める確率が高い。


 確実に、一撃で仕留める。


 そのためには、リーチェが敵機の速度を削り落とすのをもう少し待たねばならない。太陽に隠れる位置で機を伺っていたブランカがそう判断して、再び緩旋回に入った直後のことだった。高度を落として山肌すれすれを飛ぶ紅の飛行艇が、急に翼を捻って体勢を崩す。


 リーチェ!


 翼を畳んで急降下に入れる。敵機との距離は開いており、銃撃を受けた気配もない。機体トラブル。新型機のテストには付きもののそんな言葉が頭をかすめるも、それはすぐさま否定される。槍のように突き上げる鋭角のシルエットに、捻じれた角。青灰色の胴体とミルク色の翼膜は、忘れようはずもない。アズダーヤ隊の、青灰色の飛竜。リーチェを傷つけた憎き相手だった。


 迂闊だった。


 アドリア海であのように卑劣な罠を仕掛けてきた相手が、策も巡らさず真正面から襲い掛かってきたと考えたのが間違いだった。相手は、最初から竜を山に潜伏させておいて、リーチェをおびき出してから二対一で仕留める腹だったのだ。


 間に合え。


 ただそれだけを念じて、突っ込む。飛竜は紅の飛行艇にまとわりつくように飛び、回避した先には戦闘機が待ち受けている。たった数秒のやり取りで、リーチェの速度と高度が削り落とされていく。そして、旋回した敵機が銃火を閃かせ、リーチェが弾かれたように回避したその先に、旋回を終えた飛竜がいた。


 墜ちろッ!


 思い切り翼を広げて大きく羽ばたき、頭から突っ込む態勢をぐるりと反転。首と羽根の間、飛竜を飛竜たらしめる羽ばたきに必要な肩部を目掛けて、爪を叩きこむ。そのまま肉に爪を喰い込ませ、加速度で何倍にも増した自重で激しく暴れて抵抗する青灰色の飛竜を地面へと叩きつけてやった。枝を折り土煙を上げて墜落したズメイは、一瞬だけ意識を失ったようだった。


 リーチェは無事か?


 前肢で首を押さえつけ、頭部に追い討ちの一撃を叩きこんでから空を見上げる。そこには戦闘機との空戦を続ける紅の飛行艇の姿があった。敵機が動きを止めたブランカを狙わないよう、牽制してくれているのだ。感謝と歓喜の念が湧き上がり、その直後、後ろから鞭のように叩きつけられる激しい痛みと衝撃によって、ブランカは前方に投げ出されていた。


 尻尾か。


 素早く跳ね起きて、身構える。青灰色の飛竜が血振るいをするように尻尾で空を薙ぎ、ブランカの身体に温かい感触が伝った。刃物のように鋭い尻尾を振り回すことで背中から叩き斬られたのだと理解する。油断なくこちらを睨みつける凶相と威嚇の唸り声に対抗して、ブランカもまた竜の咆哮を山々に響き渡らせた。恐慌にかられた鳥たちが一斉に飛び上がって梢を揺らす。


 来い。ズタズタに引き裂いてやる。


 四肢をたわめ、相手に飛びかかろうとしたその瞬間。ブランカと飛竜の間に、円筒形のなにかが回転しながら落下してきて、ごろごろと転がる。


 手榴弾!


 地上にいる飛竜の飛行能力を奪うのにもっとも効果的な兵器の一つ。下手に飛び上がれば、広げた翼膜を破片でまともにやられてしまう。とっさに木々をなぎ倒しながら後ろへ向かって跳び、できるだけ身を低くして身体を丸める。しかし、ばしゅっという間抜けた音がしても金属片が飛んでくる気配は感じられず、うっすらと目蓋を開くと、そこには盛んに煙を吐き出す発煙筒が転がっていた。


 奴はどこだ。ズメイは。


 飛竜の姿はない。リーチェの方へ向かったかと思い飛び上がると、ゆっくりと翼を左右に振る紅の飛行艇がブランカを出迎えてくれた。北へと目を向けると、並んで逃げ去るアズダーヤ隊の一機と一匹の姿があった。おそらく、あの発煙筒は撤退の補助と合図を兼ねたものだったのだろう。


 ほっとした気分で紅の飛行艇と並んで飛ぶコースを取ると、そこには満面の笑みで手を振るリーチェの姿があった。彼女はブランカに向けて、手信号でメッセージを送ってよこす。


 感謝する。

 愛してる。


 それだけで全てが報われた。

 いつかの借りを返せた充実感とともに、一機と一匹は自分たちの戻るべき場所へと針路を向ける。

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