第二編 第六章 ④
『早く終わらせて、仁愛と蒼猫を返してくれる?』
白雪さんは電話越しでそんな要求をしてきた。
『今、私がどれだけ大変な状況か分かってるんでしょうね?』
「もしかして、一人で店番してるのか?」
『そうよ、もう忙しくて忙しくて、そろそろ死にそう……』
「たしかに、白雪さん一人じゃ過労死しそうだな」
「ええ。このままだと客が死ぬことになりそうよ」
「あんた一体何する気だよ!?」
貴方は勢い余って電話を切ってしまった。
でも、ちょうど良かったようだ。
目的地はもう目の前だった。
貴方は霞さんに携帯を返して、眼前に注目した。
そこには古ぼけた長方形の建物があった。重厚そうな玄関付近には『社木診療内科』との看板が掲げられている。明かり取り用の小さな窓がついており、電気がついていない建物内は黒く塗りつぶされているように見えた。
ここが永久の母親が入院していた場所だ。
「……あ、本当にいるみたいです」
半信半疑だったのか、蒼猫が唇を曲げて言った。
「一番左奥の部屋、ですかね……? ここ、音が通りにくいのか聞こえにくいです」
貴方は彼女の言葉を聞き終えてから、入り口の鉄扉に手をやって鍵がかかっているかを確かめた。押しても引いても動く気配はなく、鈍い金属音が鳴るだけだった。
「そりゃ、ここにいるとしたら、鍵かけるよな……」
貴方はどうしようかと頭を悩ませた。
すると、ニャー先輩が貴方の脇を抜けて、鉄扉に手をかけた。
「ニャー先輩?」
同時に金属の奏でる不協和音が鳴り響いた。貴方と霞さんは軽く耳を押さえ、蒼猫が必死に両耳を押さえた。すぐに破裂音のような轟音が鳴り響き、続いて何か重いものが地面に落ちる振動が発生する。
ニャー先輩が鉄扉を押し倒したのだ。
「お兄ちゃん! 開いたよ!!」
振り返る彼女は、仁愛だった。
ほめてほめて――と言わんばかりに尻尾を振って、笑顔で駆けてくる。
「……白雪さんはこのために寄越したんだな」
いい子いい子――と仁愛の頭を撫でながら、貴方は半笑いで扉の残骸を見つめた。
貴方がぼうっとしていると、霞さんが一歩近づいてきて、
「最後まで任せていいんだな? 頼来」
「あ、ああ。そうしてくれると助かる」
貴方が仁愛を横にどけて一歩進むと、蒼猫が気付いて尋ねてくる。
「あ……兄さん、本当に一人で行くんですか? 白雪さんの言うこと信じて?」
「何か理由があるんだろ? とにかく一度、俺一人で行ってみるよ」
「……うん」
「頼来。永久を頼んだぞ」
「お兄ちゃん、頑張れー!」
貴方は三人に礼を言って、建物内に足を踏み入れた。
待合室を抜けると、すぐに廊下に出られた。廊下は白い壁に挟まれて、床には灰色のリノリウムが敷かれている。電気は点いていないが、小さな窓から入る光によって、意外と辺りは明るかった。
微かに漂う消毒液の匂いが鼻につき、貴方は思わず顔をしかめる。あまり好きな匂いではなかった。
貴方はゆっくりと廊下を進み、角の部屋の前で立ち止まった。蒼猫の言が正しければ、ここに永久がいるのだ。
深呼吸をしてから、貴方は引き戸の扉をノックした。
「永久? ここにいるんだろ?」
返事はなかった。
今度はもう少し強めに扉を叩いた。
しかし、結果は変わらず。
貴方は仕方なく、扉の取っ手に手をやった。だが、鍵がかかっているようで引き戸は動かない。
「ここにいるのは分かってるんだよ。返事してくれ」
もう一度、扉に向かって、貴方は彼女に呼びかけた。しばらく待って、再度、扉を叩こうと手をあげた時、
「……頼来か」
くぐもった声が、扉の向こう側から聞こえてきた。
「何故、ここに来た? 蒼猫から聞いていないのか?」
「ああ、聞いたよ。俺たちとはもう会えない、ってな」
「それでも来たというのか、君は。勝手な奴だな」
「勝手な奴はどっちだよ。急にいなくなりやがって……」
とがめそうになる気持ちを、貴方は自制して、
「永久、ここを開けてくれないか? ドアを挟んで話すってのも」
「頼来。すまないが、帰ってくれないか」
貴方は少しの間黙る。覚悟していたとはいえ、直接拒絶されるのは心に刺さるものだ。
「……なら、せめてわけを」
「いいから帰ってくれ」
なおも頑固に永久は拒絶する。
今のやり取りから、貴方は思い出していた。永久があえか荘に来たばかりの頃を。裏庭で彼女と話した時のことを。
あの時も、永久は頑なな態度を取ってきた。だが、彼女は最終的にはそこでのやり取りが切っ掛けで、心を開くようになってくれたのだ。
だったら、あの時と同じことをするだけだ。
「分かった分かった。帰ればいいんだろ」
貴方は自分らしく言葉を選択した。
「――なんて言うとでも思ったか、この馬鹿」
「……馬鹿だと?」
「馬鹿じゃなかったらなんだってんだ」
気取らず、深く考えず、貴方は思った通りを彼女にぶつける。
「もう会えないだ? いいから帰れだ? そんなの無理に決まってるだろ!? そんなの納得できるわけないだろ!? ふざけんなよ! 人の気も知らないで勝手なことばっか言いやがって! どれだけ探したと思ってんだ!? 俺がどれだけ心配したと思ってんだよ!?」
「……心配してくれたのか?」
「何、当たり前のこと聞いてんだ! 心配したよ! いなくなっちまったこともそうだったし、この先お前が記憶を失い続けるんじゃないかって心配してるんだよ!」
貴方の声が残響する。
永久は何かを考えてか、しばらく黙り込むと、
「……頼来。一つ教えてくれないか」
ワンクッション置いて、言葉を続けた。
「君は何故、そこまで私のことを考えてくれるのだ? いや、私だけではない。何故、君は私たち欠落者にそこまで心慮するのだ?」
君が抱えているものは、一体なんなのだ?
――彼女はそう尋ねてきた。
この質問はいつか永久が貴方にした質問と同じ。その時、貴方は答えられなかった。彼女だけではなくて、誰にもこの話をしたことはない。あまり、口にしたくないものだったから。
だけど、今は――
貴方は頭を振って深く息をつき、しゃがれた声で言葉を紡いだ。
「……俺はもう嫌なんだよ。近くに困っている奴がいるのに無関心で通して、何もせずに傍観して……その結果、そいつを失うかもしれないのに――二度と繰り返したくないだけなんだよ」
「君は、何を失ったのだ?」
「……家族だよ」
貴方は目の前の扉に手をついて、力なく答えた。
「妹は自殺して……両親は、心中したんだ」
会社員の父、専業主婦の母に二人の子供。貴方が生まれ育った家庭はごく普通のものだった。特筆できるとしたら、妹だけが欠落症を患っていたこと。だが、そうであっても問題のない家庭だったのだ。両親は貴方にだけでなく妹にも愛情を注いでくれたから。
貴方たちが小学校にあがってからも、何も問題は起きなかった。だが、今から六年前のある日、異変は起きた。
学校から貴方が家に帰ると、妹は暗い自室で一人、泣いていたのだ。どうしたのかと尋ねると、彼女は貴方をこう拒絶した。
――欠落症じゃないお兄ちゃんに、私の気持ちなんか分かるはずない!!
妹にそう言われて、少なからずショックではあった。そしてそれ以上に、悲しかった。彼女が好きで、彼女のことならなんでも知っている気になっていたから。
だからだろう。貴方はそれ以上何も聞かずに、彼女を放置した。
これが全ての間違いだった。
次の日、妹は家から姿を消した。
すぐに両親は警察に捜索願いを出すが、ただの家出だろうと追い返された。これは妹が欠落者だったことも起因していたのだろう。とにかく、両親は自分たちで彼女を探し始めた。
だが、貴方は動かなかった。どうせ帰ってくるだろうという達観と、適当に探しても見つかるはずがないという諦観。何より、妹に会って、また拒絶されるのではないかと怖かったから。
そして、最悪の結果は訪れた。
数日後、両親は人伝で妹の居場所を特定した。そこは県内の山間にある人造湖だった。
両親はその付近で彼女を見つけたが、逃げられた。あとを追い、湖にかかる橋でようやく捕まえ、家に帰るように説得したが、彼女は聞かなかった。
話を聞かず、ごめんなさい、と言い残して、橋から湖へと身を投げた。
すぐに彼女が落ちた付近の捜索を始めたが、彼女は見つからなかった。一週間以上にもおよぶ捜索の甲斐無く、彼女は見つからなかった。結果は絶望的と見て――死んだと見なして、捜索は打ち切られることになった。
遺体は今も見つかっていない。
そして、自宅には遺書もなく、しかし、状況的に自殺したものとして捜査も打ち切られた。
全ては終わった。
そう思ったのに、これで終わりだと思っていたのに、事件は新たに幕を開ける。
目の前で娘が投身するのを見た両親のショックは多大なものだった。特に、彼女を溺愛していた母は、もとから精神的に弱いところもあり、これが原因で心を病んでしまった。あの日見た光景をフラッシュバックさせては錯乱し、周囲のものに当たり散らす毎日。
貴方も父も、そして母もどんどんと衰弱していった。
家族という形は徐々に綻びていく。
崩壊は思ったよりもすぐだった。
貴方が不在だった休日の自宅で、二人は刺殺体で発見された。
警察は、父が母を刺し殺したあとに自害したものと断定。双方共に抵抗傷があったため、母の精神的容態を悲観しての父による無理心中であると推定された。
瞬く間に家族を失い、貴方は後悔した。
そもそもの原因は、妹を放置した自分にある、と。
あの日、妹が泣いていた理由が、自殺を図った理由であるのは間違いなかった。
何故、あの時、もっと妹と話そうとしなかったのか。
何故、彼女がいなくなってからも、自分は何もしようとしなかったのか。
もし、ちゃんと話を聞けていれば、彼女は自殺などしなかったかもしれない。
もし、自分も妹の捜索についていけば、彼女を説得できたかもしれない。
家族を失わなくてすんだかもしれないのに。
「俺は……もう見て見ぬ振りをするのは嫌なんだよ」
相手が誰であっても――そう思いたいが、貴方は自分がそんな聖人みたいな人間ではないと分かっていた。
ただ、相手が欠落症を患っていたら、妹を思い出してしまうから。彼女が自殺した理由に欠落症が関係していたから、貴方は欠落症の人を助けたいと願うのだ。
だから、貴方は放っておけなかった。
今、まさに苦しんでいる彼女を放っておけない。
「教えてくれよ、永久……。お前は一体、何を考えているんだ? 何に苦しんでるんだ?」
――いつか、自分を許せる日が来るといいな、頼来。
永久の言葉が貴方の脳裏を掠める。こうやって初めて他人に全てを明かせたのは、相手が永久だったからだ。だって、永久は何も知らなくても、あんなに優しい言葉をくれたのだから。
だからこそ、放っておかないだけじゃなくて、貴方は、
「俺はお前の力になりたいんだよ!」
「…………」
彼女からの答えはなかった。
廊下に、貴方の荒い息づかいの音だけが響く。
駄目だったのだろうか。
これだけ言っても答えてくれないのならば、それは恐らく、言えない内容なのだろう。もしくは、自分が聞かせるに値しない人間であるか、だ。
貴方は悔しさに顔を歪め、肌が白くなるほどに拳を握りしめた。
(頼来……)
私は貴方を見ていられなかった。だけど、私の体質は眼を背けることを許してくれない。観測をやめてしまおうかとも思ったが、それもできない。
永久を心配しているのは、貴方だけではないのだ。
私が心配しているのは、永久だけではないのだ。
(永久……? 答えて、くれませんの?)
「――」
私の声が彼女に届くはずはない。
昨日の悪ふざけのように、私が言いたいことを汲むような真似はできないだろう。
だから、私の言葉ではなく、貴方の言葉が――貴方が開けたようなものだった。
私が言った直後、扉の桟から小さく、鍵が開けられる音が聞こえた。
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