第二編 第四章 ③
「四月二十九日。父様はその日、朝から会社に出勤していたが、昼過ぎには私用で退社したらしい。それ以降の正確な動向は分かっておらず、夕方頃、社木診療所――先程話した母様が入院していた場所だ――の付近で父様らしき人物を見たと近所の人間が証言しているのみだ」
永久は言葉を詰まらせることなく、流麗に話を続けた。
「また、上田望美について。彼女はその日、体調不良で診療所を欠勤したらしい。社木一人に診療所を任せ、夜から出勤することにしてな。そして、夜勤の時間になって診療所を訪れ、社木と母様がいなくなっていることに気付いた。警察や周囲の人間にはそう話していたようだ」
「えっと、つまり……夕方にお父様が診療所に来て、社木さんと一緒にお母様を連れ出したというわけですのね」
リズは確認してから、疑問を口にする。
「ですけど、それが何故、お父様と社木さんの意志だと言い切れますの?」
「単純な話だ。母様は意志を示せる状態では、なかったからだよ」
永久の
自分と同じ、だからか。
「お母様は、その……眠っていましたのね?」
「何年も前からな。意識をなくしたきり、ずっと眠り続けていたのだ」
彼女は事実を述べるだけという体で、淡々と語った。
「だからまず前提として、母様が自ら失踪することはできなかったはず。母様がいなくなったということは、誰かが――父様たちが連れて行ったとしか考えられない」
リズは反論もできず、口をつぐんだ。こうしてみると、博たちが澄代を連れて失踪したのは間違いないように思えてくる。
(どうしてですの……?)
リズの頭の中に、その言葉が生まれた。
それは理由を問うものではなかった。
(何故、永久を置いていったんですの……?)
娘である永久に何も語らず失踪した彼らに対する糾弾だった。
これでは永久を置いて逃げたとしか思えない。だから、それを知っていた景政は、永久に情報を与えなかったのか。置いてかれたことを永久に伝えるのがためらわれたから。それにまた、三人が失踪した事情についても知っており、帰ってこないことが分かっていたから、永久を施設に預けようとしたのか。
リズは永久の腕の中でうなだれた。彼女の心情を想うと、何を言えばいいのか分からなかった。胸の内に様々な感情が沈殿して、リズは表情を曇らせる。
永久は暗い様子を露わにするリズを
「そう気を落とすな、リズ。何かしらの理由があるのだ。少なくとも、父様は
「ですけど、永久は……永久はいいんですの? それで」
細かい話はどうでもよかった。博がどれだけ用意周到に事を運んでいようとも、澄代の身の安全を考えていようとも、永久は何も聞かされずに置いていかれたのだから。
「私はいいのだ。母様が無事であれば、それだけで」
置いていかれたとしても、理由が分からなくても、母親が無事であればそれでいい。自分の気持ちなど、関係ないとでもいうかのよう。永久は本当に気にしていないのか、説明するような声音で言う。
「だから、リズ。君が落ち込むことはないのだぞ?」
彼女の本当の気持ちは分からない。分からないが、いつまでもうじうじしてはいられなかった。自分を元気づけるために気丈に振る舞ってくれているのならなおさらだ。
「……そうですわね」
リズは顔を上げて、声の調子を上げて言った。元気づけるのはこの場合、自分の役目であるはずなのに、逆に元気づけられるとは。情けなくて涙が出そうだった。だが、心は朝霧のように和らいで、徐々に晴れ渡ってくる。要はリズは単純なのである。
すっかり調子を取り戻したリズは、足を動かし続けている永久に、
「これから望美さんのお家に行くんですわよね? なんのためですの?」
「彼女から話を聞くためだ。父様たちの失踪について、何か知っている可能性がある」
「どうしてそう思いますの?」
「体調を崩して職場に行けなかったという話だが、それは偶然なのだろうか? 父様たちが失踪した日に限って体調を崩しただなんて、少し偶然がすぎる気がしないか?」
偶然でなかったらどうなるのか。理由があって職場に行かなかったか、もしくは職場に行かなかったという話が嘘か。永久はそれを疑って話を聞きに行こうとしているようだ。
「私はあまり、偶然というものが好きではないのだよ」
彼女は零すように言うと、迷いのない足取りで目的地へ歩を進めた。
上田望美の住居は街外れにあった。
古ぼけたマンションの三○六号室。
建物に入り、階段で望美の部屋に向かう。中二階の踊場までのぼると、そこで永久は立ち止まり、
「よく考えたら、君は連れて行けないな」
不意の拒絶に、リズはすぐさま反論する。
「ちゃんと動かないようにしますわよ」
「人形のフリをされたら、それこそ困るのだよ。彼女は私を知っているからな」
それなら、永久が人形を持ち歩くような可愛らしい性格をしていな――もとい、そんな年齢ではないことは当然知っているのだ。怪しまれるのは間違いない。
「仕方がありませんわね。外で待ちますわ」
「そうしてくれ」
三階まで上りきって、またぞろ廊下を進む。部屋に着くまでの間に、
「ところで、望美さんにアポイントは取りましたの?」
「住所しか調べられなかったのだ。連絡はしていない」
「突然、尋ねるつもりですのね、貴女」
その不躾さはまるで頼来のようではないか、とリズは呆れてしまう。永久は一瞬だけ言葉を詰まらせてから答えた。
「彼女は優しい女性だ。いつも私には優しく接してくれていたのだ。大丈夫だろう」
二度も繰り返すのだから、事実なのだろう。ならば安心かと、リズは息をついた。
彼女の部屋の前に着くと、永久はリズを床におろした。リズが少し離れ、壁際に張り付いて隠れるのを確認し、インターフォンを鳴らす。数秒待つが反応はない。
「留守かしら?」
「いや、ちゃんといるぞ」
永久は電気の使用量メーターを指差した。リズからは見えないが、おそらくメーターの回る速度が速いのだろう。電気を多く使っているのは中に人がいる証拠である。
出迎えるのが遅れているだけか、と思ったと同時、
「――はい、います! ちょっと待ってください」
中から声が聞こえ、直後、鍵が外されて扉が開いた。
「ごめんなさ……」
顔を出した女性は永久を見るなり固まった。ジャージを着て、黒髪をヘアバンドで無造作にまとめた姿。今の今まで家でくつろいでいたのがよく分かる。また、彼女はリズたちと同じ欠落症の人間だった。永久と同じように獣のような耳をしている。
「突然で驚かせてしまったようだな、望美」
黒髪の女性がまさしく上田望美本人だった。彼女は永久を見下ろして、
「……どうしてここに?」
久しぶりの面会だというのに、挨拶もなしにそう切り出した。
リズは息を殺して、彼女の様子を窺う。
どこか、永久から聞いていた印象とは違う。優しさを感じなければ、むしろ刺々しさを感じてしまう横顔。まるで警戒しているような表情だ。
永久は彼女の態度に少しだけ躊躇して、
「君に聞きたいことがあって来たのだ。平日のこんな時間にすまな……」
「それより、聞きたいことって何?」
永久の謝罪をさえぎって、冷たく用件を問う彼女。これはもう、違和感なんかではない。明らかに彼女は聞いていた人物像とかけ離れていた。また、明らかに永久の訪問をよく思っておらず、警戒を露わにしていた。
だが、永久はもう彼女の態度に慣れたのか、
「四月二十九日にあったことを聞きたい」
「……あなたはどこまで知ってるの?」
永久は簡潔に、知っている限りの出来事を、推論を交えず話した。
望美は聞き終えると、小さく、本当に小さく息をついて、
「残念だけど、無駄足よ。そこまで知っているなら、私が話すことはないわ」
言うなり、扉を閉めようとする。永久は咄嗟に扉を手で押さえて、彼女を引き留めた。
「待て。今のはどういう意味だ」
「あなたが知っている以上のことを私は知らないのよ。分からない?」
顔をしかめて、露骨に面倒そうな態度を取る望美。
「君は本当に知らないのか?」
「何が言いたいの?」
「あの日、本当に君は診療所にいなかったのか? 偶然、体調を崩したというのか?」
「偶然……?」
永久の言葉が引っかかったのか、望美は繰り返した。
「あなたの言う『偶然』っていうのがどういう意味か知らないけど、『たまたま』って意味だったら見当違いよ。あなたは知らないだろうけどね、私はよく体調を崩して仕事を休むことがあったのよ。全部……体質のせいよ」
自分の身体に対する恨み言を吐くと、彼女は続けて、
「こんな体質の私なんか、どこも雇ってくれなかった。でも、社木さんだけは違ったわ。雇ってくれるだけじゃなくて、なんの文句も言わずに雇い続けてくれた。――なのに、彼はいなくなって、結果的に私も仕事を失って……全部、あなたの両親のせいよ」
今度は永久の両親への恨み言を、永久に向けて吐き捨てた。
「私、噂で聞いたの。あなたの父親があなたの母親と逃げるために社木さんを連れて行ったんじゃないかって。分かる? 私が平日のこんな時間に家にいるのも、あなたの両親のせいなのよ? どうしてくれるのよ、私を雇ってくれるところなんて他にないのに……」
彼女は心底悔しそうに言う。
リズはそれを聞いて、どう思えばいいのか分からなかった。
欠落症の人が職を得るのは難しいと、話では知っていた。事実、彼女もそうらしい。そんな彼女が、やっと手に入れた職を奪われたのなら、怒りを覚えないわけがない。
(だから、永久にこんな態度を?)
だとしても、永久に言うのはお門違いもいいところ。それ以前に、両親に置いていかれたかもしれない永久に、両親に対する恨み言を述べるなんて、
(どこが優しい人なんですの……)
リズは怒りを通り越して、悲しみを覚えていた。
「……父様に代わって私が謝ろう。すまなかったな、望美」
永久は彼女の怒りを真っ向から受け取って、小さく頭を下げた。
「――もう話は終わりでしょ? 帰りなさい」
望美は永久の謝罪を受け流して、彼女の滞在を拒絶した。返事を待たずに扉を閉めて、彼女はすぐに鍵をかける。
小さな金属音が、ひどく悲しげにリズの耳に残った。
「……永久」
扉の前で佇む彼女に近づいて、リズは悲しげな声で話しかける。すると、永久はリズを両手で持ち上げ、胸元に抱きかかえて、
「さて、帰ろうか」
何事もなかったかのように歩き出した。
リズはいつも通り涼しい顔をした永久に疑問を持つ。まさか本当に何も感じていないのか。あれだけあからさまに拒絶されて、何も感じない人間がいるとは思えない。
彼女の腕の中で身動きせず、首を曲げて永久を見上げていると、
「拒絶される可能性があるのは分かっていたのだよ。診療所が営業停止になれば、そこの従業員は職を失う。原因である社木、また大本の原因である父様や母様を恨むのは至極当然のことだ。娘である私を邪険に扱うのもまた、な」
覚悟していたから、どのような態度を取られても平気だったと彼女は言いたいのか。
だがそれは驚かないという意味であって、決して何も感じないという意味ではない。
真っ向から拒絶された永久は、自分以上に悲しい思いをしているはずなのに。
「リズ。先程もそうだったが、何故、君が悲しそうな顔をするのだ?」
永久は沈んだ様子を見せるリズに、本当に不思議そうに尋ねた。
誰だってあんな場面を見れば悲しくなる。
リズはそう思い、それ以上に――
「貴女が悲しそうにしないからですわよ」
「……よく分からないな」
永久は首を傾げた。
本気で分かっていないらしい。
永久が悲しみを感じていないのなら、それは悲しい。永久が悲しみを抑えているのだとしたら、それはまた悲しい。ただ、それだけのこと。そんなことも分からないのは、本当に永久が何も感じていないからなのか。
思い返せば、彼女はあまり、感情を表に出す人間ではなかった。両親が失踪して、あえか荘に連れられてからも、不安を顔や口に出すことはなかった。この前、頼来と警備員の言い争いをいさめた時も、淡々として感情を見せなかった。
だが、感情があることをリズは知っている。子供扱いされた時だけは、ちゃんと彼女は怒るのだ。なら、彼女は今、感情を抑えているのかもしれない。だとしても、どうしてそんなことをするのかは分からないが。
ただ、聞いても無駄だということはなんとなく分かる。彼女はあまり、自分のことを話したがらなかったから。
マンションをあとにして来た道を戻る。
永久の歩みに揺られながらリズは、
「永久。確か貴女、お父様や診療所の話は調べて分かったと言っていましたわよね?」
「そうだな。私は四月二十九日に起こった出来事を何も知らなかったからな」
「もしかして、ここ最近、学校を休んでいたのは……」
「……数日前、ようやく望美の家を知っていそうな人間を見つけてな。その人物と会ったり、当日のことを知っていそうな近所の人間と話したり――君の推測通りだ」
やはり、とリズは息をついた。永久は本を読むために学校を休んでいたのではなかった。両親のことを調べるために、彼女は一人、学校を休んで行動していたのだ。
「どうして、頼来に何も言いませんでしたの? 彼なら話を聞けば、絶対に協力してくれたはずですわよ? それこそ学校を休んででも」
「だからだ。彼に話したら、本当にそうしそうだったから嫌だったのだ」
「それこそ、何故ですの?」
「……これ以上、彼の手を煩わせたくなかったのだよ」
永久はそっぽを向いて、どこか面白くなさそうに言った。
「これでも、私は頼来に感謝しているのだ。見ず知らずの私を、彼は引き取ってくれた。私は彼に何も返せないのに……だから、話したくなかったのだよ」
「頼来はそんなこと気にしないと思いますけどね」
リズは意外に思った。永久が頼来に感謝していることを、ではない。永久が頼来に感謝していることなんて、当然、知っていた。そうでなければ、仁愛の一件があった時、彼女は彼のために行動なんてしなかっただろう。
リズが驚いたのは、彼女が正直に自分の心の
(本人以外には素直、なのかしら?)
だとしたら、
彼女の感情はどうなるのだろうか?
彼女本人に対して、
彼女の感情は素直なのだろうか?
そんなことを考えてしまう。
答えは当然、分からない。
いずれにせよ、永久の気持ちは非常に微笑ましかった。リズはからかうように言う。
「ありがとう、って頼来に言って差し上げれば? 彼、きっと喜びますわよ」
「誰が言うか、そんなこと」
と、永久は口を尖らせた。ますますからかいたくなるがリズは考えを改める。さっきから永久の腕に力が入って胸が苦しい。これ以上は自殺行為だ。
「君、今の話は頼来には教えるなよ? いや、今の話だけでなく、今日のことは何も話すな。先程も言ったように、こんな話を聞いたら……」
「分かっていますわよ。大切なことは口にはしませんわ」
リズは身体を揺らしながら、あどけなく微笑む。彼女の金髪が陽の光に照らされて、きらきらと星のように輝いた。
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