第二編 第三章 ⑧

 貴方は遠ざかっていく二つの影を見つめていた。


「頼来。今回は怒らないのだな」


 永久は掴んでいた袖を放した。貴方が激昂しても止められるようにしていたのだろう。


「怒れるわけないだろ。強志がいるんだぞ?」

「なんだ、その理由は。よく分からないぞ」

「どんな奴だとしても、親は親なんだよ。特に母親ってのは子供にとっては世界と同じくらい大切で重要な存在なんだってさ。だからそんな母親が、何をしたとしても誰かに怒られたり責められたりするってのは、子供にしてみれば世界を否定されているようなもんなんだよ」

「児童心理学の話だな」


 永久は指摘する。その通りだった。これは以前、霞さんから聞いた話だった。


「それで君は怒りも覚えなかったと言うのか?」

「……んなわけねえだろ。正直、むかついてるっての! 大体な、自分の不注意で子供を見失ったってのに『どこにいってたの』もねえだろ! しかも俺が何やったってんだ!!」

「私に怒るな、大馬鹿者」


 じとりとした目をして言う。


「はい、すみません」


 貴方はすぐに謝った。


「……って言ったけど、あの人の気持ちも分かるんだよな。『どこにいってたの』って言ったのは、子供を見つけられて緊張が一気にほぐれてついつい口から出ちゃったんだろうって。――それに、俺を疑うのも分かるんだ」


 貴方は一息ついてから続ける。


「あの人も欠落症の人だったからな。どんな人生を歩んできたかは知らねえけど、健常者から嫌なことでもされてきたのかもしれない。それで憎んでいるんだとしたら……俺みたいな奴に過剰に反応したって、無理はねえだろ?」

「…………ふんっ」


 永久は鼻を鳴らして言い下した。


「全く、救えない人間だな」

「そう言うなって。あの人だって……」

「違う」


 彼女は首を振って貴方の言葉を否定した。

 そして、貴方を見上げて、


「救えないのは、君だよ、頼来」


 静かにそう言う彼女は、いつも通り石膏像のような冷たい表情をしていた。しかし、瞳だけは違う。意を決したように輝く碧眼が、貴方を真っ直ぐに射貫いていた。


 彼女は小さな唇を動かす。


「君は何故、そうまでして欠落症の人間を庇い、助けようとするのだ?」

「……欠落症とか関係ねえし、理由もねえよ。困ってる奴がいたら放っておけないだろ?」

「本当にそうか?」


 永久は見透かしたように言うと、


「いや、嘘だな。君の行動は明らかに常軌を逸している。今回の件だけではない。あえか荘に住んでいる者たちも、仁愛の一件もそうだし、それに……蒼猫についてもそうだな」

「……あいつから聞いたのか?」


 おそらくそれは貴方の話ではなくて、あの子自身の話。


「聞いていないぞ。だが、今の君の反応で確信した」

「……聞いてないのに、分かるのか?」

「初めから少し不思議には思っていたのだ。君たちが兄妹だとしたら、何故、違う部屋を使っているのかと。一人部屋が欲しかったというのなら分かるが、蒼猫はそんなわがままを言う子には見えない」


 その通り、彼女はそんなわがままを言ったことはない。


「また、君が彼女のことを妹だと明言したことがないのも不思議だった。蒼猫を妹だと指摘したのは、私たちだけで君自身は肯定も否定もしていなかったな」


 その通り、永久や白雪さんには『シスコン』と蔑称されたが、蒼猫を妹だと紹介したことは一度もなかった。


「そして、気づいたのはあの日だ。浴場で、蒼猫は仁愛に、君の背中を流したら、と勧められると、非常に困った様子を見せた。あれは、ちゃんと事情があったのだな」


 貴方は知る由もないが、そんなこともあったのを私は知っている。


「君たちは、本当の兄妹ではなかったからなのだろう?」


 貴方は彼女の言葉に頷き返した。


 貴方たちは本当の家族ではなかった。

 四宮しのみや蒼猫。

 それがあの子のフルネームだ。

 彼女の本当の家族は、数年前に彼女を置いてどこかに消えてしまった。あの子は、家族に捨てられたのだ。貴方は出会った頃に聞いた蒼猫の言葉をよく覚えている。


『私だけを置いて、皆でどこかに行っちゃった。元もと、私なんか要らなかったみたいだし……。「蒼猫」なんて、見たまんまの名前をつけられた時点で、それは分かってたの』


 でも、逃げるなんて思わなかったな――蒼猫の顔には何か訴えるような哀しみが映っていた。


「詳しくは聞かないが、君は一人になってしまった蒼猫をあえか荘で引き取ったのではないか? 完全な赤の他人であるにも関わらずだ。……まるで私と同じように」


 永久は俯き気味に言い、顔を上げた。

 貴方は永久の心からの言葉を聞き続けた。


「君が私たち欠落者を強迫観念に囚われて助けているようにしか、私には思えないのだよ。――君が抱えているものは、一体なんなのだ?」

「そんなもの……」


 ないと、答えられるのか?


 いや、否定しようがなかった。


 抱えているものは、自分を縛り付けているものは、確かにあった。


 それは――



 自殺したのことだ。


「――――!?」


 突然感じた振動に、貴方は我に返った。見れば手に持っていた紙袋が地面に落ちて倒れている。掌はじっとりとした汗に濡れ、痺れたように感覚が希薄だった。


「……すまない。少し立ち入りすぎたな」


 貴方の様子を窺っていた永久が、申し訳なさそうに尻尾を垂らしながら謝罪した。


「答えたくないのなら、無理に答えなくてもいい。君がどういう人間なのかは理解しているつもりだ。君がどのような過去を持っていたとしても気にするつもりはない」


 だから……


 ――そう、彼女は言って、続けた。


「いつか、自分を許せる日が来るといいな、頼来」


 それは不意の言葉だった。


「……っ」


 貴方は咄嗟に口もとを手で覆い隠し、軽く目を逸らした。目頭が熱くなり、潤んでいることが感じ取れる。なんで今、自分が泣きそうになっているのか、分からない。


 そんなことを望んでくれた人は、今まで誰もいなかった。たぶん、自分もそんなことを望んでいなかった。むしろ、自分を許してはいけないと、そう思っていたはずだ。


 永久の言葉は本当に優しいと思う。君は悪くないとか、仕方がなかったとか、変に気を遣った否定的なものではなくて、自省や後悔することを容認しつつ、解決を望んでくれる言葉。


 でも、それでもまだ……。


 貴方は誤魔化すように倒れた紙袋を取ろうと腰を屈めた。すでに感情の波は消え、頭の不鮮明さも目頭の熱さも口もとの弛緩もなくなっている。


「私が言いたいことはこれだけだ。帰るぞ」


 永久が背中を向けて、歩き始める。

 貴方は一歩遅れて、足を動かし始めた。


 いつか、自分を許せる日が来るのだろうか。


 いつか、彼女に話せる日が来るのだろうか。


 永久の背中を追いかけながら、貴方は繰り返しそれを考えていた。

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