第二編 第二章 ⑤
貴方は庭下駄を履いて裏庭に降り立ち、屋内からの光を背にして歩き出した。
夜の帳が下りきった外の世界。
少し移動しただけで、周りには闇しかいなくなる。
見上げると黒い空には棚雲がいくつも浮かんでおり、その中で一つだけ、白く輝く雲があった。
それはゆっくりと、まるで貴方の歩調に合わせるように風に流される。
貴方が裏庭の奥、一本の樹木の元に辿り着くと共に、雲の端から冴えた光を放つ月が顔を覗かせた。
静かな風に立ち木が踊り、幾重にも重なった葉の間から青白い光が漏れて、根元がちらちらと照らされる。
地面よりほど高い箇所に、月光を弾く何かがあった。
貴方の尋ね人がそこにいた。
永久は柔らかな髪を風に任せて、目の前の木を見上げながら幽玄と佇んでいた。
銀髪は揺れるたびに月華を受けて怪しげに輝き、白く美しいその様は、どこか孤高を思わせた。
「何してるんだ、永久」
貴方の問い掛けに彼女は首だけで振り向き、顔の半分を見せて答える。
「少し、風に当たっているだけだ」
永久の言葉に触発されてか、夜風が一瞬強くなる。ここ連日の寒気のためか、少し肌寒く感じた。永久が着ている服は半袖膝上のワンピースで、明らかに場に合っていない。
「お前、寒くないのか? 夕飯できたし、部屋に……」
「悪いが、考え事の最中だ。気が散るから話しかけないでくれ」
彼女の態度はひたすらに強情だった。ここに来てからの反応は多少柔らかかったけれど、それは蒼猫が近くにいたためだったらしい。二人きりになると、こうも違う。
「そう言うなよ。ちょっと話すくらい――って、どこに行くんだ」
再び話しかけたところで永久が歩き出してしまった。
慌てて彼女を追いかける。
「ちょっと待てって」
言っても聞かないのは分かっていたが、彼女は勘違いしている。
貴方の目的は、会話するためではないのだ。
「だから待てっての!」
「しつこい奴だな……」
永久は鬱陶しそうに尻尾を振り、歩きながらこちらに目をやった。
「夕飯なら私に構う必要はないぞ」
「じゃなくて! 足下、気をつけ――」
貴方の言葉は一歩遅かった。
永久の身体が数センチ浮いたかと思うと、横様にぐらりと傾き、地面へと倒れ込んだ。
すぐに駆け寄って、永久を見下ろす。
彼女の下には太い木の根が張っていた。これに彼女は乗り損ねて転んだのだろうし、それがあるのが分かっていたから貴方は止めたのだ。
「……永久?」
貴方の呼びかけに応じて、永久は無言で顔を上げた。顔色を変えずに立ち上がり、服をはたき始める。
幸い目立った汚れはつかなかったようだが、膝頭にすり傷ができていた。
「ったく、大丈夫かよ」
「平気だ、こんなもの。一晩寝れば治る」
「そうかもしれねえけど……――いやいや、風邪じゃねえんだぞ?」
貴方は考え直す。危うく聞き流すところだったが、すり傷は一日寝れば治るようなものではなかろう。風邪か何かと一緒にされても困るのだ。
照れ隠しだろうけど、見過ごせない。
何よりも、一つ気がかりな点があった。
見た感じ平気そうな顔をしているが、どうも身体の重心が左に
「お前、足
「問題ないと言っているだろう」
「……じゃあ、ちょっと見せてみ」
貴方は永久に一歩近づいて、彼女の足に手を伸ばそうとした。
が、しかし、
「気安く触るな、この馬鹿者」
永久が強く拒絶してそっぽを向く。
人が心配しているのにその態度はどうだろうか。流石にカチンと来て、貴方は小さく俯き――口の端を曲げて笑みをつくった。
目は半笑いである。
貴方は思う。
ここまで頑固な子は初めてだ。オーケー、もういい。今の今までは、どうも彼女の境遇を
変に気を使うのはやめだ。
「分かった分かった。気安く触ろうとして悪かったよ」
貴方は自分らしく言葉を選択した。
「だったら、気高く触ってやるからじっとしてろ」
「………………何を言っているのだ? 君は」
思わずといった様子で永久は振り返った。
「気安いのが嫌なんだから、気高く触ればいいんだろ?」
「気高く触るとはどういう触り方だ!?」
「あれ? おかしかったか?」
「おかしいだろう!? そもそも気安いと気高いは反意語でもなんでもないぞ!」
「冗談言うなよ。安いと高いは逆だろ?」
「それは値段の話だ!!」
「細かいことをいちいち気にする奴だな」
「……君、一つだけ言っていいか?」
「なんだよ?」
「君は馬鹿だろ」
「うっせ」
貴方は吐き捨てるように言うが、顔が綻びていた。
「……何を笑っているのだ」
「別に」
ただ、ちゃんと反応してくれるのが嬉しかっただけだ。
「さっきのは冗談で触ったりはしねえよ。――だから正直に答えてくれ。お前、足、痛いんじゃないか?」
「む……」
調子を変えられて戸惑ったのか、永久は口をへの字に曲げた。またそっぽを向く。
「……そういや、ちゃんと話してなかったんだけど」
これでも素直に答えないのなら、と貴方は切り口を変更した。
「このあえか荘にはさ、俺や蒼猫以外にも住んでいる奴がいるんだ。二階に
永久は変わらず顔を背けている。
だが、耳だけはこちらに向けていた。
「それにあと、大学生の人がいるけど、今は留守にしてる。用があって実家に帰ってるだけで、いずれ帰ってくるって話だ」
「……それで、君は何を伝えたいのだ?」
尻尾を大きく動かして聞いてきた。
「今言った人たちは、全員欠落症の人なんだよ。皆、何か事情があってここに来たみたいなんだ。どんな事情かは詮索する気もないから聞いてない。……だからってわけじゃねえだろうけど、みんな安心してここで暮らせているとは思う」
誤解を避けるために「今問題を抱えてるってんなら話は聞くけどさ」と付言して、
「何が言いたいかって言うとさ――永久。別に俺のことを嫌っててもいいし、避けたって構わねえよ。でも……こんな大事なことで強がるのはやめてくれないか」
貴方は言葉を紡いだ。
「もっと気を楽にして良いんだぞ? そんなに警戒しなくたっていいんだよ。誰もお前を疎ましいなんて思わねえからさ」
「……」
永久は貴方の言葉を吟味してか間をつくる。そして、貴方に向き直り、
「過去を詮索しない、か。距離感を保つのは生きるのに必要な処世術だろう。事の善悪は判断出来ないが、君の考え方は間違ってはいないな」
永久は頷いて、貴方の目を見て続けた。
「だが、それは君が、君自身が過去を詮索して欲しくないと思っていることの裏返しではないのか?」
貴方はその返しを聞いて確信する。永久は聡明だ。今の話で瞬時にそこへ思い至ってしまうとは。
確かに気軽に言えない話はあるのだ。
貴方が何も言わずにいると、彼女は自分の考えが的を射ていると分かったのだろう。
「君の考えは分かった。だが、いくつか聞きたいこともあるのだ」
永久は窺うように上目で貴方を見る。
貴方が目で了承すると、
「君は何故、欠落症の人間ばかりをこの家に住まわせるのだ?」
単刀直入に問いかけてきた。
正面から見上げてくる蒼い瞳が揺らめく。
初めて会った日と同じ瞳の色。
貴方は舌先で前歯の裏を撫で、大きく息を吸ってから答えた。
「この家が元もと民宿だったってのは話したよな。それを経営していたのが俺の祖父さん。祖父さんはさ、民宿やりながら、ここに行き場を失った欠落症の人を匿ったりしてたんだよ。だから、俺は祖父さんの真似事をしているようなもんだな」
「要するに祖父から受け継いでここで大家をしているのだな? だとすると、両親や祖父は……」
永久の推測は正しい。
一介の高校生が大家をしている時点で、事情は分かることだろう。
誤魔化すほど感傷が残っているわけでもなく――本当に?――貴方は隠さずに永久に教えた。
「ああ。みんな、もう亡くなってるよ」
「……そうか」
永久はそれだけ言った。
それは正しい応対の仕方だ。
謝罪したり、その先を安易に聞いたりするのは、この場合間違った行動だ。
彼女はそれが分かっているらしかった。
しばらくの間、沈黙が貴方たちを包み込む。思い出したかのように風が吹いて、永久の長い髪を玩んだ。
「――少し、いいか?」
永久が口火を切って、貴方へ手を伸ばしてくる。何をしたいのかが分かった気がして、貴方は動かず頷いてみせた。
彼女はそのまま貴方の服の裾をつかみ、それを支えにして片脚立ちになった。
浮かせた右足首をゆっくりと動かし、すぐに耳をぴくりと震わして動きを止めた。
「やっぱ、痛む?」
「…………」
こくり、と永久が頷いた。ようやく認めたかと安堵し、すぐに気を取り直す。安心している場合ではないのだ。
「早いとこ戻って、治療するぞ」
貴方は永久に背を向けてしゃがみ込んだ。
永久はそれを見下ろし、半眼になる。
「……まさか、私におぶされと言うのか?」
「歩けないんだろ? いいから、ほら」
「いや、肩を貸してくれれば」
「お前に肩貸す方が難しいんだよ、こっちは」
残念ながら、これは事実だ。
背丈の差がありすぎる。
永久も分かってはいるのか、口を曲げるだけで反論はしない。
だが、いっこうにおぶさる気配もない。
貴方はしびれを切らし、
「なんだ、おんぶが嫌なのかよ。だったら、一昨日みたいに抱っこにするか?」
「だっ!? ……いくらなんでもあれは屈辱的すぎるぞ」
永久が恨みがましく睨んでくる。
そんな彼女の訴えを貴方は軽く受け流した。
「どっちにするんだ? 決めないと強制的に抱きかかえて連れてくぞ」
「むー……」
小さく唸り、視線を外し、目をつぶる永久。しばしして、ようやく決心がついたようで、彼女はそっと貴方の肩に手をやって、その背中におぶさった。
貴方は永久の両足をしっかりと固定して、一歩一歩確かめるように歩き始める。
永久は見た目以上に軽かった。
心配になるほどに軽い。
だけど、背中には彼女の温もりを感じ、微かに鼓動が伝わってきて、不思議と不安な心が溶けていった。
「……一つ、言っておかなければならないことがある」
不意に永久が耳元で囁くように言った。
「その、すまなかったな」
「? 何がだ?」
「先程、君は言っていただろう? 君のことを嫌ってもいいし避けても構わない、と。私は別にそのような気はなかったのだ。君を特別嫌悪していたつもりはない」
「本当か? じゃあ、なんで夕食とか一緒に喰おうとしなかったんだよ」
「あれは……君たちの
「……もしかして、遠慮してたの? お前」
考えてもみなかったことで、貴方は反射的に永久の方に顔を向ける。
すると間近で彼女と目が合った。
ぎくりとして、ばつが悪そうに正面に向き直った。
「なんだよ、そんなこと気にしなくてよかったのに」
「そうかもしれない。どういうわけか、蒼猫は私と食べるようになってしまったからな。結果的に邪魔をしてしまった」
「違う違う。そういうことじゃなくて」
貴方は呆れを隠さず、溜息をついてから続ける。
「別にさ、俺たちに気を使うことないんだぞ? わがまま言って欲しいわけじゃねえけど――今くらいはさ、自分のことだけ考えてればいいんだって、永久」
こんな時にまで、無理して他人のことを考える必要はない。
両親が突然失踪してしまい、不安を覚えているはずの彼女がそんなことを気にすべきではないのだ。
「……そうか」
永久は小さく呟くと、貴方の首に回していた腕に力を込め、
「少しだけ、君のことが分かった気がするぞ、頼来」
初めて貴方の名前を呼んだ。
部屋に戻って永久の治療を済ませると、貴方は食事の準備を始めた。メニューはカレーだった。鍋に入っているカレーを火にかけてかき混ぜながら、食卓に座る永久を見る。
先程の話が効いたのか、彼女は貴方と食事を共にする気になってくれたようだ。
それは純粋に嬉しかったのだが、次の発言で少し様子が変わった。
「まさか、それは君が作ったのか?」
永久は物凄く懐疑的な瞳を貴方に向ける。
知らない人間がそう考えるのは無理もない。だけど、貴方は大雑把に見えて、実際大雑把だけど料理の腕は人並みにはあった。
「休日は俺。他は蒼猫がやってるんだよ」
変わらず訝しんだ瞳を向けてくる永久を見て、貴方は心に誓う。
美味いと言わせてやると。
既に調理は済んでいるのでこれは意気込みだけだけど。
食卓に料理を並べて「いただきます」と一斉にスプーンを持つ。
永久は恐る恐るカレーを口に運んだ。
失礼な子だ。
咀嚼して飲み込んで、何口か永久が食べてから貴方は尋ねた。
「うまいか?」
永久は答える。
「うま……ずくはない」
どっちやねん。
「正直に言えよ。うまいんだろ?」
「……味は悪くはない」
「認めるんだな?」
「ああ、驚いたぞ、頼来。なかなか良い味をしているな、このスプーンは」
「食器に味はねえよ!?」
そこまで認めたくないのか、こいつは。
貴方が呆れながら睨めつけていると、永久はカレーに目を落とし、「美味いには美味い」といやいや認めた。しかし、彼女は続けて「だが具が大きすぎるぞ」と付け足した。
「そうか? 俺にはそうは思えないんだけど」
実際に食べてみるが、やはりそうは思えない。
しかし、ここで気付いた。
自分の口と永久の口の大きさが違うことに。
もしかしてと思い、貴方は蒼猫に視線を送った。
「言っていいんですか?」
既に答えは分かる。
「言ってみろよ」
「いつも思ってましたけど、ちょっと大きいですね。まあ、気になるほどじゃないので私はいいですけど」
気にならずとも事実は事実。
票数的には二対一で貴方の負けだった。
大雑把さが仇になったようだ。
貴方は少し凹んだ。
「つくってもらっておいて、文句ばっかだな、お前ら……」
「ですから、私は気にしてませんって。気にしてたら絶対言ってますし」
「私は気になるから言ったまでだが、これは文句ではないぞ。ただの駄目出しだ」
永久の指摘は余計腹が立つものだったけれど、貴方は反論できなかった。食べる側への配慮が欠けていたのは事実だからだ。そこは反省するしかない。
その後も、何度か同じような小言を永久に言われる貴方。しかし、ちゃっかりと彼女はおかわりをしていたので、多少は溜飲を下げられた。
どうやら永久は、蒼猫とはだいぶ違って素直じゃないらしい。もちろん、蒼猫も素直とは言い難いのだけど。
貴方は食後のお茶を飲む二人を見比べて、そっと微苦笑を浮かべた。
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