第二編 第二章 ⑥
永久は次の日には問題なく歩けるようになり、固定していた包帯も取れた。昨日は相当痛そうだったのだが、実際は捻挫などではなかったらしく、これ幸いだ。
そして、彼女はその日から、かなり態度を軟化させたように感じた。
他に特筆するとすれば、共通の友達のことだろうか。
撫原医院の院長の孫娘であり、貴方と永久の共通の友達。
綺麗な黒髪に、整ったプロポーションが特徴の彼女。
永久とは幼馴染みであり、同じクラスの霞さんは、永久からあえか荘にいることを聞いて、貴方にも話を聞きに来たのだ。
放課後、帰宅しながら貴方は霞さんにここ数日のことを告げた。
最初は何やら訝しむように、それこそ怒っているような彼女だったが、彼女は話を聞き終えると、そんな様子を引っ込めてくれていた。
だが代わりに、彼女は涙を流していた。
ぎょっとして、貴方は身構える。
「悪い……ちょっと……」
彼女の瞳から、ぽろぽろと雫がこぼれ落ちた。綺麗な長い黒髪が、どこか悲しげに風に乗り、一枚の絵のような姿を見せる。
霞らしいな、と貴方は苦笑した。
彼女はときどき、こうやって何かを想っては涙ぐんだ。また、いついかなる時であっても誰かの不幸や悲運な話を聞けば涙を流した。
これは決して、彼女が情緒不安定だからというわけではない。
彼女は感受性が強すぎるのだ。
触れるもの全てに感応してしまう。
貴方は彼女の泣き癖を煩わしいと感じたことはなかった。むしろ、その感受性はかけがえのないものとすら思える。ただ、突然泣くのは勘弁して欲しい。
貴方がじっと見つめていると、彼女は視線に気付いたようで、
「なんだよ……。み、見るな、馬鹿……!」
鼻声で弱々しい抵抗を試みた。
私はそっと考えた。見た目だけなら清楚で純情可憐に見えるのに、何故こうも言葉遣いが荒いのだろうか、と。
(蒼猫くらいに礼儀正しくしたら、よさげなものですのに。もったいないですわね)
「……別にもったいなくもないだろ」
懐深いことを心の中で言って、貴方は霞さんを絶えず見つめて、棒読みで一言。
「ホント、お前は優しい奴だなあ」
「うるさいっ。やめろ、そういうのは!」
彼女は慌てて顔を逸らして反発する。
じっと待つと、こちらを窺ってきて、
「だからっ、いつまでも見てるなよ……!」
泣いていることが恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして怒鳴った。からかい甲斐があっていい――と貴方の先程の言葉はそういう意味だったらしい。
最低な男である。
たいして時間もかけず、彼女は落ち着きを取り戻した。目元をハンカチで拭い、
「両親がいなくなったことは知ってたんだ。それでここ最近、何度も電話したり家まで行ったりしたんだけど、永久を捕まえられなくて……」
彼女の心労は理解できた。
永久があえか荘に来てからすぐに連休に入ってしまい、霞さんは永久にコンタクトを取れなかったのだ。
先程の涙は、永久の事情を思ってのことでもあるし、ようやく安心できたという意味でもあるのかもしれない。
「まさか、そんなことになってたなんてな……」
霞さんは神妙な表情で言った。事情は理解したが、今度は心配事ができたような顔である。現に彼女は続けた。
「にしても、心裡さんか」
こう言うからには霞さんも心裡さんを知っている。心裡さんは職業柄、撫原医院の医院長――霞さんの祖父と知り合いであるため、その流れで彼女とも面識があるのだ。
「あの人、何を考えてるんだ……頼来に任せるなんて」
彼女の独り言に貴方は思う。
それはどういう意味だろうか、と。
霞さんは苦々しい顔を浮かべる貴方に気付き、
「なんだよ」
「俺に任せるのが悪いのかよ」
「そ、そりゃそうだろ。永久はお前と同い年だぞ? 女の子を同い年の男に預けるなんて、普通に考えて倫理的に間違ってるだろ」
常識的な意見だった。
ただ、まるで信用がないのは少々悲しい。
そう貴方は思ったのだが、彼女は不意に貴方の眼を見て、
「……でも、蒼猫もリズもいるし、そういう心配はないよな」
頼来の所なら適切かも――と、彼女は事実を受け入れた。
「……ま、なんにせよ、納得してくれたならいいよ」
「ああ。だから、頼来、永久を頼むぞ?」
霞さんが一旦言葉を切って、続ける。
「本当はあたしが永久を預かりたいんだ。でも、あたしがそうしたいって言っても、家族から許してもらえるわけじゃないし……」
霞さんの家の事情はなんとなく把握している。一家総出で病院を切り盛りしているとか、色々と彼女の家は大変なのだ。人一人を預かる余裕はあまりないのかもしれない。
「少しでもいいから、永久を安心させてあげてくれよ」
彼女はすがるような声音で言った。
「任せとけって」
貴方がそれだけ言うと、霞さんはふっと微笑んだ。
彼女の長い黒髪が春の風に揺らされて、まるで綿飴のようにふわふわと宙を舞った。
特筆するとすれば、これくらい。
永久が貴方に気を許すようになった理由となりそうなのは、この二つくらいだ。
「なるほどね」
白雪さんは手を止めずゲームを遊びながら言った。
「要するに、貴方の手料理が決め手だったわけね」
「今の話でそう解釈するのか!?」
また適当なことを言い出した、と貴方は思ったのだが、
「……? 貴方、何言ってるの?」
「え? 何って……なんだ?」
「当然、貴方との会話も共通の友人も決め手の一つだとは思うけれど、それだけとも思えないのよね」
「……そうかね」
白雪さんが何を
「でも、たかが手料理だろ? なんの意味もねえと思うけど」
「本気で言ってるのね、それ」
白雪さんは少しだけ不機嫌そうに言った。
「前言撤回するわ。貴方、永久と仲良くなんて、まだなっていないようね」
「…………」
どういう意味だろうか。
白雪さんの言が的を射ているなら、答えを知っているのは永久だ。
だが、彼女は読書に夢中で話を聞いていそうもなかった。
改めて白雪さんの方を見て、
「白雪さん、あのさ」
「失礼します」
貴方の言葉をさえぎって、後方の扉が開き、蒼猫が顔を出した。
「白雪さん、水出しアイスコーヒー二つ、お願いしていいですか?」
「分かったわ。少し時間かかるから戻りなさい」
「はい、お願いします」
蒼猫が姿を消した。
白雪さんは、貴方の方を見て、ゲーム画面の方を見て、言った。
「水出しアイスコーヒー二つらしいわよ」
「……らしいな」
「……? 何やってるの? 貴方」
「白雪さんこそ、なんでまだゲームやってるわけ?」
「鈍いわね! 貴方がやりなさいって言ってるのよ!!」
「分かってて無視したんだよ!! なんで俺がやらなきゃいけないんだ!?」
「貴方、さっき仕事をしないのは心苦しいって言ってたじゃない!!」
「だからってあんたの仕事を奪う気はねえぞ!?」
「なんのためにここでゲームさせてると思ってるの!?」
「『リハビリ』のためって言ってたよな!?」
「だから『リハビリ』がてら仕事しろって言ってるのよ!!」
「ゲーム関係ねえじゃん!」
「兄さん!」
蒼猫が戻ってきた。
「遊ぶのはいいですけど、お客さんを待たせないでください!!」
「……はい」
蒼猫に叱られて、貴方は素直に注文の品をつくった。
それを契機に、結局、この日は一日ここにいて、飲み物をつくるはめになった。
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