第二編 第一章 ⑥
貴女たちの出会いを思い出して、考える。
(……軽く犯罪じゃないかしら?)
たぶん、貴女が頼来を訴えれば、余裕で勝てそうなくらいに。
「全くだな」
貴女も心の中で賛同する。
(あんなことがあって、よく貴女、頼来に気を許しましたわね)
「誰も彼に気を許してはいないぞ」
澄ました表情のまま、貴女は心の中で答える。
そうだろうか、と私は思った。
私には、変わっていないのはその表情だけのように思えた。
これだけは、出会ってから一貫している。
怒るのは子供扱いされた時だけだし、それ以外の時はおよそ感情らしきものは表情に見せない。
「――ということだ。分かったか、仁愛」
貴女は私との会話をしながら続けていた説明を終え、仁愛の方を向いた。
私もそちらを見る。
だが、そこには仁愛の姿はなかった。
話が長すぎたらしい。
「待ってください――待ちなさい、仁愛!!」
「なんで?」
風呂の入り口辺りから仁愛と蒼猫の会話が聞こえてきた。
「なんで、じゃないです! どこに行く気ですか、貴女は!」
「お兄ちゃんのところ!!」
「だから、それが駄目って言ってるんです! 兄さんは今、お風呂入ってるんですよ!」
蒼猫が確信を持って言い切った。
耳が動いたところを見るに、音で頼来が入浴しているのだと分かっているのだろう。
「だから、今、行くの!」
「なるほど――どういうことですか!?」
蒼猫が混乱して、尻尾をくねくねと曲げた。
「兄さんを困らせないでください!」
「困らせたいんじゃないよ? お兄ちゃんのために行くの!」
「わけが分かりませんよ、もう……」
心の底から絞り出すように言って、蒼猫が溜息をついた。
なんだか可哀相になってきて、貴女が助け船を出そうと口を開きかけた時、
「貴女、本当に反省してるんですか?」
蒼猫が抑えるような声で言った。
「兄さんを怪我させたこと、忘れてませんよね?」
それは先日の話。
頼来は仁愛によって、怪我をさせられた。
頭を打って昏睡し、さらに肋骨にはひびが入り、おまけに利き手の甲を骨折する重傷を負った。
眠っている頼来を、ずっと心配そうに付き添っていた蒼猫が思い出される。
「私は忘れてませんよ。私は……」
蒼猫が俯きかけた、その時、
「ごめんね、お姉ちゃんっ……ごめんね……」
仁愛が泣きそうな顔で蒼猫に謝った。
「お兄ちゃんを怪我させたの、分かってるよ? ちゃんと分かってるの……」
彼女は目尻に涙を溜めて、続ける。
「私、悪いことしたって……してたんだって、ちゃんと分かったの。だからね、ニャーちゃんに約束したの」
「……約束ですか?」
「うん。これからはね、ニャーちゃんだけを守るんじゃなくて、ニャーちゃんの大切な人も守るって!」
仁愛はニャー先輩を守るために生まれた体質。それゆえにニャー先輩を一番に考えて、彼女以外の人間を、怪しいというだけで拒絶してきた。
だが、その行為こそが、ニャー先輩を苦しめるものだと、彼女は知ったのだろう。
ニャー先輩の大切な人を守ることこそが、彼女の幸せに繋がるのだと。
仁愛はそれに気付いた。
「お兄ちゃんも、お姉ちゃんたちも、みんな、私が守るの! みんなが困ってたら、私がなんでもするの! 私、決めたの!」
「……そうですか」
蒼猫は先程の、悲しみとも憎しみとも取れる感情を消していた。
仁愛の言葉が信じるに足るものだと、そう思ってか、微笑んだ。
「なら、頑張ってください」
「――うん!」
仁愛が元気いっぱいに跳ねた。
一件落着した、と思われたが蒼猫は「あれ?」と首を傾げて、
「ですけど、それならなんで今、兄さんのところに行こうとしてるんですか?」
「だって、お兄ちゃん、手が使えないから……」
頼来は仁愛によって右手を負傷している。ギブスを強制的につけられたので、入浴中はビニールを被して、自由に使えないはずだ。
これからしようとしていることは、彼女なりの謝罪なのだろう。
「お兄ちゃんのお背中、流してあげようと思ったの」
「ああ…………ですけど、それはちょっと」
蒼猫は納得するが、流石に了承はできなかったようだ。
それもその筈、仁愛は精神的に幼くとも、身体は十二分に成熟している。
だから当然、素っ裸のまま行っていいわけもなく、たとえ服を着ていようとも頼来のことだから恥ずかしくて困るだけのように思えるのだ。
「やっぱり、兄さんは困っちゃいますよ。一応、貴女はニャー先輩なんですから」
「うーー」
仁愛が困ったように唸った。
そして、何か妙案が浮かんだらしく、はっとして、
「じゃあ、蒼猫お姉ちゃんがやってあげる?」
「…………え? 私?」
蒼猫が意表を突かれたように固まる。
「あ……いや、その!」
想像したのか、蒼猫は顔を赤らめて否定した。一応は考慮に入れているのか、彼女は目を泳がせて、尻尾を曲げ曲げする。
「そんなに悩むことでもないだろう? 蒼猫」
黙考し始めてしまった蒼猫を、貴女は催促する。
「兄妹なのだから、そこまで恥ずかしがることでもないぞ」
「で、ですけど……あの、私は……」
「というよりも、だ。蒼猫」
「……なんです?」
貴女は残念なことを告げた。
「君が悩んでいる間に、仁愛は行ってしまったぞ」
「………………へ?」
蒼猫はばっと首を動かしてお風呂の出口を見た。ちょうど仁愛の背中が見えなくなったところだった。
「あの子! タオルも何もつけてなかったですよね!?」
「羞恥心が芽生えているとは思えないな」
「そんなことはどうでもいいです! なんで止めなかったんですか!? ――ああ、追いかけませんと!」
蒼猫が走って仁愛を追った。当然だが、ちゃんとバスタオルを身体に巻いて。
(何してますの、永久。貴女も行くんですわよ)
「興味がないな、私は」
(私が興味あるって言ってますのよ)
「とんだ野次馬根性だな、リズ」
貴女は浴場を出て、バスタオルで身体を包んで、廊下に出て、男湯へと足を向けた。
直後、引き戸がぶつかる音と、声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん!」
「お前、何しに来たんだよ!?」
ああ、遅かったようだな――と貴女は他人事のように思う。
しばらく、ドタドタとした音が聞こえてきて、貴女が脱衣所に入ったところで、
「兄さん……」
蒼猫が開かれた浴場の戸の前で仁王立ちしていた。
貴女は彼女の背中から、ひょっこりと顔を出して、中を見る。
頼来が裸の仁愛に押し倒されていた。
「お前ら……」
「兄さん……何やってるんですか」
「あれ!? 俺が悪いのか!?」
容疑者がわけの分からないことを言う。
「当然です! 足音で仁愛が来たことなんて分かりますよね!?」
「そりゃお前にしかできねえよ!」
「せめて戸を押さえるとかできますよね!?」
「仁愛に力で勝てるわけねえだろ!?」
頼来の反論はもっともではある。
「お兄ちゃん、お背中洗ってあげるね!」
「お前はもう少し空気を読めよ!! つーか、だったらなんで押し倒したんだ!?」
蒼猫の怒りなど思慮の外らしい無邪気な仁愛を、頼来は必死で押し返したところで、こちらを見てきて貴女と目を合わせた。
「……お前まで何やってるんだよ」
「……それより、頼来。タオル外れるぞ?」
「え……?」
仁愛を押し返した拍子で腰に巻いていたタオルが外れかけており、今、外れた。
場が一瞬、凍った。
「――兄さん、最低……」
「……気落ちするなよ、頼来」
「お兄ちゃん、背中洗ってあげるってば!」
仁愛だけは全然気にせず尻尾を振り続けていた。
「――……お前ら」
頼来はタオルを拾って腰に巻いてから、叫んだ。
力の限り、叫んだ。
「ふざけんな! とにかくお前ら、ここから出てけ!!」
「そーだそーだ! 手伝わないならお姉ちゃんたち出てけ―!」
「お前が筆頭だよ!? 一番、お前に言ってるんだよ!?」
そのあと、仁愛は蒼猫に連行されて、女性陣三人はその場を去った。
(実に楽しい見せ物でしたわ)
あとで頼来にそう言ったら、ふて寝されてしまった。
こうして賑やかな日常は過ぎていく。
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