焼心アディクション
景崎 周
第1章 ピロフィリア
ピロフィリア 1-1
どうやらまた、僕という存在が消えていたらしい。
時刻は恐らく深夜だろうか。
頭上に広がる星のない夜闇には、欠けた月が浮かんでいる。
僕が立っているのは、車がぎりぎりすれ違える幅しかない一車線道路。
左右には等間隔で住宅が並んでいるが、どれも明かりはない。
月のほかに光源といったら、ぽつぽつと街灯が灯っているだけ。
僕を照らしているのは実に頼りないぼんやりとした明かりのみだった。
羽虫がたかる古ぼけた街灯に照らされ、ぐるりと辺りを見回す。
暗闇の中で、街灯は等間隔に僕へ視覚情報を教えてくれた。
見覚えのない住宅。
見覚えのない庭の草木。
見覚えのない、舗装がガタガタに削れた道路。
左側に見える二階建ての住宅も、その先の右側に見える
徒歩で移動しているから、そこまで遠くへ行っていないはずだ。
はずだが……。
ああ、もう。困ったなぁ。
誰も見ていない道端で、自然とため息が漏れる。
こんな時間に迷子になると、通行人に道を尋ねようにも尋ねられない。
深夜だからか、道沿いに人っ子一人見当たらないのだ。民家にも明かりはなく、町は不気味なほど静かだった。
このまま彷徨って誰かと出会い、不審者として通報されたらたまったものじゃない。
下を向いて確認すると、自分の服装は長袖のシャツにチノパンだった。
もし上下ジャージだったら不審者極まりないので、取り敢えず服装はセーフだ。
まあ、こんな深夜帯に十五歳の男子高校生がふらついていると、それだけで補導確定なのだが。
さて、このまま真っ直ぐ行けば帰れるのか、それとも回れ右するべきなのか。
初めての土地で迷子になっている僕には見当がつかない。
しかし立ち止まっていても迷子のままだ。
行くしかない。
覚悟を決めて僕は前進を開始した。
こういったことは今回が初めてではない。
ふと気がつくと、見知らぬ場所に立っている。
ふと気がつくと、時間が経過している。
幼い頃から長い付き合いのある、週に数回程度の頻度で発生する謎の現象だ。
特に深夜に多く発生し、眠っていたはずがいつの間にか出歩いている、なんて今回のような現象は日常茶飯事だった。
気がつくまでの記憶は一切残っていない。
それなのに靴は履いているし、寝間着から着替えている。
謎の現象に、僕は
どこかで知った病の名で、本当に当てはまっているかは知らない。間違っていたとしても特別支障はない。
呼び名があればそれでいいからだ。
これは僕が僕でなくなる病。
彷徨っている間、ユイは消えている。身体には全く別の誰かが宿って、僕の身体は操作されている。
対処法の無い奇怪で奇妙な現象にも、もう慣れた。
しかし、今回みたいに道の分からない場所まで歩いて行ってしまっていると、とても困ってしまう。
静まり返った住宅の群れは、無言のまま僕を拒む。
せめて目印になる何かに辿り着けたら、と左右を睨むが、変わり映えのしないフェンスと垣根が続くだけだった。
駐在所があったらそこで道を聞こうか。
いや、まずいな。もし、本宅の人々に連絡されたらひどく叱りつけられるだろう。
やっぱり自力で帰らなければ。
途方に暮れながら、当てもなく道をゆく。
しばらく歩いていると十字路に辿り着いた。
十字のどこにも信号は無く、街灯に寂しく照らされているだけ。
仄暗い物悲しさが漂う十字路だ。
細い一車線の道を渡った左側には小規模な公園が設けられている。
一辺が二十メートル程度しかない、薄闇の公園。
あるのは、砂場に滑り台、そして――
最後の遊具、
一人の人物を乗せてゆらゆら揺れるブランコ。
何故かとても幻想的で、目が離せなくなる。
服装と体格からして年の頃は僕と同じくらいの十代半ば。
制服だろうか。プリーツスカートに長袖のブラウスを身に着けて、俯いたままブランコに揺られている。どうやら女性みたいだ。
よし、やっと道を聞ける。
ぎいぎいと軋むブランコの音に誘われるように、僕は信号のない狭い道路を渡った。
少女は俯いたままで、顔つきは覗えない。
染めているだろう、腰まである明るい茶色の髪が邪魔しているのだ。
垂らされたくせのない髪は、月明かりと街灯に照らされて艶やかに輝いていた。
公園の入り口に立ったのに、あちらはまだ僕に気付いていない。
現在時刻が何時なのかは知らないが、こんな遅くに女の子一人とは。
ここが鳥取県
くだらない想像をしながら徐々にブランコへ近づく。
公園内へ入ると、雑草の生えた硬い土の感覚と共にスニーカーが鳴った。その音にも少女は顔を上げず、俯いたままブランコを揺らし続ける。
揺蕩う長い髪の間から、月明かりを受けた胸元のリボンが、ゆらりと光ってみせた。
鮮やかな水色のリボンだ。どこの制服だろう。
少なくとも市内にはないタイプだと思う。
隣の
十分に確認した水色から視線を下げる。
すると見えたのは、足元にある学生カバンとボストンバック。何が入ってるのか、はち切れんばかりに膨らんでおり、今にもファスナーが飛んでしまいそうだった。
二つもカバンを持ってここまで来たのならさぞ大変だったに違いない。
季節も初夏に差し掛かり、深夜でも随分風がぬるくなっている。
あの膨らみ方なら汗が流れること必至だろう。
どこから来たのかは知らないけど。
「あの、すみません」
二メートルまで距離を詰め、僕は少女に声を掛けた。
すると、少女はびくりと肩を震わせて動きを止める。
同時にブランコの揺れも止まる。
ぴたりと静止した少女は一呼吸おいて、ついに顔を上げた。
長い髪がなめらかに流れ、露わになった顔に息をのむ。
月だ、と思った。
どこまでも澄んだ、月のような顔が僕を見上げている。
予想通り年齢は高校生くらいで十五、六。
突然声を掛けられ、丸く見開かれた目はぱっちりと大きく、強気な雰囲気を帯びていた。鼻筋は通り、唇はぷっくりと膨らんで幼い印象を受ける。
強気な瞳と、幼い唇。
まるで逆の印象を持つ二つのパーツは、どちらも争うことなく絶妙に混ざり合い、世にいう美しい顔貌として成り立っていた。
どこか儚げで、凛々しく、脆い。
太陽に照らされなければ輝けない存在。
僕の中に備わる月のイメージが、名前も知らない初対面の少女によく似合っていた。
お互い動きを止めて見つめ合うこと約五秒。
少女は、すっと目を細める。
「……不審者?」
うん、まあそうなるよね。
「ただの迷子です」
「不審者は皆、口を揃えてそう言うわ」
「ごもっとも。でも本気で困っている迷子なんです」
「午前三時に迷子ねぇ。おかしな人」
「うわ、もうそんな時間か……」
予想以上に深夜だった。
もう一時間と少し経てば、太陽がこんにちはする時刻になるじゃないか。
早く道を聞いて帰らなければ。
「……時刻も知らないなんてますます怪しいわ、あなた」
「あー……。これ以上怪しまれる前に言っておくけど、僕は君をどうこうしようとしている不審者ではないよ? ただ家に帰りたいだけの正真正銘の迷子。ちなみにここは何町のどこ公園かな?」
「信じないわよ」
救いを求める迷い子に
だが引き下がるわけにはいかない。
「信じなくても構わないから現在地を教えて。本当に困っているんだ」
会話はここで途切れ、またじっと見つめ合う。
少女のじっとりとした視線が突き刺さって痛かった。
昼間ですら、見知らぬ男に道を聞かれたら気をつけろと諭される世の中だ。僕も中学生の頃に嫌というほど耳にした。
深夜三時の公園で、迷子を自称する十五歳は、はたから見れば不審極まりない。
同様に、深夜三時の公園でブランコに揺られている彼女も不自然極まりないのだが。
「あなた、名前は?」
「
「年齢は?」
「十五歳」
「学校はどこ?」
「えー、言うの?」
「学・校・は・ど・こ?」
「……
「学年は……一年生よね」
「ご名答」
「そう。どこに住んでいるの?」
「
「携帯電話の番号は?」
「持ってない。扶養者の方針でね」
「ふーん、今時珍しいわね。身長は?」
「四月の身体測定の時点では百七十三センチ、だったかな」
「体重は?」
「重く見積もって五十キロ台前半くらい」
「聞くまでもなく見るからにもやしね」
「返す言葉もございません」
何を隠そう、僕はまごう事なきもやし体型である。貧弱さでは誰にも負けない。
「で、本当に不審者ではないのかしら?」
「散々尋問しておいてまたそこから始めるの?」
「嘘かもしれないでしょう?」
「勝手に嘘つきにしないで。人を欺くのは苦手な方だから」
怒涛の尋問攻撃に、一切嘘はついていない。これで信じてもらえないと、僕がただ個人情報を無意味にひけらかしただけになる。
どうか信じて欲しい。
密かに懇願する僕を少女はずっと見上げていた。
懇願が届いたのか、払い捨てられたのか。
無表情の少女は、視線を外して再びブランコを漕ぎ始める。
「自称正直者さんに教えてあげる。ここは
ブランコを揺らして、少女は右を指さす。
その方向は、僕が今まさに歩いてきた方向だった。
進むべき道を見事に間違えていたらしい。
「ありがとう」
道を聞けたのなら、もう少女に用はない。
僕は踵を返して歩き出す。
変わった子だけど、情報は手に入れた。
二度と関わることのない月の少女をさっそく記憶から消していく。
「あ、そうそう」
四歩目を踏み込んだところで、少女は思い出したように声を発した。
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