第32話
息を潜め、おぞましい壁の向こうの光景をできるだけ見ないようにしながら、タチバナは精神病棟を進んでいく。闇夜にうごめく猫のような柔らかく素早い動きで、気配を消して、足音を立てないように、奥へ、奥へ。タチバナにはどうしてもやらなければならないことがあった、うやむやのまま、全てを終わらせるわけにはいかなかった。ひどく精神を消耗して意識を失ったままのゼロシキが気がかりではあったが、しかし研究所全体が混乱状態にある今こそ、タチバナがずっと隠してきた目的を遂げるチャンスなのだ。
重く冷たい壁に囲まれたドアの前までやって来たタチバナは、慣れた手つきで認証式のロックを外した。ゆっくりとドアが開き、誰もいないことを確認すると、タチバナはするりと部屋の中へ侵入する。沈鬱として湿った空気が立ち込めて、かび臭いにおいに満ちていた、タチバナは思わず手で鼻と口を覆う、その部屋は一秒ごとに体を蝕んでいくような嫌な感覚をもたらした。部屋の中を見回し、無駄のない観察で目的の資料のある場所に見当をつけると、タチバナはそこからデータ保存様のボックスを見つけ出す。黒い立方体は無機質なオブジェのようだったが、やはり生体認証装置を備えていて、タチバナが《機械》を巧妙に操ってロックを外すと、端子の接続箇所が姿を現した。そして、持ち込んでいた電子機器を取り出してそのボックスに接続したタチバナは、まるで手品師のような手さばきでそれを操作し、必要なデータを検索しながら保存していった。
――やっぱりあった……。
誰もいない部屋でタチバナがつぶやき、手を止めて画面に表示されたデータに見入る。それは、とある薬品の投薬実験とその結果の、膨大な記録と解析だった。タチバナの顔がみるみるうちにこわばり、顔は青ざめ、何かあふれる感情を抑えるように唇をかんだ。それこそが、タチバナがずっと探し求めていたもので、この精神病棟の一室に忍び込んだ理由だった。
――早く、ここを出ないと。
そう思った瞬間だった、突然何かが弾けたような音がして、部屋の明かりが点く。タチバナは驚いて、どうにか身を隠そうとするが、すでに遅かった、そして、隠れる場所などなかった。
「なああああああああああああああ、あ、あ、あ、に、あに、してるのお?」
キドが入り口に立っている、感極まったような叫びを発し、口もとには白く乾いた泡をためていた。タチバナは何も答えない、ただ、身構え、目玉をぐるぐる動かしながら喋るキドの出方をうかがったままでいる。
「ダメダメダメだよお。そんなド・ロ・ボ・ウしちゃあだめだよおお? ネ・ズ・ミちゃあああんんんあんあん?」
タチバナはキドから目を離さず、机の陰に隠した《機械》を構えていた。
「喋んないのお? フルー・レン・メタルちゃああああああああああああああああああんん?」
びくっとタチバナが肩を震わせた。そして驚きと恐怖と敵意の入り交じった表情で、キドをじっと見る。
「……よくご存知だこと」
やがて落ち着いた様子になり、タチバナはため息をつくかのようにそう言った。
「イヒ! 大人をなめちゃあいけないよお? ベロベロベロ。イヒヒ! 君が僕の周りをかぎまわってるみたいだから、僕も君の周りをかぎまわっちゃたのよおお! クンクンクン」
「その名前を知ってるってことは、私の素性をつかんだってことね」
「そ、そ、そそ、そうなのよん」
「私も、だいぶあなたの素性をつかませてもらったけど」
「ウヒャヒャアアア! 生意気だなあ。だめだよお、子供は素直じゃなきゃあああ」
そのまま、わずかの間、二人は膠着状態になる。《機械》を持ったタチバナからすれば、キドを叩きのめすくらい造作も無いことのはずだったが、キドの妙な余裕が気になった。キドは気持ちの悪い笑みを浮かべながら、薄い青紫の唇のすき間から黒い舌をちろちろと出し入れしていた。タチバナは、どうすべきか考えていた、スキをついて逃げるのか、それとも、キドを抹殺するのか。タチバナにとって、キドは絶対に許すことのできない相手だった。
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