第23話
「……なぜ、そんなことを俺に話すんだ?」
しばらくの沈黙の中、二人は向き合ったままだったが、やがてぽつりとゼロシキが言葉を漏らす。
「知っておいて欲しいと思ったから。死神に家族を殺されたコも多いけど、そうじゃないコもいるんだよ。そして、そういうコのほうが、きっと強い虚無を抱えてる。もしかしたら、ゼロシキも」
「俺は、自分の過去に興味はないな。それに、俺たちは正反対だ。タチバナには記憶があって、俺には全くない」
「それは、もしかしたら、ゼロシキが自分で無理矢理記憶を封じ込めたからじゃないの? それぐらい強烈な虚無を生み出すような、そんな体験をしたんじゃないのかな」
「憶測だな。証拠がない、だから無意味だよ、どのみち答えは出ないだろう」
「じゃあ、ゼロシキはどう思ってるの?」
「俺か? 俺はたぶん、虚無を抱えたサイボーグとしてごく最近生み出されたんだ。だからそもそも記憶なんかない」
「そんなわけ……」
「もちろん冗談だ。タチバナの意見と同じように、憶測で無意味だってことさ」
「でも、自分の記憶がなくなったままでいいの?」
「記憶なんか大した問題じゃない。自分が何者かなんて、知っていようが知るまいが、生きていることには代わりはない。人間は動物で、野生の生き物だ。記憶やアイデンティティみたいに、自分の存在を根拠づけるものを必要以上に欲しがるのは、頭でっかちな連中のすることにすぎない」
「じゃあ、その記憶を取り戻すつもりはないんだね」
「そうだな。結局、俺は戦いの中で生きている、戦いに必要ないものは、俺が生きる上でも必要ないものだ」
「その、戦いに対する強迫観念は、本当にゼロシキを救ってるの?」
「救われたいとは思ってない。救われないという認識と、虚無の完全性こそが、俺を満たしてくれるものだ。虚無を恐れるのは、中途半端にしかそれを手にしていない人間たちだ」
「私のお兄ちゃんも、強烈な虚無を抱えてた。幼い私には、活発で強い人間に見えたけど、今から思ってみたら、とても神経質な顔を見せることがあって、とても危うい脆さを抱えてた。説明のつかないような虚無に、生まれてからずっと取り憑かれて、どうすることもできなくて。元気に見えてたけど、本当はどこかで壊れそうになってたの。本人もそれに気づいてなかったんだと思う、だから、それに上手く対処できずに、結局バラバラになってしまった。ゼロシキ、あなたはきっと、私のお兄ちゃんよりずっと強い虚無を抱えてて、そしてずっと強い人間だから、それでも正気でいられる。でも、それじゃあ、いつか限界が来るはずだよ」
ゼロシキは思ってもみなかったようなことを言われ、戸惑い、ほとんどにらむようにしてタチバナの顔を見る。タチバナは穏やかな表情をして、しかし視線は強く、ゼロシキを見返していた。
「限界、だと?」
「そう。お兄ちゃんがそうだったようにね。戦いでは、きっと救われない。それに、もし戦いが終わったら? その時、ゼロシキはきっとおかしくなる」
「結構だ。狂気もまた、人間の生の一部だからな」
「自由さえあればね。でも、そこには最悪の結果が待ってるよ。キドの精神病院、知ってる? 寝袋みたいなものに押し込められた精神病患者が、快楽の妄想を脳に流し込まれながら、一日中夢のなかでヘラヘラ笑ってるの。あれは地獄、患者たちは幸福感の中にいるけど、あれは人間の生なんてものじゃない。実験用のモルモットや昆虫以下の扱いをされるの。ゼロシキ、そんなふうになりたくないでしょ?」
ゼロシキはタチバナをまだ見ていた、なぜ、タチバナはここまでキドがやっていることに詳しいのかと思いながら。ただ、あえてそれを問いただそうとは思わない、そんなことは、戦いには関係ないからだ。
「そうだな、だから、俺はきっと戦いの中で死ぬのが一番いいんだろう」
「そうはさせない」
タチバナの語気が急に、この場に不釣合いなほど強くなる。
「なんだよ、急に」
「あなたは、まるで私のお兄ちゃんと一緒なの。虚無を抱えてて、それをどうにもできなくて、そこにあえて自分を追い込むことで救われようとする。でも、それではだめなの」
「じゃあ、どうしろってんだ?」
食ってかかるようなタチバナの態度に、ゼロシキは困惑しつつも、肩をすくめて余裕を保とうとする。
「分からない」
「分からない? ただのおせっかいでやってるだけか? いいかげんにしろよ」
「分からないけど、私はそれをやらなくちゃいけない」
「何でだ」
「私は、お兄ちゃんを救えなかったから。ただ怖がって何もできずに逃げただけ。誰かの後ろに隠れていたいっていう弱さを、断ち切らなきゃいけないの。もう二度と、同じようなことはしたくない。だから、このままゼロシキが壊れていくのを見逃すわけにはいかない。私は、あなたを救わなきゃいけないの、絶対に」
「俺はそれを必要としていない」
「他の方法があるってことを、知らないだけだよ。私がなんとかしてあげる、必ずね」
あきらめたように、ゼロシキは余計なお世話だとばかりに再び肩をすくめ、視線をゆっくりそらした。そして、クロガネが持ちかけてきた薬のことを考える。それは、紛れもなく自分の存在の全てを虚無の深淵へと投げ込む行為だった。恐ろしいことに聞こえるかもしれないが、少なくとも自分は、恐怖を遥かに凌駕するほどに、虚無に魅入られているのだ。他の方法? まさか他の少年たちと同じような、家族のイメージにすがるとでもいうのか。自分は家族といったものに全く愛着を持たない、そもそも、その感覚を持っていないのだ。家族や母性といったものは、普通の人間にとって無条件に自己を受け入れてくれるものなのかもしれないが、自分にとっては欺瞞でしかない、あるいは自分を拒絶するものだという感覚すらあった。おそらく、自分にとって虚無以外の方法は論外だ。虚無こそが自分のすべてだった、自分は虚無から生まれ、虚無へ帰っていくのだ、ただそれだけのことにすぎない。タチバナは自分の兄を不幸な人間のように語るが、自分に言わせれば、その虚無と行為の程度は中途半端だが、彼はきっと幸福の中で死んだのだろうと思える。虚無は、入口において人間を不幸にするが、出口においては人間を幸福にする。ゼロシキは、そんなふうに思っていた。天国は高い所にあり地獄は低い所にあると人は言う、だが、実際はそうではない、天国と地獄の両端は輪っかのようにつながっていて、地獄の極限へ進んだ人間は、天国の極限に到達するのだ。
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