第20話

 ――おかえり。


 クロガネが大学から帰ってくると、いつもユキは静かにそう言って出迎えた。おぼつかない動きで手のひらを動かす、そのユキの手を、クロガネがそっと包むように握る。ユキは笑顔になり、その手でクロガネの顔に触れ、その感触を確かめると、ようやく安心した子供のように、クロガネの肩にもたれて静かに呼吸をしていた。視線は、どこか宙に浮かんだまま、霞のように漂う。瞳には、闇の中で遠くに揺れる花火の最後の一筋のように、ほんのわずかで頼りない光が、ちらちらと輝いている。クロガネはユキの手をとって、部屋へ向かう。ユキは、つまづかないように慎重に、ただクロガネに身をゆだねているおかげでいくぶんしっかりとした足取りで、床を歩く。


 ユキは、ほとんど目が見えないのだ。


 子供のころに病気で視力を失い、その黒く透き通った瞳が感じることができるのは、ぼんやりとした光と影のコントラストくらいになってしまった。だから子供の頃から一緒だったクロガネは、いつもユキのそばにいて世話を焼いていた。いつも一緒で、だからお互いのことを何でも知っていた、そして心も通じ合っていて、互いの気持ちがよく分かっていた。クロガネには、ユキの気持ちがよく分かっていたはずなのだ。周囲にとっても、二人が一緒にいることは自然だった。あまりに自然で、二人が互いに愛し合うようになったことにも、誰も気付かないくらいだった。それは別に、一心同体というようなものではない、思考が論理的で科学に身を捧げるクロガネと夢見がちで音楽や芸術を愛するユキとは性格が全く違っていた。だが、互いの趣味だとか関心だとか、考え方だとか、そんなものの違いには到底左右されないほど、互いにどれだけ異なっていようが関係ないほど、二人は説明し難いような絆で結ばれていたのだ。そして二人は、互いに最大の理解者どうしだった。理解するというのは通常の意味とは違っている、ユキにはクロガネの研究のことはさっぱり分からないし、クロガネも芸術や音楽について洗練された感受性を持っているわけではなかった。そういう意味ではなくて、互いに、互いの存在そのものを無制限の寛容さで受け入れあうことができたのだ。


 ユキを連れて、クロガネはあちらこちらへ出かけた、街中へ、コンサートへ、映画館へ、海へ、二人だけで。目が見えなくても、ユキは楽しそうだった。ユキはできるだけ外へ出たがったし、クロガネも、ユキが視覚障害のせいで家にこもりがちにならないようにしたかった。東京ヘブンズゲイトの住人であれば、付き人の一人や二人くらい連れるのは簡単な事だったが、クロガネもユキも、できるだけ二人きりでどこかへ出かけて時間を過ごすようにしていた。


 そして家に帰ると、人目を忍ぶようにして、こっそり部屋で二人きりになる、世界から隔離された孤島のようなベッドの上に寝転がり、そのまま何もせずにじっとしていた。ユキはいつもクロガネの胸に耳を押し付け、目を閉じて、その心臓の音を聞いていた。こうしていると、クロガネの顔がよく見えるのだと言う。


 「どんな顔?」


 もちろん、見えるといってもそれはユキの頭のなかのイメージにすぎない、だから、クロガネはそれがどんな姿形をしているのか知りたくて聞いてみる。


 「変な顔」


 ユキはいたずらっぽく笑って、小さな犬のように、膝を抱えてうずくまった。長い髪の、ほんの数本がクロガネの顔にふわりと落ちて、鼻先をくすぐった。そのこそばゆさと、ユキにたいする愛おしさのせいで、クロガネはとても幸せそうに笑う。


 しばらく、二人はそのままじっとしている。互いの、体温と、息づかい、心臓の音。それが世界の全てだった、そしてクロガネは、それが世界の全てであって欲しかった。いつのまにか、ユキは眠たそうに、重くなるまぶたに目を閉じかけている。


 「眠ったらいいよ」


 クロガネがほほえむ。ユキはこっくりとうなずいて、そのまま目を閉じていった。眠りの間際で、ぽつりぽつり、ユキが話しかけてくる。


 「離れないでね、私のそばを」


 「離れないよ」


 「絶対だよ」


 「心配いらない」


 それを聞いて、安心したのか、ユキの声は徐々に小さくなって、ふっと消えるように、寝言のような最後の言葉をもらし、眠りに落ちて行った。




 ――ずっとそばにいてね、お兄ちゃん……。

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