第18話

 もし、地獄の鬼がアクアリウムを持っているとすれば、それはちょうどこんな感じだろうか――クロガネはそんなことを思う。目の前にあるガラスのしきりの向こうでは、悪趣味極まりない「実験」が行われている。ミノムシのようにぶら下がった精神病患者たちが、だだっ広いスペースに均等に配列され、脳みそに直接注入される快楽におぼれながら、不随意に、ぐるぐる、ぐるぐる、と回り、そして、同じ様に快楽に狂いよがる互いの姿を見ている。そこにはうめき声に似た、快感に震える患者たちの吐息が充満する。


 「や、やっぱり、喜びっていうのは、分かち合う人間がいるほうが倍増するんだよね」


 クロガネの後ろで、キドが嬉しそうに解説していた。


 「いったい何をやっているんだこれは?」


 「コココ、これ? 面白いだろう? いつもはひとりぼっちの患者のみなちゃんたちを、今回は一緒にしてあげたんでちゅよ。ぶひ、ぶひひ。人間っていうのはね、どうしてもどこかで他人を求めているもんなんだよ。彼らのような社会と相容れない精神病者たちも、やはり他人のにおいに触れるほうが、快感も飛躍的に増していくのさあああ、あ、あ。それどころか、どうやら彼らは他人の存在に触れることで、始めて本当に満足に近い感覚を得てさえいる」


 ガラスの向こうで、一人の患者を吊り下げているロープの金具がギシギシと音を鳴らした。すると、それに共鳴するように周りの患者たちが体をびくんびくんと震わせ、ロープが揺れる、さらにその周りの患者たちも体を震わせ、たちまち部屋全体ですべてのロープの金具がギシギシと鳴る。まるで暗く湿った洞窟の中で、無数のコウモリがいっせいに鳴き声を上げて飛び立ったかのようだった。


 「満足……。それは、快感とは別種のものだということか」


 「イヒヒ! そ、そうなの。僕は結局まやかしだと思うけどねえ、えへ、エヘヘ」


 「これは、病院での『治療』に役立つのか?」


 「そりゃそうさ! 患者が満たされ骨抜きになると、彼らはもう社会に脅威をもたらす存在ではなくなるからねえええ。快感を取り上げ鬱屈とさせる去勢なんかより、よっぽっぽっぽど有効な方法さ! ウヒ!」


 「私としては、完全な虚無を実現する方法を研究して欲しいところだが」


 「だ、大丈夫だよお。結局、この患者たちが満たされるのとは正反対のプロセスを加えてやればいいんだから。孤立させ、いっさいの喜びを奪い去り、奈落へ奈落へ突き落とし、無力さの地獄の底で、虚無だけに救いを求めるようにしてやればいいのさ」


 「それが分かっているのなら、なぜ少年たちの虚無は中途半端になるんだ?」


 「うーーーん、ん、ん。それが難しい所さ、そこはブラックボックスだねえ。ほとんどの人間は、虚無に近づくほどその対称物のようなものを求めるのさ。中途半端な虚無を持つ人間は、何か自分を満たしてくれる温もりみたいなものを。そして強烈な虚無を持つ人間は、超越的なものを求めがちだね。神とか、そういうのが分かりやすい例さ」


 「虚無が強まるほど、人間は愚かになるのか」


 「ブヒャ! そりゃいい言葉だね。言い得て妙だ。そ、そ、それでもね、またそういうのとは別種の人間もいるんだ。極めて少ない数しかいないけど」


 「具体的には?」


 「虚無そのものの中で生きようとする人間さ。虚無に快感を見出し、虚無だけを救いにする。温もりも、神も必要としない、虚無の化身のような、そういう人間だ」


 「あの少年は、それに近いということか」


 「近いね、でもそういう人間そのものじゃない。あのカワイコちゃんにも、少しは気の迷いみたいなものがあるみたいだしね。ででで。でも、良い線行ってるよ。あのコは、虚無に快感を見出してる。虚無を求めてるのさ、もっともっと虚無を欲しがってる」


 見れば見るほどおぞましい気配をさせているヤツだと思い、クロガネは、嬉々として喋るキドの様子を観察している。クロガネの横、ガラスのしきりの向こう、すでに金具がきしむ音は止んでいた。


 「そこで、だ」


 クロガネは静かなトーンで本題に入る。相手のペースに巻き込まれないように、わざとゆっくり、間を空けながら喋る。


 「な、何かな」


 「お前も話は聞いているだろう。非常に強力な死神が現れた、そして分はかなり悪い。このままでは少年たちは全滅し、この東京の中心に死神をとどめておくことはできなくなるだろう。そうなれば世界中に死神が蔓延し、やがて人類は最後の一人まで首を刈られることになる」


 「ヒイイイ。こ、恐いねえ。ブヒヒ! ぼ、僕ちゃんは、地下シェルターでも作ってその中にこもろうかなあ」


 「冗談を言ってる場合じゃない。現時点で《機械》の性能を急激に上げるのは不可能。つまり、考えられる手段はただ一つ、完璧な虚無を抱えるサイボーグのような人間を作り出すことだ」


 「いい響きだねえ、その言葉! つつつ、つまりい、僕のお薬が必要だってことだろう?」


 クロガネは苦々しい顔でうなずく。もはや、手段は他にないのだ。


 「で、でもさあ。薬を使うだけじゃなあー。やっぱりいい機会だし、虚無を最高純度まで高めたいなあー。ねえええ、クロガネくううん?」


 「……それも、少しは考えてある」


 「へえー。どんなんだい?」


 「あの少年には、多少仲良くしている少女がいるようだ」


 「ウヒ! いいねえええ。やっぱりティーンネイジャーだねええ。す、素敵じゃないか。ラブラブなのかい?」


 キドの妙なはしゃぎ様に、クロガネはつくづくウンザリする。


 「あまり期待はできないかもしれない。あの少年は、すでにその少女を自分から遠ざけることを選んだようだ」


 「フフフ、フフフ! まあ、十代のコは複雑だからねえ。表面的にはそうでも、実際はどうか分からないよう? 特にあのコにとっては、そういう感情は全く想定できないものだろうから、特に戸惑っている可能性もあると思うなああ。ヒヒヒ、ヒヒヒ」


 「どうだろうな。やってみないと分からない話だが、結局」


 「そうだねえ。でも、それを聞いて安心したよ! あのコはやっぱり、普通のコたちみたいに虚無を埋め合わせるものを求めるのではなく、虚無そのものに救いを見出す素質があるってことだからねえええ。グフ、グフフ」


 「上手くいくと良いが」


 「お薬は完璧だよおお。だから、後はどれだけあのコが期待に答えてくれるかだね。そ、そ、それでさあ、いつやるのおお?」


 「今、あの少年と例の少女を調査団として東京ヘブンズゲイトに派遣している。それが帰って来てからだな。できるだけ、早いこと決着をつけたい、もたもたしている時間などないからな」


 「おやおや、おやあ、思い切ったことをしたねえ。万が一、彼らが君の触れられたくない部分に触れてしまったら、どうするつもりなんだい?」


 「何のことだ?」


 確かに、東京ヘブンズゲイトについて、クロガネには触れられたくない部分がある。だが、常にカマをかけるようなキドの前で、クロガネは表情ひとつ変えずにシラを切ってみせる。キドはそれ以上何も言わずに、いつもの気味の悪い笑いを浮かべているだけだった。


 「まあいいよおお。でも、た、た、た、楽しみだなあああああああ! 待ちきれないよ。早くしようようようよう」


 「さっきも言ったように、彼らが戻り次第すぐにやるつもりだ。死神も加速度的にその強さと数を増している状況だ。いずれにせよ、もはや死力を尽くした消耗戦で最終決着をつけることを考えなければならない段階にきていることは間違いない。遅かれ早かれ、という話だ」


 「うんうんうん。早くしたほうがいいよおお。それにね、前にも言っただろ、ネ・ズ・ミ・ちゃん!のことなんだけどさ」


 「お前の周りを嗅ぎまわっているスパイのことか?」


 「僕だけじゃないよお。何だかね、いろいろ情報をつかんできているような気がするんだよねええ、そのチューチューちゃんが。だ、だ、だから、早くしないと、クロガネくんも追い込まれるよおおお?」


 「……よく分からんな。それが誰なのか特定はできているのか?」


 「それがね、まだ確信はないんだなああ。でも、どうも長期間に渡って、慎重にこの研究所のことを嗅ぎまわっているような雰囲気があるんだよねええ」


 クロガネは黙っていた。すでに、自分がしてきたことがバレているのかもしれない。しかし、それにしても、いったい誰が何の目的でそんなことをしているのというのか。


 ――ナルセ?


 いや、そうではないだろう。今さら、いったい何をしようというのか。ナルセがそんなことをする動機がよく分からない。クロガネには、結局キドの言うことが事実なのか、それとも何かの意図で自分をだまそうとしているのか、つかめなかった。ただ、どちらにしても、自分にやっかいなことが起こる前に決着をつけたほうがよさそうだった。何よりも、クロガネは疲れていた。もう、これ以上重荷を背負うことに、耐えられそうになかったのだ。もう、全てを終わらせてしまいたい。


 ――ハルミ……。




 ガラスのしきりの向こうで、またロープの金具がいっせいにギシギシと揺れる音がする、そして、こちらの部屋の中にはキドの笑い声が響いていた。しかし、クロガネには何も聞こえていない、頭の中に浮かぶハルミの姿を追うように天井を見上げ、その記憶の泉に沈んだまま、じっとしていた。ついに、自分の魂の全てを悪魔に売り渡す瞬間がやってこようとしている、だが、もはや何もかもが麻痺していた、ただ取り返しの付かないところまで追いつめられ、押し流されるように、クロガネは自分の仕事を完成させようとしている。もはや、それがいったい誰のためなのか分からなくなってしまっているのに。ハルミのためではないだろう、ハルミの母親のためでもない、そして、もう、自分のためですらないのだ。

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