第8話

 ――おかえり、父さん。


 クロガネが研究所から帰ってくると、いつもハルミは静かにそう言って出迎えた。そしてまたすぐにピアノに向かい、ずっとドビュッシーの曲を弾いている。ハルミの、母親が好きだった曲なのだ、もっとも、ハルミは母親の面影など全く記憶にはないが。クロガネと息子のハルミの間に会話はない。別に仲が悪いということでもない、しかしそれだけいっそう、クロガネはハルミにどう接していいのかが分からない。ハルミは極度に内向的な少年だった。そして、クロガネの理解など到底追いつかないくらいの天才だった。クロガネが研究所に行っている間、どうも独りで何かの研究に打ち込んでいるようだったが、それが何なのかクロガネは全く知らない、ハルミ自身も、それについて何も話そうとはしなかった。ハルミは学校には行っていない、そもそもそんな必要のない天才なのだが、理由は別にある。ハルミは、特殊な病気にかかっていた。進行性自己同一性喪失症――病気の原因を全く特定できない医師たちはそんな病名をレッテルとして貼りつけた。ハルミは、日に日に、自分が自分であるという感覚を失っていたのだ。それは少年にとって尋常でない恐怖であり、他人の想像を絶する苦痛を強いられることだった。朝起きると、まるでその瞬間生まれたかのように、そこに放り出されているような感覚に迎えられる。記憶はあるのだ、しかし、それが自分の記憶だということが理解できない。まるで、遠くで明滅するテレビ画面を眺めているように記憶を見つめ、しばらくしてようやくそれが自分の記憶だということが理解できる。そこで始めて、自分は昨日も存在していたのだということに気づく。意識だけではない、自分の手や足が、自分のものだという感覚がなくなる。枕元に置いてある電話やノートパソコン、机の上のペンやコップ、棚に並んだ本、そういうものと自分の肉体が別のものだという感覚がないのだ。ベッドの上でだらりと横たわった手足が、自分の意思によって動くのだということに、毎朝時間をかけて気づく必要があった。自分の体、記憶、名前、意識、そういうものが、毎朝起きるたび、どんどんどこか遠くに消えてしまおうとしている――ハルミは、自己の喪失に苦しみ発狂しそうになる自分の心の安定をどうにか保つために、昼は研究に打ち込み夜はずっとピアノを弾き続けていた。自分の頭と体をフル回転させるそれらの作業は、ハルミが起きて活動している間に自分自身がバラバラになってしまわないようにつなぎ止める引力となってくれた。毎晩、眠る前が一番恐ろしい。明日になったら、自分はもう自分ではなくなっているかもしれない、普通の人にとっては柔らかで暖かな安息が、ハルミにとってはそうではなくて、まるで徐々にベッドが裂けて地獄の口が開き、ずるずるとそこに飲み込まれていくような感覚だった。ハルミは毎日日記を書いた。そしてそれに自分の写真と名前をメモ書きで添えて、寝る前に枕元に開いたまま置いておく、きっと、明日も自分が自分でいられると信じて。


 「今日、ナルセさんと電話で話したよ」


 ある時、突然ハルミがそんなことをクロガネに言った。ナルセがすでに研究所を去っていた頃で、それ以来クロガネとはいっさい連絡を取っていなかったが、ハルミとは数ヶ月に一回程度連絡を取っている様子だった。


 「……何か、言ってたか?」


 正直、クロガネはナルセという名前をあまり聞きたくはなかった、どうしても、居心地の悪い気分にさせられる。


 「元気にしてるって。それで僕の研究について少し意見をもらって、あとは昔の話を少ししたくらいだね」


 「そうか」


 自分とナルセの間に何があったのかを探っているかのようなハルミの視線をかわそうと目を伏せて、クロガネは小さくうなずいた。クロガネは片親でハルミを育てていた、研究で家にいることができず、そのせいで幼い頃のハルミはほとんどの時間を研究室に割り当てられたクロガネの個室で過ごしていた。クロガネの親友だったナルセはちょくちょくハルミの面倒を見てやっており、ハルミにとってはほとんど二人の父親がいるようなものだった。クロガネからすれば、愛想が良くて子供に好かれる性格のナルセのほうがよほど父親らしく、研究所の中で楽しそうに遊んでいるナルセとハルミを見ていると、まるで自分が第三者のようにすら感じていた。ナルセが研究所を離れた今でも、数ヶ月にたった一度電話するナルセのほうがハルミとの関わりは深い、クロガネは息子とほとんど会話をしていなかったのだから。


 「ナルセは今、何をしてるんだ?」


 「よく分からない。それについて聞いたことはないよ。ナルセさんもあんまり喋りたそうじゃないしね」


 「そうか」


 クロガネは後ろめたそうに、また目を伏せてうなずいた。それで会話は終わってしまう。ハルミはしばらく目を伏せたクロガネを見ていたが、猫のようにふいとそこからいなくなり、いつの間にか、またピアノを弾き始めるのだった。隣の部屋から聞こえてくるドビュッシーを聞きながら、クロガネはハルミの母親のことを思い出していた。クロガネの頭の中には、いつも彼女のことがどこかにこびりついているようだった。ハルミを見ていても、どうしてもその面影が息子の中に残っていないか探してしまうのだ。クロガネは眼を閉じる、そして闇の中で、ふと、自分が息子のことを、息子自身だけについて考えたことがあるのだろうかと思ってみる。自分は、いつも息子を通して、彼女のことばかり見てしまっている。たぶん、それもまた、自分が息子とうまく関われない理由の一つなのだろう、そしてクロガネは一つため息をついた。少し、体が重い、どうも連日続いた研究所の仕事で疲れが溜まっていたらしい。クロガネは横になり、そのまま、水の中に落ちてすっと消える小石のように、眠りの奥底へと沈んでいった。






 そして、目を覚ます。クロガネは研究室にいた。夢か、と呟いて、机に置いたままになっていたデジタルフレームを拾い、そこに写真を表示させてみる。自分と、ナルセが肩を組み、その間で幼いハルミが笑っている。もう、全て消えてしまった。ナルセは研究所を去り、ハルミはいなくなってしまった。そして自分一人が、結局長いこと研究所に残ってしまった。自分はいったい何をやっているのだろうか、何度も何度も自分に問いかけてきた。贖罪――ひと言でいうならばそうなのだろう。しかし、その言葉にはずいぶん大げさな響きがある。自分の場合は、それよりもずっと滑稽だ。タカマツが口を滑らせたように、いたずら好きの神がいるのならば、自分を見て笑っていることだろう。クロガネは天井を仰ぎ、忌々しそうな苦笑いを頭上の存在に送ると、また自分の仕事に戻るべく、デジタルフレームを引き出しの中へとしまった。

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