空間調律師スピカ

深海雪加

第1話 2つの記憶

「じゃあまず一番大切な情報である君の名前から教えてもらおうか」

 目の前の男はじっと少年を見据えた。

「スピカ……いえ、違います。僕は川崎としみつです」

「なるほど。親御さんから事前に聞いた情報だと君の名前はスピカではなく川崎寿光なんですがね。うーむ、こういうケースの場合はどこから話を聞けばいいものか。そうだね、まずは家族旅行の話から私に聞かせてもらいましょうか。この前の夏休みに東京に行きましたよね。その時何をしたか最初から話してもらえますか」

「はい。最初に電車に乗って……」

 寿光は旅行での出来事を順番に話した。電車と新幹線を乗り継いで東京に行ったこと、親戚の家に行ってごちそうを食べたこと、水族館でアシカショーやイルカを見たこと、人気のキャラクターグッズショップに行ったこと、テーマパークで遊んだこと……男は寿光の話を無表情で聞き続ける。

「帰りは東京駅から新幹線に乗って、それから普通の電車に乗り換えました」

「どの駅で乗り換えたか覚えていますか?」

「新幹線を降りた駅の名前は覚えてないですけど、最後に降りた駅はこうじょう駅です。そこの駐車場に車を停めていたので後は家に帰るだけでした。車に乗ったのは覚えています。山の方に向かって、そこに家があるはずだったんです。でも、家がなかったんです。あの辺りには人が結構住んでたんですけど、家も何もなくてただ森になっているだけでした。慌てて駅に引き返したらこうじょう駅もなくなっていて、そこから先はよく覚えていないです。気がついたら僕は行方不明になっていたということになっていて全然知らない場所へ連れて行かれました。そうしたら、僕が元々住んでいた場所はそこだって言われたんです」

 男は書類に目を通した後、寿光に真っ白な紙を差し出した。

「こうじょう駅の字はどう書きますか?」

 寿光は小さな字で「虹条」と書いた。

「なるほど。ここまでは事前に聞いていた話と変わりはありませんね。あなたは虹条という街に住んでいてそこから東京に家族旅行へ出かけた。そして家に戻ったら虹条という街自体がなくなっていた」

 その通りだ。今まで何回も大人たちに話したことだ。

「ご存知の通り、今の日本に虹条という街も駅も存在はしていません。あなたは生まれた時から今の町に住んでいます」

「僕はおかしくなっちゃったんでしょうか」

 男は書類が閉じられたファイルを閉じた。

「あなたに起きた出来事が珍しいかと言われると微妙ですね。よくあることと言われればそう思いますし、珍しいと言われればそうとも思います。ただ、これだけは言わせてください。あなたに起こった出来事の原因を調査するのが私の仕事です。あなたは安心して私の言うことに従えばいいと断言できます」

「言うことに従うって、具体的には何をするんですか」

「今日はお話を聞くだけのつもりでしたのでもう帰っていただいて結構です。ただ、これからは一ヶ月に一回ここに通ってください」

 一ヶ月に一回。そう聞いて寿光は気が遠くなりそうになった。今日ここまで来るため父親に二時間かけて送ってもらったのだ。朝の七時に出発してここに着いたのが九時。それからいろいろ質問をされて、何もない部屋で数十分待って、別の人にも質問をされて……ということを繰り返し今は午後の三時を過ぎている。家に着く頃は外が真っ暗になっているはずだ。

「あの、毎月ここに来るのお父さんも忙しくて大変かなって」

「今日はお父さんからも話を聞くために来てもらいましたが、次回からはあなた一人で来てもいいですよ。ここは駅のすぐそばにありますから電車を使ってはどうですか。もしかしてスポーツや習い事で忙しいでしょうか。それなら私が直接顧問や先生に話をします。調査だと言えば先生も断ることはできませんから」

「お金は……」

「こちらで出します。調査であなたの家族に金銭的な負担がかかることはありません」

「あと何回来ればいいんですか。いつもこれくらい時間がかかるんですか」

「あと何回来るかは何とも言えませんね。全てはこれからの調査の結果次第です。最悪一生来てもらう必要がある可能性もありますが、場合によっては数回通って終わりかもしれません。時間は今日ほどはかかりません、半日で終わるでしょう」

 男は自身の腕時計に目をやった。

「そろそろ行きましょうか。お父さんも待っていますから」

 父親の待つ応接間に向かう長い廊下にはたくさんの扉があった。白衣を来た人やスーツを来た人数名とすれ違った。それらの人が普段どんな仕事をしているのか、子供の寿光には全く想像がつかなかった。ただ、その時の出来事を思い返すと一人だけ異質の存在がいたことをはっきりと覚えている。

 病院の診察室に通される前の通路にあるような長椅子に座っている少女がいた。周りに大人は誰もいない。向かい側にある白い壁を見つめる少女は、こちらが視線を向けても表情一つ変えない。まばたきをしなければ人形と言われても信じていただろう。年齡は同じくらいか少し下くらいに見えた。顔立ちは間違いなく日本人だと思うが髪の色が今まで見たことのあるどの人種にも当てはまらなかった。一見すると黒髪なのだが光が当たると青紫色に反射しているのだ。肌は妙に血色が悪く手の血管が透けて見えている。まるで彼女の周囲だけ青白い光に包まれているようだ。

「どうしましたか」

 はっと我に返るとスーツの男は数メートル先を歩いていた。まずい、じっと見てたこと女の子にばれちゃったかなともう一度少女を見るが、やはり視線一つ変えることはなかった。本当に彼女は人形なのではないか。まばたきする機能を備えた人形と言われた方がまだ現実味がありそうだった。

「それではここで待っていてください。お父さんもここに呼んでいるのであとは帰っていただいて結構です」

 ロビーに着くと男は寿光を椅子に座らせてエレベーターの方へ背を向けた。

「あの」

 とっさに寿光は男を呼び止めた。

「どうしましたか」

「いえ…なんでもありません」

 さっき女の子が座っていましたよね、本当はそう言いたかった。

「そうですか。では」

 男がエレベーターに乗り込むのと入れ替わりに父親が降りてきた。一気に肩の荷が降りた。初めて会った人物と共に時間を続けていたストレスから解放され疲れが一気にのしかかる。

 自動ドアを抜けて外に出ると外は既に薄暗くなっていた。右手には外の世界へ続く道路が伸びていて左には車が二十台ほど留められる駐車スペースがあった。

「ねえ、ここで働いてる人って少ないのかな」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって駐車場これしかないよ」

「馬鹿だなあ、これしか仕事してる人がいないわけないだろ。後ろを見ろ」

 振り返るとさっきまでいた建物…空間調律科学センター東北支部が少年を見下ろしていた。今住んでいる町にあるどの建物よりも大きく、東京旅行に行った時見た「大きい建物」よりも大きいのではないかとさえ思えた。

「ここは駅からすごく近いから電車で来てる人も多いんじゃないか。うちと違って電車もたくさん通ってるからな。それに、働いてる人の駐車場は別にあるんだよ。俺の会社もそうだ」

 ここが駅が近くにあることをスーツの男が先ほど話していたことを思い出した。

「ねえ、次からここに一人で来てって言われたんだけど」

「こっちも大体話は聞いてるよ。トシなら大丈夫さ」

「やっぱり行かなきゃだめかな」

「さすがに行かなきゃいけない…かな。こういうのは親の力じゃどうにもならないし、それに…親だからこそ行って欲しいというか。まあ、あまり深く考えないでここの人の言うことをちゃんと聞いていれば大丈夫さ。そうだ、帰りに駅に寄って行こう。一人で来るための下見を兼ねて」

 その日から少年の「空間調律科学センター」通いが始まった。 




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