第2話 大学入学

(思ってたより駅からだと遠い場所だよな。最寄り駅はセンターに行くときいつも通ってたけど、駅から大学行くのにこんな遠いんじゃセンターに行くほうが楽じゃないか。ま、近い場所に部屋を借りたからいいんだけど。付属大学ならもっと近くに建てろって)

 寿光が入学を決めた大学は、八年間通い続けている空間調律管理センターが運営している。まだ健康診断や全体でのオリエンテーションを終えたばかりだ。友達はすぐにできた。もともとコミュニケーションはそこまで苦手な方ではない。

時計を見るとまだ午後の一時だ。今日の大学での予定は既に終わっている。サークル勧誘をしている学生についていく選択肢もあるのだが今日は好きなアーティストが一年ぶりにアルバムを発売する。CDの購入ついでに街を散策してみようと思っていたのだ。

 自転車で一旦アパートまで戻れば駅までは徒歩数分。そこから電車で十五分ほどもすると市の中心部だ。遊び場へのアクセスは非常に良好だと思う。

 市内自体はセンターに毎月通っているため今まで百回ほどは来ているはずだ。しかし、市街地は片手で数えるほどしか来たことがなかった。長期休みに家族と遊びに行った時と受験の時くらいだろうか。ビルの立ち並ぶ光景は非常に新鮮だった。

 CDショップで目当てのCDを購入してから建物の同じ階にある書店に行った。ここまで大きな書店は地元にはない。ふと、ここには大学の教科書が売っているのか気になった。もう大学内の書店で購入は済ませているのだが、ここまで大きな書店なら置いているのではというちょっとした好奇心が生まれただけだった。学術書のコーナーに行き「空間調律科学」の棚を探した。すると、大学で購入した教科書がいくつか陳列されていることに気づく。たったそれだけなのだが、寿光は自分が都会に来たということを実感して少しだけ嬉しくなった。

(ここはもういいか。次は漫画でも…)

 振り返ったその時だった。見覚えのある顔が目の前を通り過ぎた。

 あの子だ。初めてセンターに来た時から何度か見かけた紫に光る髪を持った子。話しかけるべきか否か、一瞬の迷いが生まれる。急に話しかけたら不審者扱いされるかもしれない、でもこの機会を逃せば次会えるのはいつになるか分からない。数秒にも満たない思考の末、寿光は彼女に話しかけることを決め一歩を踏み出した。しかし、追いかけた先には既に彼女はいなかった。もう少し早く話しかけていれば……と後悔するも遅い。

 ここは百万人が暮らす都市だ。お目当ての人物と街中で偶然すれ違える確率なんてたかが知れている。可能性があるとすればまたセンターで会うくらいだろう。次こそは、次こそ会った時は話しかけよう。


場面は変わって翌日の講義。教授が黒板に3オクターブほどあるピアノの鍵盤を書いていく。といっても音楽の講義などではない。これは必修科目である「空間調律科学基礎」の第一回目だ。

「えーみなさん、この世界は一つではなく、平行したものがたくさん……理論上は無限に近く存在していることはご存知でしょう。身近な物に例えるならこの鍵盤みたいにですね。そして私達がいる世界は便宜上、大体この辺りにあると考えて下さい」

 教授は真ん中にあるドの鍵盤を赤いチョークでぐるぐると囲った。

「ここにいる人達の中には楽器を習ったことのある人もいるでしょうけど、習ってない人の方が多いと思うんです。実際、ここにいるのは半分以上男性ですからね。だから一応説明しておきます。ピアノは弦楽器です。だから時間が経つと張られた弦が緩んで音程がずれていきます。そうなると、音感のいい人にとっては非常に気持ちの悪い音となるわけですね。この状態を治すのがピアノの調律師です。そして、みなさんにはこれと同じようなことをしてもらうことになるということです。もっとも、ちゃんと大学を卒業して資格を取ればの話ですが」

 90分ある講義はおそらく、この程度の簡単な話がずっと続くのだろう。そう考えると一気に眠気が襲ってくる。

「みなさん、資格を取るのなんて簡単だと考えているでしょう。でも空間調律師の試験に合格するのはそう簡単ではありませんからね。もちろん真面目に勉強すればなんてことない資格ではあるんですけどね。ここ数年は国家試験の合格率がどんどん下がってきているのを知っている人もいるでしょう。ほら、今の講義だって既に眠そうにしている人がいます。君、私の話を聞いてる?」

 教授は寿光を指さした。しかし、眠気と必死に戦っている寿光にその声は届かない。友人が慌てて肩を叩き、周りの視線を一斉に浴びたことで初めて自分が置かれている状況に気がつく。

「君みたいな人が我が大学の国試合格率を下げているんですよ。よく最初の講義からそんな眠そうにしていられますね。君、名前と学籍番号は?」

「川崎寿光です。学籍番号は…」

 覚えたばかりということもありど忘れしてしまった。学生証を取り出し読み上げようとすると

「いや、結構。もう分かったから」

 と教授は寿光に背を向け壇上に戻っていった。

「はあ。君が川崎君だったの。この学年にいるとは聞いていたんだけど。まあ、私の講義は退屈かもしれないけどせめて眠そうにするのはやめてもらえるかな」

 それだけ言うと教授は黒板に説明の続きを書き始めた。周りの学生は寿光を指さしてひそひそしている。

「お前、意外と有名人なんだな。なんとなくは知ってたけど」

 そういう隣の友人に対し

「まあな」

 とだけ答えておいた。

 

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空間調律師スピカ 深海雪加 @sekka-f

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