Ep.1 革命の足音

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「ラナ、ラナ! いつまで寝ているつもり、早く起きなさい!」


 名を呼ばれ、ラナは一気に覚醒した。目に飛び込んできたのは、住み込みで働いている酒場の奥の部屋の天井だった。真ん中に雨漏りの染みが広がっている。


 気分はまだ混乱していた。最後に触れた風の感触と幼子の声が忘れられず、ラナは自分の頬へと無意識に手をやる。眠気は全く残っていない。


「ラナ! 今が何の刻かわかってるの?」


「はいっ!」


 すぐそばから聞こえた大声に、ラナは思わず飛び上がってベッドから転がり落ちた。少し呻き、打ちつけた腰をさすりながら起き上がって、着替える為に服をまさぐった。


 帝都シルディアナの朝は、早い。


 南街区にある酒場「竜の角」には、下層市民が日雇いの、それも夜だけの仕事で支給される金を持って、朝から客がやってくる。彼らは皆薄汚れた格好をしており、口々に食料の買い溜めが出来ないだの、新しい服が買えないだの、様々なことを言う。たまに、騎士身分の者も情報収集をしにやってくる。この南街区に隠れている反乱軍の尻尾を何としても掴みたい、のだそうだ。尤も、ここだけでなくどの街区にも潜んでいるだろう、とは、よく来る壮年の騎士の常套句ではあるが。


 太股が半分ほどあらわになる裾の短いチュニックを着て、草食竜の革のベルトで腰を締めた。それから膝上まで長さのある黒の、光沢のある薄い靴下をはいて風通しの良いブーツの紐を固く結び、ラナは最後にベッドの脇の個机の上に置いておいた鋼の腕輪を手に取る。


 以前、この腕輪を譲ってくれないか、などと申し出る客がいた。何でも、蔓をかたどった模様が波打つように淡い緑を描いているのが気に入ったらしい。だが、これは一年前に病で死んだ母ティリアの形見であり、手放す気はさらさらなかった。珍しいものだ、言い値で良いから買い取ろうとも言われたがラナはそれでも首を振った。


 その客からは、給仕のくせにぜいたく者だ、と嫌味をぶつけられた。下層市民には指輪ひとつ買える者など何処にもいなかったし、彼女自身も下層市民の一人であったからだ。


 ラナ自身は、平凡さのない顔だね、何か普通の人じゃないみたいだね、と言われることも多々あったが、所詮顔だけだと思っていたし、そういう風に帝都で育ってきた。階上住み込みで「竜の角」で働く母とともに暮らし、十歳から帝国の義務により下等学舎へ通い、十四の歳から己の希望と母のはからいで魔石動力に関することを学ぶべく中等学舎へ通い、十六の時に母を亡くしたことを理由に学舎をやめて「竜の角」で働き始めた。


 このような育ちの子供など帝都には沢山いる。


 帝都の宮殿に納められている伝説の剣は、打たれて七十年のファールハイト帝の治世に、帝都に設置された魔石動力の礎と回路を満たし、帝国は光に満ち、たった三十年でシルディアナの生活を人力から魔石動力へと変え、街区にひとつずつ学舎を設置し魔石動力の運用や理論、扱いに関する知識を積極的に広めるに至った。


 しかし、知識はつけど生活改善に至らぬ層は決して少なくない。彼女もその一部に過ぎなかった。何故なら、ファールハイト帝崩御から此方十年、魔石動力革命によってシルディアナ帝国傘下の各地方は技術的な豊かさを手に入れ、独立せんがためと、しょっちゅう反乱が勃発するようになった。結果、帝国の予算は生活保障よりも軍事方面へとつぎ込まれるようになっている。


 ついこの間街区役所にラナが行った時、役所の制服を着た人の数が目に見えて減っていたのだ。精霊殿も医療所も人が減っていたぞ、と、腰痛を治しに行った料理長ナグラス曰く。


 働き場所である酒場の方から、凛鳴放送が漏れ聞こえてくる。


「またスピトレミア地方で反乱か……」


 ラナは独りごちた。帝都より東の荒れた地方スピトレミアにて、シルディアナ帝国からの離反運動が起こったらしい。竜騎士部隊が出動するという文言を、鳥の形をした機械は嘴を一生懸命にぱくぱく動かしながら音楽とともに伝えていた……彼女のいる場所からは見えないが。


 シルディアナ帝国は決して豊かではない。反乱が頻発しているのはまごうことなき証拠だった。


 だが、己が働くことによって賃金が発生し、それで最低限の生活を潤すことは出来た。母を喪っても支えてくれる人が「竜の角」にはいた。家族がいなくなって途方に暮れていた彼女を救ったのは、そのままうちに住みなさい、働いてもらう必要はあるけれど、と言ってくれたフローリシェだった。


 学問は捨てざるを得なかったが、それだけのことだった。


 それでよかった。


 ラナは左腕に腕輪を通し、金具を閉じた。鋼が鈍く光る。


「ラナ、早く朝食べちゃいなよ」


 全ての支度を整えてラナが店の方へ顔を出すと、先程の大声と同じ声が呼び掛けてきた。


「おはよう、サイア」


「おはよう」


 ようやく陽が昇り始めた、昼一の刻だった。これから夜が更けきる夜一の刻まで、休憩は一度しかない。今日も大変な一日になりそうだった。


 酒場「竜の角」の厨房は客席から半分隠れている。ここで働いている従業員は賄い飯を訪問者の見えぬところでかき込み、迅速に業務へと移行することを習わしとしていた。それはラナも例外ではない。


「おはよう、ラナ」


「おはようございます、フローリシェ」


 互いに挨拶を交わすと、笑顔の美しい女主人が、客席の四角に設置されたテーブルを指差した。


「用意ができているわよ、食事」


「ありがとうございます!」


 この「竜の角」料理長ナグラス特製の焼きたてのパンが乗った籠、その隣には、食用に養殖された草食竜の肉をやわらかくなるまで玉葱や人参とともに竜角羊の乳で煮込んだシチュー。草食竜の肉と竜角羊に関しては、周辺諸国に比べて比較的暑い地方であるシルディアナ近郊でしか生産されていない特産品だ。途端にラナの腹が物欲しそうな切なく低い声を上げた。


「大地の精霊王がもたらす恵みに感謝を」


 ラナはいそいそとテーブルにつき、利き手である右の拳を額に付けて大地の精霊王クレリアに短い聖句を捧げ、食事にとりかかった。


 見た目通りに柔らかくて香ばしいパンを籠からひとつ取って、そのままほおばる。匙で一口味わっただけで、シチューにケイン糖が使われていることがわかった、原料の樹木らしい優しい味わいだ。思わず頬が緩み、口角は否応なしに上がった。草食竜の肉は歯を立てる前に口の中でほろりと崩れ、竜角羊の乳の風味と合わさって、舌の上にふわりと広がった。


 生命の残滓が全身に満ち満ちる。ラナは満足して、幸せな溜め息をついた。


 厨房に配属されていた母ティリアが生きていた頃は、料理長の後釜と言われる程の母が余分に作っていた料理を分けて貰い、熱保存用の火魔石を組み込んだ魔力伝達を阻害するシヴォライト鋼製の白い箱に詰めて、昼食として学舎へ持参していた。その箱は、「竜の角」のある南街区から別の街区へ買い出しや個人的な買い物に行く時にも使っている。何処の街区にも長椅子の設置された広場があり、そこに腰を下ろして食べる料理は気分を明るくさせてくれるのだ。


 いつもと変わらない朝。ふたつ目のパンの最後の一口で底の深いシチューの皿をぬぐって口の中に放り込み、ラナはもぐもぐしながら皿を洗い場の隅で洗って拭いてから、従業員用の食器入れの中に仕舞った。


「よし」


 朝の仕事の時間だ。


 平面映像機械の黒く平らで大きな板は、夜が明けたばかりで何も映していない。今の時間帯は専ら無線放送局から流れてくる凛鳴放送の穏やかできらきらした音楽が、店内の受信機――鳥の形をしていて嘴から音を出す何とも洒落た見た目の機械だ――から三拍子をゆったり刻み、客達の心を癒し、半ば眠りの淵へと誘っている。


 そう、朝っぱらで眠い時刻だと言うのに、サイアは眩しい笑顔で客の相手をしていた。すらりと伸びた足は美しく、よく動く大きな深い青の瞳は魅力的で、何のもつれもなく真っ直ぐ伸びた金色の髪が揺れると、風の精霊王フェーレスの囁き声、なんて客達から言われる音を立てるのだ。


「夜勤だから朝にお酒を呑むのは当たり前だって顔をしてらっしゃるようですけどね、リグスさん、飲み過ぎは良くないですよ」


 サイアは今、既に空のグラスを十杯も並べているにもかかわらずまだ注文を寄越した客に向かって心配そうな表情で話し掛けていた。


「いいじゃないかサイアちゃん、俺の生きる楽しみなんだから!」


「じゃあ、後一杯だけにして、家へ帰って寝ましょう……目の下、物凄い隈ですから、リグスさんが誰よりもお仕事を頑張っていることは、私だってわかっています」


「ああ、有り難いねえ……そんなサイアちゃんとちょっとだけ話すのも俺の生きる楽しみなんだよね!」


 サイアはまた、気遣いが出来て、物分かりが良くて、優しかった。客が吹っ掛けてくる外交や内政の話にも相槌を打って意見を言ったりするところなんかを見ていると、何もしない、できないと帝都シルディアナで有名な若い皇帝なんかよりももっと良い国を作れるんじゃないか、とラナが思うくらいだった。


 そう、自分達みたいな下層市民も大きな成功などないままその日暮らしに近い生活を続けていくのではなく、少し宝石を買ったり出来るくらいの生活がある、国。サイアならできそうだ。


 朝の客は、宮廷の噂をしていた。何でも、宰相の計らいで帝都の中央区にある宮殿にももう一つ巨大な塔が作られることになったらしい。そろそろ仕事が増えるぞ、という明るい笑い声が、酒を運ぶラナの耳に届いてくる。


「なあ、ラナちゃん」


 と、ほろ酔い状態の客が陽気に声をかけてきたのでラナは振り返った。顔見知りだ。


「何でしょう、ヴォレノさん」


「サヴォラの為の塔を何であんなに沢山作るのかはわかんねえが、少ない入りでも仕事が増えるなら有難いと思わんか、え?」


 確かに、食べ物にありつける金を稼ぐことの出来る仕事が増えるならいい、とラナも思った。思って、そうですね、と言いながら、にっこり笑いかけた。


 透明なグランス鋼製の窓の外に見えるのは帝都の中心、サヴォラという名の翼のない小型飛行機が離発着する為の高い塔が幾つも大地から突き出てそびえたつ光景。尖塔の周囲を魔力で構成された動力環が光を放ちながら、建ち並ぶ尖塔のせいで首都を吹き抜ける強風を緩和している。朝靄の中に煌くサヴォラが数機、風魔石の動力から伸びた翠の光を放ち、こんなに早い時間から羽虫のようにぐるぐると旋回していた。下層市民が生涯行くことの出来ない場所を彼らは飛んでいる。


 振り返ると見えるのは、明るい表情で動き回るサイア。その向こうには草食竜の肉を焼き、香辛料で味付けをしている料理人のナグラス、スープとシチューの鍋をかき混ぜている酒場「竜の角」の女主人フローリシェ。いつもと殆ど変らない朝だった。

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