Sirdianna ―風の腕輪と覇王の剣―

久遠マリ

Prologue 始原の呼び声

 私は、飛んでいた。


 澄み切った真っ青な空と、頬を叩き掠めていく風の塊。髪は全て後ろへなびき、言い表しようのない高揚感がこの身体を満たす。


 地平には美しく若緑に輝く草原と、それを食む動物たちの群れが次々と現れては消え、を繰り返していた。何処まで行っても私は落ちなかった。私は翠に光る翼を持つ何かの上に、体勢を崩すこともなく、いた。


 やがて霞む大気の向こうに見えてくるのは、高い塔が幾つも建ち、魔石の力による動力環がぐるぐると光りながら揺らめく、帝都シルディアナの壮麗なる眺め。


 たった一人で飛び続けていた筈の私の傍に、美しく染色された裾の長い服を着た誰かがいつの間にか存在していた。


 ――ラナ。


 その誰かは、母の声で私を呼んで抱き上げた。


 ――ラレーナ。


 頭を撫でた手の持ち主だろうか。顔も見えない男の低い声が、朗らかな声で私を呼んで、愛おしそうに笑った。


 ――ラナ!


 変声期の終わっていない少年の高く澄んだ声が聞こえた。次いで、まだ細くも温かい腕が私をぎゅっと抱きしめ、空のような色をした瞳が嬉しそうに細められた。


 いつの間にか私は温かい腕から引き離されて再び飛んでいた。尖塔の間を縫うように泳ぐが如く進むこの身体に、風の精霊達が明滅を繰り返しながら触れ、空気の波動を無数に生み出している。


 楽しそうな笑い声が響いてふと横を見れば、ひときわ美しく豪奢な翠色の髪を靡かせる精霊が、にっこりと親しげな笑みを浮かべた。宝飾を一切纏わず、衣は薄く柔らかく、力強くしなやかな若木の如し肢体は男のもので、大人になりきっていないその笑顔に、私は見惚れた。


 次の瞬間、私は酒場の一角にいた。石で出来た剣傷の目立つ床、年季の入った重厚な木の机は濃い色のイオクス材。


 よく慣れ親しんだ光景だった。


 目の前にいるのは波打つ砂色の髪をひとまとめにしている青年と、昔は珍しかったらしい黒髪を顎のあたりで切り揃えた絶世の美女で、何かを話し合っている。


 ――アル・イー・シュリエの集落が焼かれたという話はご存知ですか、アリスィア。


 それを聞いた瞬間に、突如襲ってきた恐怖に逃げ出したくなったが、私の体は飛べず、走って逃げようと脚を動かそうとしても全く動かない。


 視界に翠色のきらきらしたものが舞ったと思った時、竦んだ身体を抱き締められた――腕の感触はその美しいかんばせに険しい表情を浮かべた精霊のものだ、私の視線に気付いて、安心しなさいとでも言う大人のように、硬い微笑を寄越してきた。


 ――シルディアナの宰相の奥方がそこの出身だからこその所業だったのかもしれない、と私は思っていますが。


 そう言う青年の耳は人間にしては少し長く、先が尖っていた。きっと西方のイェーリュフだ。それにしては、長い外套にシャツとズボン、ブーツといった、時代遅れの人間の旅人のような恰好をしている。


 ――勿論。あなたが思うところは置いておいて……約束が返されるという夢も、私は受け取ったわ。


 美女の顎の先で揺れている黒髪がさらりと音を立てた。その身体や表情は、人間の匂いなど一切纏っていない。


 ――この国は大きな変革の時を迎えると思いませんか。


 私は底知れない恐怖を覚えた。


 ――そうね、多くが傷つき、多くが命を落とし、多くが犠牲になるでしょうね。


 二人が頷き合った瞬間、私の体は再び翠の光に包まれ、浮かび上がった。精霊は私を連れて飛んでいく。じっと見つめても振り返らない。


 最後に辿り着いた場所は、静謐が支配する白亜の空間だった。


 舞い降りた先、巨大な翼をその背に畳んだ白い竜が中央に鎮座している。その腕に白い輝きを放つ高雅な剣を抱き、宝石の如し金の瞳でこちらを睥睨していた。共に居た精霊の両手が私の肩を捕らえて、竜の方へ私をぐいと押し出した。


 動かぬ白竜は装飾の少ない剣を掲げながら、私に語りかけてくる。


 ――約束を還す時が来た、アル・イー・シュリエの末裔よ、その名に印された約束を。


 先程の美しい男女が言っていたことだろうか。だが、私にはわからなかった。私は酒場で働くただの子供だ。父のことはいるかどうかもわからないし、南街区の中等学舎に通っていた頃に亡くした。こんな境遇の子供なんて、私だけじゃない、沢山いる。


 竜はもう一度語りかけてきた。


 ――約束を還す時が来た、己の血に刻まれた真実を見定めよ、己の夢に現れた我の言葉を聞け、アル・イー・シュリエの末裔よ、その名に印された約束を。


 私にはわからない。いない父を探さないといけないのだろうか、手掛かりなどないに等しいのに?


 ――約束を還す時が来た、百年にわたるシルダの罪を被る小さきものとその血族よ、生きとし生けるアル・イー・シュリエの末裔よ、新たな風の主とともに、その名に印された約束を。


 私にはわからない。私の家族がまだどこかにいるのだろうか?


 そう悟ったその時、精霊が顔を上げ、一陣の風が誰かの泣き声を運んできた……とても幼い。


 ――アーフェルズは死んでしまったの?


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