15
「約束を……どんな、約束?」
夢の世界のようだ、彼女はただ、それだけを思った。
「ラナは知っているかしら、大昔の話だけれど……本当にまだ、竜と人が争っていた大昔なの、竜が大事にしていたものの中に、翼の生えた馬……天馬って呼ばれているのだけれど、それがいて、人間はそれを手に入れることで秩序を保とうとした、って……天馬を持っていれば、竜が襲うことは不可能だから……だから、皆、竜を狩った……狩人の中で一番強かった英雄の、家の名前は、シルダ」
シルダ。
ラナが真っ先に思い出すのは、イークライト。次いで蘇ってくるのは、学舎の講堂の中、講義後の休憩時間に、彼女に向かって神話について語るユエルヴィール――アルデンス。彼はもういない、ずっと遠い昔の記憶のようだ。だが、そのきらきらと輝くような楽しい声が、アリスィアの涼やかな声と重なるのだ。
「今はもう天馬はいない、何処かへ飛び去ってしまったけれど……沢山の人と、沢山の竜が死んだわ……その時に、もうやめにしよう、と立ち上がった人間と竜がいたの、その英雄の名前は、伝わっていないけれど……シルダの血筋から出た人だった、戦いを終わらせるという約定を始原の森で竜と交わして、そのせいで髪の色も、目の色も変わって、シルダから離れて、家の名前もラル・ラ・フィエー・イー・ルー――約束を守ると誓う者、っていう意味よ――それに変えて……今のレフィエールね」
彼女の意志が焼き殺した若者が語っていたバルキーズ大陸各地の伝説が今、耳元で蘇る。紡がれてきた太古の記憶は、血のつながりを超えて、死んだ人の、今生きている人の言葉の中で目覚め、彼女を揺さぶった。
「……じゃあ、アリスィアとイークは、親戚なの?」
「数千年も昔の話だから、殆ど他人よ……だけど、ラライーナは絶対に竜を食べないわ……私達と違ってシルダは昔から食べていたし、ここの人達も平気で食べるし、草食竜も養殖されて、食べられたりしているけれど」
「……仲間だから?」
「そうね、でも、貴方達にとって、竜を食べることは竜を狩ることと――力を得ることと一緒みたいだし、私は……私は、否定はしないわ、否定は、ね」
アリスィアは顔を上げる。拒絶したいとでも言いたげな表情だった。
「そうね、私は……ラナ、私、許せないものが一杯あるわ、それを一つ終わらせたいの」
「……覇王の剣のこと?」
「そう……約定を交わしたレフィエールの末裔は全ての精霊王の加護を受けて、安定して全ての属性の術を使えるのだけれど、あの剣は振るうだけでそれが使える、しかも、クライアじゃなくても、皇帝じゃなくても、誰でもいい……私みたいな、約定で律された人型種族に刻まれていない、そういう強い力は危険よ、狂って振り回すだけで国が消えるわ……そういうことに、アル・イー・シュリエは、貴方は、巻き込まれた」
ラナは顔を上げる。相手の瞳は哀しみに燃えていた。
「クライアが力を求めなければ、ミザリオス・シルダが力を求めなければ、こんなことは起こらなかった筈よ……アーフェルズだって、ティルクだって、貴方だって、ヒーエリアのあの人だって、こんなに苦しまなかったかもしれない」
その言葉に、彼女は違和感を抱く。
確かにその通りだ、と、ラナ自身も思うのだ。だが、と心の奥底が呼び掛けてくる。ミザリオス・シルダは何故力を追い求めたのだろう、クライア・サナーレは何故力を追い求めたのだろう? 彼女は夢を見る、レフィエールの末裔とは違う夢を見る。それは竜と交わした約定が持つ圧倒的な力によるお告げでも何でもない、力を拒み、ただひとりの人間として生きたいと願った女の、ただの記憶にすぎない。
それでも。
「そうだね」
ラナは頷いた。
「でもね、アリスィア……それでも、私は、ここにいてよかったと思うの、どうしてだろう」
「……ラナ」
「確かに、私の祖先は、多くの人を巻き込んだと思う……でも、それがなかったら、百年前のシルディアナは、どうなっていたのかなあ?」
アリスィアが何かに気付いたように息を呑んだ。
「私ね、ずっと見ていたの、クライアの記憶を……ミザリオス・シルダは自分の大切なものがなくなってもシルディアナを守ろうとしていた、クライアもそう、自分の大切なものを守ろうとしていた……夢で見たよ、ミザリオスが剣を使うところ……人が一杯死んだ、あれは東の何処の国だったのかな、あの人達も何かの為に戦っていたのかもしれない……それがなかったら、私も、生まれていなかったかもしれない」
夥しい量の血を流し、死体を積み上げ、屠ったその上で、生まれてきたのだ。それはもう変えることの出来ない過去で、歴史だった。
「ずっと見ていたの、好きな人を守りたくてずっと、クライアは戦っていた」
「ラナ」
「アリスィア、私ね、イークを迎えに行くつもり」
アリスィアの双眸が大きく見開かれる。ラナは顔を上げて、微笑んだ。
「私ね、イークを守りたい、アーフェルズと一緒」
「貴方も、あの人と、同じことを言うのね」
「私はね、イークが好きで、ずっと一緒にいたいから」
「……前言撤回、違うわ、あの人は皇帝の兄らしいことを言っていたから」
ラライーナは何かに気付いたような表情になる、次いで、力を抜いて軽く溜め息をついた。
「……皇帝の兄?」
「政治をする人らしいってことよ、貴方は聞いていない? 何かね、あの子がもっと安心して生きていける未来を守って、その為には、どうのこうの、って」
「……あ、言っていたかも」
彼女は黒虫が三匹出た夜のことを思い出す。退治筒を両手に震えながら、弟を守る為に国ごと変えて守っていこうとする、終わりのない闇を切り裂いて、その意志が彼の唇から溢れ出た日のことを。
「アルー・ウ・ゲル・オースタ、って」
「……支えるって、ほんと、馬鹿じゃないの、胃が痛いわ」
「でも、私は好きだよ」
ラナは自分の左手を見つめ、ぎゅっと握った。そこに腕輪はない。
だが、証がなくとも。
「ねえアリスィア、サヴォラ、乗ったことある?」
ウィータという名のその竜は非常に好奇心旺盛で、初めて見る人にも新品の機械の匂いがするサヴォラにも平気で首を伸ばした。金色の光彩が周囲に広がる目は人の頭ほどもあり、縦長に細められた瞳は黒いサヴォラを何だか驚いたように見つめている。後頭部から生えている一際長い双角は独特な角度が付けられており、左右に首を傾げる度にあっちこっちへ揺れた。腹側の白みがかった鱗は、背中側の翠の鱗よりも少しだけ柔らかい。風の術式文字を組み合わせたような複雑且つ美しい模様が浮き出た皮膜を持つ翼は、竜人族の背中についているものよりもずっと巨大だ。三叉に別たれた長い尾は鞭のようにしなり、強い筋肉で以て左右に細かく動かされていた。どうやらかなり繊細な動きも可能らしいが、アリスィア曰く、これは喜んでいる証拠らしい。
お近付きのしるしなのだろうか、竜はラナに向かって一声啼き、尾のあたりの鱗を少しだけ折って、彼女に向かって差し出すのだ。誰にでもこういうことをするわけではないようで、ラライーナは驚いていた。幸いなことにその牙を突き立てようとはしなかったが、鱗に覆われた巨大な鼻先は彼女の肩や腰に何度もぶつかってきたし、何かの代わりに髪をもぐもぐと食んだ。肉食竜というが、まるで馬か犬のような歓待である。
後で絶対に湯浴みをしようと固く心に誓いながら、ラナは座席に置いてあるラウァを二つ手に取り、一つをアリスィアに向かって差し出した。
「これ、つけて」
「……目を覆うの?」
「そう、風が強くて乾いちゃうから、あと、目を瞑ったままじゃ楽しくないよ」
彼女も、乱された髪を整えてラウァを装着する。
「一応、竜翼と蜜鳥だけにしておけ、ラナ」
「わかった」
エイニャルンは午後も半ば、昼七の刻手前である。明るい陽の光の下で、艶消し処理の施された黒い流線型の機体が、赤土の大地とくすんだ空の色をぼんやりと歪めながら映している。ラナが操縦席につけば、先に後部座席にいたアリスィアの腕がしっかりと腰に回された。
「いくよ、アリスィア」
「……ええ」
緊張した声が彼女に応える。ティルクが後ろに下がっていく。二十メトラム程離れて、彼は叫ぶのだ。
「操縦者、魔石動力、起動!」
「はっ!」
ラナは免許証を運転席の右側前方にある溝に差し込み、魔石動力を起動させた。ヴン、という低い起動音と共に、中で術力が満ち、術式が発動する澄んだ音が幾つも聞こえる。魔力噴出孔からは翠を覆うように闇が溢れ始めた。
「操縦者、竜翼展開!」
「はっ!」
操縦桿に取り付けられた釦を押せば、機体の両側に拡がるのは、竜の翼。闇の奔流が蠢く風精霊を隠すかのように包み込んでいる。
「操縦者、飛翔!」
ラナは操縦桿を引いた。
そして
風が強い。羽ばたく竜翼に身を任せ、彼女は大空へ誘われた。
「凄い、ラナ!」
客人は後方で声を上げている。竜に乗って空を行くこともあるだろう、そのラライーナはしかし、小型飛行機からの眺めを気に入ったようだ。この翼が上下に揺れないことに対して、嬉しそうにはしゃいでいる。
「ウィータに乗るの、上下に揺れて、すっごく、しんどいのよ!」
「こっちは、大丈夫?」
「余裕ね!」
アリスィアは歓声を上げ続けた。学舎の上を通過し、訓練場を飛び越え、エイニャルンの谷をゆったりと渡り、そこから峡谷に沿って、昇降機と橋の間を抜ける。新型機体が飛んでいるのを見つけて声を上げる人々の視線も、何だか心地好い。
見れば、ウィータが、いつの間にか
気付けば、ウィータと反対側に、
アリスィアの大声が聞こえる。
「ラナ、何処まで、行くの?」
「何処まで、行きたい?」
「何処まででも、行きたい!」
楽しいの、と、アリスィアは言って、歓声を上げて、笑った。
谷を行き来する人々を眺めながら大声でやり取りをするのも楽しかった。彼女の名前を聞いて、はっとする人もいる。後部座席に誰が乗っているのかに気付いて、声を上げる人もいる。それらも何だか可笑しくて、つい、ラナの頬は緩むのだ。
風が、二人の髪を浚って、後ろへ靡かせ、言い表しようのない高揚感が彼女達を満たしていく。地平は入り組んでいたが、どれもこれも、全て、光り輝いて見えた。闇の翼の中には呑み込まれた翠が密やかに、しかし強く、強く、美しく、たったひとつの秘密を抱いて、輝いている。
フェーレス。呼んでももう寄り添ってはくれないけれど、それは心の中に。
何者でなくなっても、彼女の選んだ道だ。
そうして彼女は思うのだ、ただのイークになった彼を迎えに行った後は、サヴォラに乗せてあげよう、と。一体どんな気持ちになるのだろう、どんな声を上げるのだろう、どんな顔になるのだろう。怖がるだろうか、それとも歓声を上げるだろうか? 空から見える景色を、彼女の見ている景色を、彼女の傍で、その翠の両目を輝かせて、見てくれるだろうか。きっと見てくれるだろう、彼女は彼のそういう所が好きだった、出会った時から。
そう、彼女の知らない彼が、夢の向こうで、未来できっと、待っている。
ラナは翼を取り戻した。
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