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「しかし、大規模な摘発だったのだろうな……昨日やるとは、私には知らされておらなんだ」


 竜車を降りて歩きながらイークがそう零せば、サフィルスは黙って頷き、肩掛けの小さな革の鞄の中を探って小さな風魔石が嵌め込まれた無線機を取り出す。近衛騎士は掌よりも小さいそれに向かって何事かを唱え、己の左手から水精霊をふわりと生んだ。無線機に嵌め込まれている風の魔石が強く輝き、次の瞬間、蒼と翠の燐光が翼を拡げて砂漠燕の如き速さであっという間に飛んでいく――方向は近衛騎士の詰所だ、と、イークには何となくわかった。


「ならばこのサフィルスが、貴方様の目となり耳となり脚となりましょう」


 サフィルスは口元に笑みを湛えてそう宣言した。それから彼はすぐに無線機に向かって小声で話し掛け始める。それでいて、今の時間帯に人の気配が一切ない通り道や隠し通路を的確に選んで宮殿の奥へとイークを導いていくのだから、実に頼もしいことこの上ない。


 彼は、仕えてくれているこの青年の未来のことを思う。自身のこれからの行動は、この頼りになる近衛騎士を裏切ろうとしているのではないか?


 己が身を帝国の解体に向けて動く組織の側へと投ずることは、それが国の為になろうと、誰かを弱者に変えてしまう可能性を孕んでいる。何も、民というのは南街区の者だけではない。サフィルスの源であるランケイア氏族も、貴族も全て、シルディアナの民なのだ……現在持っているもの、受け継いできたものが違うだけで、集合体そのものが約束する庇護を失い放り出されれば、ただの人である。


 それらを貴賎問わず守る使命を背負うのは、本来ならば自分であるべきなのだ。イークは考えた。


「サフィルス」


 自身の部屋へと向かう廊下に出た時、先導する大きな背中に向かって、彼は呼び掛けた。


 既に無線での通話は終えており、音もなく振り返るのは首だけ。結んで背に垂らした髪も肩から前に落ちていかない程度に、近衛騎士は油断をしていない。


「如何なさいましたか、陛下」


 呼称も平素のものに戻っている。


「……私が何をしても、其方はついてきてくれるか?」


 思いの外重い口調だったかもしれないと声に出してからイークは気付いたが、次の瞬間、サフィルスが此方に体ごと向き直った。安全を確信しているというのもあるだろうが、青い海のような双眸は真っ直ぐで、その口元は柔らかく微笑んでいる。


「陛下のいらっしゃる所なら、いつでも、何処へでも御一緒致します」


「其方の安全などを保証出来るわけではないし、其方の期待に応えられるかも分からぬが……私はこの国の理想の為、私の立場を最大限に利用しようと考えている」


「存じております、先程、陛下はその意志を私にお教え下さいました」


 目を伏せたサフィルスのその言葉に、はっとした。近衛騎士はイークの本心を汲み取っている。宮殿内の勢力だけとは言わず反乱軍アルジョスタを味方に付けるのも視野に入れていること、その為に、姿も声も己の意志も全て、公に晒すこと。


 そうだ、彼は目の前に佇む若者の命も背負わなければならない。その未来を、導かねばならない。


「其方の幸せを、生きる糧を、教えてくれないか」


 イークがそう問うと、サフィルスがその場に跪き、こうべを垂れる。背中に流れている、太陽の色をした髪の束がするりと肩を伝って滑り落ち、顎の横で揺れた。


「……例えこの身が消え失せようとも、私は陛下の御側におります……このランケイア氏族のサフィルス、時には剣に、時には盾に、時には全てを押し流し、迷う船を導く、激しくも優しい水の流れとなりましょう、全ては陛下の御為に、それが私の至福に御座います」


 こんなに心強いことはない、と、イークは思わず微笑んだ。


 それから二人は皇帝の私室で多くのやり取りを交わした。


 ランケイア氏族のサフィルス、その姉の名はエレミア、彼女は宮殿に仕える宮廷術士であった。だが、帝国政府を見限って出奔し、アルジョスタ側についたらしい。エレミアの弟にしてサフィルスの兄である第二子ルクス・ランケイアが、暫定的に当主としてその後処理にあたっているのが現状である。その中で、サフィルスが二十二歳という最年少で近衛騎士に抜擢されたのは果たして恩赦であるのか、或いはランケイア氏族を逃がさず取り込む為であるのか、どちらであるのか、などという噂が一時期流れていたが、どう考えても両方だろう。と、宮殿内に飛び交う噂で出奔の話を何度も聞いて、イークはそんな結論を出していた。


「伝手が御座いますので、私から様々な情報を提供出来るかと」


 若き近衛騎士――ほぼ側近やお目付け役のようなものだが――がそれを言った時、イークが思わず其方の姉かと問えば、その通りですと言わんばかりの微笑みが返ってきた。


「其方や其方の周囲の者が何らかの損害を被るやもしれぬぞ?」


「既に姉のおかげで被っておりますし、今から増やすものは私が背負う所存……ですが、何より、切れぬ縁も御座います」


 曰く、ランケイアの姉弟達は思っていたよりも絆が深いらしい。


 それから一刻の間に、サフィルスは小姓に金貨を握らせて、取り調べ人の服を二人分調達してきた。イークは下着以外の衣服を脱ぎ捨て、横と後ろの髪を全部纏めて後頭部で結い、眉のあたりで切り揃えた前髪は後ろに撫でつけるようにして整髪料で軽く固める。胸元に森林大狼の刺繍が金で入れられた橙色の胴着を身に付け、十分丈の華奢な黒いズボンに同色のブーツを履き、これまた金糸でロウゼルと狼の刺繍が入れられた薄手の黒い長袖ローブを羽織って完成だ。


 宮殿内は明るい色調の様式でまとめられている為、この取り調べ人の制服はいささか目立ち過ぎるきらいがある。その上、制服を知る者は子供でも宮仕え人でも寄ってこないし、例え仲間であっても接触を避けたがるのが、その集団の特徴である。帝都の子供達は「いい子にしていないと、狼の取り調べ人に連れて行かれるよ」などと言いつけられて育つ為、恥じ入ることや後ろ暗いことなど何もないのに、このような人浚いじみた扱いになるのだ。


「しかし、陛下は何をお召しになってもよくお似合いで御座いますね」


 同じ取り調べ人の制服に着替えたサフィルスがしみじみとそんなことを言うものだから、イークも何だか得意な気分になった。見れば、近衛騎士の方は服の大きさが合わなかったようで、胴着とローブの布が足りず、鍛え上げられた胸部だけがやけに強調されているような状態となっている。


「……其方は服が筋肉に着られているな」


「……私の体格が良いだけです」


「ものは言い様だな、胸を張っていると取り調べ人のように堂々として見えて良いぞ」


 そんな軽口を叩きながら二人はこっそり部屋から抜け出し、光精霊と剣の刺繍が施された分厚い掛け布の裏にある抜け穴をくぐったり、天井から垂らされた竜とロウゼルの国旗の影に隠されている土魔石動力仕掛けの扉の押釦を押したり、それらしい演技をして巡回の兵士を欺いたりしながら進んでいった。


 取り調べ人が詰めているのは、改築に増築を何度も繰り返したシルディアナ宮殿の最も東の端、シルディアナが民主制であった頃に増築されたステラ宮である。光精霊王ステーリアの名を戴いたラライーナの英雄ステラ・レフィエールの名がそのままつけられたこの宮は白い石材と土の術を用いて接着、建造された。柱は五階層分の高さを支える為に人間五人分の太さを有しており、八本が円を描くように建てられている。中央の天井は吹き抜けになっており、今日は晴れ、見上げれば、分厚いグランス鋼の窓から陽の光がさんさんと降り注いでいた。陽光の下には、精神安定薬や不眠解消薬の素材となるアルビジアの若木や、磨り潰して水で薄めると解熱薬になるエルシエル・ハーブ、食べてそのまま鎮痛剤や麻酔薬として使える竜爪花など、沢山の植物が所狭しと植えられている。周囲の壁には竜の彫刻が施されており、それらは人間の背丈よりも高く、大きく、写実的であるのが特徴だ。気高く美しい白石の竜達は、八本の柱を取り囲むように配置された緩やかで広い螺旋階段の上や下から、面会に訪れる貴族や、歩き回る取り調べ人、光精霊殿より派遣されてせわしない動きをしている治癒術士を睨んでいた。


 イークはここに足を踏み入れる度に、何やら荘厳でずっしりしたものを体全体で受け止めている気分になる。今もそうだ。地下に行くと、この竜達は更に大きく掘られ、威容を増す。その階には刑の確定した犯罪者が収容されている。


 被保護者は上階に保護されており、外側の壁から向こうの庭には柔らかくて弾力のある綿蔓が青々と生い茂っている――庇護している者達が窓から地面と挨拶して命を落としたがるのを防ぐ為だ。


 彼女がいるとしたら上階だろう、そう考えながらイークはサフィルスの後をついて螺旋階段を上がっていった。見たくもないもの、見なくても良いものを沢山見てしまっただろう。もしかしたら、光術士にしか癒せない傷を心に抱え込んでしまっているかもしれない。そうであれば、自身が時折治療術士の服を拝借して、保護されている彼女を癒せばよい……イークライト・シルダはその血筋により、光術使いだ。己がその正体を帝国民に明かす時までに、彼女との関係性をしっかり作り、いつでも自分の領域で保護出来るような環境を整えておきたい。会う前から、しかもステラ宮に保護されているかどうかもまだ確認出来ていないことは理解しているのだが、彼はそういう未来を考えたかった。


 同時に思考の表層に浮上してきたのは、進んで意識の向こうに追いやろうとしていた皇妃の件である。宰相キウィリウスの娘の行方も補足しておかなければならない、故にイークはキウィリウスその人の情報を引き出す必要がある……宰相と誰が何処でそのような話をしたのかは不明であるが、両家の婚姻について検討する、との情報を持ってきたのはサフィルスだった。近衛騎士団長あたりだろうか、と、彼は仮定する。


 向かいから歩いてきた取り調べ人が、右手を左肩に掛けて会釈する形の挨拶をしてきたので、イークも同じ動作で応える。相手はおそらく貴族階級であろう、しかし、何処か生温く思える笑みを浮かべているのが見えた。考えることが多すぎる彼にとって、それは気にする程度のことではなく、気にしている場合でもなかった。


 次にすれ違った精霊殿の治癒術士も同じ会釈を寄越してきたので、同じように応えた。殊更ににっこり微笑まれたので同じように返せば、相手は眉尻を下げてほんの僅かに首を傾げた――年下を見守るような表情だ。サフィルスに対してはそのような挨拶をやらないことから、珍しい時期に取り調べ人の職に就いた新人だと思われたのだろう、とイークは考えた。それならば都合は良い。


「御主人様、こちらへ」


 サフィルスの小さな囁きが聞こえる。気付けば、前を歩いていた大きな背が数歩先で振り返っていた。急いで駆け寄れば、耳元に囁き声が落ちてくる。


「今だけのご無礼をお許し下さい……我が知己であり、事情を知る取り調べ人と合流致します」


「……心強いな」


「面倒なこととは存じますが、念の為、ステラ宮の新入りの振りをお通し下さい」


 言われずとも、イークの心はそのつもりである。


 程なくして現れたのは、幾分か崩れた服装の、体格の良い取り調べ人の男だった。髪はぼさぼさで短いロウゼル茶の色、制服のローブに袖を通さず羽織っただけ、穴だらけの両耳はこれでもかという程に護身用の小さな魔石を加工した耳飾りで武装されている。ただ、その大きな灰色の瞳が、好奇心剥き出しのまま遠慮なくイークを眺め回していた。


「……ほう、珍しく頼み事かと思えば、成程、新人か……私の名はシーカという」


 男――シーカは殊更に新人という言葉を強調し、含みのある笑顔を見せ、挨拶はせずに目礼だけを返してきた。


「お初にお目に掛かります、ライトと申します」


 イークは、酒場の少女に以前説明した“皇帝陛下にあやかって同じような名前をつけられた者”になりきることにした。同時に、この話を彼女は覚えてくれているだろうか、などと思う。あれは咄嗟に口をついた出任せだった。自身にあやかって名付けられた者など、貴族の子息にはいない……少なくとも認知されて戸籍登録をされている者の中には。


「では、参ろうか」


 笑みを深くして踵を返したシーカの後についていく。本来であれば己の力で色々決めねばならないのに、誰かの後をついていくばかりで何とも頼りないことだ、とイークは感じた。


 だが、まだ早い。皇帝という肩書を彼の身から表に出すには、基盤が弱すぎる。


 そんな決意を秘めながら市民が集められている一角に連れて来られ、中の様子を一目見た時、剣の柄でガツンと頭を殴られたような気持ちになった。


 捜している彼女の姿はない。


 可動式の薄い白の壁で仕切られた空間の一つひとつに寝心地の良さそうな寝台が置かれているが、その上に座っている者や寝そべっている者達の顔は決して明るくはなかった。天井の高い室内で、全部で六人いる被保護者達の様子を見て回っているのは三人の治癒術士である。薄青の胴着に男女関係なく動きやすい華奢なズボン、白いローブは衣嚢つきで膝丈だ。


「少し良いか?」


 シーカが愛想の良い笑みで世話をされている者達に話し掛けている間、イークは女の治癒術士を呼び止めた。灰色の髪を後頭部で編んで纏めている。彼の姿を認めた途端、その治癒術士もふわりと柔らかい笑みを浮かべた――何処か含みがある。


「如何致しましたか」


「……ラナ、という名の女子はここにはおらぬか? 何もこの部屋でなくともよいが、別の部屋でもよい、知っておるか」


「名前はラナ……特徴などはお分かりになられますか?」


 治癒術士がそう問いながら首を傾げた時だった。


「ラナを探しているの? だったらここにはいないわ」


 聞いた瞬間、重苦しい声だとイークは思った。


 声の方を振り返れば、そこは部屋の入り口。あからさまな敵意を滲ませて立っているのは、美しい金髪を短く雑に切った女だ。くすんだような美貌には何の表情も浮かんでいない。蒼の双眸は濁りを湛えて此方を睨んでいる。暑くないのだろうか、身に纏っているのは首から足元までを覆い隠す黒のローブ、そして同じ色のブーツ。


 何処かで見たことがある、とイークは思った。


「あっ、ちょっと、サイアさん、勝手に抜け出してきちゃ駄目よ」


「いいじゃない、仲間に会いに来るぐらい」


 イークに問いを投げかけたまま、灰色の髪の治癒術士はサイアという名であるらしい女の方へ駆け寄る。しかし、金髪の彼女は治癒術士や仲間のいる方など一瞥もせず、爛々と光る両目は彼だけを見据えていた。長い金髪で美しい面立ちの給仕の姿を、彼は思い出した。表情がすっかり変わってしまっている。


「知っているわ、あんた、よく来ていたラナ目当てのお貴族様でしょ……あんたのせいで、ラナはいなくなった、どうなったかもわからない……あんたのせいで、帝国兵がきて、ラナも、私も、酷い目に遭った、あんたのせいで」


 自身のせいで。帝国兵が来た。


 上手く忍んでいると思っていたが、何処かで捕捉されていたらしい。反乱軍の拠点の一つとなっていた竜の角に足を運んだせいで、関係のない市民まで害されてしまった。


 守らなければいけないのに。


「あんたのせいで、リグスさんも死んだし、ヴォレノさんは腕を失くしたのよ」


「……すまぬ」


「あんたのせいで」


 イークはその場から一歩も動けなかった。


 サフィルスが自身の前に出て庇うように腕を拡げる。そのまま振り返って、近衛騎士は囁いた。


「……今ここで陳謝する必要は御座いません、御主人様」


 はっとした。もう出ましょうと促すサフィルスを盾にして、解決するのか?


 イークは近衛騎士の腕を除け、前に一歩進み出た。


「あんたのせいで、あんたさえ来なければ、ラナは、竜の角は」


「……ならば、約束すれば良いか?」


「あんたに何が出来るっていうの、何処の貴族の誰かもわからないあんたに」


「民を徒に傷付けぬよう、軍も法も整備する」


「出来もしないことを!」


 罵声は全て、彼の心の一番柔らかい所に突き刺さってくる。だが、死ぬわけでない、とイークは自分を叱咤し、腹に力を入れた。


「やってみなければわからぬ!」


 思いの外大きな声が出て、相手が怯んだ。イーク自身も驚いたが、逸らされた濁り色の瞳と向き合うことを諦めたくなかった。


「……今後のシルディアナ放送をよく見ておくとよい」


 サイアという名の女は怒りの中に訝しげな表情を浮かべながら、治癒術士に連れられて退出していく。それを見ながら、イークは険しい表情で、思わず挑戦的な言葉を放ってしまった自身を省みていた。


「……少々拙かったのではないですか、御主人様」


 サフィルスが振り返って囁いた。


「否……踏ん切りがついたと考えれば良い、もうこれで、やるしかなかろう」


 イークは早口で返して、爪が皮膚に食い込む程、拳を握り締めた。


 決意を秘め、光に向かって歩む時にこそ、自身の背後には影が出来るものだ。己と切っても切り離せないその中に、イークの心からは、早くも喪失への哀しみが痛みを伴って黒く流れ出す。深緑の双眸、イオクス材のような短めの濃い茶色の髪、何処か気品のある顔立ちに浮かべる少し影のある微笑み。


 全部、絵に描けるぐらい覚えていた。その絵具は全て混ざって、自分の影となった。

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